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最終更新: 2018-02-28 (水) 23:06:00
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eagle_warrior.png鷲の戦士(アステカ) Edit

アステカの軍制は奴隷兵が戦場で活躍すると平民になり、さらに戦場で武勲を立てると小規模の部隊長となった。
そうして部隊長になると「太陽神の戦士」イーグル戦士か「黒曜石の戦士」ジャガー戦士に割り振られた。
特に後者は木剣に黒曜石片を埋め込んだ剣で武装しており、士気の高さもあって非常に精強であったと伝わっている。黒曜石は極めて鋭利であり、一見原始的な構造ではあるが首をはねる威力を誇った。黒曜石は欠けやすいが取り換え可能といメンテナンスの容易さも持ち合わせていた。この黒曜石の産地こそアステカの都市の位置であり、軍事物資を握ったアステカが強大化した一因となる。
この軍事力に裏打ちされた制度は非常に強固かつ合理的であったようで、軍事力提供と奴隷獲得や生贄制度を支えていた。勢力増大により人口20万という当時のパリに並ぶ強大な首都の維持と発展の一端となった。ゲーム内で倒した敵を労働者にする能力はこの制度が元である。
(なおその首都人口を支えたテノチティタランは湖の中洲に建造された都市である。Civ5でも湖の中洲に水中庭園を備え伝統をコンプした首都を置けばガンガン人口が増える。)

後にコンキスタドールが上陸した時、大砲や小銃を備えた500人の精強なコンキスタに対し、鋳鉄どころか鉄製の武器も持たず、毛皮と黒曜石の剣で武装した両戦士は敗北したと考えられがちだがこれは誤りである。黒曜石の木剣は打撃武器としての性能も兼ねており、コンキスタ相手にも殺傷力を有していた。コンキスタ達はこれに対抗するべく無数の小片を鎧の上に装着したという。
主たる敗因は最初期の歓迎の祭りで、欲に目がくらんだ副官が同席していたアステカ高級官僚を惨殺し、アステカ側の首脳部が麻痺したことにある。
また、上位職になればなるほど格好が派手になるので、積極的に指揮官を狙い撃ちし指揮能力を奪うことで大軍を無力化したのである。

legion.pngレギオン(ローマ) Edit

 レギオンとは日本語に訳すと軍団を意味する。
 ローマの軍事的成功を現出した最大にして最強の軍団であり、しかしまたローマの衰退を助成してしまったのもこのレギオンであった。
 
 レギオンといえばローマ軍の記号的存在であるといって過言ではない。ロリカセグメンタタと呼ばれる鎧、カッシス(兜)で頭を守り、グラティウス(両刃の短剣)とピルム(投槍)で武装し、敵からの飛び道具攻撃にはスクトゥムと呼ばれる大型の盾で防護した。

ただし装備は初期は持ち寄りであり、高価な騎馬は支配階級の子息のみで構成される統一感のない傾向にあった。やがて制式装備が供給されたが、コストの問題で高価なロリカセグメンタタの利用は一時的なものに止まった事に留意すべきである。
ポエニ戦争はレギオンの変革をもたらした。
敵側のイベリアで用いられたグラディウスを採用し、海軍力を強化すべく、カラス(相手の船に打ち込む桟橋)を持つガレー船を得て、北アフリカの騎馬国家ヌミディアと同盟を行い騎馬兵力を強化するなど革新を遂げた。
戦術面ではこの頃に、後の焦土戦略に繋がるファビウス戦術を得て、ハンニバルの用いた包囲殲滅戦を学んだ。

構成としては100人隊隊長、1000人隊隊長といった比較的細分化された構造を持ち、各隊長の采配で柔軟な運用を可能にした。これは山がちなイタリア半島に向いた構成であった。隊長は先頭に立ち戦ったため死傷率は極めて高い。
会戦においてはまずピルムによる投擲攻撃を行い、刀剣による近接戦闘を行った。ピルムは曲がりやすく、仮に盾に防がれたとしても盾のバランスを狂わせる為、近接戦闘を優位に進めることが出来たと考えられる。
また、攻城戦などでしばしば大規模土木建築を行ったがこれはレギオンというよりはローマの特性といえる。整備された道、ローマンコンクリートを始めとする建築技術は素早い展開と巧みな陣地構成が可能なことはゲーム中のレギオンの特性に反映されている。

この様にレギオンは敵の装備・戦術をも取り入れる貪欲さ、軍団構成を細やかに変える(散兵)が可能な柔軟さ、兵站と防衛に可能とした実務を兼ね備えた実にローマ的な集団であった。

 カルタゴやパルティア(後にはササン朝)のような大国を除き、ローマの外側にいた勢力は普段は部族単位で組織だった行動すらおぼつかない烏合の衆であった。勿論、ブリタニア(現在の英国)・イケニ族のブーティカやゲルマン民族のアルミニウス、ガリア(現在のフランス)・アルウェルニ族のウェルキンゲトリクス、ダキア(現在のルーマニア)のデケバルスなど部族をまとめ上げてローマ軍に抵抗し一時は敗退させることもあった。しかし、ゲルマン民族への侵攻を諦めたのを除けばいずれもローマの粘り強い攻撃の前には敗れ去る他なかった。これによってローマは西は大西洋から東は西アジアにまで及ぶ大帝国を築き上げた訳である。

 戦略面ではどうだったか。ローマはイタリア半島を統一する前の時期にアテネなどのギリシアのポリスを訪れその繁栄の秘密を探っていた。それを見習ったのか否か、レギオンはローマ市民によって構成されていた。しかし、当然ながらこれには人数の制約がかかってしまうし、帝国が大きくなればなるほど問題は山積する。ポエニ戦争でローマが旧カルタゴ領を多く獲得(イベリア半島やシチリアなど)すると問題は一気に表面化した。近現代でも関税の自由化などでしばしば見られる事だが、ローマ軍の中核を担っていたローマ市民の食い扶持である農業が外国からの安価な奴隷の流入によって没落してしまったのだ。征服地(属州)から連れてきた奴隷を用いて大規模な農園を造営するラティフンディアによってそれまでの中小農民は食い扶持を失うことになった。当然没落すれば生活も貧窮するため兵役どころではなくなってしまう。それ以前に当時のローマ軍の徴兵の基準には3000セステルティウス(1セステルティウスが320円程度なので現在の価値に直せば96万円ほど。ただ時代によっていくらでも変動したためあくまで目安)の資産を持っていなければならなかったので対象にすらならなかった。
 こうなると軍隊の成り手が著しく減少し、ローマは外敵からの侵入に耐えられなくなってしまう。事実、この時期にはヌミディア(現在のモロッコあたり)王のユグルタがローマとの国境を越えて侵攻しただならぬ損害を与えた。なんとか撃退こそしたもののローマ軍の弱体化は顕著に現れてしまっていた。そこで現れたのが執政官のマリウスである。
 マリウスはユグルタとの戦いで勝利を収めた功労者であり(因みに後に対立するスラも活躍している)、それでローマ市民からの人気を獲得し執政官の座を手に入れた。彼はローマ軍の弱体化を見てこれではまずいと抜本的な軍制改革に着手した。
 マリウスの行った改革は色々とあるが何よりも特筆すべきは志願兵制の導入である。ローマ軍は先述の通りローマ市民などを徴兵して成り立っていたが、最早それは成り立たなくなっていた。そこで彼は志願兵制を導入して装備と給料を志願してきた兵士に与えたのだ。現代から、特に我々日本人から見れば誰が好き好んで戦争なんか行くかなどと思うかもしれないが、当時からすれば貧窮から成り上がる手段の中で一番手っ取り早かったのは軍事的成功をおさめることだったわけである。結果的にこれは成功し、先述した貧窮したローマ市民は兵役から解放されて農業に専念出来、代わって何も生み出さない人々即ち失業者にとっては有り難い職になったわけである。志願兵制の導入の効用は他にもあり、アマチュアのみだった市民兵からプロの集う戦闘集団へと様変わりした事である。マリウス以前の時代ではローマ軍の兵は他に職業を持っていたが、この改革によって職業軍人としての兵士が出来上がったわけである。つまりは戦闘技術に優れているだけではなく、長期の戦争にも影響されない軍隊がここに誕生したのだ。これは戦略戦術両方の面で絶大な効果を生み出しここがまさに後々まで続くローマの帝国版図拡大の原動力たりえた。これは日本の戦国武将である織田信長も同じことを行っておりこれもまた勢力拡大に貢献した。
 しかし、一見良いことづくめにみえるこれら諸政策だが問題もあった。それは、ローマ外の諸都市(同盟市)から市民権要求の声が高まったことである。これ以前は危険な軍務はノブレス・オブリージュとしてローマの軍が行い、同盟市はその補助という形で兵を供与していたがこれによって同盟市も危険な軍務を負担し、かつてのローマ市民同様の貢献をしたために「俺らにも市民権を与えろ!」という要求がこだました。実際に同盟市はこの改革がなされても同盟市自身の境遇はかわらずローマの支配下におかれているようなものだったため不満を抱くのは当然の事である。やがてこれが同盟市戦争という内乱につながった。そしてこれでマリウスの副官だったスラが活躍して名声を得て、やがてマリウスそのものを引きずり下ろすことになるがここではこれまでにしておく。

 こうして、マリウスの軍制改革によって無類の強さを手に入れたレギオン。時は流れてアウグストゥスが初代皇帝に就くとローマ軍を満期除隊まで勤め上げた者には世襲のローマ市民権を与える政策を打ち出した。これはレギオンたちの士気を大いに高めることになったが一方直属の親衛隊(プラエトリアニ)を創設しイタリア半島の防備を図ったがこれはやがてローマそのものを衰退させる一因となってしまった。
 直属の親衛隊は確かに従っているうちは良いものの一度牙を剥けば皇帝にとっては最大の敵である。二代皇帝のティベリウスが親衛隊に反逆を企てる隊長、セイヤヌスを粛清するように命じている。尚、その際にティベリウスは礼金とばかりに親衛隊に多額の報酬を支払った。これが悪しき前例となってしまった。十分な給料が払われないと皇帝を殺害してしまおうという空気が醸成されてしまったのだ。事実、三代皇帝のカリグラは親衛隊に殺害されて独自の判断でクラウディウスを四代皇帝に擁立している。時代が下り235年にセウェルス帝が暗殺された。するとマクシミヌスが親衛隊の指名を受けて皇帝の座に就いた。これ以後ローマは軍人皇帝時代(3世紀の危機)と呼ばれる内乱の時代を迎えることになった。この軍人皇帝の軍人が指すところは勿論親衛隊である。21人が49年の間に皇帝の座に就き、元老院の承認がない僭称皇帝も含めれば実に50人の人物が皇帝を名乗っていた。この時代になると親衛隊の意向に沿った形で皇帝が就くのが当たり前になっていて酷いときには皇帝の位を競売にかけるなどという行為も行った。しかし、親衛隊の専横もこの時代で終わりを告げることになった。親衛隊長官であり、帝位に就いたディオクレティアヌスが軍人皇帝時代に終止符を打つと、親衛隊の権限を大幅に縮小した。そして、コンスタンティヌス帝の時代になると親衛隊は解散し、各ローマ軍団へ散らばっていった。

 さて、親衛隊が解散された頃、他のレギオンたちはどうなっていたか。その頃にはローマ軍の中には新たな勢力が登場していた。ゲルマン人たちである。

 少し時代は遡って212年。カラカラ帝は全ローマ帝国の自由民(≒全国民)に市民権を与えるというアントニヌス勅令を発令した。これは先述のアウグストゥス帝の施策で待遇の比較的悪い補助兵の志願者の減少や帝国の財政難を救う事を狙いとした施策であったが、これは帝国にとってゆくゆくは手痛い枷となった。
 先程書いた項目を思い出してほしいがそもそもどうしてわざわざ命を危険に晒してまでローマ帝国の人間は軍務に就いたのか。金もあるが、何よりも市民権を欲したからである。市民権は所有権や参政権が認められる、即ちヒトが人となれる虐げられてきた人からすれば喉から出が出るほど欲しい権利なのだ。だからこそ命を張って軍務に耐え世襲の市民権を勝ち得たのだ。
 しかしそんな市民権を全帝国民に与えるとなったらどうなるか。当然頑張っていた人々はやる気をなくし、軍隊を辞めてしまうこともあるだろう。事実アントニヌス勅令の後、この事態は起こった。この勅令による悪影響は軍隊だけでなく帝国内の社会にも及んだ。明治時代においても四民平等の政策で士農工商に属する人だけでなく穢多・非人と呼ばれる人々も権利を得たが、穢多・非人と呼ばれる人々は「新平民」などと呼ばれ侮蔑されることにはかわりなかった。これと同じことがローマでも起こった。即ち、勅令前からのローマ市民権保持者と勅令後に市民権を得た人の間で社会的差別が起こってしまったのだ。これらの根深い対立や諸問題はじわじわと帝国を侵食し、やがては滅亡へと向かっていくこととなる。
 さて、軍隊の成り手がいなくなったローマはどうしたかというと帝国外から傭兵を雇うことにした。これがすなわちゲルマン人である。彼らは帝国内に住み着きやがては居場所を主張するようになった。最終的には375年からはじまるゲルマン人の大移動によって帝国は致命的な打撃を受け、395年のテオドシウス帝の命により分裂。東西に別れたローマは二度ともとに戻ることはなかった。

 その後レギオンたちはどうなったか。西ローマ帝国は分裂から100年も経たないうちに西ゴート王国及びオドアケルによって滅亡したが、東ローマには依然として残ったが7世紀からはじまたイスラム勢力の侵攻によって最早以前の姿は残っていない。歩兵から騎兵中心の軍隊となり職業軍人は消滅して以前の半農半兵の軍隊へ逆戻りした。そして東ローマもまた最終的には傭兵を使うようになりオスマン帝国の前に敗れ去った。これによりレギオンは歴史の舞台から完全に消え去ることとなった。
 
 

ngao_mbeba.pngンガオ・ムベバ(コンゴ) Edit

問題点:スワヒリ語では、ンガオ(Ngao)とムベバ(Mbeba)はそれぞれ「盾(Shield)」「持つ者(Bearer)」を意味するが、ンガオ・ムベバと呼ぶと文法が間違っています
コンゴ語とスワヒリ語の形容詞の付け方は英語と真逆なので、「ンガオ・ムベバ」だと「持つ者盾」のような、意味不明なものになってしまいます。
スワヒリ語の文法では、このユニットは「ムベバ・ンガオ」と呼ぶのは正しい。
さらに、CivilopediaはこのユニットをAdagueiroと呼ぶが、ポルトガル語ではAdagueiroは「ダガーを装備する人」という意味で、明らかに間違っています。
「盾を装備する人」を意味する単語はAdargueiroです。Civilopediaそのものの誤りです。スワヒリ語ならともかく、ポルトガル語までも間違ってしまうとは……。

1482年にポルトガル人のディオゴ・カンがコンゴ川に到来し、コンゴ王国にもポルトガル人が来航した。1485年にはコンゴ王国とポルトガル王国の国交が結ばれた。

ポルトガル人が初めてンバンザ・コンゴに訪れた時に、コンゴ王国の軍隊を目にした。その軍隊は大量の徴集兵である弓兵と、二万人ほどいる重装の精鋭歩兵で構成されます。
その重装歩兵は全員、剣と大きな盾を装備するので、ポルトガル人は彼らを「Adargueiro(スワヒリ語ではMbeba Ngao)」と呼ぶ。
つまり、ムベバ・ンガオは単なる精鋭歩兵に過ぎない。所謂コンゴ版レギオンって感じか。

ちなみに、火薬がコンゴ王国に伝入した後、コンゴ王国もすぐマスケット銃を受け入れ、火器をメインとする部隊を作った。

samurai.png(日本) Edit

まず軍事的側面から述べる。
侍は封建制度の上にたつ武装勢力として鎌倉〜明治までを支配した階級である。
初期の会戦においてはウェールズのロングボウにサイズ・威力ともに匹敵する長弓である和弓を集団騎射で用いる重装弓騎兵の色合いが強く、中〜近距離では下馬し長刀や日本刀を用いた。当時日本と開戦した元の記録によれば「弓は(元の短弓より)距離がないが威力が高く、刀は極めて鋭利、矛(槍)は用いない」とある。
やがて集団戦闘に向く槍が長刀に変わり導入され、銃の到来により皮鎧から金属鎧への一部移行、銃に対し脆弱な騎馬の衰退など時代と技術により戦闘手段は変化したが、優れた製鉄技術による日本刀は用いられ続けた。
一方で日本国内に鋳鉄技術は発展せず、大砲の普及は進まなかった(大砲の的となる天守閣の存続からも読み取れる)。
朝鮮侵攻(朝鮮半島を舞台にした明と日本の国際紛争が正しい)においては、騎馬主体の明に対して効果的な火器運用を行っている他、近接戦では依然として日本刀を用いたようである。朝鮮側の記録に「和兵はこちらの弓兵以上に巧みに運用し、突入した後に斬り倒していった」旨の記載がある。
すなわち、侍とは刀=剣士(近接兵種)の印象が強いが、実際には時代を通じて多様な武器を利用する複合兵種に分類される。
これは細分化された兵種と比べ高コストであり、これを支えた日本の経済力・土地基盤も侍を維持する上で欠かせない要素である。
侍の報酬は長らく土地であり、土地からあがる収益をもって自身の鍛錬や武具調達、家臣団の維持などに充てた。
この封建制度に立脚した侍という兵科は、土地収奪がある戦闘行為では極めて高い結束を誇った反面、防衛戦争及び天下泰平の状況ではマイナスとなりうる。元寇における負担増が倭寇の増大と鎌倉幕府の衰退の遠因となった。一方、織田信長など戦国大名はここに貨幣や名器など財産価値で置き換える家臣統治を行う方針をとった。
侍は江戸時代に入ると、装備の進化は滞り、300年たっても先込め式マスケットと弓と刀を主力としたままの海外と比べ著しく旧式化した装備の兵士となった。武士道なる概念が生まれ、武術は武道となり形骸化した。
やがて、明治維新を経て海外の新式装備と軍隊制度のなかで、武力という価値を失った侍という層は消滅した。

侍という漢字を訓読みにするとさぶろうと読む。
さぶろうが訛って、さむらいと呼ぶようになった。さぶろうとは貴人にお仕えするという意味である。

そう、元々侍は公家の護衛を担うボディーガードとしての役目を担っていたのだ。そのはじまりは9世紀末に宇多天皇の設置した「滝口の武士」にまで遡る。彼らは蔵人所(天皇の秘書のような役割を果たす部署)の下で御所の警護をしていた。
時には御所の警護。時には廟議(朝廷の会議)の警備。またある時には貴族の牛車につき、悪いことをした貴族を捕まえに行ったりと様々な場所で活動していた。
(古代における蝦夷の鎮定に赴いたのはあくまで兵士と将軍であり、武士というよりも武官の意味合いの方が強い)

侍がそんな役割から立場を上げたのは、10世紀後半の頃からである。
さて、中央では公家の中でも藤原氏が権勢を奮っていた。
貴族は荘園と言う私有の領地を増やすために開墾に勤しんだ。
特に関東は現在とは想像がつかないほどに未開の地であった為に開墾には絶好の場所だった。そこで公家は私財を用いて人を雇い、大規模な開墾をさせた。
荘園は「不輸不入権」という国家権力の介在を許さない権利を持っていた。
しかし肝心の貴族たちは遊興や都での行事などに没頭し、領地の管理がおざなりに成ってしまうことが多々あった。(国司に任ぜられても目代と呼ばれる代理人を派遣して済ませる事がこの時代では常態化していた。これを遥任という)
今からすれば想像もつかない話であるが、この時代は政府、即ち朝廷が現代で言う実効的な警察や常備軍を持っていなかったのである。厳密に言えば平安初期の頃に桓武天皇が発令した健児(こんでい)の制によって中央やその周辺諸国の軍事力が担保されていたがこれはあくまで国府(朝廷から任命された国司が館を置いた場所)を守るための兵力で民を守るためのものではなかった。先にあげた遥任の制に代表される平安中期から末期にかけての朝廷の腐敗は甚だしく、もはや国を治めているとは到底言えるものではなかった。一応警察官にあたる検非違使もいるにはいたが明らかに数が足りていなかった。関東には
僦(人編+就 しゅう)馬の党と呼ばれる強盗団も存在し、治安は悪化の一途を辿っていた。9世紀に仏教の不殺生の思想から死刑を廃止してしまっていたのも拍車をかけていた(後にかがげる保元の乱で復活し以後現代に至るまで存続する)。そこで最早朝廷はあてにならないとして領民たちは武装し、自警団のような組織を作っていった。これが武士の発生である。
ここに、ボディーガードの律令“内”の侍から律令“外”の侍が登場したのである。(厳密には警護にあたっていた武士たちも令外の官。即ち律令外の人々だがこれはあくまで中央から目の届かない所という意味合いで用いた)

さて、源平などと言われるが、源氏も平氏も元々は貴族であった。
源氏は僅か2歳で即位した清和天皇の流れを汲む清和源氏。
平氏は平安京遷都を果たした桓武天皇の流れをくむ桓武平氏と呼ばれる。
源氏は主に畿内を中心とし、平氏は関東を中心に土着した。彼らは自警団となったり荘園の警備をしたりして彼の地で武士団を形成していた。
そんな中、935年。朝廷を揺るがす大事件が起こった。平将門が常陸(現在の茨城県)において挙兵したのである。当初はただの一族内での仲間割れであったが、破竹の勢いであった将門は新皇を名乗り朝廷への叛意を示した。この翌年には藤原純友も伊予国(現在の愛媛県)において挙兵した為朝廷内は京へ攻め上るのではないかと上を下への大騒ぎとなった。これまで国内においてこれほどの反乱が起こったケースが無かったからである。この二つの反乱を鎮めたのは先程あげた源氏と平氏であった。平将門は平貞盛が、藤原純友は源基経が鎮定した。表に立って大乱を鎮めたのはこれが初めてであったため朝廷は武士の力を認め、これを契機に両氏を中心に武士たちは中央でも力をつけることとなった。尚、俗説では平氏が西国で源氏が東国に勢力をもっていたとされることがしばしばあるがそれはあくまで平将門の乱から200年以上経過した源平時代の話であり、この当時は逆である。

時は流れ1028年に藤原道長が亡くなった後、摂関政治は藤原氏と天皇家の間に子どもが生まれなくなった事から徐々に乱れ始めた。
それに成り代わって天皇を退いた上皇が、天皇よりも強い権限をもって政治を行うようになった。
これがいわゆる『院政』である。院というのは上皇が住んでいる場所を差している。
1028年は藤原道長が亡くなった年であると同時に源氏の転機でもあった。この年に平忠常が乱を起こし、その鎮定に源頼信(頼朝の直接の先祖にあたる)が向かい、鎮圧までの過程で他の坂東(関東)平氏が源氏に従うことになった。これが足がかりとなって後の前九年・後三年の役での源義家(頼朝の高祖父)の功績も相俟って源氏は東国で勢力を持ったのである。(因みに後に鎌倉幕府で権勢を振るうようになる北条氏も元をたどれば平氏の血を受け継いでいる)その後の平氏は他の各地に散らばっている一族の拠点が勢力圏になった。例えば平清盛を生み出した伊勢平氏は先述の平貞盛の孫が伊勢に住み着いたことからはじまっている。
さて、中央ではとうとう「保元の乱」という新たに権勢を奮うようになった後白河天皇とその前の天皇である崇徳上皇が争う乱が起こった。
その戦闘要員として両者は武士を用いて争ったのだ。その時、武士たちは大いに活躍し、その中でも大いに目立ったのが先に出てきた源氏(源義朝。頼朝の父)と平氏(平清盛)という訳である。
その後、力を持った源氏と平氏が争った平治の乱で平氏が権力を得、しかし奢った故に源氏によって平氏は滅亡。
源頼朝によって初の武家政権である「鎌倉幕府」が出来たのは周知の事実である。

よく言われる「武士道」という言葉。現在よく用いられるような絶対的な忠誠というものは当初からあったという訳では無い。
当初の頃は「御恩と奉公」の通り、御恩(領地)の対価として奉公、つまり忠誠があった。逆に言えば御恩がなければ主家を鞍替えしようが刃向かおうが構わなかったという訳だ。
これは日本だけでなくフランスやイギリス等の封建制。東ローマのプロノイア制(ただしこれは一代限り)やオスマン帝国のティマール制でも見られるごく普通の事である。主君と家臣というのはあくまで双務的な契約関係を超えるものではないのだ。
鎌倉時代末期に元が襲ってきた後、幕府が処理を誤った故に結果的に滅んでしまったことからもそれは読み取れる。元寇はあくまで防衛戦争だった為、幕府は恩賞を与えられなかった。
そこで幕府は戦費返済に苦労する御家人たちの為に永仁の徳政令という借金免除の法令を出す。
これは幕府が公式に認めた下知状(御下文)を発行したものと売却後二十年以上経過したものを除き、商人に対して御家人から買い上げた土地を無償で返すように求めたものである。
現代でいうなら借金返済が滞った為担保として持っている不動産をもっていかれたのに政府が強引に競売をかけた銀行に対して不動産をタダで返すように命じたようなものである。
それに加えて、領地に対する所有者の変更を認めず、越訴(再審請求)や金銭訴訟をも認めないというあまりにも御家人に偏った命令であった。その為貸し手の商人が猛反発し、貸し渋りを行うようになった。それ故に金銭を得る手段が無くなった御家人たちは更に窮乏するという悪循環を起こしてしまうことになる。
元々これは先にあげた御恩と奉公の関係が崩れ、果ては御家人制度を終わらせかねない状況に歯止めをかけるために行われたものだが、こうなっては本末転倒だ。
結局、翌年には根本となる無償取り戻しを除いてすべての命令が撤回された。
尚、これは日本で初めての徳政令であるが、室町時代以降に入ると民衆たちが土倉(現在で言う質屋)や酒屋(土倉の副業であることが多かった)の高利貸しに抗って一揆を起こした際にも彼らは徳政を求めることとなった。

ところで元寇といったら必ずと言っていいほど出てくるのは、蒙古襲来絵詞である。教科書や資料集などで飽きるほど目にし、記憶に残っている人もいるだろう。
あれは竹崎季長という肥後(熊本県)の御家人が自分の戦いぶりを絵師に描かせたものである。戦の経緯だけでなく、戦後勲功を認められず恩賞をもらえなかったこと、そのために鎌倉まで上り幕府高官に直談判して恩賞を得たことまでが描かれている。季長のような不満を抱いた武士は他にも多かっただろう。

さて、話を戻そう。今使われるような意味になったのは、平和になった江戸時代に入り山鹿素行という儒学者が儒教の根本となる『忠孝』という概念。
端的に言えば目上の者に逆らうなという思想が持ち込まれてからの話である。
そして支配者の幕府からすればこれ以上都合のいいものは無いため、この概念を用いている儒学(後に朱子学)を官学にし、武士たちにこの思想を叩きこませたのだ。
武士が『武術』から『礼儀』を重んずる転換点となったのは五代将軍綱吉の頃と言える。
まず綱吉は1683年に二代将軍秀忠の定めた武家諸法度の第一条の文言を『文武弓馬の道、専ら相嗜むべき事』から『文武忠孝を励し、礼儀を正すべき事』に改めた。
お分かりだろうか。つまり弓馬の道という武道よりも礼儀や忠孝といったものを第一に考えよとしたのである。
綱吉は父にして三代将軍である家光より儒学を叩き込まれており、『忠孝』という儒教の教えが入っていることからも影響を大きく受けていることが分かる。そんな儒学フリークだった綱吉は儒学の大家である林信篤を大学頭に任命して湯島聖堂を設立。幕府に仕える武士たちに儒学を奨励した。(もっとも三代後の吉宗は反対に実学を重視したため一時的に衰退してしまうが……)
さて、この頃の江戸には初期よりはびこるかぶき者(派手ないでたちをした荒くれ者)が町を闊歩していた。綱吉はこれらを風紀の乱れとして徹底的に取り締まり、かぶき者が行うような”力”に重きを置く価値観を改める為に『生類憐み令』を制定。
これは再評価の流れが強くなっているが、その要因として上記にあげたものと生類は犬などのいわゆる動物のみならず、傷病人や老人などの社会的弱者もこれに含まれていた点がある。とはいえやりすぎであったことは事実の為綱吉が亡くなるとすぐさま廃止された。
このように、17世紀の終盤から18世紀の初頭にかけて武士の在り方は大きく変わり始めたのである。1683年の時点で大坂の陣より70年近く経過しており、いわゆる大名同士が戦う合戦というものを経験した人がほぼ亡くなっている為(15歳で計算しても83歳である。70歳で古希。77歳で喜寿と呼ばれる時代にどれだけの人が生き残っているのかは想像に難くない)時代の必然ともいえる。

一方で民衆たちの意識にまで浸透したのも綱吉の時期だといえる。大坂の陣から百年も経たない1703年に赤穂浪士の討ち入りが起こると翌年にこれを題材にした歌舞伎の演目『仮名手本忠臣蔵』として世に出されることになる。
結果これは江戸時代の民衆に大きく受け入れられそれと同時に武士のあるべき姿として定着したといえるだろう。(因みに忠臣蔵は同事件をモデルにしたものだが、江戸時代中は幕府を憚って時代や人物を変えたいわばオマージュに近いものとして行われていた。これは『源氏物語』や唐の『長恨歌』にも見られる手法である)
それから十年ほどすると『武士道というは死ぬこととみつけたり』の文言で非常に有名な佐賀鍋島藩士・山本常朝の『葉隠』が読まれるようになり、これもまた一つの武士の形として定着していた。(但し奇書として見られていたり、藩によっては禁書に指定されていたことも追記しておきたい。後に同郷である大隈重信も江戸期の武士の考え方を反映したものではないと批判している)
明治に入ってからは山中幸盛や楠木正成といった忠臣が大いにリスペクトされ、これもまた武士のイメージを固めていった。明治期の教科書には必ずといっていいほど山中幸盛の七難八苦の話が載っていたとされるほど。
当然のことだがもう戦国期の武士など存在するはずもなく、そのイメージがついたまま『武士道』が形作られ現代まで残っている。しかし、これがあったからこそ忠臣蔵のような作品が世に受け入れられたとも言える為一概に悪いとはいいきれないだろう。

尚、さぶろうという意味の言葉としては侍が役割を終えた明治に入ってからも天皇に従う「侍従」という役職として残されている。
例えば日本の終戦時の首相である鈴木貫太郎は侍従長を務めていた。

berserker.pngベルセルク(ノルウェー) Edit

conquistador.pngコンキスタドール(スペイン) Edit

スペイン語で征服者という意味で、15〜17世紀のアメリカ大陸を侵略したスペイン人たちである。男性をコンキスタドール(Conquistador)、女性をコンキスタドーラ(Conquistadora)、複数形ではコンキスタドレス(Conquistadores)という。語源としてはレコンキスタと関連がある。(レコンキスタは和訳で「国土回復運動」だが、直訳では「再“征服”運動」)

イベリア半島でのレコンキスタを続けるためにスペインは大量の傭兵雇用してきた。他の欧州地方はイスラム勢力に圧倒される中で、スペインは長き戦いで経験を積んだスペイン軍は、その戦闘力の高さでイスラム勢力に対して勝利を重ねていた。しかし、コルドバが陥落するとレコンキスタも一段落し、戦争は小康状態になる。レコンキスタに参加していた大量の傭兵の大半は社会の下流層出身であるため、平時では無職同然であった。そんな最中、コロンブスの「インド」発見の噂がスペインに広まり、金銀財宝が溢れる世界だという噂を信じて、傭兵たちは有り金全部を投資して船を買い、一獲千金を狙って新大陸に向かった。一般的には彼らが持つ馬、火薬、鉄製武器などの武装などの原住勢力との技術格差と伝染病の広まりによって征服されたと思われるが、彼らの征服活動は劣勢と苦戦の連続であった。

まず始めにコンキスタドールの征服は伝染病が要因になるほど長期間行われていない。伝染病は征服過程ではなく、征服後の抵抗活動を弱化させたのである。また、新大陸側の主要陣営を滅亡させた事で、それに押さえつけられていた周辺諸民族が台頭したことで、スペインは長い間抵抗運動に苦しまされた。地図上ではスペインの南米支配領域は広いが、実態は各植民都市を点とした、点と点を結んだ線の繋がりでしか無く、チリやビオビオ川の北側は西洋の火器、乗馬術、戦術/戦法を取り入れたマプチェ族によって植民都市が焼き尽くされスペイン領チリの存続が危うくなるなど、スペインは1度も南米大陸を完全支配下に置くことはできなかった。原住民族の抵抗運動を完全に鎮圧できたのは南米諸国が独立する19世紀になってからで、その時には白人の人口は原住民族より多くなっており、自動火器の登場で原住民族との技術格差が覆し難いものになってからである。

火薬兵器は強力であり、戦場では指揮官の狙撃や威圧の効果があったが、当時の銃はそこまで圧倒的なものではない。火縄銃は装填が遅い上に、雨では使用できず、南米特有の湿った環境では不発も多発した。戦いが続くと火薬兵器に慣れて一方的に恐れる事はなくなった。人間とは慣れる生き物である。馬もまた強力な兵器であり、見たことのない生き物ということで威圧効果もあり、敵の隊列の隙間を駆け抜けて派手な格好の指揮官を討ち取って敵の大軍を無力させたが、これもすぐに慣れられる。
アステカの戦士がコルテスの乗る馬の首を切り落とした事が記録されており、インカ人も馬の足を狙う戦法で対抗し、捕獲したスペイン人を尋問して馬の扱い方を聞き出して騎兵を作ろうと試みていた。
マプチェ族に至っては長槍で騎兵を足止めして、投擲で馬を攻撃する方法でスペイン騎兵に対して大勝しており、鹵獲した馬を繁殖させて騎兵を養成してスペインと対等に戦った。

コンキスタドールの真の勝因は鉄製装備/戦術/戦略/外交の技術格差にある。

イベリア半島で常に多数のイスラム教徒を相手してきたのでスペインの武装や戦術は「より素早く敵を殺傷する」ことに特化した欧州屈指の精鋭兵になっていた。
しかし、原住勢力は旧大陸のような絶滅戦争(殺し合い)はあまり普遍的ではなく、労働力や人身供養に使う奴隷の獲得のための戦争「花戦争」(La guerra de las flores)と呼ばれる形式で行われていた。これは相手を殺傷することより負傷させて捕虜にする戦いで、矢じりの刃をつぶしたり、剣に付ける刃を抜いたりしていたので、殺し合いをしてくる相手には分が悪かった。しかし、原住勢力も馬鹿ではなかったので殺傷用の武装を変更して対応したが、相手の生け捕りにしてから殺すという癖は抜けきれず、何度も捕らえたコンキスタドールを救出されてしまう。

原住勢力の代表的な武装として、黒曜石の剣「マクアフティル」(Macahuitl)がある。黒曜石は現在でも医療の現場で使用されるほど非常に鋭利な武器ではあるが、金属製の防具の前では黒曜石は砕けてしまった。逆に原住勢力の防具は皮や布である。革や布防具は一般的に思われているより実は防御力は優れており、物によっては鉄製に匹敵する物のあるが、新大陸側での武器の進化が遅れていたことで防具の進化も遅れており、欧州屈指の品質を誇ったスペイン製金属武器を防ぎきれるような代物ではなかった。逆に原住勢力側の攻撃力に対して、コンキスタドールの防具が過剰装備であり、気候が暑いという理由からコンキスタドールが原住勢力の防具を付けるほど攻撃力に格差があった。原住勢力もコンキスタドールに対抗して鹵獲した金属装備を使用し、戦術や新武器の開発しようとした痕跡はあるが、それを牽引すべき主要勢力が最初期に滅亡したのと、後の伝染病の広まりで阻まれることになる。

戦略や外交でも差がついていた。強力な1大勢力による支配という単純な外交政治を営んできた原住勢力の支配階級とは違い、コンキスタドールは複雑な欧州とイスラム情勢を生き抜いたため、情勢を見抜き、それを積極的に利用した。アステカは人身供養と奴隷のために周辺部族を定期的に攻撃し「人間牧場」として抑圧しており、アステカに対する不満が周辺部族には溜まっていた。インカ帝国では皇位争いが起きていた。

アステカとの戦いでは不満が溜まっていた現地部族が積極的にコンキスタドールに協力した。コンキスタドールも部族との友好と同盟を築くためにコルテス自ら積極的に原住民女性と結婚し、贈り物や、征服後地位の保証を約束し、スペインもその約定を南米から撤退する最後の時まで守り通した。代表的な例としてトラスカラが挙げられる。コルテスがテノチティトランから脱出し、ボロボロの状態でも見捨てずに協力し続けたことで「領土の保証、税金免除、自治権の保証、アステカ領の割譲」を約束した。さらにトラスカラが軍を率いて周辺部族を征服し、海外へ植民地を建設するなどの征服活動を起こした時、スペイン側はトラスカラに自制を「お願い」するという同等国並みの扱いを受けた。もちろんトラスカラが破格の待遇であって、常に紳士的だったわけではない。時には村を襲い、女子供を人質にとって脅迫して協力させ、見せしめの処刑も行った。

こうやって現地の協力を得られた事で、テノチティトラン攻防戦では、防衛側であるアステカ軍は5万にあるのに対して、攻城側であるコンキスタドールは2000人しかいなかったが、トラスカラ・テスココ・オトミなどの諸部族連合軍も合わせると10万の大軍であった。圧倒的優勢の中でテノチティトランを包囲し、同盟部族と協力して組み立て式のキャラベルでテノチティトランを囲む湖を包囲することに成功した。

南米がコンキスタドールの手によってスペインの支配下になると大量の原住民がコンキスタドールに割り当てられた。当時の南米では原住民はスペイン王室の物であるため、王が委託した地域の原住民を労働力して利用する権利と、彼らを保護し改宗させる義務を課した「エンコミエンダ制」をとっていた。コンキスタドール、名を改め「エンコメンデーロ」は、植民地で「王」や「貴族」を称しありとあらゆる蛮行と略奪を働いた。略奪するものが無くなると原住民を奴隷にして農場や鉱山で働かせた。しかし、伝染病の流行で原住民の人口が減少すると、原住民奴隷の供給不足で原住民奴隷の価値が急騰する。それに反して、南米農園で栽培される主力作物であるタバコは著しく土壌の地力を消耗するものであったため、奴隷の価格に比べて農園で得られる経済効果は低下し続けた。
スペインは植民地で好き勝手にする貴族の蛮行と原住民に対する仕打ちがスペイン国内でも問題になると、スペイン本国のカール5世はエンコミエンダ制を廃止しようとするが南米大貴族の反発であい、原住民の地位と権利について調べる委員会を組織し、バリャドリッドで会議を開くことにした。数日間の論争の末に原住民は理性ある民であり、神の前では平等の子羊であると認定され、原住民奴隷の解放と、新たな奴隷化や売買を禁じた。

しかし、既に奴隷で利益を得ているエンコメンデーロが素直に奴隷を放棄するわけも無く奴隷は存続し続け、スペイン本国に対する南米植民地の不満をもたらした。
そして、のちに北米でアメリカ独立するとその流れで南米諸国も独立し、スペイン支配下よりも過酷な原住民の弾圧と虐殺、隷属化を強いることになる。

さらに、原住民が「自分たちと同じ人間」だから奴隷にしてはいけない。という結論は「人間じゃなければ奴隷にしてもいい」という事に繋がり、アフリカから黒人奴隷を調達するという新たな被害者を増やす結果をもたらした。

garde_inperiale.png皇帝近衛隊(フランス) Edit

フランス第一帝政時代の大陸軍の近衛軍団第3師団であり古参近衛隊とも呼ばれた。
ナポレオンの大陸軍のなかでの最強部隊と見なされており、内部に擲弾兵や竜騎兵、マムルーク、ジャンダルマを含むほか、その所属は必ずしも第3師団ではない。
古くはナポレオン親衛隊として彼に近しい存在であり、その忠誠心と古参であるがゆえの戦闘経験は敵側からも恐れられた。

redcoat.pngレッドコート(ヴィクトリア) Edit

英国陸軍を指す二つ名であり、かつて世界をリードしていた大英帝国を代表するアイコンである。

レッドコートの始まりは、清教徒革命の時にクロムウェルによって創設された新式軍(New Model Army)である。当時としては最も安い染料であるコチニール(虫から搾り取った高級天然染料)色素を使った赤い制服を採用した。海軍に比べて陸軍の規模は小さいイギリスが少数の兵力で世界を支配下に置けたのもこのレッドコートの力があったからである。

何故にレッドコートがこれほどまでに強力だったかというと、大英帝国の経済力が大きく影響している。欧州諸国が戦列歩兵を訓練する時に、射撃訓練に使用される火打ち石と火薬は高価なものであるため、火打ち石の代わりに木片を使用したり口で射撃を出したりでまともに射撃訓練が出来なかった。それゆえに殆どの戦列歩兵は射撃戦より白兵戦を重視せざる得なかった。しかし、大英帝国はその広大な植民地と経済力で金を湯水の用に使う実弾訓練を可能にしていた。

さらに、17世紀から19世紀までのラインバトル(戦列歩兵VS戦列歩兵の戦い)は他国は基本的に訓練不足とフリントロックの遅い再装填時間を補完するために3列を組むことが多かった。1列目が射撃し、2列目が射撃用意、3列目が再装填といった流れである。また、白兵戦になった場合、兵の密集度が重要だったためだ。

しかし、大英帝国は2列を組んだ。これは上記のような経済背景から実弾訓練が可能だったため、速射訓練が行き届いており、火力を出せる射撃戦を重視したためだ。理論上、同じ兵力を3列に組んで射撃するのと、2列で射撃するのでは火力の密集度が2列の方が1.5倍になる。

そのため、他国の3列ラインと英国軍の2列ラインが戦った場合、英国軍の方が遥かに早い速度で射撃し、遥かに多くの火力を注ぐことが出来たため、少数の兵力でも多数の敵に対しても同等に戦うことが出来た。

しかし、レッドコートはその特有の色の派手さによって廃れた。
ボーア戦争時に、目立つ色のために狙われやすかったことから、それ以降レッドコート(英国陸軍)は制服から、赤はもちろん白も全面廃止し、茶色の軍服を採用した。これがのちに第1次世界大戦でフランスやドイツより死者が少なかった1つ要因となった。

cossack.pngコサック(ロシア) Edit

 日本人にとって『コサック』と聞いたら、腰を低くし、腕を組んで足を速く投げ出しながら踊るコサックダンスをまず連想するだろう。
 勿論、コサックダンスはウクライナの民族舞踊の一つでありウクライナ語では『ホパーク』と呼ぶ。元々はかつてこの地に存在したキエフ大公国を滅ぼしたバトゥ率いるモンゴル帝国の武術であり、それが簡素化されて、「タタールの軛(モンゴル人による支配)」から逃れた後も形を変えて残ったものなのだ。
 銃の普及に伴って下半身を鍛えるという訓練の意味合いで用いることもあり、コサック・ダンスは当初主にコサック内もしくは男性によって踊る事が多くあった。コサックは独身によって構成されていた為女性が入る余地は無かったのだ。17世紀後半にウクライナを支配していたポーランドから独立し、コサックによる国家(ヘーチマン国家)が誕生するとコサック独自の踊りだったホパークは民謡としての性格を持ち、老若男女問わず踊る大衆的なものに変化していく。
 しかし、それから100年ほど経つとポーランドやロシアによってヘーチマン国家は分断され、その統治権も有名無実と化していった。露土戦争によってロシア帝国がウクライナを手中に入れると散々マゼーパ将軍やステンカ=ラージンなどの反乱でロシアを苦しめてきた経緯を鑑みてかコサックの伝統を徹底的に禁止し、ホパークもまたその煽りを受けた。以後、コサックダンスは民謡としてのみの性格を持ち、農民の間で踊られるようになる。
 19世紀に入って農民の間でコサックダンスを取り入れた劇場が流行すると、プロの劇作家たちもこれに注目し、20世紀にはロンドンにおいてもコサックダンスによる演劇が行われた。ロシア帝国にかわって政権を掌握したソ連は文化を共産主義礼賛の道具にしか見ていなかったため、それに資することは無いと判断されたコサックたちは国家による支援を全く受けることが出来ず貧窮していった。一部には反乱をおこすものもいたが勿論鎮圧され、ソ連の下、コサックは冬の時代を経験する事になった。とはいえ、ショローホフのコサックたちの逆境を描いた『静かなドン』のおかげでコサック文化が完全に廃れるということはなく、細々ながらもコサックはどうにか存在を確立している。やがてソ連が崩壊し、ウクライナが独立すると再びコサックはウクライナ文化の中心として日の光を浴びることになった。現在においてもウクライナの紙幣には二体のコサックが描かれているのだ。

 さて、前項においてはコサックダンスの話からウクライナ・コサックを中心にコサックを見たが、次は全体からコサックの話を見てみることにする。
 コサックの起源は不明な点が多く、はっきりとはしてないが最古のものは黒海の内海にあたるアゾフ海に注ぐドン川流域に居たドン・コサックと現在のウクライナ南部一帯に居たザポロージャ・コサックの二つあったとされている。
 当初のコサックはヨーロッパの没落貴族や盗賊、逃亡してきた農奴などからなりたつ、俗な言葉でいえばゴロツキの集団と言って差し支えは無く、黒海やアゾフ海周辺を荒らしまわった。しかし、それは普段の姿であり、セルジューク朝など黒海周辺にまで触手を伸ばそうとするイスラムの諸勢力と戦う事もしばしばあった。
 16世紀後半に入ると支配国からの支援や保護を受け、ザポロージャコサックはポーランド=リトアニア王国に、ドンコサックはツァーリの下で活躍することになる。しかし両国はコサックを軍団として用いるのみならず、コサックの自治権そのものを奪う事も画策していた為徐々に反感を買う事になり、17世紀から18世紀にかけて反乱を起こし続けた。世界史の教科書に主に取り上げられるのはステンカ=ラージンとプガチョフの二つの反乱だが、いずれもドンコサックの反乱であり、両方とも鎮圧され、ロシア帝国の体制下に組み込まれる。ロシアは当時強国の道を歩んでいた為当然と言えば当然である。しかし、ザポロージャコサックは斜陽著しきポーランド=リトアニア王国だった為か上にあげたとおり自らの国を建国(ヘーチマン国家)し、支配権を勝ち取った。これは現在のウクライナあたりにあった為、オスマン帝国やクリミア・ハン国などの脅威から(皮肉にも)ロシアを守っていた為、間接的に支援する事になった。そしてまた皮肉にも国家を作っていた事や、コサックの近代化に反発して自立を主張しすぎたために皇帝の反感を買って18世紀の終わり頃にザポロージャコサックは壊滅させられることとなった。
 では残ったドンコサック達はどうなったのだろう。19世紀になると彼らは普通の市民たちや貴族と同じような階級に列せられ、税金が免除される代わりに騎兵として兵役を負う事になった。ナポレオンが1812年に自らを破滅に追い込む契機となったロシア遠征を行った際にもコサックたちは8万と言われる数を動員され、主に(ナポレオンの)退却戦において功績を残した。コサックは俊敏な動きで疲労困憊のフランス兵を次々と屠ったのだ。
また、ドンコサック以外にも黒海東沿岸に居たクバーニコサックもロシアの様々な戦いに参加し、功績を残す。また、このような戦闘以外にも辺境の警備や治安維持といった職務もこなす。
 しかし、コサックたちは火器の急激な発達による戦列歩兵の台頭などによって段々とその立場を引きつつあった。(尚、日露戦争の際にもコサックは従軍し、秋山好古率いる日本の騎兵隊とも交戦している)
 コサックに不幸が降りかかったのは1917年からはじまるロシア革命からである。ロシア帝国に押さえつけられていた各地のコサックは白軍としてソヴィエトと戦い、白軍の主力となって赤軍にただならぬ損害を与えたが敗北し、祖国を追われることになった。また前項であげたとおり、ソ連はコサックに対してなんら支援をせずこれまでの経緯から反乱分子とみなされて次々と処刑されたり縄目を受けたり追放されたりと多くは悲惨な運命をたどることとなった。しかし一部にはソ連に降伏したコサックもおり、1936年には赤・コサック軍として戦線に復帰する事になった。それ以外の追放されたコサックは独ソ戦においてドイツ軍の味方をしソ連に復讐を果たそうとしたがどうなったかは読者の知るとおりである。
 ソ連が崩壊すると、コサックたちの復権が命題としてかがげられるようになり、現在のロシアでは学校教育のプログラムに取り入れているほどである。また、現在コサックを自称するものは数百万人ほどいるとされているが真偽のほどは不明である。

 最後にコサックの帽子について説明しよう。
 コサックと聞いたら、毛皮の暖かそうな縁なし帽を想像する人もいるだろう。あれは『パパーハ』と呼ばれ、コサックやカフカス人の誇りの象徴である。
 パパーハは誇りであるが故に滅多な事で脱ぐことは許されず、死を覚悟する争いに臨む場合や、その逆で争いをやめるよう懇願するときに脱ぐことが許された。
 パパーハはコサックの象徴であるが故にソ連時代やエリツィンの時代では赤コサックや高官のような例外を除き着用が許されなかったが、2005年に漸く正式な軍装として復活したのだった。

war-cart.png戦闘車(シュメール) Edit

紀元前6千年ごろから新石器文明を構成していたメソポタミアに、紀元前5千年頃に、天文学/暦/記号/建築/畜産の技術を持つそれまでの文明とは比べ物にならない高度な文明がメソポタミア南部に突如現れた。
彼らは自らを「黒い頭の人」と称し、後にメソポタミア北部を支配するアッカド人の「南部の人」という意味での「シュメール」という名が今に伝わる。

シュメール人は都市国家を構成しながら、互いに連合したり戦ったりを繰り返す中で武器を進化させていき、青銅器の軍事革命を起こした。
当時の戦争では石槍や木の盾を装備した歩兵が無造作にぶつかるだけの戦いだったが、シュメール人によって初めて「殺傷専用の剣」が生まれた。
そして青銅の剣や斧などの青銅武器が戦場に投じられると、それから身を守るために青銅の鎧や兜も戦場へと投じられるようになった。
また、都市国家間の紛争が日常化したことで、700人規模の常備軍が歴史上初めて創設された。常備軍の保有とともに訓練や団結力が必要な、密集陣形が可能になり戦闘能力が格段に向上した。

強力に軍事力を持つシュメールが周辺異民族都市への征服戦争を繰り返すことでその軍事技術は広まることになる。

その中でも異民族文明にとって脅威だったのが戦車であった。

紀元前3700年頃にはすでに運搬用として車輪の付いた荷車使われていた。それを軍事用に転用したのが戦車である。
丸い板の車輪が4つ付いた車をロバに引かせる構造であった。当時は気性の荒い馬を家畜化する技術が無かったのでロバを使用している。ゲームでも車を引いているのはロバである。
車には操縦者兼槍兵と、投槍兵が搭乗した。当時はまだ弓が原始的で殺傷能力が低かったため、投槍を用いるのが一般的であった。
当時の戦車の戦い方は、投槍での牽制や、敵を誘い込むなどの歩兵のサポートが主であった。また、異民族相手では相手の戦意を挫く効果もあった。

しかし、体力のないロバであるため戦闘持続力に欠けており、車の重さとロバの能力から、思ったより速度も出なかったため、実質的な戦力としてはそれほどまでに強力なわけでもなかった。
また、周辺都市や異民族も戦車に慣れ、互いに戦車を作るようになったため、戦場でのシュメールの優位性は徐々に薄れていった。
そして、紀元前2000年頃、アッカド人によってより軽量なスポーク車輪が発明されたことで、シュメールの戦車は戦場から駆逐される。

シュメールを征服したアッカド人は、自らが持つ改良弓(コンポジットボウ)の技術とシュメールの戦車の技術を組み合わせた。
より機動力を増すために車体を小型し、旋回性を高めるために4輪から2輪に変更した。
軽量化のためのスポーク車輪と、馬の家畜化による動力の向上によって、この兵器は強力になっていった。
これがエジプトに伝わったのがチャリオット弓兵である。

ゲーム内で対騎兵ペナルティーが無いのは戦闘車を引いてるのが「馬」じゃなくて「ロバ」だからかもしれない。

varu.pngヴァル(インド) Edit

mamluk.pngマムルーク(アラビア) Edit

奴隷兵として知られた部隊。マムルークは「所有される者」という意味である。騎士と共に中世最強の戦士集団と名高い部隊である。

中東系騎兵の中でも後期重装騎兵に該当する。

前期重装騎兵であったカタフラクトは、ローマの東方進出で活躍しローマに強烈な印象を残した。以降、重装騎兵はローマとペルシャで主力兵科として活躍した。

しかし、イスラム勢力が台頭するとカタフラクトの活躍はなくなる。中東を支配下に置いたアラブ人にとって、歩兵が主力であり、騎兵はそれを補佐する軽騎兵のみが重視され、馬甲を付けた重装騎兵は軽視された。同時に東ローマもシリアやエジプトなどの経済基盤を奪われ、強力な重装騎兵を編成する能力を削られてしまう。またイスラム勢力と東ローマとの戦いは散発的な小規模衝突や遊撃戦が主要な戦いに変わり、大規模会戦でその威力を発揮する重装騎兵の出番がなくなったことも起因する。

10世紀以降になると東ローマの経済が立ち直り始め、イスラム勢力へも攻勢に出るようになると敵騎兵を駆逐して歩兵を蹴散らせる強力な重装騎兵の必要性が高まり重装騎兵が復活する。中東でもアッバース朝以降、アラブ人が没落し、ペルシャ人と遊牧民族であるテュルク人が台頭すると、もともと騎兵文化であったことから多数の軽装弓騎兵と少数のエリート重装騎兵の編成に回帰し、再び戦場を支配した。

マムルークは中央アジアやその他の地方から連れて来た奴隷をイスラム教に改宗させて軍事訓練を施した戦士である。マムルークの始まりは、9世紀頃のアッバース朝で権力争いで優位に立つためにテュルク人傭兵を大量に雇用したのがきっかけで、それ以降もマムルークの多くがテュルク人であった。テュルク人は雇い主以外にはイスラム帝国に特に利害関係が無いことから、軍事力のみが欲しかったアラブ君主がこぞって起用した。テュルク人の他にもスラブ人も多く、十字軍戦争の時はエチオピアの黒人騎士とイスラム帝国の白人マムルークが戦う場面もあった。

マムルークの訓練生は戦士として認められるために、乗馬術/槍術/剣術/弓術の4つを完璧に極める必要があり、そのうち一つでも欠けていると戦士になることが出来なかった。特に乗馬弓術は様々な姿勢で正確に的に当てなければならないという高度な訓練が行われていた。もちろん白兵戦も長けており、十字軍とモンゴル軍(チンギス・カン死後)などの強敵をも撃退してきた。さらに、彼らは戦いだけの脳筋戦士集団ではない。彼らは戦術/戦略に関しても熟知しており、戦場では参謀や策士を勤め、内地では公務員として従事した。
この制度はオスマン帝国にリスペクトされ、イエニチェリやスィパーヒー養成のデヴシルメ制度となった。

13世紀にイスラム帝国が解体される過程で腐敗し、軍閥化していった。そして多くのマムルークが自ら建国していった。その中でも北インドのデリー・スルターン朝と、エジプトのマムルーク朝が代表的なマムルークの国である。マムルーク王朝は約250年間続いたが、歴代君主の支配期間の平均が7年と暗殺が耐えなかった。

王朝は16世紀にオスマン帝国によって併合されるが、マムルークはオスマン帝国の支配下で18世紀末までアラビア半島の軍閥として存在し続けていた。ナポレオンがエジプト遠征に来た時にフランス軍にマムルークは立ち向かったが、この時すでにマムルークの戦闘能力と戦術は時代遅れとなっていたので惨敗した。しかし、それでも彼らは諦めずにイギリスと手を組んでフランス軍を苦しめた。ナポレオンも彼らの勇猛さに感銘を受け、フランスに付いて来た小数のマムルークにフランス騎兵を加えてマムルーク近衛隊を創設した。ナポレオンがフランスに帰えると、フランスの力が弱まった隙に独立を宣言し戦ったが、19世紀始めにエジプト総督であるムハンマド・アリーによってエジプトが独立すると、アリーによってマムルークは粛清され没落していった。

rough_rider.pngラフライダー(テディ・ルーズベルト) Edit

その正式名称は「第1合衆国義勇騎兵隊」。シヴィロペディアに記載のあるとおり、「ラフライダー」は通称である(ついでに単数形)。このサイトのトップに表示されるT・ルーズヴェルトを指揮官(階級は大佐;但しその前の時点ではT・ルーズヴェルトの役職は海軍次官だった)として米西戦争でスペイン軍相手に勇猛に戦った兵達である(「ラフライダー」は「荒くれの馬乗り」とも訳出出来、彼らの経歴を見る限りその訳でもあまり日本語とのずれは無いが)。
「義勇兵」なので徴兵された兵士や、傭兵では無い。スペックの割に維持コストが安い理由の元ネタ&文明固有ユニットでは無くT・ルーズヴェルトが指導者である場合の指導者固有ユニットな理由だと思われる。
実際の戦闘時には馬上から降りて戦闘することが多かった。馬上では狙撃の標的となる場合が多々ある上に、馬上から標的に騎兵銃の銃弾を命中させることはさらに高度な訓練を要するからである。彼らに施された訓練はあくまでも同時代の騎兵に対するそれと大差は無い(米西戦争勃発後編成された連隊規模の兵士&士官達だからむしろ個別の訓練は簡易な場合も多かった)。馬そのものも必要数支弁出来なかった場合もあったようである。
この辺りは西欧諸国に存在した竜騎兵(ドラグーン)他と事情は同じである。ゲーム中では馬上で射撃しているが、それは熟練兵か、T・ルーズヴェルト本人なのだと思われる(彼は馬上で指揮&戦闘にあたった)。だから運が悪いと対戦車兵にフルボッコにされる。某wikiの英語版では、まだ痩せていた指揮官時代のT・ルーズヴェルトの写真を見ることが出来る。偉そうなおひげはこの時点で装備完了していたようである。
このユニットは丘陵上では戦闘力が+10されるが、その理由は恐らく騎馬移動で行動する兵科には必ずしも有利では無い状況、つまり丘陵にある拠点制圧や要塞攻略でも戦果を上げた歴史的事実が元ネタだと思われる。(何故か)文化力をゲットできる理由は、志願者や構成員に小説家エドガー・ライス・バローズ(ターザンシリーズの原作者、不採用)他、文化人も含まれたことにあると思われる。
「第1合衆国義勇騎兵隊」は米西戦争終結後解隊された。が、その後WW1にてその生き残りが「ルーズヴェルトのWW1義勇兵」に参戦した。
「ラフライダー」構成員の最後の生き残りは1973年&1975年まで生存していたとされる。

maryannu_chariot_archer.pngマリヤンヌ・チャリオット弓兵(エジプト) Edit

saka_horse_archer.pngサカ族騎兵(スキタイ) Edit

crouching_tiger.png虎蹲砲(中国) Edit

中国の明の時代に使用された、対人携帯火砲である。倭寇との戦いに使用され、朝鮮出兵でも明軍の平壌攻めに使用された。

長さはおよそ40〜50cm、口径は40〜45mm程度で、砲身は主に鉄製で作られている。
単純な円筒の短砲身の前方に地面に設置して使用した時に衝撃を緩和させる支え足(砲架)が2本伸びており、杭を刺して地面に固定するために支え足の先っぽは丸めてO字の穴を作っている。設置した姿まるでお座りした虎のよう形であるためそのような名がついた。

宋の時代にも同じ名前の攻城兵器があるが、これも同じく座った虎のような形に見えることからその名がついただけの投石機である。

この兵器は現在の迫撃砲と形は類似するが、使用する砲弾は多数の小型散弾を入れて使用する大型散弾銃に近い。大きさに比べて軽量であるため歩兵や騎兵が装備し、歩兵砲/散弾銃として使用された。最大射程は1.5〜2kmだが使用する砲弾が散弾である事から有効射程距離はかなり短く、命中精度や火力面では固定砲には遠く及ばない。

このような形状の砲は中国の他にもインドや中東、欧州にも存在する。そしてなぜかそれらの名称もその形状から虎に関係している。

直接的には関係はないが、第1次世界大戦時に、砲火力を補うために急造されたドラム缶砲も似た形状している。さらに中国の国共内戦時に、共産党の工兵将校の高文魁が考案した飛雷筒というドラム缶砲もその形状/構造が酷似している。(油のドラム缶を使用したので油筒砲とも呼ばれる。)

飛雷筒の方は20kgの炸薬を200m先まで飛ばせられ、中には砂利や石ころも一緒に詰めて砲撃した。その生産性(ただのドラム缶に足付けただけ)と共産党側の人海戦術によって、凄まじい火力を吐き出し、国民党側から恐れられた。

形が気になる人は「飛雷筒」または「飞雷筒」で画像検索してみるといい。
(車輪がついてるタイプは後世の創作である。)

hoplite.png重装歩兵(ギリシャ) Edit

古代ギリシャの重装歩兵。一般的にはファランクスとして知られているが、ファランクスは陣形の名前である。
そのファランクスを担っていた歩兵がホプリタイ(ὁπλίται)である。
その由来は装備している丸い盾「ホプロン」から。

主に都市国家(ポリス)の中流階級以上が構成員で、装備は自腹で購入するため統一した標準装備はなかったが、都市国家ごとによって最低限の条件が存在した。
基本的な装備は青銅製の兜と胸甲、そして膝当て。武装は2.4mの槍と青銅で覆った木製の盾、両刃の青銅の剣である。

上述のように密集方陣であるファランクス陣形を組みながら戦う。とにかくホプリタイを密集させたのである。
右手に長槍を、左手に大盾を持ち左隣を盾で守るため、正面ないし左翼は強固である反面右は弱点となる。この右側を騎馬兵によってガードする組み合わせで運用されることが多い。加えて左翼に新人を、右翼に古参を配置する事が良く行われた。

このファランクス方陣はギリシャ周辺でも広く伝わり、陣形と装備改良も盛んに行われた。弱点である右翼よりも左翼に厚く配置し、敵の右翼に対して戦列破壊を行う斜線陣形や、マケドニア王国の6mの長槍(サリッサ)を両手で持ち、盾を胴体に吊るし、騎兵を両翼に配置した、マケドニア式ファランクスは著名である。相手よりも長いサリッサで防衛しつつ、騎馬による戦列破壊を行うこの戦術は「鉄床戦術」と呼ばれ、ギリシャ統一からペルシア帝国打倒に至る当時の最強の戦術であった。
この後もディアドコイ戦争においてマケドニア式ファランクスは改良が続けられたが、機動力に勝るレギオンにより滅ぼされた。
しかし、この時も正面衝突においてはレギオンに勝利しその強固さを示した。

ファランクス陣形は側面と後方からの攻撃に弱く、機動力も遅く、方向転換も難しい。さらに地形が平坦でなければ槍衾が崩れるため威力が減少する。
それゆえに戦争時は、互いの代表者が戦場を決めて、正面衝突する方式をとったため、戦闘時間は1時間前後と短く、死傷者も少なかったとされる。

p-51_mustang.pngP-51マスタング(アメリカ) Edit

viking_longship.pngロングシップ(苛烈王ハーラル3世) Edit

minas_geraes.pngミナス・ジェライス(ブラジル) Edit

sea_dog.pngシードッグ(イギリス) Edit

u-boat.pngUボート(ドイツ) Edit

 潜水艦は1620年にオランダが英国海軍向けに発明した潜水艇がそのはじまりだとされている。しかしこれは実戦投入がされず。潜水艦が戦争に初めて使われたのはアメリカ独立戦争だがこれは戦果をあげることなく終わり、南北戦争で初めてようやくその真価をみせるに至った。
 Uボートは本来特定の型や種類を示すものではなく、ドイツ語では「Unterseeboot」という割りとそのまんまの意味で頭文字をとったものである。即ち潜水艦の総称である。しかし、両大戦でUボートはとりわけ通商破壊で驚異的な戦果を示し連合国側を震撼させた。それ故に英語でUboatと言えば両大戦のドイツの潜水艦を指し示す固有名詞となったわけである。

 しかしUボートは最初からその戦果をみせられたという訳ではない。何故ならばご存知の通り英国海軍は一次大戦当時最強を謳われておりドイツには十分な海軍戦力がなかった。その為制海権はほとんど英国のものであった。水上戦闘で不利なUボートはなかなか運用されない訳で、あくまでも補助艦艇の枠組みから外れなかった。
 そんな評価を覆したのは一次大戦の開戦から三ヶ月後の事である。1914年9月。Uボートは英国の巡洋艦三隻を立て続けに撃破。翌年にはガリポリにて戦艦二隻が撃沈された為Uボートの勇名は世界中に轟いた。とりわけ最強の海軍を有していた英国のショックは計り知れない。
 これに自信をつけた独海軍は無制限潜水艦作戦を断行。これは指定した海域における同盟国以外の船籍の船舶を軍船商船問わず無警告で攻撃するという作戦である。これは一定の戦果をあげたが作戦開始から三ヶ月後の5月に多数のアメリカ人が乗ったルシタニア号(船籍は英国)を無警告で攻撃し撃沈せしめた。これはただちに米国の参戦を意味するものではなかったもののモンロー主義(不干渉主義)一色であった米世論に反ドイツ気運を生み出す萌芽となったことは事実である。アメリカの参戦を恐れたドイツの皇帝ヴィルヘルムは無警告攻撃をやめさせて手続きを複雑化させるなどの作戦の妨害を行い、8月に海軍は中止を余儀なくされた。しかし1917年に戦争の長期化を忌んだドイツは早期終結の為に再び同作戦を実行。これがアメリカを本格的に怒らせ同年に米国の参戦が実現することとなった。しかし、これもまた500隻近いの船舶を沈めるという戦果をおさめUボートの名声は最高潮に達していた。しかし、同年後半には潜水艦にとって最大の弱点となる水上戦力をつけた上での護送船団方式や対潜戦術の充実によって次第に不利になりUボートは次々と沈められ、戦果を低下させたまま終戦をむかえた。
 しかし英国にとってUボートの記憶は忌々しいものであり、ヴェルサイユ条約でドイツは潜水艦の保有を禁じられた。

 1930年代に入ると周知の通りドイツではヒトラーが台頭し、ドイツはヴェルサイユ条約を破棄。再軍備を開始し、着々と戦争の準備を進め、ポーランドへ侵攻した。その時も大西洋など様々な海域で活躍し、ドイツ軍の主力の1つとなっていた。
 しかし海軍よりも空軍を信頼していたヒトラーはUボートを軽視し、対英国の際は潜水艦隊司令だったデーニッツの進言を退けてまで空軍戦力の充実に固執した。しかし、結局ドイツは英国に上陸できないまま独ソ戦へと向かうこととなる。だがUボートが全く作られなかったというわけでは勿論ない。1940年にフランスを占領した際、ドイツはトート機関(ナチスドイツにおいて軍民双方の工事を請け負った機関)を用いて大量のブンカー(Uボート専用の対空施設)を建設し、最終的に1000隻以上のUボートが就役した。そして大西洋から太平洋まで世界中の海へUボートは派遣され商船を中心に様々な船を沈めて戦果をあげた。Uボートの種類も様々でスタンダードな桟拭大西洋を横断できる航続距離を持った酬拭∧箋詬僂X厳拭沿岸作戦用のXX祁燭覆匹作られた。
 しかし、1942年以降英国はレーダーやソナーの技術を飛躍的に進歩させ、索敵能力を大幅にあげた。それだけでなく前大戦の教訓をいかした護送船団方式や諜報戦の徹底など英国は対Uボート戦術に躍起になった。ドイツも手をこまねいていた訳ではなくレーダー電波の逆探知装置を開発するなどしていたが英国には全く歯が立たずUボートは一気に立場を逆転された。
 当時の潜水艦は現代のように水中を長時間航行できるような設計になっておらず作戦行動以外の時は洋上航行が当然だった。Uボートは比較的安全な夜間に浮上していたが、それに対し英国は遥か遠方からレーダーで探知し、Uボート側が気づく前に航空機が忍び寄って探照灯で位置を明らかにされた後に魚雷か爆雷に粉砕されてしまった。
 1944年になるとUボートは実質無力化されたがそれでもドイツ軍は大陸への戦力集中を避ける為に最後まで出撃を続けた。終戦までにUボートは2000隻以上の船舶を撃沈せしめたが、1945年の戦績はわずか46隻。しかもこれは護衛をつけずに単独航行していた船舶で、Uボートはこの三倍以上撃破された。
 戦後、西ドイツは潜水艦の保有こそ認められたものの戦中に比べ遥かに小型化されたものしか保有を許されずこの制限を解除されたのは冷戦が終結してしばらくしてからのことだった。残存のUボートは連合国に接収され、この技術は戦後の潜水艦技術に大きな影響を与えたという。
 因みに我が国にも日独技術交換でUボートの技術がもたらされたが当時の日本の技術では建造できないと判断され作られることはなかった。

 最後に現代潜水艦のはしりと見られているXX儀燭力辰任靴瓩くろう。
 同型は他国の潜水艦に比べ馬力こそ低いものの水中の航続距離は3倍近く、速度は2倍以上という驚異的な性能を持っていた。先程当時の潜水艦は洋上航行が前提だったと記述したがこの潜水艦が転換点となって戦後から現代に至るまでの潜水艦は洋上航行より水中航行に向いた設計になったわけである。
 しかし実際にこのUボートが完成したのは44年5月とノルマンディー上陸作戦の直前期であり、その後の劣勢による燃料不足などの問題で実際の戦果は皆無であった。しかし、終戦直後にこんな逸話がある。降伏の約一週間前にあたる4月30日にノルウェー・ベルゲンの港を出発したこのUボートは4日後には英国の重巡洋艦・ノーフォーク率いる駆逐艦隊を発見した。攻撃すればすぐさま撃沈できる距離まで接近したもののドイツの降伏に係る戦闘行動中止の電報が届いたため攻撃せずに通り過ぎた。
 この艦隊に所属する船員は一人たりともXX儀燭梁減澆傍い鼎なかったという。

 

 

コメント Edit

最新の10件を表示しています。 コメントページを参照

  • 皇帝近衛隊って、ナポレオンの親衛隊のことかな? -- 2016-11-30 (水) 23:46:54
  • 重装歩兵の項目をCIV5から持ってきました。 -- 2016-12-10 (土) 00:29:41
  • 戦闘車の項目を更新しました。 -- 2016-12-10 (土) 01:44:53
  • マムルークの項目を更新しました。 -- 2016-12-14 (水) 12:15:04
  • 鷲の戦士とコンキスタドールをCIV5から持ってきました。コンキスタドールは後で書き換えます。 -- 2016-12-16 (金) 02:43:42
    • コンキスタドールを修正しました -- 2017-01-02 (月) 23:16:56
  • 侍の軍事側面が記載無かったので追加しました。 -- 2016-12-29 (木) 17:06:41
  • レギオンの軍事面を追加、修正 -- 2016-12-31 (土) 12:51:46
  • 皇帝近衛隊コメント記載、歴史的側面より軍事面を優先して書いてます。 -- 2016-12-31 (土) 12:54:21
  • 一つ一つの項目が冗長で見づらいので、内容を絞った方がよいのではないでしょうか? -- 2017-01-03 (火) 15:04:53
    • 元ネタ集だから別の良いのでは?攻略情報ではないし -- 2017-01-03 (火) 17:43:31
  • 「ラフライダー」の項目を書き加えました。 -- 2017-05-30 (火) 15:35:17
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