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great_general.png大将軍 Edit

ブーディカ Edit

 故地・ブリタニア(現在のグレートブリテン島)がローマ帝国の侵略に晒される中、反乱を起こし、ローマに猛然と反抗した女傑。前作のCiv5ではケルトの指導者であったが、現在は大将軍に降格(?)してしまった。
 そんな彼女の固有能力は『隣接する蛮族ユニットを自文明に転向させる』というもの。これはブーディカが蜂起した際、20万と言われる人間が彼女に従った故事からくるものだろう。これはトリノヴァンテス族をはじめとするイケニ族の周辺部族が皆彼女に従った結果生まれたものだ。蛮族が従うというのは恐らくローマからすればブリタニアの原住民は蛮族同然と見ていた事からと推測される。

 イケニ族は現在の英国・ノーフォーク州を根城とするケルト人の部族の一つであった。しかし、四代ローマ皇帝・クラウディウスの親征によってブリタニア南東部に存在した諸部族は従属もしくは征服を余儀なくされた。遠征とはいえその実は融和的で、征服される部族もあれば従属や同盟だけで済まされた部族も数多く有った。イケニ族は幸運にも同盟によってその存在を永らえていた。当時のイケニ族の長でありブーディカの夫であったプラスタグスは独立を確固たるものにするため、自らの死後イケニの領土は自らの娘とローマ皇帝の共同統治にすることを約定した。
 しかし、プラスラグスが亡くなるとこの約束は破られた。ローマはイケニの領土を併呑し、貴族の領土を没収した上に略奪、女は辱めるなどのやりたい放題を行った。統治者になるはずであったブーディカの娘もローマ軍によって強姦される憂き目に遭った。
 この雪辱を被ったブーディカはローマへの復讐を決意。60年。彼の地の総督を務めていたスエトニウスの軍勢が他の部族の砦攻めに行ってる隙を突いて近隣の部族と共に蜂起し、反乱の口火を切った。ブーディカの軍勢はローマの植民市(コロニア。ローマが征服地に置いた都市)を標的としケリアヌスの軍勢を破った後、最初にローマの退役軍人が作ったカムロドゥヌム(現在のコルチェスター)を攻撃。この都市のみではなく植民市には簡単な守備隊しか置かれていなかった。カムロドゥヌムも例外ではなく200人程度の守備隊が守るだけでブーディカの前には敗れるしか無かった。
 勝利したブーディカはそのまま都市を破壊し、続いてロンディニウムに進撃した。ロンディニウムという言葉を見てピンと来た人もいるだろう。そう、これは後の現代の英国の首都、ロンドンである。この当時は建設から20年しか経過しておらず多くの商人や旅行者が訪れていた。この都市もブーティカの軍勢に略奪され、住民は虐殺された。続いてヴェルラミウム(現在のセント・オールバンズ)も攻撃し同じ事を行う。
 これら三都市の被害は惨憺たるもので、七万人以上のローマ人が殺された。彼らは奴隷として生きる道さえ与えられずまさに仕返しのようにただただ虐殺されるのみであった。
 しかし、ブーディカの命運はここで尽きた。総督のスエトニウスは反乱の知らせを聞いて軍を反転させる。ブーディカの軍勢は20万と数こそ多かったものの装備や練度の面ではローマ軍の誇るレギオン達の敵ではなかった。
 スエトニウスはロンディニウムの近くワトリング街道の隘路を決戦の地に選んだ。これは狭い街道に誘い込むことで数の優位(ローマ軍は1万人と圧倒的に不利だった)を突き崩す事を目的としたものである。スエトニウスの狙いは見事に的中し、ワトリング街道でブーディカの軍勢は総崩れになった。因みにこの時ローマ軍は白兵戦を避けてピルム(投槍の一種)の投擲攻撃で一方的に射殺するという戦術をとった。これでは狭い街道ということも相俟って最早まともな戦いにはならない。最終的にブーディカの軍勢はローマ軍の400人の死者に比して200倍の8万にのぼる死者を出して惨敗した。
 この知らせを聞いたブーディカはその後病死したとも毒をあおって死んだとも伝えられるが真相は明らかになっていない。
 彼女の故事はルネサンス期におけるギリシア・ローマへの回帰をきっかけにして見直され始め、ヴィクトリア期には詩の題材やフリゲード艦隊の名称に使われるなどして英国民の心に強く残った。現代でも映画や漫画、小説などで今や英国のみならず世界中で彼女の名前や勇猛な故事は残り続けている。

ハンニバル・バルカ Edit

 第二次ポエニ戦争時、共和制時代のローマを散々苦しめ一時はローマにも迫ったカルタゴの名将。中でもカンネーの戦いは象徴的で、現代に至るまで包囲殲滅戦の手本として士官学校などで教えられている。
 彼の固有能力は『陸上ユニット1体に昇進1つを与える』というもの。連戦連勝を誇っていたカルタゴ軍だが、被害もただならぬものでアルプス越えの後には四割の将兵を失い、将兵に至っては半分がアルプスを越えられなかった。しかしそれでもハンニバルはうろたえずに毅然としており将兵たちは強く彼を信頼したという。恐らくはその信頼が昇進の形でゲームに反映されたものと思われる。

孫子 Edit

 春秋戦国時代に活躍した諸子百家の一人であり、呉の兵法家。孫子というのはあくまで尊称で本当の名前は孫武という。孫子以前の戦争は占いや啓示など理論よりもスピリチュアルな要素が一番強く、天運こそが勝敗を左右すると考えられた。これは太古における中国史では当然のことであった。しかし孫子はこれを真っ向から否定しこれまでに起こった戦争の記録を緻密に研究し、勝敗は天運などではなく人為的な作用によって決定づけられるという軍事理論を作り上げた。また19世紀のプロイセンの軍人が著したクラウゼヴィッツの『戦争論』ともよく比較される。相違点は色々とあるが一番大きいのは孫子は政治家目線から、戦争論は軍人目線からの戦争について描いたことといえる。
 彼の能力は『傑作(書物)『兵法』を生み出す』。非文化系偉人では唯一傑作を出すが、これはやはり彼の著作が如何に優れたもので影響を生み出したものかということを証左するものだろう。

エゼルフリダ Edit

エル・シッド Edit

チンギス・ハン Edit

アナ・ンジンガ Edit

グスタフ・アドルフ Edit

三十年戦争で活躍したスウェーデン国王。三兵戦術を考案し、現代の諸兵科連合の先駆けとなった。

ジャンヌ・ダルク Edit

ナポレオン・ボナパルト Edit

言わずもがな「ナポレオン時代」の立役者にして主人公、フランス第一帝政の皇帝。天才的な軍事才能と戦略眼を持ち、欧州全土を席巻した。彼の残した功績(そして傷跡)は膨大なものだが、ここでは「大将軍」ナポレオンについて記載する。
彼が作り上げた「大陸軍」(大陸の軍ではなく「大」陸軍)は組織、装備、練度、その他多くの面で他の欧州諸国を圧倒する画期的な「国民軍」であった。中でも特筆すべきはその異常に高度な組織の柔軟性にある。ナポレオンやその部下達はしばしば単独作戦行動能力を備えた1個軍団単位の指揮を執っていた。軍団一つ一つが「軍隊」として機能していた、ということである。
彼の退職能力は「大軍団を形成する」だが、恐らくこの大陸軍が元ネタになっているのだろう。

王妃ラクシュミバーイー Edit

シモン・ボリバル Edit

ジョン・モナシュ Edit

マリーナ・ラスコーヴァ Edit

サモリ・トゥーレ Edit

ダグラス・マッカーサー Edit

ドワイト・D・アイゼンハウアー Edit

ゲオルギー・ジューコフ Edit

 ソ連の元帥。対日戦ではノモンハン事件で苦戦をしながらも当時としては最新鋭といえる機械化歩兵と戦車の集中運用を行って日本軍を蹴散らした。また、対独戦においてはレニングラードやスターリングラードといったソ連の生命線となる都市の陥落という致命傷を避けつつ、ドイツの電撃戦を改良して豊富な火力と圧倒的な制空力を以て1500km彼方のベルリンまで追い詰め降伏させた。
 このようにまさにケチのつけようもないソ連の救国の英雄である。しかしそれ故にスターリンやその後のフルシチョフといった指導者からは疎んじられ、しばしば辛酸を嘗めることもあった苦労人。フルシチョフ体制下では政界追放という憂き目にもあったがその後ブレジネフによって名誉は回復され、回顧録出版によって更に名声を高めて人々の賛辞に囲まれながらこの世を去った。
 彼の能力は『全ての陸上ユニットに『側面攻撃+50%』の昇進を与える』これはスターリングラードをはじめとして彼の好んで使った包囲戦術に由来するものだろう。

スディルマン Edit

インドネシアの軍人(1916年1月24日-1950年1月29日)。インドネシア独立戦争時、同国軍最高司令官を務める。優れたリーダーシップと組織化の才能、そしてイスラム教への献身的な態度から、今なおインドネシアで尊敬されている。生前の最終階級は中将。死の同年に大将、1997年に陸軍元帥号を追贈されている。
1916年に蘭領東インドで生を受けたスディルマンは、母の姉妹の夫でプルパリンガ他幾つかの地域の知事を務める貴族、ラデン・コクロスナリョの養子として、チラチャプのマンギサンで育った。
現地の学校に入学したスディルマンは、一般階級の市民としての倫理や実直さを学ぶ一方、養父から貴族階級としての誇りやエチケットを学んだ。また、彼が幼少時に受けたイスラム教の教育は、彼の生涯において重要な支柱となった。
信心深く、イマーム達の信頼も厚かったスディルマンは、他の生徒達に対して宗教的な説教を度々行なっていたという。
その後、彼はスラカルタの教育大学を経て、恩師の運営する小学校で教師の職につく。彼は公平かつ、ユーモアや昔からの伝承を交えた授業で人気を博し、月給も程なくして四倍に増額された。また、かつての同級生であった富豪の娘と結婚し、四人の子供にも恵まれ、順風満帆の日々を送っていた。
1942年、南方への進出を目指す大日本帝国は、現地に駐留するオランダ軍を撃破し、インドネシア全体を軍政下に置いた。スディルマンの勤める学校も閉鎖され、彼は再開に向けて何度も運動する事になる。
1944年。戦局が傾きつつあった大日本帝国は、現地の住民に対し「郷土防衛義勇軍」の結成を下命。スディルマンはその司令官就任を打診された。彼は数日躊躇したものの、これを受諾。中部ジャワ州のクローヤ大隊に配属された。
1945年4月、スディルマンは日本に対して反旗を翻した義勇軍部隊の鎮圧を命じられる。彼は拡声器を用いて自らが害を加える意図が無いことを叛乱軍に伝える事で、無血鎮圧を成功させた。
1945年8月17日、満を辞してインドネシア初代大統領スカルノが独立宣言を全国に布告。同時に、各地の義勇軍はこれに同調して武器を取って立ち上がり、数千の残留日本兵と共に独立戦争へと身を投じる事となる。
スディルマンはスカルノによる闘争組織化の中で、旧日本軍からの武器接収などに重要な役割を演じ、また数少ない上級将校として各地の指揮に尽力した。
1945年10月。スカルノは、人民安全保障軍の創設を命令。スディルマンは、その下で指揮官に就任。また、イギリス軍より武器を供給されたオランダ軍捕虜達がマグランに前哨基地を構築していると考えた彼は、麾下の舞台を持って彼を撃破する事に成功した。
1945年11月12日。軍高官による二回の投票の結果、スディルマンが軍の最高司令官に選出された。この時彼は29歳の若さであった。スディルマンは、参謀長に老練なウリプ・スモハルジョ中将(彼はスディルマンに次ぐ票数を獲得した)を迎え、さらなる闘争へと備えることとなる。
同月下旬、スディルマンは第五管区軍に対し、アンバラワの連合軍攻撃を命じるが、兵器の質の差によって苦戦。12月12日に至るまでの断続的な戦闘により、敵軍をスマランまで撤退させた。
1946年5月25日。拡張された軍の再編成後、スディルマンは改めて最高司令官として承認された。セレモニーにおいて彼は、「自身の血の最後の一滴まで、共和国を守護する」とスピーチした。
1946年11月、インドネシア共和国とオランダとの間でリンガジャティ協定が発効。しかし、これはインドネシアへの影響維持を目論むオランダの謀略であり、複数の諸民族によってインドネシアがバラバラになる事を示していた。
1947年7月、オランダ軍は商品作戦によってジャワ島とスマトラ島の大部分の制圧に成功。これに対しスディルマンは「イブー・ペルティウィが呼んでいる!」と全軍を鼓舞するも、足並みは乱れた。
1948年1月、スディルマンは大統領令により司令官を解任され、中将に降格となる。その後彼は自身の副官にアブドゥル・ハリス・ナスティオン大佐を任命し、軍の再編に取り掛かることとなる。
スディルマンは先頭の再会を見据えて精力的に働いていたが、彼の体を蝕んでいた病魔は段々と進行し、ついに彼は肺結核で倒れる事となる。
11月に至り、彼は漸く手術によって戦線に復帰。そして、12月。オランダ軍による再攻撃に際し、彼と彼の指揮するゲリラ部隊は巨大な働きをする事となる。
1948年から1949年にかけて、スディルマンはまさしく全インドネシアゲリラにとっての英雄であった。彼の名は、敵にせよ味方にせよ無視することができないほどに広がり、ゲリラ達は彼の名の下に戦い、オランダ軍は彼を捉えたと盛んに喧伝した。他方本人は、スハルトらと共に各地の戦線において的確な戦略指揮を行い、勝利へと貢献した。
1949年3月。遂にインドネシア軍はオランダ軍を破り、首都の奪還に成功する。これは、長きに渡る独立戦争に終止符を打つ巨大な戦果であった。
その後、両政府間の合意によりオランダ軍は撤退する事となったが、スディルマンはこれに反発。継戦を唱えるも、結核がそれを諦めさせた。
1949年12月27日。オランダはインドネシア共和国の独立を承認。この知らせを彼は病院のベッドで聞いた。そして1ヶ月後の1950年1月29日、若き英雄はこの世を去った。享年34。
死後、スディルマンは顕彰され、数多の英雄の筆頭として名が挙げられるようになる。彼の辿った行軍路は、インドネシア共和国軍の士官学校生が卒業前に必ず辿ることを義務付けられている。

アフマド・シャー・マスード Edit

アフマド・シャー・マスード(1953〜2001)は、アフガニスタンの軍人にして政治家。

陸軍将校の子として生まれ、カブール大学で高等教育を受けるが、在学中、ムハンマド・ダウドによる共和制に反対したことで、パキスタンへの政治亡命を余儀なくされた。
ダウドが暗殺され、アフガニスタン人民民主党が主導する親ソ政権が成立すると、故郷のパンジシール州(アフガニスタン北東部)に戻り、武装闘争を開始した。

各地での武装蜂起により、親ソ政権が劣勢に陥ると、これを存続させるためにソ連軍が侵攻、マスードのパンジシールにも大軍が押し寄せた。
マスードの軍は、兵員の量、兵器の質の両面で劣勢な中、巧みな指揮と高い士気により、合計9度にも及ぶ大規模攻撃を退けた。
この驚くべき戦果によって、マスードの名は、パンジシールの獅子として国内外に知れ渡った。
また、決して万全ではない補給下であっても、ソ連兵の捕虜を丁重に扱ったことから、敵からも大いに尊敬を受けた。

マスードが目指したのは、近代的でありつつも、伝統文化を尊重する統一アフガニスタンであり、外国の介入の排除と、国内の対立の沈静化を目指していた。
当人は、あくまで一軍人として自らを位置づけており、政治家として振る舞うことを望まなかったが、状況はそれを許さず、あらゆる分野で敏腕をふるった。

10年に及んだ戦闘で、ついに消耗しきったソ連軍が撤退すると、マスードは首都カブールに入城し、新政権の国防大臣に就いた。
ところが、部族間・宗教間の対立や、周辺国の思惑から、アフガニスタンの政情は混乱を極め、内戦状態に陥った。
様々なグループが乱立する中、隣国パキスタンの支援を受けたタリバンが急成長し、アフガニスタン南部を掌握した。
マスードは、再び粘り強く戦うも、多勢に無勢、カブールでの市街戦か、放棄かの択一を迫られ、民間人の被害を抑えるために後者の道を選んだ。

アフガニスタンの国土の多くを掌握したタリバンは、その原理主義的なイスラム解釈に則り、抑圧的な政治を行った。
また、この時期にアルカイダがタリバンと共闘し、ウサマ・ビンラディンが、アフガニスタンへ入っている。

パンジシールに戻ったマスードは、タリバンへの武装闘争を続けながらも、難民の受け入れや女性教育など、人権を重視した統治を行った。
2001年の春には、欧州議会で演説し、窮乏化するアフガニスタンへの支援と人権の保護、そして原理主義者による国際テロリズムへの脅威を訴えた。

しかし、同年9月9日、ジャーナリストを装ったアルカイダ構成員の自爆攻撃によって暗殺された。享年48。
このわずか二日後の9月11日、アルカイダによって、アメリカ同時多発テロが発生。マスードの訴えは現実のものとなった。

アメリカの報復攻撃でタリバン政権は崩壊し、ハミド・カルザイ率いる新政権の発足、初の大統領選挙を経て、
2017年現在、アフガニスタンは緩やかに復興し、近代化への道を歩んでいるが、未だ多くの不安定要素を残している。

私生活では、敬虔なムスリムとして清廉かつ質素な日々を送ったが、宗教的に寛容でもあり、非ムスリムの友人も多かった。
また、たいへんな読書家であり、軍事・政治・経済、世界各国の文化に通ずるに留まらず、5カ国語を操る秀才であった。
そのカリスマ性により、生前から崇拝の対象となっていたが、本人はそれを嫌い、街頭に飾られた顔写真を、自らの手で剥がしてまわることすらあった。
だが、皮肉なことに、アフガニスタンの現政権は、マスードを「国民的英雄」として扱い、国家の統一のためのシンボルとして扱っている。

彼の能力は『近代的対戦車兵1体を作成し、昇進を与える』。
ソ連機甲部隊を翻弄し、撃退した実績が反映されたものであろう。

ヴィジャヤ・ウィマララトン Edit

1940〜1992。スリランカの将軍。
仕官の育成やタミル・イーラム解放のトラ (FTTE) との戦いに軍歴の大半を捧げた人物。

1961年 準大尉としてスリランカ軍のゲムヌ・ウォッチに入隊
1970年 スリランカ軍の士官候補生の訓練指揮官を務める(〜1991年)
1987年 ガジャバ連隊の創設を命じられる
1990年 FTTEによってジャフナ要塞に囚われた部隊の救出作戦
1991年 陸海空軍共同作戦となるバラヴェガヤ作戦
1992年 ファイナルカウントダウン作戦の計画立案中、最後の仕上げとして現地偵察を実施。偵察を終えた後、迎えのヘリコプターの合流地点へ向かっている最中に自身が運転するランドローバーが地雷を踏んでしまい即死。死後、少将へ昇進。

固有能力の「陸上ユニット1体をレベルアップし、『経験値+100%』の昇進を与える」は、
長きにわたって訓練指揮官を務めたことや、エリート歩兵連隊の1つであるガジャバ連隊の創始を評価してのものと思われる。

great_admiral.png大提督 Edit

アルテミシア Edit

 ペルシア戦争時、アケメネス朝側に立ってアテネやスパルタなどの連合軍と戦った史上最古の女海賊でありハリカルナッソスの女王。サラミスの海戦における奮戦は特に語り継がれており、ペルシャの海軍の中で一番的を射た意見を言ったという。
 彼女の能力は『海上ユニット1体に昇進1つを与える』。これは上記の海戦における活躍を踏まえたものと思われる。

ガイウス・デュイリウス Edit

テミストクレス Edit

ラージェーンドラ・チョーラ Edit

南インドのチョーラ朝の王(在位1016〜1044)。
北はゴーダヴァリー川の東岸から南はセイロン北部に達する広大な領土を獲得しチョーラ朝の最盛期を現出。
1017年と1025年に、彼は当時マレー半島とスマトラ島で栄えていたシュリーヴィジャヤ王国へと大規模な遠征を決行し、同地を支配下に置いた。大提督として区分されたのはこの功績が反映されてのことだろう。

レイフ・エリクソン Edit

970年頃〜1020年頃。グリーンランドに最初に入植した「赤毛のエイリーク」の息子。
アイスランドに伝わるサーガにおいて、「アメリカ大陸に最初に到達したヨーロッパ人」と伝わる。
あくまでもサーガであるために正確な場所は不明だが、
最初にたどり着いた「ヘルランド」はカナダのバフィン島、
次にたどり着いた「マルクランド」はラブラドル半島、
最後にたどり着いた「ヴィンランド」はニューファンドランド島ではないかと言われている。

固有能力である「全海軍ユニットに外洋を移動する能力を与える ※1」は、
大航海時代よりもはるか昔に大西洋を渡ったこの逸話を評価してのものと考えられる。

※1 次のパッチで変更される予定あり

鄭和 Edit

 鄭和(てい わ)。明・永楽帝の治世に活躍した宦官。永楽帝の命を受けて朝貢目的で大航海を行う。この大艦隊はアフリカのマリンディにまで辿り着いておりこれはヨーロッパの大航海時代から100年近く先取りした大きな事跡といえるだろう。
 彼の能力は『使節団1つを得る』。これは朝貢目的での航海を使節団という形で具現化したものだろう。

サンタ・クルス Edit

サンタ・クルス侯爵アルバロ・デ・バサンは現在「スペイン海軍の父」とも呼ばれる当時随一の提督であった。レパントの海戦における軍功を称され海軍の第一人者となった彼はフェリペ2世からサンタ・クルス侯爵の位を与えられた。その後彼は「無敵艦隊」いわゆる「アルマダ」の編成に着手するが国王の非協力的な態度に苦しみ惜しくも急死した。

フランシス・ドレイク Edit

李舜臣 Edit

文禄・慶長の役で日本と戦った朝鮮の将軍。

彼の戦い方は、
徹底した「偵察」と「情報収集」を元に、敵を「有利な戦場」で、「圧倒的な戦力」と「火力」を使って圧殺するという、「勝てる戦い」だけを戦うやり方である。
これは孫子の兵法に沿った模範的な戦い方である。これは現代の米陸軍の基本戦術にも通じる。
それ故に彼が指揮した海戦での味方の戦闘船の被害は、ダメージ超過での自沈と、悪天候による転覆を除けば、被撃沈数は0隻である。
(明の戦船を除く)(耐久度だけなら、朝鮮船は欧州の戦列艦と同等レベルであったことも影響している)

彼の勝因には戦い方以外にも、ホームグラウンド、船の違い、海戦経験値、指揮連絡手段、海戦での大砲運用経験などがあるが、詳しい内容は割愛する。
(戦国時代を通して海戦で大砲が使用されたのは13件しかない)

様々な思惑によって評価が乱高下するが、一国を救った英雄には違いない。

ホレーショ・ネルソン Edit

ラスカリーナ・ボウボウリナ Edit

鄭一嫂 Edit

ジョアキン・マルケス・リスボア Edit

フランツ・フォン・ヒッパー Edit

東郷平八郎 Edit

東郷平八郎は、明治時代に活躍した日本の提督。日露戦争の際に日本の連合艦隊最高司令官を務めた。日本海海戦を率いて、当時、ヨーロッパでも屈指の艦隊であった帝政ロシアの艦隊「バルチック艦隊」を日本海海戦で撃破したことで知られる。

 彼の能力は『海洋軍事ユニット1つのレベルを1上げ、戦闘で得る経験値+75%』。これは連合艦隊最高司令官としての彼が果たした役割と、また作戦参謀であった秋山真之によって提唱され、敵の先頭艦艇に集中砲火を加える戦法である「丁時戦法」を確立するため艦隊行動「通称:東郷ターン」実行と、これらによる日本海海戦大勝の功績からきたと思われる。

グレース・ホッパー Edit

アメリカの女性計算機科学者。
ハーバード大学でマークIIという計算機を取り扱っているとき、実際に昆虫(bug)のガが挟まっていることが原因で不具合を起こしていたことから、計算機に起きた「バグ」を報告したことで知られている。
また、プログラミング言語の「COBOL」を開発したことでプログラミング言語の草分け的存在として有名。

ここまで書くと大技術者じゃないかと思われるかもしれないが、実際彼女は海軍に所属しており、准将まで上り詰めているので、大提督としての扱いなのだろう。
死後5年経過し、駆逐艦「ホッパー」として名が残されることになった。

固有能力は「ランダムに選択された技術2つを得る」「原子力時代または情報時代の技術1つに対してひらめきを得る」
上記の業績からすれば順当ではあるのだが、固有能力は大技術者なようである。
むしろ計算機科学の業績を鑑みれば変更前のほうが妥当だったように思うのだが、ゲームバランスの都合だろうか。

セルゲイ・ゴルシコフ Edit

セルゲイ・ゴルシコフはソ連海軍を「沿岸警備隊」のレベルから「世界的な大海軍」に引き上げたことで名高い。元々黒海艦隊で指揮をとっていた彼だが皮肉にもスターリンの大粛清によって出世し、四十五歳にしてソ連海軍の司令官になっていた。その後も彼は官僚や権力者の派閥をうまく渡り歩き1985年、アメリカに次ぐ世界第2位の海軍を残して退役した。

チェスター・ニミッツ Edit

クランシー・フェルナンド Edit

スリランカ海軍司令長官クランシー・フェルナンド海軍中将は同国海軍に、暗号技術を筆頭とする最新式の通信技術を導入しその質を大きく向上させた。が、スリランカ海軍の拡大を防ぎたかった「タミル・イーラム解放のトラ」の工作員の自爆テロによって1992年11月、暗殺される。現在に至るまでフェルナンド提督は自爆テロで殺害された最高位の軍人である。

great_engineer.png大技術者 Edit

セント・ジョージのジェイムズ Edit

 12世紀のイングランドにおける城郭建築家。主にウェールズにおける城の建設に精を出した。当時ウェールズとイングランドは激しい攻防戦を繰り広げており、ウィリアム・ウォーレスなど強力な指導者による頑強な抵抗で前線には堅固な城が求められた。彼の建設した十の城郭の中でも「ビューマリス城」、「カーナーヴォン城」、「コンウェイ城」、「ハーレックス城」の四つに関しては世界遺産に登録されるほどの名城である。
 彼の能力は『タイル上の都心に太古の防壁と中世の防壁を建設する。ゴールド+2』(×2)。これは彼の城郭建築及び世界遺産の登録に対してゴールドと防壁という形で再現したものと考えられる。
 

ミレトス・イシドロス Edit

 6世紀に活躍した東ローマ帝国の建築家及び数学者。彼の居た頃の東ローマはユスティアヌス帝治世下で、大いなる繁栄を享受していた。その時、ユスティアヌスは2度の焼失を経ていたハギア・ソフィア大聖堂の修築をイシドロス及びトラレスのアンテミオスに命じた。彼らは従来に従ったただの大聖堂ではなく、全く新しいハギア・ソフィアを作ることを志した。
 ハギア・ソフィアといえば特徴的なのはあの巨大なドームだが、あれは四方の石でできた巨大なアーチによって支えられている。当時、ヨーロッパはゲルマン人やアヴァール人など異民族の侵入と収奪によってローマ帝国に築き上げた土木技術は散逸してしまっておりこのような巨大な建物を造ることは困難だった。それだけに東ローマのこの大聖堂は歴史的に見て特別なものと言えるだろう。オスマン帝国によって滅ぼされた後もこのアヤソフィアは残り続け、四隅に四本のミナレットが加わって現在見られる形になった。第四回十字軍による十字軍の収奪やオスマン帝国の侵入など危難が続いたコンスタンティノープルの歴史でこれが残ったというのは奇跡ともいえるが、何よりも敵であるムスリムなどでさえも感服せしめたほどの建築だったと言う事の証左である。
 彼の能力は『遺産の生産力215を得る』(×2)。これは東ローマ、そして現代はイスタンブールの象徴といえるハギア・ソフィア大聖堂の建築を評価されての能力と思われる。因みにハギア・ソフィアはトルコ共和国の建国者であるムスタファ・ケマルによってモスクから博物館に転換され、現在に残っている。

畢昇 Edit

 畢昇(ひっ しょう)。北宋において活躍した発明家。特に目立つのは活版印刷の発明である。グーテンベルクよりも400年程早く活版印刷を発明したが、我々日本人からしても分かるように漢字圏では必然的に必要な活字が多くなってしまう為中国では活版印刷はあまり普及せずに終わってしまった。(彼の国では木を彫って版を作る木版印刷が主流だった)
 彼の固有能力は『区域建設の人口による制限-1。印刷に対してひらめきを得る』。前者は不明だが後者は活版印刷発明の功績を反映してのものと思われる。

フィリッポ・ブルネレスキ Edit

 ルネサンス期に活躍したイタリアの彫刻家でありルネサンス最初の建築家。フィレンツェの象徴ともいえるサンタマリア大聖堂(別名:花の聖堂)の建築に関わり、現代の美術にも伝わる透視図法の発案者とも目されている。
 彼の能力は『遺産の生産力315を得る』(×2)。これはイタリアに残る数々の遺産や傑作を残した功績を反映したものと思われる。

ミマール・スィナン Edit

 16世紀に活躍したオスマン帝国の建築家。彼は100歳近くという大往生を遂げているが、建築家としての成功はなんと50歳になってからの話である。それ以前はイェニチェリ(オスマンの常備軍)の工兵として軍役を務め前線を駆けずり回りながら土木・建築の知識や経験を積み、50代の頃に帝室造営局長として現代にまで残る様々なオスマンの建築を担当した。ハギア・ソフィアの工法にならって巨大なドームを実現させたスレイマニエ・モスクやハギア・ソフィアに比肩する大きさを持ったセリミエ・モスクが彼の代表作といえるだろう。気づいた人もいるかもしれないがこの二つはそれぞれスレイマン一世及び次の皇帝セリム二世の為に作られたものである。これらは20年程間隔が空いており如何に彼が長寿だったかを伺わせる。
 彼の能力は『都市の住宅+1、快適性+1』(×2)。スィナンは先述の通り元々工兵で特にインフラストラクチャー(橋梁や道路など)の構築に長けていたことを反映したものと思われる。

レオナルド・ダ・ヴィンチ Edit

15〜16世紀に活躍した芸術家。「モナ・リザ」「最後の晩餐」はおそらく誰もが知る名画と思われる。
芸術家としてあまりに有名なことを踏まえると「大芸術家」としての登場のほうが適切かと思われるが、例えば戦車の概念の研究、解剖学の研究、ヘリコプター・ハングライダーの設計図、プレートテクトニクスの理解等多方面に渡り、レオナルドは工学の方面にも卓越した才を発揮していた。

固有能力は「工業地帯で使用。工房の文化力+1、近代の技術1つに対してひらめきを発動」である。
当然芸術はアトリエ等場所を必要とするため、工業地帯の工房に影響があるのは妥当であり、文化力+1という形で芸術家としての役を行っていると考えられる。
また「近代の技術1つに対してひらめきを発動」は、多くの技術に対する貢献をひらめきという形で与えたと考えられる。

エイダ・ラブレス Edit

 19世紀の英国で活躍した貴族の女性。幼少の頃から数学を好み、コンピューターの父とも名高いチャールズ・バベッジの影響を受けて現在で言うところのプログラミングに興味を持った。バベッジが挫折した階差機関(多項式の数表を作成する計算機。三角関数などを表現出来るため実現すれば建築や土木の分野で大いに役立った)の代替として解析機関という考え方を考案。この解析機関を用いた機械こそが我々が今使っているコンピューターの原型という訳である。世界初のプログラマとも称されるが色々と議論が分かれている。
 彼女の能力は『区域建設の人口による制限-1。コンピューターに対してひらめきを得る』前者は恐らくコンピューターの機械的な作用を。後者は先述の業績を反映したものと考えられる。

ギュスターヴ・エッフェル Edit

 パリの代名詞ともいえるエッフェル塔を建設した人物、建設業者でもある。元々エッフェル塔は1889年のパリ万国博覧会のモニュメントであり当初は装飾を一切排した奇抜な外見から批判も多く寄せられたがなんとか現代までその姿を残している。他にも彼の会社は自由の女神などの建設にも関わっており近代建築史を語る上で欠かせない存在である。
 彼の固有能力は『遺産の生産力480を得る』(×2)。これら遺産の建設の功績を反映してのものと考えられる。

ジェームズ・ワット Edit

知っている方も多いだろうが、産業革命の中枢を担った「蒸気機関」の発明者である。とはいえ、蒸気機関の考え方そのものは古代ギリシャの頃から存在しており、その後も定期的に機構が提案されたものの、あまり実用的ではない物がほとんどだった。というのも、蒸気機関ではシリンダー内で温めた水を再利用する際に蒸気を冷やさなければならないのだが、ワット以前の蒸気機関はその際にシリンダーそのものの温度も同時に下げなければならなかった。そのため、熱効率が大幅に落ちてしまうという欠点が存在していたのだ。
そこで、ワットは復水器という機構を導入した。これは、シリンダーの中で温まった蒸気を一度復水器の中に逃がし、その中の冷却管で冷やしてからポンプへ戻すというものである。これによって熱効率は大幅に上昇、以降のあらゆる機械に影響を与えた。現在、機械のほとんどは電気を利用しているが、その電気を生み出す発電所設備のうち、火力・原子力・地熱では今も蒸気機関の仕組みが応用されている。

アルヴァ・アールト Edit

ニコラ・テスラ Edit

ロバート・ゴダード Edit

第一次〜第二次世界大戦のあたりのアメリカの発明家。
「ネル」と名付けられた、液体燃料ロケットを打ち上げたことで大騒ぎになり、その後ロケット工学の研究に打ち込むことになった。
しかし時代を先取りしすぎた研究は、残念なことに生前に評価されることはなかった(当時は「宇宙空間でロケットが推進する」というようなことは全くのデタラメだとさえ言われていた)。
受け続けてきた不当な評価からは個人で研究を行うようになり、それらは死後に花開くことになった。
アポロ計画により、彼の研究が正しかったことが証明されたのである。
その偉業から「ゴダード宇宙飛行センター」として本人の名前が残されることになった(※ゴダード宇宙センターという名前がついたのはアポロ計画より前)。

固有能力は「宇宙開発競争プロジェクトの生産力+20%、ロケット工学に対してひらめきを発動」。液体燃料ロケットの打ち上げや宇宙空間でのロケットの挙動の考察などから、ロケット工学へのひらめきという形で固有能力が与えられたのだろう。

ジェーン・ドリュー Edit

ジョン・ローブリング Edit

セルゲイ・コロリョフ Edit

 20世紀に活躍したソ連の技術者。同国のロケット開発の指導者であり、宇宙開発に多大なる貢献をした。
 しかしその生涯は最初から恵まれたものではなかった。1933年にソ連初の液体燃料ロケットの打ち上げに成功してジェット推力研究所の所長になったのは良かったものの1938年にスターリンの大粛清のとばっちりを受けて冤罪でシベリアに流刑される。罪状はテロ組織への関与と研究遅延と怠慢による国費の浪費であった。読者の中には知ってる人もいるだろうが零下30度という過酷な環境におかれ、強制労働をさせられるという壮絶な環境下で彼は壊血病と心臓病を患った。恩師などの助命嘆願で宣告された10年よりも4年短い1944年に彼は刑を免除され、研究者としての地位を回復した。
 戦後、彼は敗戦国のドイツへ行き、V2ロケットなどドイツの技術情報を収集。翌年には五千人の科学者をソ連へ招き、改良型のミサイルを開発。最終的には1957年8月に射程距離7000kmのR-7(現在まで仕様変更を重ねて使用されてる)の開発に成功。これは世界初の大陸間弾道ミサイル(ICBM)となった。そして同年、彼はスプートニク1号を打ち上げた。これまた世界初の人工衛星であり、世界中に大きなショックを与えた。スプートニク1号は以後12年に亘る米ソ宇宙開発競争の嚆矢となり、人類の宇宙開発の小さくも大きな象徴となった。米国の同じポジションにいたヴェルナー・フォン・ブラウンとはいい好敵手であったものの、ソ連の方針で会うことはおろか名前すら知らせることはかなわずブラウンがコロリョフの名を知ったのは彼が亡くなってからのことであった。
 彼の能力は『宇宙開発競争プロジェクトの生産力1500を得る』。上記の宇宙開発への貢献と功績を反映させたものと思われる。

ヴェルナー・フォン・ブラウン Edit

 20世紀に活躍したドイツ及びアメリカの技術者。宇宙開発黎明期におけるアメリカ宇宙開発の最重要指導者。ソ連の同ポジションに居たセルゲイ・コロリョフと同じ大技術者なのは開発の粋なはからいか。
 ドイツに生まれ、幼少期から宇宙に対し大きな興味を抱いていたという。第二次世界大戦まではドイツでロケット工学を専攻した知識を活かしてロケットの開発に勤しんでいたが、その目的はブラウンの望んでいたものではなく軍事的な利用であった。彼はV2ロケットの開発にも関わったがロンドンへの着弾に成功した際に「ロケットは完璧に動作したが、間違った惑星に着地した」と皮肉ったという。宇宙への関心が災いしてゲシュタポ(秘密警察)とSS(親衛隊)に目をつけられ逮捕されるがヒトラーの計らいで釈放された。ファシズムの政体においては国家より個人的欲望を優先するのは反逆を意味したのである。
 戦後はアメリカに渡り、自らの希望であった宇宙開発に専念。人工衛星・エクスプローラ1号の打ち上げやアポロ11号の打ち上げを手伝ったサターンロケットの製作に関わり、見事に成功して見せ、月に行くロケットを造るという夢を叶えた。
 彼の能力は『宇宙開発競争プロジェクトの生産力+100%』。言うまでもなく彼の宇宙開発の功績をゲームに反映させたものと考えられる。
 

ジョセフ・パクストン Edit

 19世紀に活躍した英国の建築家・造園家。主に庭師や造園家としての名声が高い。南米のギアナから持ち込んだ種苗を温室栽培を用いて英国本土で栽培出来るようにしたり、大規模な温室を多数作ったりととにかく同国の造園技術においては右に出るものはいなかった。
 特に顕著な業績としてあげられるのは1851年の英国万国博覧会における水晶宮の造営である。当時はガラスと鉄骨のみで巨大な建造物を造ることなど考えられもせず、外国からの来客を驚かせたという。因みにこれは解体してすぐに移築することも可能だったためプレハブ建築の嚆矢とも言われている。クリスタルパレスは万博終了後も移築された後に今後80年以上に渡って世界中の人々の目を楽しませた(岩倉使節団もこの水晶宮を見ている)が、1936年11月。失火によって全焼。以後再建されること無くその名を残すのみとなった。
 彼の能力は『タイル上の総合娯楽施設の影響範囲+3。区域の動物園とスタジアムからの快適性+1』。上記の、特にクリスタルパレスに関する業績を反映させてのものと考えられる。

チャールズ・コレア Edit

great_merchant.png大商人 Edit

コラエウス Edit

 記録に残っている限りでは初めて地中海から大西洋に進出したとされる人物。フェニキア人であり、エジプトとの交易の為にエーゲ海のサモス(トルコ沿岸にあるギリシャの島)を出発したが風向きのせいで航路から外れ現在のジブラルタル海峡から大西洋に出たという。しかし、これは怪我の功名となった。彼は南スペインのタルテッソス(ジブラルタル周辺にあった国)に上陸し、本国に報告した後にこの地域との貿易を確立した。
 彼の能力は『信仰力100を得る。タイル上の高級資源を首都に追加で与える』。
 前者は、嵐の襲撃を乗り越えて無事に帰国したコラエウスが、これが神の加護であることを確信し、自分の収入の十分の一を主神であるヘラに捧ぐ事をゲームに反映したと思われる。
 後者は、異文化圏との交流による効用を高級資源の追加効果という形でゲームに反映したと思われる。

マルクス・リキニウス・クラッスス Edit

共和政ローマの軍人にして政治家。グナエウス・ポンペイウスとガイウス・ユリウス・カエサルと共に第一回三頭政治を行う。カエサルの最も有力な支援者であり、歴史上でも傑出した大富豪の1人である

張騫 Edit

 張騫(ちょう けん)。前漢・武帝の時期における政治家・外交官。武帝は匈奴(北方に存在した騎馬遊牧民)撲滅の為に西域(現在の中央アジア)の諸勢力との同盟を考えていた。その交渉役に抜擢されたのがこの張騫である。張騫は大月氏との同盟を成立させる為に派遣されたが途中匈奴に捕まり、なんとか逃げた後も大月氏との同盟に失敗した上に匈奴に捕まるという不運な運命をたどった。彼が西域から戻ってきたのは13年してからのことだった。その後には烏孫との同盟に使者として遣わされこの時は成功した。
 彼が西域から持ち帰った事物は大量にあり、コショウやクルミ、ニンジン、キュウリなどなどその作物は主要な貿易の品目となって後々まで中国の経済発展に貢献した。(因みにこれらは漢字にすると頭に胡の字がつくがこれは外からきたものという意味である)
 彼の能力は『交易路+1。国外からの交易路は両者にゴールド+2』。先述したような地域間の貿易発展に寄与した功績を反映したものであると思われる。

アテネ・エイレーネ Edit

ピエロ・ディ・バルディ Edit

マルコ・ポーロ Edit

ジョヴァンニ・デ・メディチ Edit

ヤコブ・フッガー Edit

ラジャ・トダール・マル Edit

アダム・スミス Edit

このゲームのプレイヤーなら、まず間違いなくその名前くらいは聞いたことがあると思われる近代経済学の祖。勿論本職は商人では無く経済学者。彼の業績が後世に与えた影響は非常に大きく、通貨経済は彼の業績によって良くも悪くも大きく発展した。それを反映してか、全ての偉人の中でもほぼトップクラスの能力を発揮する。それは『経済政策スロット1つ追加』である。他の政策スロット追加系の偉人が現時点では存在しないことからも、製作者側から並外れた評価を受けていると思われる。尚、「大科学者」では無く「大商人」扱いな理由は、彼の業績が経済活動&その担い手、すなわち商取引&商人に対して特に強い影響を与えたことを反映していると思われる。

ジョン・ジェイコブ・アスター Edit

ジョン・スピルスベリー Edit

 18世紀に活躍した英国の彫刻師・地図製作者。誰でも一度はやったことがあると思われる玩具、ジグゾーパズルを発明した人物である。
 スピルスベリーは上記の通り地図製作者であり、常に地図を見ていた。そして彼は板に地図を貼って国境に沿ってカット。ピースとなってバラバラの状態である板を元通りに戻す組み合わせ細工を作り上げた。これがジグソーパズルの始まりである。これは教育現場に地理の教育に良いと受け入れられ、1800年代に入るまではジグゾーパズルは玩具というよりも教育に使うものというイメージが強かったようである。因みにジグゾーパズルのジグゾーとはこの切断する際に使う糸ノコギリ(=Jigsaw)から来ているとされている。勿論現代は糸ノコギリではなく機械で成形して作られている。我が国に流入したのは1970年代以降。
 彼の能力は『高級資源-玩具1つを得る(快適性+4)』。玩具とは勿論ジグゾーパズルを指していると考えられ、この発明の功績を反映したものと考えられる。

サラ・ブリードラブ Edit

ジョン・ロックフェラー Edit

メアリー・キャサリン・ゴダード Edit

ヘレナ・ルビンスタイン Edit

メリタ・ベンツ Edit

リーバイ・ストラウス Edit

エステー・ローダー Edit

ジャムシェトジー・タタ Edit

井深大 Edit

 ソニーの創業者の一人であり、わが国初のトランジスタラジオやベータビデオを発明した技術者でもある。テープレコーダーやトランジスタテレビなども発明している為現代における我が国の通信技術の先駆者といえる人物だろう。ソニーが盛田昭夫と共に創業された1946年5月はご存知の通り終戦直後であり空襲や艦砲射撃などで通信網や機材は徹底的に破壊されていた。その為復旧の過程にソニーがあり、彼の作った発明品は瞬く間に日本中を席巻した。
 彼の能力は『工業地帯の観光力+10』。これは彼のラジオの発明に対する功績の表れであると思われる。
 

great_prophet.png大預言者 Edit

ゴータマ・シッダールタ Edit

皆様ご存知「仏教」の開祖。ズールーの指導者「シャカ」とはなんの関係もない。王族として生まれた彼が、人生というものの儚さを東西南北に位置する門の前で見た、「生・病・老・死」の四苦の光景によって気付かされる、というエピソードはあまりにも有名。その後、菩提樹の下で悟りを開き、輪廻する世の中からの逸脱によって永遠に続く生の苦しみから逃れることを説き、インドに一大宗教を築いた。しかしながら、現在ではインドはヒンドゥー教の信者が多数派の国家となっており、タイやミャンマーといった東南アジア諸国や日本などが主に仏教を信仰している国家となっている。

シモン・ペテロ Edit

ゾロアスター Edit

孔子 Edit

洗礼者ヨハネ Edit

老子 Edit

エイレナイオス Edit

シャンカラ Edit

ソンツェン・ガンポ Edit

太安万侶 Edit

奈良時代の貴族。稗田阿礼の口授から我が国最古の歴史書である「古事記」を編纂した。

達磨 Edit

アッシジのフランチェスコ Edit

トマス・アクィナス Edit

トマス・アクィナスは13世紀中頃に活躍した神学者、哲学者。のちの教会哲学の土台を構築した。彼の思想は高い評価を受け、トリエント公会議では聖書と並び彼の「神学大全」が祭壇に置かれた

ハジ・フード Edit

マドバ・アチャリヤ Edit

マルティン・ルター Edit

 16世紀に活躍したドイツ(神聖ローマ帝国)の神学者。当時のヨーロッパは贖宥状(免罪符)の販売やそれに係る教皇の世俗化などのローマ・カトリックの堕落。人文主義の隆盛による宗教の絶対性が薄れてきた事などの理由でカトリックの首位性に対して多くの疑問や批判が投げかけられていた。ルター以前にもエラスムスやウィクリフ、フス、サヴォナローラなどの手で教会に対する挑戦は多くあった。
 そして1517年10月31日。ルターは九十五か条の論題を張り出しカトリックの腐敗を断罪。これまでの宗教改革と比べルターは取り分け取り上げられているが、その最大の理由は活版印刷によってルターの訳したドイツ語の聖書が素早く大衆に出回り多くの人がルター(新教)側についた事が原因といえよう。
 彼の起こした宗教改革は商工業者が多く居た北欧やドイツ、オランダなどを中心に広く受け入れられ、”プロテスタント”という新たな流派を生み出した。後に社会学者のマックスウェーバーはこれを近代資本主義の萌芽と看做しており、19・20世紀における欧州の繁栄へ繋がったと考えている。何にしてもルターの宗教改革はヨーロッパ史において最重要といって過言ではない出来事である。
 

great_scientist.png大科学者 Edit

アーリヤバタ Edit

ユークリッド Edit

Εὐκλείδης(エウクレイデス)。一般にはEuclid(ユークリッド)の名で知られる紀元前の数学者。
著書『Στοιχεία(ストイケイア、一般に「ユークリッド原論」)』がある。
彼の業績はなんと言っても幾何学に関するもので、現在で言う「ユークリッド幾何学」をストイケイアの中で体系化したこと。
19世紀にニコライ・ロバチェフスキー、ボーヤイ・ヤーノシュとベルンハルト・リーマンにより
非ユークリッド幾何学が発表されるまで、長らく「唯一の幾何学」として君臨したとされる。
また、最大公約数を求める「ユークリッドの互除法」にも名を残す。

固有能力は「数学と中世の技術1つに対してひらめきを得る」であり、上記の数学の業績からつけられたものと考えられる。

ヒュパティア Edit

西暦400年頃のエジプトの女性天文学者。
一説にはアストロラーベ(天体観測儀)の発明者の一人とされ、科学史における特筆すべき女性科学者として相当古代の人物とされる。
残念なことに、先進的な科学の考え方は、神を冒涜するとして当時のキリスト教徒を激怒させるに十分であり、生きたまま骨から肉を削ぐという、おぞましい方法で殺害された。
この残虐な行動は、エフェソス公会議の原因の一つになったとされる。

その生涯は映画「アレクサンドリア」にも描かれている。

固有能力は「タイル上のキャンパスに図書館を建設する。図書館の科学力+1」である。
教育に尽力した彼女の生涯をよく表した固有能力と言えるだろう。

アブー・アル=カースィム・アッ=ザフラウィー Edit

 10世紀に活躍した医学者。後ウマイヤ朝治世下にあったスペイン・コルドバにおいて活動していた。
 彼は傷を焼灼(病組織を焼き殺す方法)による治療を得意とする優秀な外科医で、医術器具の発明家でもある。尿道や耳を検査する器具。喉につまった異物を取り出す器具などを発明し、多くの命を救った。しかし彼の最大の業績は『解剖の書』と訳される全30巻にもわたる大きな医学辞典の編纂にあるといって過言ではない。この辞典は当時知られている限りの医学の知識を全て結集された物でルネサンスに至るまで翻訳されてキリスト教圏にも持ち込まれ、医学者たちのバイブルとなった。
 彼の能力は『中世またはルネサンスの技術1つに対してひらめきを得る。ユニットの回復量+5。パッシブ能力:周囲1タイル以内のユニットの回復量+20』。これは彼の医学者としての功績をゲームに回復能力として反映させたものと推測できる。
 

ビンゲン・ヒルデガルド Edit

 12世紀に活躍したドイツの女修道院長。ビンゲンとは彼女の建てた修道院の地名に由来する。
 しかし修道士と侮るなかれ、彼女の活躍した分野は多岐にわたり作曲から薬草学までなんでもこなし、中世最大の賢女と称賛されることもある。
 古代ギリシャ以来の女性作曲家であり、彼女の作曲した歌は現代でCD化されるほどの人気を博している。どちらかといえば大音楽家ではないかと言えなくもないが今作では大科学者として名を連ねている。なぜならば彼女はドイツ薬草学の祖であり、医学の大家でもあったからだ。
 彼女はぶどうの樹液で白内障を治したり、ハーブを用いて体質改善を試みたりと医者らしい事もしている一方、規則正しい食事と生活が健康の秘訣であるという現代にも通じる方法を見出している。中世においてここまで見通していたというのは慧眼という他ないだろう。
 そんな彼女の能力は『信仰力+100、その聖地は信仰力隣接ボーナスと同値の科学力を得る』というもの。これは彼女が修道士であることと上記の功績を反映したものといえるだろう。
 

ウマル・ハイヤーム Edit

エミリー・ドゥ・シャトレ Edit

ガリレオ・ガリレイ Edit

アイザック・ニュートン Edit

イギリスの物理学者。「りんごが落ちてきたことで万有引力をひらめいた」というエピソードは誰もが知るものであろう。
特にニュートンが整理した力学についての内容は現在「ニュートン力学」として広く知られている。
他に、ニュートンが考えついた微分積分法や光学の概念は、ニュートンの三大発明とさえ言われているほどで、数学やその他の分野でも活躍した。
ニュートンはケンブリッジ大学のルーカス教授職に就いたことがあり、
これが「タイル上のキャンパスに図書館と大学を建設する。大学の科学力+2」の元ネタであるものと思われる。

チャールズ・ダーウィン Edit

ドミトリ・メンデレーエフ Edit

 19世紀に活躍したロシアの科学者。周期表を初めて作成した人物として伝わる。彼はこれまでに発見された元素を原子量などの法則に基づいて周期表という形で作成。これ以前にもフランスのラヴォアジエなどの手で元素をまとめた表はあったものの表記の仕方はバラバラで統一的ではなかった。メンデレーエフが周期表を作った当時は63個の元素しか発見されてなかったが彼は他の元素の存在も予言している。因みに現在発見されている元素は118種で、メンデレーエフに由来する「メンデレビウム」という元素もある。
 彼の能力は『化学と産業時代の技術1つに対してひらめきを得る』。化学に対するひらめきは上記の功績を反映したものと考えられる。

ジェームズ・ヤング Edit

アラン・チューリング Edit

第二次世界大戦のあたりで活躍した数学者。
ドイツ軍のエニグマ暗号を解読するコンピュータ「Bombe」を開発。
特に「決定問題」と呼ばれる概念に関する業績が多大で、計算機科学における必須の概念「チューリングマシン」「チューリング完全」等に名を残す。
しかしながら暗号解読という軍事上重要な機密情報を扱っていたため、家族ですら業績をろくに知らず、後に同性愛が発覚し逮捕され評価がどん底に(当時のイギリスは同性愛は重大な犯罪であった)、そしてその後服毒自殺を遂げる。
死後明らかになった彼の多大なる計算機科学の業績は、後に「計算機科学のノーベル賞」とさえ言われる「チューリング賞」として名が刻まれることになった。

固有能力は「コンピューターと近代の技術1つに対してひらめきを得る」。言わずもがな上記の計算機科学の業績によるものであろう。

アルバート・アインシュタイン Edit

アルフレッド・ノーベル Edit

エルヴィン・シュレーディンガー Edit

メアリ・リーキー Edit

アブドゥス・サラム Edit

カール・セーガン Edit

ステファニー・クオレク Edit

アメリカ・デュポン社で合成繊維「ケブラー」を開発した女性化学者。
ケブラーは同じ重量の鋼鉄の5倍近くの強度を有するとされ、船舶・飛行機等や防弾チョッキ、宇宙探査機などにも使用されている。
なおクオレク氏はCIV6の発売の約28ヶ月前、2014年6月18日に90歳で亡くなった。獲得できる偉人の中では、最近亡くなった者の一人である(他はチャールズ・コレア氏が2015年6月16日没)。

固有能力の「宇宙開発競争プロジェクトの生産力+100%」は以下の理由によるものと思われる。

great_writer.png大著述家 Edit

※太字は傑作に使われた作品を指す

オウィディウス Edit

バーサ Edit

ホメロス Edit

 世界最古の詩人であり、ギリシャ神話を叙事詩として大成させた人物である。ギリシャ神話そのものはホメロス以前から語られてきたものだがホメロスはそれを自らの才能で大衆に分かりやすく解釈して作り上げた。我が国でいうなら漫画を現在の形にまで昇華させた手塚治虫のような立ち位置であろうか。ホメロスの叙事詩は現在に至るまで残り続け西洋の文化史に色濃く残った。
 著作は『イリアス』『オデュッセイア』『蛙鼠合戦』などが伝わる。
 

屈原 Edit

 屈原(くつ げん)。春秋戦国時代の一国、楚において政治家と詩人をしていた人物。当時、戦国の七雄と呼ばれた諸国の中で旭日の勢いであったのは秦であった。その為楚は秦と如何に付き合っていくかという事が大きな命題となっていた。案は二つあり秦と結んで安寧を保つ連衡策。その反対で秦以外の六国と組んで連合してあたろうというのが合従策である。屈原は合従策を当時の楚王・懐王に進言したが秦の影響力が強まっていた中では最早その主張は通らなかった。結果屈原は左遷され、楚の首都が陥落した際に嘆きながら入水自殺した。この入水自殺の直後、領民たちが亡骸を魚に喰らわれるのを憂いて笹の葉に飯をいれて川に投げ込んだ。これが粽(ちまき)の由来と言われている。
 不遇の一生を送った彼だがそれでも祖国を愛し続け様々な詩を残した。これをまとめたものが『楚辞』である。古代中国における傑作と謳われ現代に至るまで愛好されている。
 著作は『楚辞』のみが伝わっている。もう一つ傑作に選ばれている『哀郢』は楚辞の中の一節で楚の都・郢(えい)が秦によって陥落していくのを嘆いた詩である。

ジェフリー・チョーサー Edit

紫式部 Edit

 言わずと知れた日本を代表する平安時代の女流作家。式部は父親の官職(式部省の官職、式部大丞から)より、紫は源氏物語に登場する光源氏の妻・紫の上から取られたとされており本名は現在に至るまで不明。当時の女性はこのように親の官職や住処などから呼称されることが多くあり名前は残っていないことのほうが多い。
 著作は今作の傑作にも使われている『源氏物語』、『紫式部日記』が知られている。

李白 Edit

中国、唐の時代の詩人。当時最高の詩人として名声を確立し、その変幻自在の作風から「詩仙」と謳われた。また、酒をこよなく愛したことでも知られ、彼の代表作「月下独酌」のような酒に関連する作品が多い。特に七言絶句に優れていた。

ウィリアム・シェイクスピア Edit

 英国・エリザベス一世の治世の頃に活躍した空前の劇作家・詩人。『マクベス』『リア王』『ハムレット』『オセロ』の四大悲劇を始めとし、『ロミオとジュリエット』、『ジュリアス・シーザー』、『ヴェニスの商人』、『リチャード三世』、『テンペスト』などなど数え切れないほどの作品を遺している。52年の生涯にしてはあまりにも多すぎ、かつクオリティも十分すぎるほど伴ったものだったためにゴーストライター説も出てきている程だが真偽は不明である。因みに死没した年は1616年とかの徳川家康と同じ年である。
 著作は『ハムレット』『ロミオとジュリエット』が選ばれている。四大悲劇から一つ。その他作品から特に有名なものを選定したと思われる。

オーノワ夫人マリー・カトリーヌ Edit

ニッコロ・マキャヴェッリ Edit

 16世紀に活躍したフィレンツェの政治思想家。彼の著した『君主論』は政治理論の基本書として広く人口に膾炙している。当時のイタリアはローマ帝国の滅亡後から長く分裂状態にあり、マキャベリはイタリアを統一する方法論を示した。彼は非道な権謀術数なくしてイタリア統一は成し得ないとし、この好例として同国のチェーザレ・ボルジアをあげた。実際にマキャベリの時代から300年ほど後のイタリア統一運動(リソルジメント)の際に、青年たちはマキャベリの思想に傾倒していたという。
 彼の著作は『君主論』『リウィウス論』『フィレンツェ史』などがあげられる。リウィウス論はローマ史論や政略論とも言われている。これだけ別名がバラバラなのは原題が「ティトゥス・リウィウスの初篇十章にもとづく論考」という長ったらしいものだったためである。これは古代ローマの歴史家であるリウィウスの著した『ローマ建国史』の中から15世紀に発見されたものに対して議論・解釈したものである。

マーガレット・キャベンディッシュ Edit

 17世紀に活躍した女性作家。彼女が生きた17世紀の英国は革命の真っ只中にあった。この頃のヨーロッパは前世紀の宗教改革を発端とする混乱や戦争、寒冷化による不作などの影響で”17世紀の危機”と呼ばれる危難の時代に直面していた。そしてそれは英国も例外ではなく三十年戦争の参加で財政難に陥ったことを引き金に絶対王政から現在の立憲君主制への変貌を遂げようとし、革命の嵐が吹き荒れていた。
 マーガレットにもその嵐の影響は及んでいた。夫はステュアート朝(当時の英国の王朝)を支持する典型的な王党派だったために財産を没収され経済的に貧窮した。その為彼女には子どもが生まれず代わりに本を書いた。彼女は自著を『紙の肉体』と称してまるで我が子のように大事にしていたという。書いた分野は男女、哲学、権力など多岐に渡ったが総じて言えば現代で言うところの社会派作家といったところである。彼女は英国で出版目的で本を書いた初めての人物とされ、英国の学士院で議論を交わすほどの教養に溢れた女性でもあった。
 著作は『燃える世界』『実験哲学に基づく観察』などがあげられる。

ミゲル・デ・セルバンテス Edit

スペインの軍人兼作家。1547年生まれ。幼い頃から道に落ちている紙切れすら拾って読むほどの読書好きであり、青年期には人文学者のロペス・デ・オヨスに師事して創作などを行っていた。
その後、海軍に入軍したがレパントの海戦で左腕を負傷し、動かせなくなってしまう。更に追い打ちをかけるように、帰国の際にバルバリア海賊に捕まり5年もの間捕虜として生活を送っていた。唯一の救いは彼が4度も脱走を企ててそれが全て失敗したにも関わらず、彼が殺されなかったということだろう。
その後も処女作の不発、失職、再就職後のミスによる投獄など、苦しい日々が続くものの、1605年に『ドン・キホーテ』を発表し、これが大ヒット。版権を安く売り飛ばしたため生活はあまり楽にはならなかったものの、以降は1616年に没するまで度々ヒット作を生み出した。
彼の傑作は出世作の『ドン・キホーテ』と、その後に出されてヒットした『模範小説集』である。

アレキサンドル・プーシキン Edit

エドガー・アラン・ポー Edit

「モルグ街の殺人」で、推理小説というジャンルを世界で初めて確立した作家。「少年探偵団」シリーズで知られる江戸川乱歩が、彼の名前からとってペンネームを決めたのはあまりにも有名な話。多くの小説はゴシックホラーを主体としており、「アッシャー家の崩壊」や「黒猫」などでも有名。その一方で、「大鴉」のような詩篇も発表し、文壇から多くの評価を得ていた。

傑作として採用された「告げ口心臓」は彼の得意としていた短編ホラー小説。「大鴉」は先も紹介した通り、ポーによる詩篇である。

ジェーン・オースティン Edit

メアリー・シェリー Edit

メアリー・シェリー(1756-1851)は、イギリスの女性作家。

政治思想家ウィリアム・ゴドウィンの娘としてロンドンに生まれる。
16歳の頃、自宅に出入りしていた詩人パーシー・シェリー(妻子持ち)と恋に落ち、激怒する父親から逃れて大陸へ駆け落ちする。

ちょうどその頃、(こちらも色々とやらかしていた)高名なロマン派詩人のバイロンもまた、妻との諍いから逃れてスイスを訪れていた。
(ちなみに、このバイロンと妻の間に生まれた娘が、大技術者エイダ・ラブレスである)
バイロンと知り合ったシェリー夫妻は1816年、スイスのレマン湖畔にバイロンが借りていた別荘、ディオダディ館でその年の夏を過ごす。

その夏は雨が多く、外に出られず退屈していた一行はある夜、バイロンの提案により、1人1つずつ怪奇譚を書くこととなった。(世にいう「ディオダディ館の夜」)
メアリーはその夜の怪奇談義で得た構想を温め、その後1年かけて長編小説を書きあげた。
その作品こそ、今や誰もが知る怪奇SF小説の傑作,『フランケンシュタイン』である。

1826年には、もう一つの傑作『最後の人間』も出版している。こちらは未来の地球を舞台にした、今でいうポストアポカリプス小説のような内容の長編。

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ Edit

F・スコット・フィッツジェラルド Edit

エミリー・ディキンソン Edit

ジェイムス・ジョイス Edit

マーク・トウェイン Edit

レフ・トルストイ Edit

H・G・ウェルズ Edit

ラビンドラナート・タゴール Edit

カレル・チャペック Edit

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アンドレイ・ルブリョフ Edit

ドナテッロ Edit

ヒエロニムス・ボス Edit

 1400年代の後半、いわゆる「北方ルネサンス」時代のネーデルラントで活躍した画家。(レオナルド・ダ・ヴィンチとほぼ同世代である)
 人となりについてはほとんど記録が残っておらず、1450年頃に現在のオランダ南部の商業都市、ス・ヘルトーヘンボスに生まれたこと、良家の女性と結婚し、地元の名士として活動していたらしいことなどが伝わるのみである。
 だが、その生涯以上に謎に包まれているのは、「悪魔を描かせれば右に出る者はいない」と称された彼が遺した、あまりにも摩訶不思議な宗教画の数々だろう。中期の作とされる《最後の審判》では、地獄に堕ちた罪人が「卵を準備した女の悪魔にハムのようにスライスされ、フライパンで焼かれる」などやたらと斬新な方法で責め苦を受ける様が描かれ、最も有名な《快楽の園》には「UFOのような半透明の乗り物の中で愛し合う裸の男女」や「耳の形をした戦車に押しつぶされる地獄の亡者たち」などが登場する。何を言っているのかわからないと思うが、本当に言葉では説明しきれないのでぜひ自分の目で確かめてみてほしい。
 意味不明すぎるモチーフの数々は「400年後のシュルレアリスムを先取りした」とも言われ、彼の作品には古来さまざまな解釈が加えられてきたが、欲にまみれた王や教皇が、干草と一緒に荷車で地獄へ運ばれている様を描いた《干草の車》など、俗世間を鋭く風刺した作品も多く遺していることから、先述の不可解な宗教画も、宗教的なメッセージを難解な暗喩や象徴によって表現したものだというのが現在有力な説である。

 ちなみに、スペイン文明の指導者フェリペ2世はボスの熱烈なファンだったことが知られており、そのため彼の主要作品の多くは現在マドリードのプラド美術館で見ることができる。

ミケランジェロ Edit

エル・グレコ Edit

 1500年代後半から1600年代初めにかけて活躍した、ルネサンス後期の画家。
 エル・グレコ、本名ドメニコス・テオトコプロスは、当時ヴェネツィア共和国の支配下にあったクレタ島に生まれ、東方正教会の伝統を受け継ぐイコンの画家として訓練を受け始めたとされている。「エル・グレコ」とは、「ギリシャ人」を意味するあだ名。
 20代でヴェネツィアに渡り、巨匠ティツィアーノの工房に入って当時最先端のイタリア絵画の様式を学ぶ。傑作《マギの礼拝》はこの頃の作品で、数年後にはローマに移ってパトロンを得るが、6年後、おそらくは画家としてさらに大きな仕事を得るためにスペインへと渡る。聖堂の祭壇画であった《聖母被昇天》など大型の作品を手掛けるうち、念願叶って当時のスペイン王フェリペ2世から、建造中のエル・エスコリアル修道院付属聖堂の祭壇画を受注される。これに応えるべく、大作《聖マウリティウスの殉教》を完成させるが、フェリペからは「よく描けてはいるが祈る気がそがれる」と評され、お抱えの画家となることはできなかった。
 この頃からエル・グレコの作品は、当時イタリアで流行していたマニエリスムの様式をさらに強調したような、ねじ曲がった人体の形態や極端に高い等身、激しい色のコントラストなど、現実離れした奇抜な画風が目立ち始める(乱視だったという説もある)。画家としては名声を得て経済的にも成功するものの、独特すぎる作風のためか、依頼主の教会から描き直しを要求される、支払いを巡って裁判沙汰になるなどトラブルが続発した。後期の傑作《トレド風景》に描かれている町の姿も、建物の配置を実際の景色とは大きく変えるなど、画家の主観によって捉えられた観念的な風景となっている。晩年には、裁判費用などで経済的に困窮し、彼が後半生のほとんどを過ごした古都トレドにて没した。
 死後、その作品は永らく忘れ去られていたが、19世紀末、それまでの伝統的な芸術を否定し新しい表現を模索する運動の中で、時代を先取りした前衛的な画家として再評価され、多くの芸術家に影響を与えた。のちに20世紀の芸術を牽引することとなる、若き日のピカソもその一人である。

作品の多くはスペインのプラド美術館など欧米に所蔵されているが、岡山県倉敷市の大原美術館でも、彼の作品である《受胎告知》を見ることができる。

ティツィアーノ Edit

 ティツィアーノ・ヴェチェッリオは、16世紀のヴェネツィア派を代表する画家であり、西洋美術史全体を通しても最も重要な巨匠の一人。
 イタリア・ルネサンスの中心地といえばまず名前が挙がるのは、フィレンツェやローマといったいわゆる「芸術の都」だが、北イタリアの商業都市国家ヴェネツィアもまた、優れた芸術家を多数輩出した芸術の中心地だった。東はギリシャやアラブ地域、西はジブラルタル海峡を越えてイングランドやフランドル地方と交易を行っていたヴェネツィアの港には、世界各地の文化や芸術が流入し、それらを吸収した当地の芸術家たちは、他のイタリア諸都市とは異なる独自の発展を遂げた「ヴェネツィア派」を形成した。そして、16世紀に巨匠ティツィアーノが登場したことにより、ヴェネツィア派は最盛期を迎え、その名をヨーロッパ全土に轟かせることとなる。
 
 おそらく1490年頃に生まれたティツィアーノは、10代でヴェネツィア派の巨匠ベッリーニの工房に入り、年上の若手画家ジョルジョーネなど、のちに名声を博す画家たちと切磋琢磨しあいながら、若くしてその才能を開花させていく。
 ティツィアーノの作品といえば、《ウルビーノのヴィーナス》などの美しい女性を描いた肖像画がまず思い起こされるが、若年期に描いた《ヨハネの首を捧げるサロメ》もその一つである。容貌の美しさもさることながら、特筆すべきはサロメの豊かな金髪の表現であり、これは当時のヴェネツィアにおいて、女性たちが髪を人工的に脱色して作り出した「ヴェネツィアの金髪」と呼ばれる最新の流行ファッションを反映している。
 1516-17年には、画家の生涯を代表する傑作《聖母被昇天》を制作し、名声を確固たるものにする。この頃には先輩画家たちが世を去っていたこともあり、ヴェネツィアに並ぶもののない巨匠の地位についたティツィアーノは、同じく画家となった息子や従兄弟など親族を中心とした大規模な工房を経営し、イタリア全土のみならずヨーロッパ各国の王侯貴族から次々に寄せられる注文に応えていった。
 中でもティツィアーノの熱心なパトロンとなったのが、当時の神聖ローマ皇帝カール5世である。1548年に制作された《カール5世騎馬像》は、伝統的な主題である騎馬像の様式にのっとって、カール5世に神話の登場人物のような威厳を持たせながら、同時に一人の人間としての個性を余すことなく表現することにより、肖像画の新境地を開拓した。
 
 妻に先立たれるという不幸を経験しながらも、ティツィアーノは80歳を超える高齢となっても巨匠として精力的に仕事を続けた。皇帝カール5世からは騎士の称号を贈られ、その息子フェリペ2世(またかよ)も熱心に画家を支援した。画家として最高の富と名声を手にした彼だったが、1576年、流行していたペストに感染し、隔離された自宅にて孤独な最期を迎えた。死後、その遺体は代表作《聖母被昇天》が収められたフラーリ聖堂に埋葬された。
 
 残念ながらCiv6に収録された傑作はいずれも日本で常設展示されていないものの、その中の一点と同じ主題を扱った作品《洗礼者聖ヨハネの首を持つサロメ》を、東京上野の国立西洋美術館で見ることができる。

レンブラント・ファン・レイン Edit

仇英 Edit

アンゲリカ・カウフマン Edit

ソフォニスバ・アングイッソラ Edit

葛飾北斎 Edit

 江戸後期に活躍した希代の浮世絵師にして、日本文明を代表する大芸術家の1人。
凱風快晴》、《信濃諏訪湖》、そして《神奈川沖浪裏》をはじめとする《冨嶽三十六景》の連作は、今や日本という国を象徴するアイコンであると言っても過言ではない。

 葛飾北斎、本名川村鉄蔵は、宝暦10年(1760年)、現在の東京都墨田区に生まれた。幼少期から本の挿絵などに親しみ、やがて浮世絵師勝川春章に弟子入りした鉄蔵は、20歳頃に絵師としてデビュー。以後、様々な絵画技法を貪欲に吸収し続けた。
 北斎を語る上で特筆すべきは、生涯を通じて衰えなかった、その旺盛な創作意欲だろう。手掛けた作品は浮世絵版画に始まり、伝統的な屏風絵、読本の挿絵、春画、西洋の遠近法を取り入れた作品(当時「浮絵」と呼ばれた)まであらゆるジャンルにわたる。何より、代表作《冨嶽三十六景》を手がけ始めたのが72歳頃からだったという事実は、当時の平均寿命が50歳前後だったことを考えると驚異的というほかない。
 絵を描くことにしか頓着しない変人偏屈として生前から有名であり、生涯に93回引っ越しをしたなど、奇行を伝えるエピソードには事欠かない。(Wikipedia参照)
 90歳で遂に死の床に就くが、最後の言葉は、「あと5年生きられるなら、本物の画工になれるだろうに」だったという。嘉永2年(1849年)、永眠。

 もし、その望み通りに彼があと5年生き永らえていたならば、4年後に浦賀に来航した4隻の黒船を目にしていたのだろうか。
 生前からシーボルトなどの手を通じて海外に紹介されていた北斎の作品だったが、日本の開国によって一挙にヨーロッパへと流入し、特にフランスで「ジャポニスム」旋風を巻き起こした。北斎の作品に芸術の新たな可能性を見出したモネやドガ、ルノワールなどの画家たちが、のちに「印象派」と呼ばれる新時代の芸術を確立していくこととなる。

 ちなみに北斎の作品は、現在でも伝統の浮世絵技法を受け継ぐ職人の手で複製が作られ続けており、お値段8000円〜20000円ほどで誰でも購入できる。
 自宅の文化力と観光力をアップしたい諸氏にはおすすめだ。

張承業 Edit

エドモニア・ルイス Edit

クロード・モネ Edit

フィンセント・ファン・ゴッホ Edit

マリー=アンヌ・コロー Edit

アムリタ・シェール=ギル Edit

グスタフ・クリムト Edit

ボリス・オルロフスキー Edit

メアリー・カサット Edit

 19世紀後半、いわゆる印象派グループの1人として活躍したアメリカ人画家であり、アメリカ出身の女性画家としては最も成功した人物、とも称される。
 
 1844年、アメリカ合衆国ペンシルベニア州の上流階級の家庭に生まれる。両親の教育方針により、10歳に満たないうちからフランスやドイツなどヨーロッパの主要都市を数年かけて旅行して回り、フランス語やドイツ語といった複数の言語を流暢に操る教養を身につけた。(「グランドツアー」と呼ばれるこのような教育方法は、当時の欧米の上流家庭では珍しくなかった)
 10代でプロの画家を志すようになった彼女は、本格的な画家修業のために芸術の中心地であるパリ、およびイタリアやスペインの古都を歴訪して研究を重ね、サロンへの入選を果たすなど、徐々に頭角を現していく。しかしその一方で、旧態依然とした当時の美術界に疑問を抱くようになり、ちょうどその頃に出会った印象派の画家、ドガと出会ったことをきっかけに、彼女独特の作風を開花させていくこととなる。
 《お茶》、《腕に身を預けるリディア》は、カサットが印象派的な作風に移った前後の作品。どちらも彼女の母親や、姉のリディア(不幸にもこの絵の制作から3年後に病で死去した)などの家族がパリで日常を過ごす姿を描いたもので、このような都会の日常生活は、このころ印象派の画家が特に好んだテーマだった。
 また、カサットの名を聞いたことがある人なら、愛らしい幼児と母親の姿を描いた作品をまず思い浮かべるだろう。《子供の入浴》もそのひとつであり、この作品については、構図や題材の面で、日本美術からの影響が見られることがよく指摘される。

 祖国を離れ、男性が支配するパリの美術界に単身で飛び込み、印象派という前衛集団の中で新しい芸術を切り開くという、常識にとらわれない挑戦を生涯続けた彼女の姿は、後に続く多くの若手芸術家たちに勇気を与えた。
 晩年は病によって視力を失ったため筆を折ったものの、パリ郊外の屋敷に隠居し、時おり彼女を慕って訪れる若者へ助言を与える日々を送ったという。1926年、祖国に帰ることなく息を引き取った。享年82歳。生涯独身だった。

great_musician.png大音楽家 Edit

アントニオ・ヴィヴァルディ Edit

ヴォルフォング・アマデウス・モーツァルト Edit

ヨハン・セバスチャン・バッハ Edit

18世紀ドイツで活躍した作曲家・音楽家。
ピアノ演奏を学ぶ者のために創られた『平均律クラヴィーア曲集』は
モーツァルト、ベートーヴェン、ショパン、リストなど後世多くの著名な作曲家が使用したとされており、
現代においてもピアノ学習者の教材として活用されている。
『G線上のアリア』はヴァイオリンのG線のみで演奏できることからその名がついた
作品は『小フーガ ト短調』『無伴奏チェロ組曲 第一番 ト長調』『トッカータとフーガ』『主よ人の望みの喜びよ』など

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン Edit

八橋検校 Edit

 江戸時代前期に活躍した盲目の音楽家。八橋検校の検校(けんぎょう)とは江戸時代における盲人の最高位の人物に与えられた称号であり、時には大名以上の所領や待遇を与えられた。検校は様々な楽器を使った楽曲に秀でたが特に名を残したのは箏(そう)の分野であり、様々な名曲を作り上げた。八橋の名から連想した人もいるかもしれないが京都銘菓の八つ橋はここから来たとされている。彼の死後に箏の形を模した菓子が売り出されそれが元になった。
 作品は『六段の調べ』『八段の調べ』『梅が枝』『菜蕗』『乱』などが伝わっている。

アントーニョ・カルロス・ゴメス Edit

ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー Edit

フランツ・リスト Edit

フレデリック・ショパン Edit

劉天華 Edit

アントニン・ドヴォルザーク Edit

クララ・シューマン Edit

フベンティーノ・ローサス Edit

リリウオカラニ Edit

ガウハー・ジャーン Edit

ミコラ・レオントヴィチ Edit

コメント Edit

最新の10件を表示しています。 コメントページを参照

  • 李舜臣の項目を更新しました。 -- 2016-12-10 (土) 00:27:51
  • エイダ・ラブレスの項目を更新しました -- 2016-12-26 (月) 12:55:35
  • ジョセフ・パクストンの項目を更新しました -- 2016-12-26 (月) 13:13:49
  • 李舜臣の項目を少し更新しました -- 2018-08-11 (土) 03:46:43
  • ヒエロニムス・ボスの項目を更新しました -- 2019-10-23 (水) 13:45:10
  • エル・グレコの項目を更新しました -- 2019-10-23 (水) 16:25:04
  • ティツィアーノの項目を更新しました -- 2019-11-29 (金) 17:06:52
  • メアリー・カサットの項目を更新しました -- 2020-01-31 (金) 18:40:37
  • 葛飾北斎、メアリー・シェリーの項目を更新しました。 -- 2020-04-16 (木) 11:06:44
  • 実はゲーム内の東郷平八郎の説明は間違っている
    英国の「海軍大学」とあるが東郷は明治政府公式の留学生からは漏れ本来はここでキャリアが絶たれていた、その後西郷の助力で英国行きの船には乗れたが25才という高齢かつ眼病の治療ため同期の通う海軍大学には入れず退役大佐の運営する「商船学校」に通った
    ちなみに商船学校の年齢制限が18であったが体格が小柄だったため10才サバ読んで15才として入学した
    同期に遅れて卒業したが明治政府が英国から購入した戦艦の造艦監督と戦艦の日本への輸送任務で帰国した -- 2020-04-21 (火) 05:12:50
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