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歴史的背景

文明 Edit

アステカ Edit

 エルナン・コルテスがろくでなしを引き連れて海岸に上陸した頃、アステカ帝国はまだ未成熟な状態にあった。誕生したのは西暦1428年頃のことである。アステカ三国同盟 (アステカ帝国) はわずか100年しか存続しなかったものの、その100年には数多くの出来事があった。

先史時代 Edit

昔々、メキシコ盆地には、相互に繋がったスムパンゴ湖、シャルトカン湖、テスココ湖、ショチミルコ湖、チャルコ湖の岸辺に小さなアルテペトル (都市国家) がいくつも散在していた。この地域は降水量が多く、気候も温暖で、土壌は肥沃だった。ナワ族 (別名メシカ族) の民は、1250年頃アストラン (「白い地」の意味で「アステカ」の語源) から南方へ移住し、ここに腰を落ち着けようとした。

建国 Edit

残念ながら、その地にはいくつかの部族がすでに定住していた。アスカポツァルコやクルアカンがその筆頭である。1325年、強大なアスカポツァルコは放浪するアステカの民にテスココ湖の小島へ住まう許しを与えた。そこに建設された都市がテノチティトランだった。伝説によれば、この場所が選ばれたのは、ある聖職者がメキシコハサボテンに巣を作るワシ――つまり、そこが選ばれた場所だという兆し――を見たからだという。それでもテノチティトランは都市の発展に最適な条件を備えていた――守るに易く (島の上であるため)、水も漁場も豊富で、建築資材も付近にあった。アステカ人はアスカポツァルコに貢物を捧げるだけで干渉を受けずに済む現状に満足していた… 少なくとも当面のところは。

属国時代 Edit

アステカ人は約1世紀、アスカポツァルコの属国でありつづけた。一方で、近隣には不穏な動きを見せるアルテペトルがあった。湖水盆地の南端に位置するテスココの都市国家アルコワは貿易で栄え、支配権を巡ってアスカポツァルコに挑んできた。この戦争でテノチティトランはアスカポツァルコへの忠誠を貫き、テスココ征服に際して重要な役割を果たした。結果、アステカはその忠誠に対する褒美に、打ち破った都市を属国として与えられた。
1426年にアスカポツァルコの王テソソモクが急死するまで、すべては順調だった。この後に起きた小さな内戦で、テノチティトランのアステカ人は先王が後継者として選んだタヤワを支持したが、これは最善の選択ではなかった。跡目争いに勝利した兄弟のマシュトラは、すぐさまタヤワを支持した者たちを処罰した。そんな中、アステカ王が不審な死を遂げる (マシュトラの差し金で暗殺された可能性が高い)。新王イツコアトルが反抗的な態度を貫いたため、マシュトラはテノチティトランを包囲して島を封鎖し、全面降伏を要求した。
同時にマシュトラはテスココのアルコワにも攻撃を開始した (彼はどちらの都市にも愛着を抱いていなかった)。テスココの統治者ネサワルコヨトルは国外へ逃げ延び、イツコアトルの反乱に加わった。同様にマシュトラに異議を唱えていたアスカポツァルコの都市トラコパンもイツコアトルを支援し、こうしてかの有名な三都市同盟が結成された。3つの都市国家はマシュトラの打倒を共通の目的に掲げ、1427年中に達成された。アスカポツァルコは完全に崩壊し、3人の王は「調和」の道を歩むことで同意した。最初に協力しておこなったのは征服した土地の分配であったが、どういうわけかテノチティトランは一番多くの取り分を得ることに成功した。この勝利に対する喜びが、3つの都市国家による同盟を正式なものとした。すべての貢物は分配され、また将来的に3都市すべてが参加する戦争においてもその略奪品を分配するように定められた。王たちはウェトラトアニ の称号を持ち回り制とし、連合国の「皇帝」として君臨した。

三都市同盟 Edit

つづく1世紀、三都市同盟は有能な皇帝の下で繁栄し、隣国を蹂躙して大西洋から太平洋に渡るメソアメリカ全域を支配した。実際、社会的、あるいは宗教的な必要性から、この「帝国」はほぼ恒常的に戦争状態にあった。アステカ人の世界観において、「死」は生命を不滅とするための手段だった。また、自然界の秩序において、神も人も森羅万象の均衡を保つために生け贄を捧げなければならなかった。血が――動物の血では無意味だったので人間の血が――太陽が落ちるのを防ぐと彼らは考えていたのである。もちろん国民は自分の血を流したがらなかったので、弱い立場の人間――捕虜 (これを確保するために多くの戦いが必要だった)、奴隷、従者、貧民などが捧げられた。生け贄の数は膨大だったようで、1487年に建立されたテノチティトランのテンプロ・マヨール (巨大ピラミッド) では、1万〜8万人もの人間の首がはねられたと歴史学者は推定している。
血なまぐさい儀式を別にすれば、アステカ人は南北アメリカ大陸で他に並ぶものがないほど文化と科学を発展させていた。たとえば複雑なアステカ暦はヨーロッパやアジアで考案されたものにも劣らなかった。トナルポゥアジ (「日の算定」) は260日周期で構成され、13の数字と20の記号の組み合わせで日々を表現した。シウポゥアジ (「年の算定」) は1年を20日ごとに18の期間で分割した。このように1年は名前が付けられた360の日と、名のない5日で構成されていた。この名無しの日は不吉なものと捉えられていた (特に災いを退けるために生け贄にされた者にとっては不吉だったに違いない)。このアステカ暦は星空を熱心に研究し、天文学を芸術の域にまでに発展させた結果として生み出されたものと考えられている。また、アステカはこうした知識のすべてをアマテ (木の皮から作った紙) に特徴的な表意文字で書き記した。

モンステマ1世時代 Edit

1440年にイツコアトルが死去し、その跡目をモンテスマ (1世。不出来な2世と混同しないこと) に譲った。モンテスマの兄、異母兄弟であるトラカエレルはシワコアトルの位に着いた。これはヨーロッパで言う首相とおおむね同等の役職である。両者はテノチティトランを三都市同盟の支配者的な立場に押し上げ、アステカ帝国を正式なものとした。モンテスマは征服を担当し、ワステカ、トトナコ、ミステク、コサマロアパン、オリサバ、コタクストラなどを侵略した。一方、トラカエレルはアステカの文化を自身の観点にもとづいて再構築、管理した。
モンテスマが戦争で手一杯の間、トラカエレルは数百もの書物を「史実にもとづいていない」として焼き払うよう命じ、文字どおりアステカの過去と未来を書き直したとする史料もある。トラカエレルによってアステカの宗教は作り変えられ、アステカ人は選ばれた民族であり、あらゆる人々の上に立つべき存在とされた。また、トラカエレルは軍国主義と、「新たな」アステカの神学における生け贄の儀式の重要性を強調した。そして彼は多数の神殿と宗教建造物の建設を監督したが、その中にはテノチティトランのテンプロ・マヨールも含まれ、ここに新たな最高神ウィツィロポチトリを (多数の生け贄と共に) 奉った。
アステカはモンテスマとトラカエレルのもと、数十年に渡って繁栄した。モンテスマの帝国の領土は25万平方キロメートル以上に及び、500万の国民を支配下に置いた。トラカエレルは従属した部族の多くを、彼らが貢物 (当然生け贄を含む) を捧げ、必要に応じて兵士を拠出する限りは好きなようにやらせた。テノチティトランは巨大な貿易網の中心地となり、アステカの商人は同盟国か敵国かを問わず商売をした。通貨が存在していなかったため、取引は物々交換が基本だった。役畜や車両が存在せず、さまざまな物を人間が運ばなければならなかったため、トラカエレルは徒歩の移動に適した巨大な道路網を設計し、その建設を監督した。この道は日常的に使用され、アステカの軍隊が守っていたため、女性が一人旅をできるほど安全だった。トラカエレルはまた、政府が出資してテルポチカリ (学校) をあらゆる地域に建設し、男子が宗教教育と軍事訓練を受けられるようにした。
モンテスマ1世が西暦1468年に没すると、息子のアシャヤカトルが後を継いだ。この人物は13年を費やして父が征服した土地を統合し、各地の反乱を鎮圧して高慢なタラスカン帝国からの攻撃を跳ね除けた (ちなみにトラカエレルは1487年に没している。多くの者が安堵したことは間違いない)。アシャヤカトルが没すると、弟のティソクが皇帝の座を受け継いだが、このティソクは途方も無い無能でわずか5年後に貴族によって暗殺されてしまう。1486年にもう1人の兄弟アウィツォトルがその後を継いただが、さいわいにも彼はティソクより有能だった。アウィツォトルは都市国家オトマを征服すると、その住民を消し去り (殺害したか、まとめて生け贄にしたのだろう)、紛争中の国境地帯に沿って一連の要塞を建設しはじめた。アウィツォトルは (複雑なアステカ暦で言うところの) 10年目の兎の時に没し、甥のモンテスマ2世が玉座に就いた。

スペイン支配時代 Edit

新たなモンテスマの支配は不吉を孕んではじまり… 凋落した。彼はアウィツォトルの相談役から有能な者を排除し、しかもその大半を処刑した。さらに、クァウピリ階級――貴族に準じる地位――を廃止し、庶民が出世する道を閉ざした。下層民はこれによって戦争やその他の仕事で帝国に奉仕する動機を失うことになった。有力な貴族の怒りを買い、庶民を疎外したモンテスマ2世の権力基盤は当然ながら弱体化し、1519年2月にアステカにやって来た強欲なスペイン人に対処することはとうてい無理な状態だった。
その年の初め、エルナン・コルテス率いる探検隊――11隻の船、630人の乗員、13頭の馬と数門の小型大砲を備えていた――がマヤ帝国の領土であるユカタン半島に上陸した。実際には、コルテスの派遣許可は港を出る前にキューバのスペイン知事によって取り消されていたが、コルテスはこの命令を公然と無視して出港した (幸運は「愚かな者を好む」のだろう)。幾つかの冒険の後、コンキスタドールたちは航海の果てに辿り着いたベラクルスの小さな集落を占領し、そこでアステカ帝国に従う2人の統治者に出会った。この2人は、コルテスがモンテスマ2世に謁見する場を設けることに同意した。
モンテスマ2世は頑としてスペインの「使者」を受け入れることを拒否したので、コルテスは招かれないままテノチティトランへ出発した。歓迎されない客の常として、スペイン人は行く先々で混乱を巻き起こした。首都への行進に現地の戦士――冒険や略奪、報復の機会を求める者たち――を多数加え、コルテスは大都市チョルラへ到着した。そこでコルテスは、巨大なピラミッド (体積としては世界最大) 前の広場に集まっていた丸腰のアステカ貴族を数千人も虐殺し、あまつさえ都市に火を放った。この流血は、虐げられていたアステカ人の臣民たちに強い感銘を与え、探検隊に加わる者はさらに数を増した。コルテスがテノチティトランに到着した頃、支持者は膨大な数に膨れ上がっていた。
やむなくモンテスマ2世は話し合いのためにスペイン人を平和に迎え入れたが、コルテスは彼を人質として捕らえてしまう。その後に起きた出来事を要約すると、アステカの民は石を投げてモンテスマ2世を殺し、スペイン人も首都から追い出した。コルテスは援軍を連れて戻り、テノチティトランを包囲する。銃や大砲、そして最もアステカ人にとって印象的だった馬を備えたスペイン人により、首都はまたたくまに陥落、壊滅してしまう… そして1521年8月、アステカ人最後の王クウウテモクが捕らえられ、処刑された。
残忍なアステカの王は去り、帝国はスペインの宗主権の下、再び都市国家として細かく分割された。

アメリカ Edit

 文明という観点から見て、対立し合う植民地の集合体から、世界でも有数の超大国へ至るまでのアメリカの発展は急速だった。度重なる移民の流入により、現在のアメリカは世界第4位の国土と第3位の人口を得ている。その国境は北アメリカ大陸の大西洋から太平洋にまたがり、人類が築いた最高の都市を複数抱えている。GDP (国内総生産)、サービス業、メディア産業、軍事的GFP (核兵器を含まない火力) は世界最大であり、アメリカは世界最初の超々大国と言えるだろう。

建国・独立戦争 Edit

アメリカ合衆国の起源は、北米大陸の東海岸に沿って作られた13のイギリス植民地に求められる。主な入植者は、土地を持たない郷紳階級の次男坊、一攫千金を狙う冒険家、囚人、債務者、熱狂的な宗教信者、政治的過激派、よりよい生活を求める人々であった。その他にもアフリカ人の奴隷やヨーロッパ人の年季奉公人などが移住してきたが、彼らには選択の余地がなかった。いわば不運によってこの地の土を踏むことになったのだ。それぞれの境遇はともあれ、この無法無秩序な人々こそが「人種のるつぼ」の土台を築いたのである。
これらの新参者は圧倒的な火力と技術力をすぐさま先住民族に対して用い、2世紀に及ぶ紛争と残虐行為の幕を切って落とすことになる。1776年までにミシシッピ川から東の先住民は全滅するか、土地を追われるか、服従を強いられた。そして西部辺境地域の発展と、1763年のフレンチ・インディアン戦争におけるイギリスの勝利への貢献により、「アメリカ人」は自立と独立という不穏な意識を急速に高めていく。そしてロアノーク、ジェームズタウン、プリマス、その他の荒れ果てた地域に移住してからものの数世代で、アメリカ人は君主に対して政治的な運動を行い、祖国の人々と平等の待遇を求めるという大胆な行動に出るに至ったのである。
ヴァージニアの名士やニューイングランドの有識者に先導された入植者たちは、フランスに対する勝利をイギリスとともに祝ったわずか12年後には、そのイギリスと武力衝突を開始した。もしもイギリス議会がベンジャミン・フランクリンの『大帝国の小国に衰亡する法則』(1773) という、植民地の不平不満を簡潔にまとめた風刺作品を気に留めていたら、厄介な投資先としてもっと早くにアメリカを見限っていたかもしれない。よくある内輪もめのように、原因の大部分は金だった。植民地の住人はイギリスの経済規制や課税を不平等と感じていたが、イギリス人 (と一部の頑固な王党派) の目にアメリカ人は、植民地を守るために拠出されていた金額を知らない厚顔無恥な連中と映っていた。
1770年代後半、アメリカの植民地は明らかな反逆状態にあった。そして1776年7月4日、激しい議論と葛藤の末に代表者たちが独立を宣言し、独立戦争の火蓋が切って落とされた。1775年4月から1781年10月まで戦闘は荒れに荒れた。その有様は内戦も同然であり、南部ではゲリラ戦が、北部では一進一退の攻防が繰り広げられた。大陸軍 (反乱に参加した入植者を指す) は武器の数と兵数において高度な訓練を受けた歴戦のイギリス軍に劣り、特に海は百戦錬磨のイギリス海軍に完全に掌握されていた… 少なくとも1770年代の末にフランスとスペインが参戦するまでは。
1781年の後半、大陸軍はヨークタウンでコーンウォリス将軍率いるイギリス軍を包囲した。沖合いにフランス海軍がいたことでイギリス軍の退路は断たれ、コーンウォリスはアメリカ独立の英雄、ジョージ・ワシントンに降伏した。2年後にようやく講和条約が承認され、ミシシッピ川以東の全地域 (フロリダはスペインへ返還されたために除く) が新しい共和国に移譲された。かくして新国家が正式に認められ、アメリカの商人は「自由貿易」によって世界中で貪欲に利益を追い求めることが可能になったのである。

古き良き時代 Edit

戦争に決着がついたことで、アメリカの「愛国者」は連邦制共和国の樹立を急いだ。だが最初の試みとして1781年に承認された『連合および永遠の連合規約』は、素晴らしく無意味であることが実証された。政府に市民への課税権を認めず、軍隊を保持する権限も認めず、監督役を務める行政官も置くことができなかったのだから当然だろう。新たに結成されたアメリカ議会の議員たちは、すぐさまこれらの (そしてさらに多くの) 欠点を指摘し、1787年、規約改訂のため、フィラデルフィアにおいて急きょ極秘の連合会議が開かれた。まどろっこしい議論の末、出席者たちは新憲法を起草。1789年に各州が批准したことで、アメリカ政府はとりあえずの体裁を整えた。同年、ワシントンが初代大統領に選出された。1791年に権利章典が実施され、以来17の修正条項が追加、さらに6が提案されている。
「生命、自由及び幸福追求の権利」が国民に保証されると、この新国家は自身の幸福も追求しはじめた。急速な領土拡大である。1803年、遠い未開の大陸に興味を失ったナポレオン・ボナパルトがフランス領ルイジアナをアメリカに売却。史上最大規模の土地譲渡が成立する。1,125万ドルという途方もない金額で手に入れた領土の価値に気づいていなかったジェファーソン大統領は、数名の将校を新しい領土の調査に派遣。新国家の領土がほぼ倍になったことを知る。しかし、アメリカの領土拡大はこれで終わらなかった。アメリカ本土が現在の姿になったのは、1853年のことである。
この領土拡張は争いを呼び、1861年に壮絶な内戦が巻き起こった。南北戦争である。開戦から4年の間に起きた衝突は極めて激しく、アメリカ人の戦死者は60万人、負傷者は40万人に達した。この戦争の結果、奴隷は解放され、奴隷労働に支えられていた南部経済はそのあおりを受けて事実上崩壊した。この分断の痕跡は、今もアメリカの政治に残っている。
混迷を脱すると、ある者は「自明の宿命」説に駆られ、ある者はより良い生活を願い、ある者は冒険と富を追い求め、入植者、探鉱者、商人、牧師、無法者が西部へ押し寄せた。数世代もすると、「西部の荒野」に移住したこうした敬虔な人々により、アメリカの隅々まで文明らしきものが築かれた (先住民を虐殺した後にではあるが)。また、東部や湾岸地域には、「アメリカンドリーム」に魅せられた者たちがヨーロッパから雪崩れ込んできた。彼らは少なからぬ犠牲を出しながら土地を開墾し、線路を敷き、鉱石を掘り、無法状態を過去のものとしていった。

20世紀 Edit

遠くの土地で巻き起こる騒動と裏腹に、20世紀初頭のアメリカ人は楽観的で、自由主義と進歩主義に安穏とした信頼を抱いていた。政治改革、科学的発展、都市化、そして帝国主義などがその特徴である。一方、作家や作曲家は新たなアメリカ文学、アメリカ音楽の創造に取り組んでいた。こうしてアメリカの工業、文化、経済力は成長をつづけたが、軍事力は他の分野と足並みを揃えることができなかった。
こうした楽観主義と理想主義は、新世紀に入ると突然歩みを止める。第一次世界大戦への参戦、1918年から1919年にかけてのスペインかぜの世界的大流行、株式市場の暴落にともなう世界恐慌、狂乱の20年代の「道徳的退廃」とダスト・ボウルの環境災害… 古きよき時代はとうに過ぎ去っていた。禁酒法時代がはじまると (善意について良く言われている言葉が思い浮かぶだろう)、すでに問題化していた大企業と政府の癒着に、さらに「巨大犯罪」が加わった (後に「大手マスコミ」もこれに加わる)。無秩序だった犯罪は組織化され、アメリカ経済の末端を蝕むだけの存在だった「マフィア」が大口を開けて貪るようになり、デリンジャーやカポネといったギャングをマスコミは大衆小説に登場する民衆のヒーローのように扱った。
この混乱した状況からアメリカを救ったのは、「良い戦争」だった。アメリカはヨーロッパで2年前から続いている戦争については見て見ぬふりを貫いていたが、1941年12月7日、日本がアメリカを攻撃。さらに、数日のうちにナチスドイツとファシスト政権下のイタリアからも宣戦を布告され、いやおうなく第二次世界大戦へ参戦することになる。いくらかの過ちから教訓を学んだ後、1942年後半までにアメリカはすべての戦線に派兵し、戦争に勝利するために多くの資材を同盟国に提供した。この戦争は
1945年にアメリカが日本の2つの都市に原子爆弾を投下したことで終結した。
しかし、生まれたばかりの超大国はすぐに趣の異なる戦争へ巻き込まれることになる。東ヨーロッパを横断する鉄のカーテンの構築、中国の共産主義革命、そしてソ連による原爆実験の成功をきっかけとして、「自由世界」と「悪の帝国」(1983年にレーガン大統領がソビエト連邦をこう呼んだ) が正面から睨みあうことになったのだ。西側と東側は人々の「支持」を得るために競争を繰り広げた。あらゆる分野 (宇宙開発競争と科学的発展を含む) と地域で両陣営は多額の資金を投入し、より強力な兵器の開発、外国政府の転覆、軍事同盟の確立、高度な諜報活動、反体制派の鎮圧や暗殺、代理戦争への関与、電波ジャックによるプロパガンダといった行為に多大な努力を費やし、すべての国の民衆は立ち昇るキノコ雲の悪夢にうなされた。1989年、東欧諸国がソ連の支配から脱したことで、鉄のカーテンはついに取り除かれた。合理的に計算すれば、冷戦は関わったあらゆる国に莫大な損失をもたらした大失策だった。

現在 Edit

アメリカ合衆国は平和と自己満足に満ちた新時代を謳歌していたが、10年しかもたなかった。2001年9月11日、「アル・カイダ」と名乗る組織に属するテロリストたちが民間のジェット旅客機をニューヨーク市のワールドトレードセンタービルとワシントンD.C.にあるペンタゴンに激突させたのだ。このテロ事件は約3000人の命を奪い (大半は民間人)、推定で100億ドルもの損害を合衆国に与えた。今なおつづく「テロとの戦争」のはじまりである。
こうした流れの中、アメリカは建国時に掲げた自由と平等の崇高な理念のために邁進してきた。常に実践されたとは限らなかったが。第二次世界大戦以降は女性解放運動、公民権運動、レッドパワー解放運動、LGBT運動といった社会運動が起こり、アメリカの生活様式に変化をもたらした。同時に、アメリカはそのソフトパワー (ハードパワーも) を世界中に拡大させ、可能な国はメディアと文化を通して魅了し、不可能な国には革命や反乱を起こさせた。

アラビア Edit

イスラム教 Edit

 最後の大巡礼を終えた数ヶ月後――これがハッジ (メッカ巡礼) の基礎となっている――至高で栄光なる預言者ムハンマドは62歳にして病を患い、西暦632年6月にメディナで没した。スンニ派の文書によると、彼の信徒はアブー・バクル・スィッディークをアミール・アルムーミニーン (「信者の長」) として選び、ムハンマドの後継者にして最初の正統カリフとした。対してシーア派はアリ (預言者の義理の息子にして従兄) をムハンマドが自ら選んだ現世の精神的な後継者と考え、これが今日まで続く分派のはじまりとなった。
メディナの地よりアブー・バクルと3人の有能な後継者に指揮され、イスラムの戦士は預言者の言葉に従い、砂漠を踏破してその四方、ペルシア、シリア、エジプト、アナトリアと北アフリカの大部分を制圧した。650年から655年にかけて、彼らは地中海のキプロス島、クレタ島、ロードス島、そしてシチリア島の大半を領土に加え、ついにはビザンティン (東ローマ) 帝国の戸を叩いた。655年、ビザンティン皇帝コンスタンティヌス2世は、自ら艦隊を率いてアラビアの猛攻を迎え撃ったが、500隻あまりの船を失い、自身はかろうじて逃げおおせるという有り様だった。絶頂期には、この正統カリフの国は、かつてない広大な領土を支配するまでになっていた。

大帝国時代 Edit

この最初のイスラム帝国のもとでは、被征服民はムハンマドの教えに従い、おおよそが慈悲深い扱いを受けた。敗北した一神教徒 (キリスト教徒、ユダヤ教徒、ゾロアスター教徒など) は改宗するか否かの選択肢を与えられ、改宗に応じればイスラム教徒と同じ権利と庇護 (当然ながら義務も) を与えられた。非イスラム教徒も信仰を貫くことを許され、各々の聖典に則った法的権利が (コーランと矛盾していないかぎり) 許された。この寛容さが後の世紀になって、イスラム帝国に貢献することになるのである。
ムハンマドが築いたダール・アル・イスラム (「イスラムの家」) による統治は、アラーの意思でもあった。全アラビアの支配者としての義務を引き受け、2代目カリフとなったウマルは、拡大をつづける帝国を12の行政区に分け、それぞれにワリ (管理者) を置いて日々の労役や法の管理を任せた。各行政区にはサヒブ・ウル・ハラージュ (徴税官) やカーディー (裁判長) といった6人の役人も配置された。ウマルは厳格な行動規範を定め、違反者には厳しい処罰を与えた。そしてすべての役人に毎年メッカへ巡礼させ、彼らに対する訴えに応じた (訴えは誰でもあげることができた)。さらに、役人の腐敗や権力の濫用を抑えるため、役人には高い給金で報いることを法の要点とした。最終的にウマルはペルシア人の狂信者によって暗殺されてしまったが、彼の統治政策は帝国中へ広がり、何世紀も維持された。
3代目のカリフ、ウスマーンが西暦656年に暗殺された後、アリ――シーア派が支持した人物だ――が次のカリフに選ばれた。しかし、スンニ派の支持を受けたウスマーンの縁者、ムアーウィヤは、バスラを拠点とする暗殺者に対する復讐を主張。イスラムでは教徒同士の争いを認めないため、アリはこれを否定した。初のイスラム内戦――アリ派、ムアーウィヤ派、ハワーリジュ派による三つ巴――により、アリはムアーウィヤに少しずつ領土を奪われ、最終的には大部分を失った。その後アリは、すべてのイスラム指導者を殺害しようと画策したハワーリジュ派の暗躍によって661年に暗殺された。残念ながらハワーリジュ派はムアーウィヤの排除に失敗してしまったため、彼は生き延びたアリの息子の合意を得てカリフの座に着き、ウマイヤ朝を開いてハワーリジュ派の鎮圧に動いた。
ウマイヤ朝は長くつづかず、100年もたたずして滅亡した。しかしこの間、イスラムはビザンティンの勢力圏を除く、目に映るすべての地への侵攻を成し遂げた。首都ダマスカスを中心として、アブドゥルマリク (685〜705) やスライマーン (715〜717) のような有能なカリフは、コーカサス、マグレブ、インド亜大陸のシンド、サマルカンド、トランソクシアナ、ホラズムなどにイスラムの旗を立てた。そしてその過程で、文明史上5番目に巨大な帝国を築き上げたのである。
そしてイスラムは、軍事と行政の両方において不滅の業績を残した。アブドゥルマリクによるアラビア語の公用語化、通貨の統一、郵便制度の整備、メッカのカアバの修復、そして――これが一番の業績と言える――エルサレムの岩のドームの建設はその具体例である。こうした事業は彼の後継者にも引き継がれ、息子は岩のドームの向かいにアルアクサ寺院やウマイヤド・モスクを建立した他、数多くの道路を敷き、井戸を掘り、山々を抜ける道をとおした――主に軍のためのものだが、民衆にとってもこれは有益だった。ウマイヤ朝の特色は他宗教への寛容さにあった。キリスト教徒とユダヤ教徒が高い地位に就き、ウマイヤ朝がビザンティンと戦っている間も背後のシリア (キリスト教が大勢を占めていた) を気にする必要がなかった。

闘争の時代 Edit

しかし楽園にもトラブルの種は尽きなかった。2度の内戦と740年〜743年にかけて勃発したベルベル人の反乱でウマイヤ朝は力を失った。隣接するすべての国と恒常的な戦争状態にあったことも良くなかった。戦争、そしてムハンマドの貧民に対する寛容さの教えに倣ってカリフが推進した福祉計画の双方により、国庫が枯渇。747年、カリフに対抗するアッバース家に先導され、シーア派運動の流れを汲むハーシミーヤという運動が起こる。750年1月、ザーブの戦いで双方が同盟軍を率いて対峙。ウマイヤ朝は決定的な敗北を喫した。ダマスカスは4月にアッバース家の手に落ち、最後のウマイヤ朝カリフは8月にエジプトで殺害された。生き延びた数少ないウマイヤ家の者は、北アフリカ経由でイベリアに向かい、コルドバで後ウマイヤ朝を創始した (1031年まで存続)。
こうして今度はアッバース家が広大なアラビアの領土を支配する番となった。実際、彼らはうまく統治した。アッバース朝の時代にイスラムは黄金期を迎え、科学、技術、医学、哲学、文学といったすべての学問と英知と芸術の中心地となった。しかしアッバース朝はまず初めに、改革と政略によってその黒い旗の下に帝国を安定させなければならなかった。
最初の5人のカリフのもとで軍事改革が行われ、非アラブ民族や非イスラム教徒も含まれるようになった。すべての人に教育が奨励され、西洋初の製紙工場が、タラス河畔の戦いで捕らえた中国人捕虜によって築かれた。通貨は標準化された上にカリフの後ろ盾を得て安定し、有利な法律と関税によって貿易が促進された。イスラム法が法制度の基準として返り咲き、ウマイヤ朝以上に宗教的な傾向を帯びた。だがおそらく最も重要だったのは、地方の支配権を名家に割譲し――アル=アンダルスとマグレブはウマイヤ家へ、モロッコはイドリース家へ、イフリーキヤはアグラブ家へ、エジプトはファーティマ家へ――コーランの教えを信じる者たちによるウンマー (大雑把に言えば「イスラム教徒のコミュニティー」) を守ろうとしたことだろう。
786年にハールーン・アッ=ラシードが5代目のカリフとして権力を握る頃には、不満を抱く先住民による反乱が散発してはいたものの、帝国は平和で、革新的で、途方もなく華々しい繁栄の時代を迎えていた。100万人もの健康で幸福な民がバグダッドに暮らしていたのと同じ時期に、シャルルマーニュ大帝の「偉大なる」首都にはかろうじて1万が住んでいる程度だった。カリフとなったハールーンの息子アブドゥッラー・アッ=マムーンは、父が築いたバグダードに「知恵の館」を建設した。卓越した学者を3つの大陸から集め、生徒と教師の両方で意見や文化などを共有したのだ。この知恵の館は他に類を見ない人文科学と自然科学の中心地であり、史上最高の書物の数々――ギリシャ語、ペルシア語、サンスクリット語、ラテン語、他のいくつかのヨーロッパ言語、アラビア語――が収蔵されていた。1258年、フレグ・ハンのモンゴルによってバグダッドが略奪される日まで、これらの書物は守られつづけた。

十字軍 Edit

3世紀半の時が過ぎる頃、イスラム帝国が歴史の流れに抗い――またキリスト教徒に抗いながら、ローマ帝国以上の大国を維持することは不可能であることが、否応なく明らかになった。遠く西方ではレコンキスタが佳境を迎え、ウマイヤ朝はゆっくりとイベリアから手を引きつつあった。さらに重大なのは、バチカン――というよりもウルバヌス2世が、全キリスト教徒が団結してイスラムから聖地を「奪回」する時が来たと決断したことだった。これにより一連の十字軍運動が興り、1096年の不運な民衆十字軍や、それよりは遥かに成功をおさめた第一回十字軍 (この大騒動の目的であるエルサレム占領を果たした) がはじまった。十字軍によってレバント地方に再び大量殺戮の嵐が吹き荒れ、これはその後数世代にわたってつづくことになる。そしてキリスト教徒とイスラム教徒の争いは、アッバース朝の寿命を縮めることになったのだった。
異教徒の排斥はサラーフ・アッディーン・ユースフ・ブン・アイユーブ (通称サラディン) に任された。サラディンはシリア・セルジューク朝の長ヌールッディーン配下の将軍だったが、ファーティマ朝のスルタンからエジプトの統治者に任命された。1174年にヌールッディーンが没すると、サラディンはエジプトのスルタンとしてアイユーブ朝の創設を宣言し、すぐにシリアを版図に加えた。暗殺の企てや小規模な反乱といった事件を回避しつつ、サラディンはカイロから統治をつづけ (実際には彼自身はほとんどカイロにいなかったが)、アラブ人による新たなカリフ国の下にイスラム世界を統一した。そして彼の注意は十字軍へ向かうことになる。真の名将だったサラディンは、やがてエルサレムの奪回に成功し、レバントの十字軍国家の大部分を撃破し、1192年6月にリチャード獅子心王との間にラムラ条約を結んだ。この条約は、イスラムが無血でエルサレムを統治下に置くかわりに、キリスト教徒の巡礼が訪れることを許可するというものだった。
サラディンの後には7人のスルタンが即位したが、彼らは解決困難な問題に直面することになった。サラディンは帝国のために「共同統治」の仕組みを確立し、それによりアイユーブ家は「小スルタン」として領土の一部を支配し、当時のスルタン、アル・ムアッザムが最上位に君臨した。しかしこの統治機構は争いを招き、2世代の間にアイユーブ朝は乱れに乱れた。各地で反乱が起き、熱心な法王によって扇動された異教徒たちが「キリスト教世界を守るべし」と更なる十字軍を派遣してきた。そしてついに奴隷兵士であるマムルークが、エジプトにおけるアイユーブ朝の支配を転覆させ、時を同じくしてモンゴル帝国の侵攻がはじまる。数年にわたる国境紛争の後、偉大なるハンは自らの兄弟であるフラグにモンゴル帝国の領土をナイル川の岸まで広げよと命じた。1258年、フラグ・ハンはバグダードを奪い、住民を殺戮した。その中にはカリフとその一族の多くも含まれていた。
後継の王朝は存続し、後には新たなイスラム帝国も勃興したが、「アラビアン・イスラム帝国」は終わった。600年に及んだ栄光は、敬虔な信者なら忘れるべきでない不名誉な形で終焉を迎えたのだ。

イギリス Edit

 ノルマン人が秩序を打ち立てるまで、「王権に統べられた島」は船を漕げるあらゆる者 (ケルト人、ブルターニュ人、アングル人、ローマ人、サクソン人、バイキングなど) から侵略された。ブリテン王国は、「ノルマン人の侵略」におけるノルマンディー公の到来に起源を発する。小競り合いの続くイングランドを統一しようと試みた勢力は多数存在したが、実際にこれを成し遂げたのはアーサー王 (伝説の中の話だが) とウィリアム征服王 (いくつかの理由から「庶子王」とも呼ばれる) だけであった。今日の「グレート」ブリテン王国はEUのみならず、世界経済 (GDP第6位を誇り)、そして人類文化のリーダーの一角であり、約6400万人の国民を擁している。

イングランド王国 Edit

アングロ・サクソンのハロルド2世やノルウェーのハーラル3世など、イングランドの玉座を狙う競争者の中を生き延びたノルマンディー公ウィリアムは、ドーバー、カンタベリー、ケント、サザク、ウィンチェスターの王家宝物庫を押さえた。頑固な伯爵たちと聖職者を従わせ、1066年12月にウィリアムはウェストミンスター寺院でイングランド王の地位を得た。彼は残りの生涯を支配の安定と反乱の鎮圧、襲い来るバイキングの撃退の他、ノルマンディーに戻って自身の領地を守ることに費やした。1135年までにウィリアムの血統は徐々に途絶え、短い「無政府時代」の後、アンジュー家のヘンリー2世が王座に着いた。
1153年、直近の内戦 (最後でないことは確実だった) がウォリングフォード協定で終結し、アンジュー家の血を引く4人の王たち (名高きリチャード獅子心王や、その弟にして悪名高きジョン失地王も含まれる) が誰もが認める支配者となった。これらの王により、イングランド王室の紋章は定められた。紋章に描かれたのは、荒々しい黄金のライオン… 寒冷なイギリスにはいない動物だ。そしてさらにもう2頭が紋章に加えられた。イングランドにおけるジョン王の統治は酷いもので (そのうえフランス軍に敗れてノルマンディーを失った)、1215年、彼は貴族たちから強引にマグナ・カルタを承認させられた。その主な内容は王と反逆した男爵たちの平和条約であり、後年に修正を受けている。これまで王は「力と意思」によってのみ支配する、一方的な専断を行う存在だった。マグナカルタ以降、その権威は「法による支配」にもとづくものとなり、臣民の権利が保証された。もちろんこれは土地を持つ貴族に限った話で、不遇な農民たちはそれから何世紀も奴隷のままだった。
もちろんイギリス史は数十人の王侯貴族だけのものではない。そこには農奴、使用人、兵士、職人、聖職者、商人、筆記者、酒場の主人、主婦、芸術家、作家、ごく一般的な国民など、大多数の普通の人々が存在した。イギリスの農業と水産業が全盛期を迎えると、その恩恵で自給自足が可能になった。交易が栄え、イギリスの商品は (特に毛織物や堅木の工芸品) ヨーロッパ中で需要があった。中世になると活気に満ちた文化が花開く。バイユーのタペストリーが織り上げられ、チョーサーとマロリーが不朽の作品を書いた。ゴシック様式の大聖堂や城がそびえ立ち、民話 (ロビン・フッドなど) が定着した。成り上がりの平民たちが、徐々に権利意識を持ちはじめていた。

プランタジネット朝・エリザベス1世 Edit

アンジュー朝につづいてイングランドの王位を得たのは、より利己的なプランタジネット朝だった。プランタジネット朝はなんといっても百年戦争 (実際の期間は1337年〜1453年の116年間) を勃発させたことで知られている。これはフランスの王冠をコレクションに加えようした王の見え透いた野心から起きた戦争だった。この王朝は貴族や国民に疎まれたリチャード2世が1399年9月に廃位されたことで幕を閉じる。彼はポンティフラクト城に監禁され、数ヶ月後に死去した (一説には餓死だったと言われている)。ランカスター家が王座を得たものの、間もなくヨーク家 (プランタジネット家の分家) がその支配権に異議を唱える。1455年に両家の間で散発的な衝突――血に彩られたバラ戦争――がはじまる。渦巻く数多の策謀と日和見貴族たちの寝返りが特徴的な戦争だ。最終的にヨーク家とランカスター家はお互いをほぼ皆殺しにし、ボーフォート家のさして名も知れていなかった嫡子、ヘンリー・テューダーがボズワース・フィールドの戦いでランカスター王家最後の1人であるリチャード3世を打ち破り (戦死した)、イングランドの新たな王となった。
ヘンリー7世となったヘンリー・テューダーは、急ぎヨーク家のエリザベスと婚姻を交わし、対立者を黙らせた。そして政治と経済の安定を取り戻すため、法律が許す限り厳しい税を課し、貴族の専横を防ぐために国王評議会を設けた。しかし、長期に渡って君臨した彼の息子ヘンリー8世 (1509〜1547) と孫娘エリザベス1世 (1558〜1603) は王国に変革をもたらした。何人もの妻や対立者を斬首の刑に処しているうちに傲慢となったヘンリー8世は、教皇に逆らってイギリス国教会を創始し (当然、イングランドにおける教会の首長は王が兼務した)、エリザベス1世は強大なカトリック勢力と対峙しながらもこれを守った。こうしてイングランドではせわしない100年間が過ぎた。
この頃、イングランドの庶民はただの庶民ではなくなりつつあった。1295年に庶民院が設立され、「貴族ないし聖職者の議員」ではない議員が民衆の言葉を代弁し、君主に意見することができるようになったのだ。ヘンリー8世はその意見をほぼ完全に無視したが (無視せず、意見した者を処刑することもあった)、エリザベス1世は彼らと近しい関係を保ち、その財政的価値と愛国心を評価した。ヘンリー8世もそうだが、特にエリザベス1世の治世では芸術が開花し、詩人たちが世界に誇る戯曲を書いた。これによって国民は苦労して稼いだ金の使い道を得た。また、国がカトリックの資産を接収したため、作曲家や外国の画家、建築家のパトロンとなる余裕も生まれた。ルネサンス期の華やかさが日常生活に定着していったのである。

グレートブリテン王国 Edit

「処女王」はとうとう子供を残さずに崩御した。そこでスチュアート朝の王がスコットランドとイングランドを同時に統べたが、チャールズ1世の時代に清教徒革命が起こり、イングランドは一時的に共和国となった (最初に実施されたのは、不運なチャールズ1世の処刑だった)。その後スチュアート家は王政復古を実現。名誉革命と1707年の連合法の可決をもってグレートブリテン王国が成立した。一方、エリザベス1世の政策にもとづき、王国は世界に向けた調査団の派遣と植民地政策に資金を費やした。目標は新世界からはじまり、さらに遠方へ広がっていった。これもまたエリザベス1世の政策だが、スペイン無敵艦隊の圧力に対抗し、イングランド海軍は「海の支配者」としての基盤を築きつつあった。
愛らしいアン女王は17回も妊娠したが、1人として無事に育つことはなく、彼女自身も1714年に49歳で崩御した。後を継いだのはハノーヴァー選帝侯ジョージ1世だが、彼は英語が話せなかった。長年統治をつづけたジョージ1世から4世 (合わせて1714年から1839年まで統治した) に怠惰と狂気の傾向が見られたことを考えると驚くに値しないが、この期間に議会政治は、「憲法上の」君主の下で首相が政治を導くという、現在の姿へと移行していった。ジョージ3世はアメリカの植民地を失ったが、その一方で (忘れられがちだが) 最終的にワーテルローの戦いでナポレオンを打ち破っている。君主が看板ないし象徴としての面を強め、首相が実務を担当する政治が最適な形だったのかもしれない。ハノーヴァー家の次はザクセン=コーブルク家から平凡な君主が1人生まれ、第一次世界大戦中に高まった国民の反ドイツ感情に配慮し、1917年にウィンザー家と家名を改めた (ザクセン=コーブルクはドイツの領邦)。

黄金時代 Edit

革命の地であるイギリスは、1800年年代中頃にも1つの革命を経験した。輝かしき「第二次」産業革命は、たち昇る石炭の煙、工場や造船所の立てる騒音、島中に張り巡らされた鉄道線路という形で現れた。新たな製造業の中心地には新たな貧民街が生まれ、新たな賃金生活者で埋め尽くされた。イギリス人は文明史にかつてない高度な生活水準を堪能した。産業革命による繁栄、そして製品と電気は生活のあらゆる面に影響を及ぼし、ヴィクトリア朝時代(長期間在位した頑固な女王の名前に由来する) の納税者は、誰もがこれらを享受できた。1901年、ニューカッスル・アポン・タイン付近に初めての3相高圧発電所が建設され、1912年までにイギリスは世界最大の統合電力システムを持つに至る。イギリスの工場は年中無休でありとあらゆる商品を生産し、(食料を除く) あらゆる物資に満ち溢れ、きな臭い国際情勢から一歩離れていた。
この産業革命が帝国に寄与したのか逆なのかはともかく、ヴィクトリア女王の統治は「太陽の沈まない」帝国を作り上げ、やがて「白人の責務」という論が支持されていく。1600年代後半には地球のごく一部の領土を獲得していただけだったが、蒸気船や汽車、海中電信ケーブルの出現――そして連発銃や弩級戦艦も忘れてはいけない――によってイギリスは遠く離れた植民地すらある程度は効率的に統治する力を得た。カナダ、オーストラリア、南アフリカ、香港、シンガポール、インド、ニュージーランド、その他の居留地から農作物や原料が巨大なイギリス商船に積まれ、イギリスの港へ運び込まれた。遠隔地で問題が起きればホワイトホール (ロンドン中央の官公庁街) へすぐさま電報が届き、勇壮な陸軍と自慢の海軍が迅速に鎮圧へと向かった。

帝国の崩壊 Edit

こういった時代の最中、費用がかさんだ第一次世界大戦が呑気なイギリス人にちょっとしたショックを与えた。さらに追い打ちをかけるように、20年後には第二次世界大戦が勃発した。大陸の同盟国はいずれも精強なドイツ軍に制圧され、イギリスはマルタとスエズ運河を通じて極東の領地に続く生命線を必死に防衛した。勇敢で不屈のイギリス人は、ソ連とアメリカ (有利な貿易協定で密かにイギリスを支えた) が味方として参戦するまでなんとか持ち堪えたが (両国の参戦は、ドイツと日本の独裁者の傲慢さが原因だった)、終戦までにその経済は消耗し尽くし、およそ45万人もの国民が犠牲になった。膨大な負債と天井知らずのインフレがのしかかり、帝国はバラバラになり (残った植民地は表向きイギリス連邦として残留した)、さらには冷戦にまで巻き込まれたが… これには勝利した。
革新的な民主主義国家であり、スポーツと象徴と伝統を愛し、1兆6000億ポンド (およそ247兆円) の国民総生産を誇るイギリスは、芸術・科学・政治・金融といったあらゆる分野で今も重要な国である。

インカ Edit

 インカ帝国はアメリカ大陸の先住民が築いた最大にして最強、かつ最後の国家の一つである。ケチュア語では「タワンティン・スウユ」と呼ばれるが、これは「4つの地方」という意味である。インカ帝国には多様な言語を話す人々が住み、王宮を中心とした強力な中央集権体制が構築されていた。洗練された社会インフラや街道網も存在し、強制労働によってそれを維持していた。課税や食糧分配のシステムも存在した。特筆に値するのは、文字による記録や車輪が存在せず、動物を労働力として利用することもなかったにもかかわらず、社会が円滑に営まれていた点である。歴史を学ぶ者にとってインカは、政治制度と科学技術には関連があるという主張に対する魅力的な反論材料を与えてくれる文明と言えるだろう。要するに、ワシントンの街にギザの大ピラミッドを築けるこのゲームにぴったりの文明、それがインカなのだ。

クスコ Edit

インカ帝国の母体となったのは、クスコ王国である。都市国家とみなされることが多いクスコには、いくつもの建国神話が伝わっている。そのほとんどには、伝説の建国者マコ・カパックか太陽神インティが登場する。1438年、皇帝パチャクティの指揮のもと、インカは外交的、軍事的拡大をおこない、隣国を合併、あるいは征服した。沿岸のチムー王国や現在のボリビアにあったアイマラなども、こうしてインカの傘下に入った。パチャクティの征服によって、インカはアンデス山脈のかなりの部分を版図に加え、その後継者たちも征服や外交によって領土と人口を増やしつづけた。

ミタ制 Edit

先に紹介したケチュア語の名前が示すように、インカ帝国は大きく4つに分かれており、クスコはその4つがすべて接する地点に位置していた。インカはミタ制と呼ばれる強制労働を制度化していた。これによって健康な成人男性は、国の保護や公共財を利用する権利と引き換えに、農業や軍事の分野で国に奉仕する義務を負っていた。インカは険しい山岳地帯にも優れた街道網を築き、橋を架け、それらを維持した。また、余剰作物は災害に備えて公共の保存施設に蓄えられた。
国に関する計画はすべて中央で策定され、統治者と民衆が相互に責任を負うシステムが人々への資源配分を統括した。サパ・インカ (皇帝) はこの相互責任システムに姻戚関係の絆を加えた。つまり、地域の貴族や被征服地の支配者と自分の身内を結婚させ、血縁と慣習的義務が入りまじった関係を築いたのである。慣行の監督、帝国の維持、ミタ制の実施などについては、皇帝に派遣された官吏が責任をもって取り組んだ。
インカ人はすぐれた天文学者であり、建築家であり、測量技師でもあった。インカでは、キープと呼ばれる紐の結び目を利用した独特の記録方式が、首都から遠方への情報伝や歴史記録の保存に用いられていた (紐だけでなく、織物も表意や記録に利用されたようだ)。建築については、漆喰なしで不揃いな石材を隙間なく積み上げる高度な技術を有しており、インカの建物を観察したヨーロッパ人に嘆息のため息をつかせた。普通なら植物の栽培に向かない丘陵を耕作地に変える棚畑は、こうした土木技術の結晶である。
インカでは布が特に珍重され、織物は贈り物に用いられた。高度な技法で織られ、鮮やかな色に染められる場合もあった。布は身分を表し、上流階級では見栄を張る手段としても用いられた。素材としては綿が一般的だったが、ラマやアルパカの毛もよく使われた。ただし、ビクーニャやグアナコの毛を使えるのは貴族だけだった。ちなみに皇帝は同じ服を二度と着なかったと言われている。
軍事面においては、豊富な公共の備蓄を軍隊に供給し、国が武器庫を維持して兵士に装備させた。整備された街道網のおかげで、国内のどこへでも素早く兵を動かすことができた。また、インカは国の権限として徴兵をおこなえたので、たいていの場合は敵を上回る兵力を投入することが可能だった。しかし、インカの南進はマウレ川でマプチェに阻まれた。 インカはマプチェを「プルム・アウカ」、すなわち「凶暴な敵」と呼んで称えた。

スペイン支配 Edit

インカを没落させたのは、内紛、そしてフランシスコ・ピサロ率いるスペインのコンキスタドールとの戦いであった。皇帝ワイナ・カパックのもと、当時のインカ帝国は現在のコロンビアの一角まで版図を拡大していた。だが、領土拡大は現地の先住民族に阻まれ、時を同じくして皇帝の後継者問題も持ち上がった。ワイナ・カパックが没し、息子たちの間で内戦がはじまったのである。天然痘など、ヨーロッパから持ちこまれた疾病も猛威を振るい、人口が激減した。そこにピサロが現れ、少数だが強力な武器を持つ兵士を率いて内紛に介入したため、インカ帝国は激震にさらされることになったのである。
ピサロは奸計を弄し、何の説得力もない口実で停戦の約束を破って、王位請求者の一人だったアタワルパを捕えた。インカ側はアタワルパの身柄引き渡しを要求し、身代金として彼の牢を満たすだけの黄金とその倍の銀を払うと申し出た。ピサロはこの条件を受け入れたが、身代金が支払われるとすぐに約束を反故にした。さらに、もう一人の王位請求者だったワスカルが暗殺されると、ピサロはアタワルパにその罪を着せ、即座に彼を処刑してしまった。
一方で、スペイン人はインカの貴族と皇室の離間を図り、実質的な属国とした帝国の帝位に傀儡のインカ人を据えた。スペイン人の支配のもと、拡大解釈されたミタ制はポトシ銀山での労働も含むようになった。また、伝統的な棚畑農耕は廃止され、スペイン人が持ち込んだ病気が多くの人々を苦しめつづけた。1572年、インカ最後の皇帝トゥパク・アマルが捕らえられて処刑されると、インカの抵抗は完全に潰え、帝国はその長い歴史に幕を下ろした。
インカ帝国の組織や技術は、近年、再び脚光を浴びている。アイリュと呼ばれた相互扶助制度は、研究材料として政治学者の注目を集めている。また、垂直列島と呼ばれる農耕方式は、未来の持続可能な食料生産のあり方を示唆している。インカが後世に遺した最大の宝は、金や銀ではなく、ジャガイモのよりよい栽培方法なのかもしれない。

インド Edit

古代 Edit

 インドは最も古い文明の一つとも、最も新しい文明の一つともみなすことができる。世界の交差点に存在したインドには、無数の帝国と征服者が現れては消えていった。北にはアレキサンドロスとも戦ったマウリア朝やグプタ朝が、南には東南アジアと関係が深かったチョーラ朝が存在していた。しかしルネサンスから近世初期のインドは、それらとはまた違う侵略者の統治下にあった。モンゴルの末裔が建国したムガール帝国は、インドの美術、建築、版図に黄金時代をもたらした。タージ・マハルや赤い城が築かれたのも、このイスラム国家の時代だ… しかしそこに新たな侵略者が現れる。イギリス東インド会社である。

東インド会社 Edit

1498年、ヴァスコ・ダ・ガマの船団がアフリカをまわる航路をなんとか開拓し、インドを「発見」した (とはいっても、ローマ帝国の時代から西洋文明と貿易を続けていたインドの国もあったのだが)。ポルトガル人が亜大陸の海岸沿いに交易所を設けると、オランダ人、イギリス人、やがてはフランス人――それらはすべて公認の貿易会社の体裁をとっていた――が後につづいた。共同資本会社であるイギリス東インド会社は、1600年12月、極東と原材料の貿易を行う特許状をエリザベス1世から与えられた。絶頂期には、東インド会社の取引量は全世界の貿易の半分を占めていた。やがて東インド会社は、ヨーロッパで唯一、インドに資産を持つ会社となった。
東インド会社は、多数の小君主たちによる複雑な政治だけでなく、現地の多様な信仰にも対処しなければならなかった。この亜大陸は4つの大宗教――ヒンドゥー教、仏教、シーク教、ジャイナ教――の発祥の地であり、多くの宗派や分派が存在していた。加えて、商人や征服者が持ち込んだイスラム教、ゾロアスター教、さらにユダヤ教までもが信仰されていたのである。しかし、こうした宗教や宗派の慣習を制度化し、それまでは多様な慣習が存在していた地域に「ヒンドゥー主義」をもたらしたのは、他ならぬイギリスだったと言えるかもしれない (たとえばカースト制度は、それまでは画一的なものではなかった)。
信仰の危機という事態に遭遇してはじめて、イギリス政府は東インド会社の自由裁量というみせかけをやめることを決意した。1857年までに東インド会社はこの亜大陸で支配的な力を持つようになり、独自の行政、軍隊、社会的インフラを有するほどになっていた (腐敗し、非効率的だったかもしれないが)。セポイの反乱には――反乱とは常にそういうものなのだが――いくつか理由があったが、火種となったのは東インド会社のインド人兵士が使うマスケット銃に、油脂が塗られた弾薬包が新たに導入されたことであった。根拠があろうとなかろうと、インド人兵士たちは、火薬を装填する際に噛み切って包みを開けなければならないその弾薬包に塗られているのが、牛 (ヒンドゥー教徒にとって牛は神聖) や豚の脂 (イスラム教徒にとって豚は不浄) だと信じるようになったのだ。イギリス人はいつもの狭量な共感しか示さず、東インド会社の兵士たちにこれらの弾薬包を使うよう強く要求したので、インド人兵士たちはすぐさま反乱に踏み切った。

ヴィクトリア女帝時代 Edit

多くの血が流された後、この「第一次インド独立戦争」を鎮圧するためにイギリスは軍を投入しなければならなかった。これに対してイギリス国民は激怒。女王は翌年、東インド会社を解散させ、その財産をすべて没収した。効率を尊ぶイギリス人は、その後数年でインドの軍隊、財政組織、植民地行政を再編した。これによってインドは大英帝国の一部となり、ヴィクトリア女王の輝かしい称号の一覧に「インド女帝」が加わることになる。その後90年間、「太陽の沈まない」帝国にとって、「イギリスのラジャ (王)」は統治における中心的存在であった。
イギリス人は、統一の完成、国境沿いでの小競り合い、そしてできるだけ富を搾り取るのに忙しかったが、その一方でインドの風景とインフラを形作った。イギリス人は学校や病院、図書館、野外ステージなど、彼らの考えでは文明を象徴する施設をいくつも築き、多くのインド人がそれを利用できた。イギリス人は民族と宗教を分類して国勢調査を容易にした。一定の法規範や貨幣制度、刑罰としての投獄、処刑の手法、それに郵便料金を制定したりもした。そして、ヴィクトリア朝の技術を持ち込んで電信網や新聞、灌漑設備を整備し、国中に道路や鉄道を築き、インド人のアイデンティティーをはぐくんだ。つまり、それまで共通点を持たなかったインドの人々に、憎むべき共通の敵を与えたのである。
このイギリスによるインド統治のもと、1880年から1920年までインド経済 (と人口) は毎年1%ずつ成長した。しかし同時に、イギリスはわざわざインドの社会慣行や道徳様式に干渉し、反発を招きつづけた。たとえば1890年代には、さまざまな改革者 (イギリス人だけでなくインド人も含む)が未亡人の再婚を実現させようと取り組んだ。宗教対立をやわらげようと (そして行政の効率を高めようと)、1905年、インド総督カーゾンはベンガルをイスラム教徒の東とヒンドゥー教徒の西に分割し、その状態はカーゾンが1906年にイギリスへ召還されるまで続いた。1909年のモーリー=ミントー改革では、インド人に植民地政府と州政府において限られた役割が与えられ、インド・ムスリム連盟とインド国民会議派の成長を促進させた。これらの改革により、イギリスは結果的に、(特に比較的新しかったインドの中産階級の間で) 独立をめざす民族主義運動の基盤を築いてしまったことになる。
この民主政治を求める力に加えて、深刻な飢饉が繰り返し起こった。この飢饉の理由としては、植民地管理の誤りと、利益のために食料をイギリスへ輸送したことが原因だった。1876年〜1878年にかけて発生した大飢饉では、イギリスが管理する地域だけで550万人の命が失われ、いまだ編入されていなかった王侯国ではさらに数百万人もの命が失われた。その20年後に起こった飢饉ではまたしても500万人が犠牲となり、さらに2年後の1899年に発生した飢饉では100万人の命が奪われた。皮肉なことに、これは改善されたインフラによるものだった。鉄道によって穀物の輸出が可能になった結果、栽培した地域の人々が食べる分が残されていなかったのである。なおこの統計には、何度も起こり、定期的に人口を激減させた疫病の犠牲者は含まれていない。

独立 Edit

第一次世界大戦は、独立の進展とインドの自立にとって重要な分岐点であった。インドの民族主義者をはじめとする多くの人々は、――はじめのうちは――戦争に愛国的な情熱をそそいだ。すでに崇められていたマハトマ・ガンジーですら、インド人の若者を戦争に積極的に参加させることに同意した… しかも、ボーア戦争やズールー戦争時の兵員募集と違い、医療部隊よりもむしろ戦闘部隊の募集に力を入れた (後に独立した際、訓練と経験を積んだ軍隊を持つためであったとガンジーを擁護する者もいる)。一般的な民族主義運動だけでなく、さまざまなインドの政党も熱狂的に支持を表明した (地方行政を麻痺させるほどの暴動が起こっていたベンガルのような、政治的に不安定ないくつかの地域を除く)。だが、犠牲者が増え、重税が急激なインフレに拍車をかけ、貿易が停滞すると、それまで常に争っていた民族主義組織は一致団結し、インドの人々の犠牲は自治という形で報われるべきだと主張した。1916年にはヒンドゥー系の国民会議派とムスリム連盟がラクナウ協定を結び、イギリスに圧力をかけて追い出すために協力することで同意した。
1919年の血なまぐさいアムリッツァル虐殺事件の後、1921年にガンジーがインド国民会議派指導者の役目を引き受けたが、これについては論争もあった。ゴーパール・ゴーカレーやその他の穏健派の協力でガンジーは議長に選ばれ、即座に民衆の非暴力的不服従による抵抗を実行した。この行動は民族主義運動の他の指導者たちの国民会議派からの離脱へとつながった。その中には、チッタ・ダース、アニー・ベザント、モーティーラール・ネルーといった好戦的で熱烈な党の支持者も含まれていた。国民会議派は分裂したのである。
それから20年間、ガンジーはイギリスによる支配への抵抗の「象徴」として、集会やイギリスからの輸入品の不買運動、抗議、デモ行進を組織した。その中には、1930年にガンジーと何千人もの信者たちが、イギリスによる塩への課税に抗議して塩を作るために海まで行進した、有名な「塩の行進」も含まれる。ガンジーは何度か投獄された。1942年にクイット・インディア運動での役割を問われ、2年間の禁固刑に処せられたのもその1つだ。その間に妻は亡くなり、ガンジー自身もマラリアにかかった。イギリス当局はガンジーが監獄で死に、殉教者になることを恐れ、すぐに彼を釈放した (ガンジーはようやく独立が認められた数ヶ月後、ヒンドゥー教の民族主義者に暗殺され、結局は殉教者となった)。
2度の世界大戦で弱体化し、ガンジーのいらいらさせられる戦術への対抗策を見つけられなかったイギリス議会は、1947年にインド独立法を可決した。この法律には、イギリスの行政府と軍隊のすべてが撤退する日付と、イギリスの植民地を2つの国に分割することが定められていた。分割は (大いに論争を巻き起こす) ラドクリフ・ラインに沿って行われ、ヒンドゥー教のインドとイスラム教のパキスタンが誕生した。8月14日午後11時57分、パキスタンが独立と自由を宣言すると、真夜中を過ぎたばかりの午前0時2分、インドも同じく独立と自由を宣言した。残りの560の王侯国には、インドかパキスタンに加入するか、独立を維持するかを選ぶ権利が与えられていた。これは称賛に値する志だが、インドとパキスタン両軍が動きをみせると、長続きはしなかった。

現在 Edit

信仰に支配された土地を分割し、根本的に違う宗教を奉じる2つの国が誕生したことで、異教徒の土地に取り残されることになったおよそ1500万の人々は、ラドクリフ・ラインを越え、自分の信仰する宗教の側へ行こうと、史上最大級の集団移住をはじめた。このときにすべてを捨てて避難した者たちは、賢明な判断したといえるだろう。生まれたばかりの2つの国家は流血の波を止めることができず、想像を絶する大規模な暴力が発生した。この事態は自由をもたらした抵抗運動の非暴力という本質に矛盾するものだった。この時の混乱で100万人以上のヒンドゥー教徒、イスラム教徒、シーク教徒が殺害されたと推定されており、パキスタンとインドの間には相互不信という負の遺産が残されることになった。
1950年1月、インドは自らを社会民主主義共和国と宣言した。以来、インドは進歩的で、――時折起こるパキスタンとの戦争や中国との国境紛争を除けば――平和な国の1つとなった。

インドネシア Edit

 仏教徒とヒンドゥー教徒の国だったマジャパヒト王国は、その最盛期には現在のインドネシア全域にまたがる地域を版図とし、98の属国を従え、強大なモンゴル帝国にも立ち向かった。この国の君主は統治者であると同時に保護者であり、その権力は民から与えられたものだった。だが、権力を与えるに値しないと民に判断された指導者はどうなったのだろうか?

マジャパヒト王国 Edit

西暦1293年から1500年前後にかけて東南アジアで栄えたマジャパヒト王国は、現在のインドネシア全域を領土とし、マルクからスマトラにいたるヌサンタラ地域をその中心としていた。この王国はとてつもなく豊かだったが、それゆえに外憂内患を抱えることになった。
マジャパヒトはジャワ系ヒンドゥー教国のシンガサリ王国 (1222〜1292) を倒して建国された。ちなみにそのシンガサリ王国も、もともとはクディリ王国 (1042〜1222) を倒して築かれた国であった。
王国の起源については、多くの寺院に残された史料や周辺諸国の記録から読み解くことができるが、最大の情報源はやはり『ナガラクレタガマ』 (別名『王の書』) の翻訳書だ。ただし、この壮大な詩はマジャパヒトの宮廷詩人の作品と思われるので、その内容には王国の権威を高めるための脚色があると考えるべきだろう。
伝説によると、マジャパヒトの王は、人間の女性にブラフマー神が生ませたケン・アロクという人物の子孫だとされている。ケン・アロクはクディリを征服して名を挙げ、最後には暗殺された。
しかしケン・アロクは後継者を残していた。その末裔であるラデン・ウィジャヤは、西暦1293年にマジャパヒト最初の王となった (即位名はクルタラジャサ=ジャヤワルダナ)。ウィジャヤは、そこで採れる苦いマヤフルーツにちなんだ名を持つ小さな村から身を起こし、一代で帝国を築いたと言われている。
ウィジャヤは村での暮らしに満足せず、シンガサリ最後の王であるクルタナガラの4人の娘を妻とした。シンガサリの重鎮たちは、適齢期の姫全員を娶って王国を乗っ取った新参者に反感を持ったため、王としてのラデン・ウィジャヤは反乱の鎮圧に明け暮れることになったが、シンガサリ王国の拡大を阻むために1000艘の船に10万人の兵士を乗せて侵攻してきた元軍を撃退したことも特筆に値するだろう。これらの結果、ウィジャヤはマジャパヒト王国の最初にして最後の王にならずに済んだのだ。
マジャパヒト王国が一大帝国へと発展できたのは、米 (一説には、人口の最大で8割がなんらかの形で米の生産に関わっていたという) と香辛料の交易によるところが大きかった。また、マジャパヒトの海路はインドと中国を結んでいるため、そこを行きかう交易品に税をかけることでも莫大な富を築くことができたのである。
マジャパヒトは必要とあらば海軍力も躊躇いなく行使した。この時代に作られた浅浮き彫りの彫刻には、マジャパヒトが堂々たる大艦隊を派遣して近隣の国を襲う様子を描いたものがある。マジャパヒトは大型のジョング船で人や物を運び、ジャワ島東部から米を広め、同時にマレー語も伝えた。
ヌガラ (小王国) を基本とする統治は、まるで曼荼羅を見るかのようだった。王から放たれる聖なる力が軍事的な防衛力を高めると考えられ、首都では宗教的な生活の実践が推奨された。村人や地域の有力者は、マジャパヒトの首都トロウランに供物を送った。その見返りとして王は寺院を修復させ、下賜品を与え、遠方の地に王族を派遣して統治させた。
王国は、15世紀にマレー人のスルタン国を何度も襲撃し、ジョホール・スルタン国やシャム (タイ) との争いを生き延びた。全盛期のマジャパヒトの勢力は、近代以前の国家としてはこの地域で最大のものとなった。
ラデン・ウィジャヤは西暦1309年に没し、その後は息子のジャヤナガラが継いだ。ジャヤナガラの統治は1309年から1328年までつづいたが、暗殺によって突然幕を引かれることになる。ジャヤナガラの後を継いだのは、異母姉妹であるディア・ギターチャであった。そのギターチャは、1350年、息子のハヤム・ウルクに王位を譲った。

黄金時代 Edit

ここからマジャパヒト王国の黄金時代がはじまる。ラジャサナガラとも呼ばれたハヤム・ウルクは16歳の若さで即位し、パティ (宰相) であるガジャ・マダの力を借りながら、ラジャサ王朝の勢力を各地に広げた。
弓の名手で、王になるべく母によって育てられた (外見もたいそう美しかったという) ハヤム・ウルクは、一族の権力を拡大し、マジャパヒトという曼荼羅の中心になった。
しかしどれだけ民と王が親愛の絆で結ばれていようと、血で血を洗う (そして非常に高くつく) 後継者争いから王国を守ることはできなかった。西暦1404年から1406年にかけてつづいた内戦は、ハヤム・ウルクの第一夫人の子ではなかったブレ・ウィラブミが、王位についたばかりの腹違いの兄弟から王冠を奪おうとしたことが発端だった。
この内戦は国を傾かせたが、とどめの一撃はそれまで権力の源泉だった交易路からもたらされた。東部の島々にヨーロッパの商人が来航するようになったせいで、帝国本土からこうした小規模な共同体へ権力の中心が移ったのだ。この結果として台頭してきたのが、ムラカという港湾都市 (現在のマレー半島に存在していた) だった。ムラカがマジャパヒトに取ってかわり、東南アジアにおける最も重要な交易地となる一方、マジャパヒトの商人たちは、ムラカの多数派であるイスラム教徒に取り入るため、イスラム教に改宗していった。

衰退 Edit

民はもはや指導者を必要としていないかのようだった。
その後、マジャパヒトの痕跡は月日とともに薄れていった。16世紀に入るころには、ヒンドゥー教と仏教を奉じたこの王国はイスラム教徒のスルタン国に取ってかわられ、アチェやムラカのような西部の都市からイスラム教の影響が広まっていった。ただ、スルタンもこの地域の支配には手を焼いた。そして最終的には、16世紀から17世紀にかけて、香辛料の魔力と帝国主義に突き動かされた植民地主義者がオランダやポルトガルからやって来たことで、彼らの支配もあっけなく終わりを告げたのだった。

エジプト Edit

古代エジプト Edit

 ギリシャ人がまだ石でお互いの頭を殴り合い、ローマが誰の目にもとまっていなかった時代、ファラオの統べるエジプトはすでにナイル川沿いに文明を築き、少なくとも数千年、時の試練に立ち向かおうとしていた。強大なるローマに併合される日まで、約170人ものファラオが連綿と王位を継承しながら肥沃な大地を統治してきた。黎明期のエジプトに居を定めた人々は、ナイルの氾濫原がとても肥沃で耕作に適していることを発見し、大規模な都市をヒエラコンポリスに、後年にはアビドスにも建設した。これらのナカダ文化がエジプトの第1王朝を創始したのである。
ヌビアから南方の地域、そしてレバントの都市国家やその東方の地域への交易路を確立した他、初期エジプト人は櫛や小さな彫像、陶磁器類、化粧品、宝石、家具、その他消費社会に必要な小間物を作った。紀元前3150年頃には熱狂的な教団を生み出し、マスタバ墳を建設した。エジプト古王国 (およそ紀元前2686年〜2181年) の最初のファラオは、租税制度を設け、そこから得た富を灌漑事業や司法制度、常備軍の設置に費やした。同時に、信仰する神々を讃える巨大なモニュメントと墳墓 (ギザの大ピラミッドやスフィンクスなど) も建設した。
(歴史上初めてではないが) エジプトは偶像を崇拝する多神教にもとづく神権国家だった。ファラオは人間でありながら、オシリス、アヌビス、ホルス、イシス、その他の神々の血を引く存在と信じられていた。神々の地位は平等ということになっていたが、中王国の時代では大地をあまねく照らす太陽神ラー、新王国の時代ではアメンといった風に、時代によって崇拝の度合いが高まることもあった。神官団――歴史の中でしばしば権力を握る――は周期的に修正論を唱えた。それによってエジプトの神々は習合されたが、その神性は損なわれずに保たれた (一例として、隠された力と太陽の統合であるアメン・ラーがある)。正確に神々を把握できていたのはエジプト人自身だけだろう。また、エジプト人は埋葬の手順を発展・複雑化させた。エジプト人は死後の世界を体系化し、死後も楽しく暮らすための準備をした最初の民族の1つである (そのためには相応の富が必要だったが)。カー (精神) とバー (魂) の健康と幸福を守るため、埋葬の儀式とそのしきたりに遺体のミイラ化や呪文、石棺や副葬品が加わった。だがこうしたエジプトの神秘主義は、その後、伝説やハリウッドのホラー映画の素材へと成り下がってしまう。

中王国時代 Edit

こうした平和と繁栄には代償をともなった。無関心、汚職、インフラの老朽化、近親相姦と王族の内紛。地方の太守は領地の統治権を求めて中央政府に挑み、自ら税を徴収しはじめた。ファラオはすぐに巨大な中央集権体制を維持する余裕を失い、政治腐敗は更に加速した。紀元前2200年から50年間もつづいた深刻な干ばつもあって、ついに古王国は崩壊した。対立するヘラクレオポリスとテーベのファラオ同士がナイル川の支配権を巡って戦いをはじめたが、やがて (実際には2世紀にも及んだ) テーベの太守アンテフ一族が生き残り、上下の王国を支配してエジプトの再統一を果たした。エジプト中王国 (紀元前2134年〜1690年) の時代がはじまり、芸術、交易、富、軍事的冒険が蘇った。そして興味深いモニュメントが方々に建設され、現代の観光客が眺める景観を形作った。
古代のエジプトは数世紀ずつしか安定を維持できなかったらしく、第14王朝 (紀元前1650年に滅亡) の時代には分裂しはじめていた。この王朝は過去 (そして未来) の王朝と同様に、華々しく散った。エジプト中王国に続いて第2中間期が訪れ、新王国、第3中間期、末期王朝時代とつづく。この間 (紀元前2100年からおそらく紀元前600年まで)、エジプトの王朝は幾度も盛衰を繰り返した。戦争と内乱の時代の後には、図らずも平和と隆盛の時代が巡ってきた (そこに「英知」も存在したかは疑問の余地があるが)。エジプトが弱体化した隙に外国が侵略を試み、エジプトが力を増せばファラオは領土の拡張に乗り出す。このような再生と崩壊の繰り返しに、第三者が分け前を狙って入り込むのは必然だった。紀元前525年、エジプトはペルシアによって占領され、紀元前332年にペルシア帝国がアレキサンドロス大王の手で徹底的に解体されるまでその支配を受けた。アレキサンドロスの死後は、マケドニア人の将軍が古代エジプト最後の王朝であるプトレマイオス朝を開いた。
アレキサンドロス大王の腹心の1人だったプトレマイオス1世ソーテールは、主君の死後エジプト総督に任命され、プトレマイオス朝を創始した。新たな王朝はたちどころに国民の支持を得て、275年間に渡りエジプトを繁栄させた。総合的に見ると、初期のプトレマイオスたち (プトレマイオス朝の王はすべて「プトレマイオス」を名乗り、女王――多くが夫の姉妹だった――は「クレオパトラ」か
「ベレニケ」を名乗った。ややこしい話である) は、目を見張るほど有能な統治者だった。少なくとも当時の文書にはそう記されている (古代エジプト王朝の中でプトレマイオス朝は最も詳細な文字による記録を残した)。成り上がりのマケドニア人ファラオは、エジプトのしきたりを取り入れ、古き神々のために新たな記念碑を建設し、マケドニアの退役軍人に土地を与えるために領土を拡張し (練度の高い民兵を置くためではなかった)、堤防を修復し、税を減らし、民心をつかんだ。
プトレマイオス1世から3世まではエジプトを経済大国に押し上げ、小間物から財宝まで、あらゆるものを輸出した。しかし、エジプトを本当に裕福にしたのは穀物だった。ナイル川流域は地中海沿岸の穀倉地帯となったのである。新興の帝国や古い都市国家がエンマー小麦や大麦、ソラマメを買い、衣類の素材として綿、亜麻、ヘンナなども合わせて船に積んでいった。また、エジプトが南方と東方から地中海へ通じる交易路の交差点であったことも富をもたらした。他国がこの地に羨望の視線を向けたのは何ら不思議なことではなく、再び緩やかな衰退がはじまろうとしていた。

ローマ属州 Edit

紀元前170年、エジプトを侵略したギリシャのアンティオコス4世が当時10歳のプトレマイオス6世を退位させると、弟のエウエルゲテスをプトレマイオス8世として共同統治者となった。しかしこの体制はすぐに崩壊した。王族同士による骨肉の争いはエジプトを衰退させ、農作物の主要な取引先であるローマの事実上の保護国となるに至らしめる。また、繰り返されてきた近親結婚は、子孫の肉体と精神の鋭敏さを損なわせることにつながった。歴史家は、彼らの遺伝系列が異常な肥満、眼球突出症、多臓器に渡る線維化、線維性硬化症などに苦しめられていたと考えている。紀元前51年にクレオパトラ7世が弟プトレマイオス13世と結婚する頃には、事態の行き詰まりはもはや誰の目にも明らかとなっていた。
マケドニア王国とセレウコス朝が腐りゆく自国の国境付近で争うのを見て、エジプトの王は拡張著しい (そして遠く離れた) ローマと同盟を組み、それは150年も保たれた。しかし、貪欲なローマ人が求める貢物と内政への影響力は増しつづけ、やがてクレオパトラ7世とプトレマイオス13世の兄弟げんかの仲裁へつながった。この卑しむべき争いは前述の2者の結婚と国内における女王とファラオ間の権力闘争が発端だった。これに介入したのはローマの執政官ユリウス・カエサルであり、彼はアレキサンドリア宮殿に残り、当時22歳のクレオパトラ7世と急速に仲を深めた。
ユリウス・カエサルの軍を頼りにしたクレオパトラは、アレキサンドリアで幾度か武力衝突を経た後 (この時にアレキサンドリア図書館が焼失したと言われている)、ナイルの戦いでプトレマイオス13世を打ち破った。「驚くべきことに」ファラオは直後に溺死した。クレオパトラはすぐに若きプトレマイオス14世と結婚し、カエサルとの間に息子をもうけると、ローマへ渡った。その後、カエサルが暗殺されてしまうと権力の後ろ盾を失ったため、彼女はマルクス・アントニウスと手を結んだ。オクタウィアヌス・カエサル (後のアウグストゥス) は魔女めいた「異国の女王」に憤慨し、クレオパトラとアントニウスに宣戦を布告。新皇帝が紀元前30年8月にアレキサンドリアへ入城して勝利を収めると、クレオパトラは最も新しい恋人を追って自ら命を絶った。
クレオパトラの死により、エジプトは正式にローマの属州となった。ローマ人はかつてのプトレマイオス一族の成功に倣い、エジプトの宗教、文化、交易への干渉を控えた。すべてを平常のままに保っただけで、ローマは金銭的な利益を獲得した。ファラオの統べるエジプトはもはや存在せず、以降の2000年をビザンティン帝国、ササン朝、アラビア人、アイユーブ朝などさまざまな統治者の支配を受けた。最初の4000年、古代世界に君臨した王国の姿とは対照的だった。

エチオピア Edit

 人類の祖先は東アフリカで進化した。1974年には300万年前の猿人「ルーシー」が、アワッシュ川の流域で発見されている。したがって、エチオピア以上に古い歴史 (先史時代が大部分を占めているとはいえ) を誇れる地域は、ほとんどないと言っても過言ではないだろう。エチオピアは人類の進化、キリスト教の普及、植民地主義の終焉といった重要な局面において、そのつど決定的な役割を果たしてきた。

先史時代 Edit

エチオピアは東に紅海 (その先にはアラビア半島とメソポタミア)、西にナイル川を臨む位置にある。四大文明のうちの2つにかくも近かった王国「プント」が、古代の初期に裕福な交易地として台頭したのは、自然な成り行きと言えるだろう。プントは金、没薬、乳香、黒檀、象牙といった貴重品を産出、輸出していたことから、エジプトの交易商の間では「神の国」と呼ばれていた。

アクスム王国 Edit

プントの後にも独立した王国がつづいた。そのひとつであるアクスム王国は紀元前1世紀頃に大国となり、外は紅海を越えてアラビア南部、内は現在のスーダンにあたるナイル川流域まで版図を広げた。それから数世紀、エジプトがローマに屈するのを尻目にアクスムは繁栄した。アクスムは貿易の交差点ともいうべき場所に位置しており、豪華な染料、武器の材料となる鉄、ガラス製品を扱っていた。ローマの記録は、アクスムで取引できる品を列挙するだけで1ページを割いているほどである。アクスムの交易網は遠くインドまで広がっていた。
4世紀、キリスト教が伝わると、アクスムは世界でもかなり早い時期にキリスト教国の仲間入りをした (アルメニアのすぐ後、ローマより前である)。ビザンティン (東ローマ帝国) の歴史家は、キリスト教徒のシリア人を捕らえた王が、その捕虜との長い語らいを経て、自身もキリスト教徒になった経緯を記している。その後、王国の貨幣には十字架があしらわれるようになったが、キリスト教が国全体に浸透することはなく、上流階級の宗教という位置づけにとどまった (むしろ庶民にキリスト教が浸透したローマとはこの点が違っていた)。しかし、ローマがキリスト教徒を弾圧し、多くの聖人がエチオピアに逃れてきたことがきっかけで、信徒は少しずつ増えていった (伝統的な宗教やユダヤ教も現代に至るまで根強く残っている)。九聖人と呼ばれる人々がアクスムを訪れ、ギリシャ語の聖書を現地で使われていたゲエズ語に翻訳して修道会を創設したのも、この時期のことである。

エチオピア帝国 Edit

しかし、栄枯盛衰は世の常だ。ローマは没落し、紅海地域はイスラムの統治者が支配するようになり、アクスムの民は乾燥した痩せた土地を酷使した。エチオピアの力の中心は南へ移り、その目は内へ向けられるようになった。
こうした孤立の時代を経ても、すべてが失われたわけではない。九聖人が遺した伝統が廃れることはなく、ザグウェ朝 (900年から1200年頃) の時代に築かれたラリベラの教会群に引き継がれた。時が止まったかのような姿を現在もとどめているこの教会群は、世界遺産として登録され、今も絶えることなく巡礼が訪れている。
エチオピアの眠りは永遠のものではなかった。新たに皇帝となったイクノ・アムラクは、ザグウェ朝最後の王を倒し、自らの統治を盤石なものとすべく、王の娘を妻に迎えた。さらに自分は古代の王ソロモンとシバの女王の末裔であるという伝説を広め、正統性の強化を図った。彼の創始した新王朝がソロモン朝と呼ばれるのは、これに由来している。
ソロモン朝のもとでエチオピアは再び息を吹き返し、歴史的な暗黒時代から抜け出した。首都はまだ定まっていなかったが (帝国の実態は居場所を転々とする野営地に他ならなかった)、さまざまな分野で進歩を遂げた。軍事面の成功により、「アフリカの角」と呼ばれる地域の大部分が支配下に置かれた。地域の宗教的な情熱は消えることなく残っており、特に14世紀から15世紀初めにかけては、ヨーロッパ諸国との接触を促した。また、この時期には芸術家や著述家も活躍し、さまざまな傑作が生み出された。シバの女王とソロモン王の出会いや、2人の息子であるメネリクに「契約の箱」がもたらされた経緯を描いたゲエズ語の大叙事詩「国王頌栄 (ケブラ・ ナガスト)」も、そうした偉大な作品のひとつである。
悲しむべきことに、16世紀中頃のエチオピアは争いに苦しめられた。1528年から1543年にかけて、キリスト教国のエチオピア (アビシニア) とイスラム教国のソマリア (アダル) の間でアビシニア・アダル戦争が起き、流血の舞台となったエチオピアは大きく国力を落としてしまう。この戦いでは教会や写本が焼かれ、多くの人命が失われた。エチオピアの皇帝ダウィト2世がポルトガルに助けを求めたため、1541年には大勢のマスケット銃兵を乗せた艦隊がマッサワにやって来たが、ポルトガル艦隊の力を借りても、「征服者」の異名をとるアフマド・イブン・イブリヒム・アル=ガジーの撃退は容易ではなかった。やがてガローデオス帝がポルトガル軍の残存部隊と合流して西へ軍を進め、再び征服者と相対すると、アル=ガジーはついにワイナ・ダガの戦いで敗れ、ソマリア軍はエチオピアから撤退した。しかし、小規模な武力衝突はその後もつづき、1559年にガローデオス帝は乏しい手勢でハラールの街を攻めるという愚挙に出る。この結果、ガローデオス帝は処刑の憂き目にあい、帝国は荒廃した。
再び恒久的な首都が置かれたのは、1636年のことである。ゴンダールに王宮が築かれたことで、エチオピアはある程度の安定を取り戻した (王宮ではシェイクスピア劇もかくやの政治的な陰謀やドラマが繰り広げられることになったが)。再び貿易の中心地となったことで、ゴンダールでは社会基盤の整備も可能となった。エチオピアの貴族は新しい宮殿や美しい庭園を築き、かつてのように哲学者や芸術家を魅了した。
18世紀後半になると、ゴンダールは見る影もなく衰退し、各地域は互いに争った。この時代には、3人の皇帝がかわるがわるエチオピアの統一を目指して力を尽くした。その最初の1人であるテオドロス2世は有力者の息子で、地方の修道院で教育を受けた後、盗賊の首領となった。頭の切れる指導者で有能な戦士だった彼の下には人が集まり、一介の盗賊団にすぎなかった勢力は、小さいながら軍隊と呼べる規模にふくれあがる。彼の活躍があまりに華々しかったため、時の皇后メネン・リベン・アマデは孫娘を嫁がせて懐柔を図った。この政略結婚は、しばらくは目論見どおりに運んだが、テオドロス2世はやがて新たな親族との縁を切ることを決意し、さらなる権力を求めた。結局、彼は反乱と下克上によって地域の大部分を統一した。とはいえ、彼が血も涙もない冷血漢だったかというと、そうではない。彼は自分が殺した王子の息子を引き取り、後に娘のアリタシュを娶せた。成長して立派な若者となった少年はテオドロス2世のもとから逃れ、後にメネリク2世となり、植民地主義に対する砦としてのエチオピアの名声を高めることとなる。

エチオピア戦争 Edit

当時のヨーロッパでは、急速に拡大した植民地主義に沸いており、この波に乗りそこねた国、とりわけイタリアは、自身も帝国を築く機会を虎視眈々と狙っていた。その頃のエチオピアは、長らくオスマン帝国の支配下に置かれていた。しかし、武力と狡智を駆使してイギリスがエジプトを、フランスがソマリアの支配を勝ち取ることに成功した結果、イギリス領とフランス領に挟まれた紅海沿岸の小さな土地が、アフリカ高地への重要な足掛かりとなる。フランスの支配を警戒する一方でエチオピアの統治を信用していなかったイギリスは、現在のエリトリアにあたるこの土地をイタリアに「譲った」。これをきっかけとして勃発したのが第一次エチオピア戦争である。
ヨーロッパ人にとってこの戦いは、よい終わり方にならなかった。兵数において圧倒的に劣り、本国から遠く離れた土地での戦いを余儀なくされたイタリア軍は蹴散らされ、敗北して帰国した。この結果、敢然とヨーロッパに立ち向かい、見事勝利したアフリカの統治者の名が、突如として世界中に轟くこととなった。イタリア軍は第二次世界大戦直前に再びこの地に侵攻し、この時は勝利を収めることに成功するが、かつてのメネリク2世と同じく、ラス・タファリ・マコンネンことハイレ・セラシエ1世は抵抗を続け、ヨーロッパの支配に立ち向かった英雄として名を馳せた (現代のラスタファリ運動は、彼の名を語源としている)。

現在 Edit

現在のエチオピアは、東アフリカで2番目に多くの人口に恵まれている。アフリカの多くの国々と同様、冷戦期には分断と流血の事態に直面し、ソロモン朝は1974年の共産主義クーデターによって幕を閉じた。しかし1990年代にソビエト連邦が崩壊し、イタリアの旧植民地にしてエチオピアの紅海への窓だったエリトリアが独立を果たすと、エチオピアも西側との旧交を復活させ、今に至っている。

オーストラリア Edit

アボリジニ時代 Edit

 まずはアボリジナルが、つづいて囚人が、貧民が、探鉱者が、ついにはブッシュレンジャーが入植した「地球の裏側」の地、オーストラリア。ここに人が住むようになったのは、およそ4万5000年前のことである。インドネシアの島々を伝ってきた最初の人々は、大陸北部の海岸にたどり着いた。こうした狩猟採集民は他の文明圏と交流を持つことなく繁栄し、口伝によるスピリチュアルで豊かな文化を育んだ。その後、西暦1770年にジェームズ・クック船長がこの地にやって来て、大陸全土をイングランドの領土と主張することになる。もっとも、彼はオーストラリアを見つけた最初の人物ではなかった。それよりもずいぶん前に、オランダ人のウィレム・ヤンスゾーンやイングランド人のウィリアム・ダンピアがこの地を訪れていたのだ。とはいえ、遠く離れたこの危険な土地に好機を見出した初の人物がクック船長であったのは、確かなことである。

流刑植民地時代 Edit

建国から間もないアメリカが、船にすし詰めにされたイングランドの囚人たちの受け入れを拒んだため (彼らはもともと流刑地に送られる予定だった) 、当局は当時主流だった「厄介者を捨てる場所として世界の裏側ほど好都合な土地があるだろうか?」という考え方に沿って計画を検討しなおすことを余儀なくされた。かくしてアーサー・フィリップ准将率いる11隻の船団 (海軍の護衛艦2隻、囚人船6隻、貨物船3隻) が、第一陣としてイングランドを出発し、一路ニューサウスウェールズを目指すこととなったのである。1788年1月に船団はボタニー湾に到着したが、すぐに准将は沼地に囲まれたこの土地は健康面で植民地として不向きであると判断。良質な天然港のある北のポート・ジャクソンへ集落を移した。現在のシドニー湾である。
フロンティアに築かれた小さな街にすぎなかったシドニーにとって、最初の数年は厳しいものだった。18世紀後半の常習的な軽犯罪者は畑仕事にまったく向いておらず、補給の船はなかなか来なかったからだ。1788年から1792年の間に、3546名の男性囚人と766名の女性囚人がさらに送られてきたが、そのほとんどは重病人か重労働に向いていない者だった。1790年に第2次船団が到着したときには、乗っていた者の4分の1以上が航海中に命を落とすというありさまだったし、第3次船団の状況は、それ以前の船団の人々さえ愕然とするほどだった。そうした状況の中、植民地の成功と入植者たちの幸福のため、フィリップ准将は総督として粉骨砕身した。入植者の大半が流刑囚であろうと、彼は気にとめなかった。これぞオーストラリア魂と言えるだろう。彼は探検隊を派遣してより農業に適した土地を探させ、交易船を歓迎した。また、公衆衛生を改善し、人口過密を解消すべく、町の周囲にいくつもの集落を築いた。さらに、本国からの指示があまり重要ではないか手遅れだった場合は、その多くを無視した。フィリップ総督がイングランドに帰国した1792年の終わりには、植民地はようやく安定し、自らの意思でやってくる植民者を迎え入れられるまでになっていた。
植民地は当初、先住民であるアボリジナルにほとんど注意を払わなかった。彼らは「ドリームタイム」と呼ばれる、時間の存在しない不可思議な世界に暮らす人々だった。18世紀にはおよそ100万人の先住民がいた。彼らは300の部族に分かれ、250の言語、700の方言を話していた。彼らは、砂漠、熱帯雨林、山の一画など、それぞれが特定の土地と霊的なつながりを持っていた。アボリジナルは語る、祖霊が世界創造のドリームタイムにあらゆる生命を造り上げ、過去と現在と未来を縫い合わせたのだ、と。
大陸西部についてはオランダが領有権を主張していたが、イギリスからの入植者たちは沿岸部にいくつもの集落を築き、無言のうちに反対の意を示した。彼らは1803年にヴァン・ディーメンズ・ランド (現在のタスマニア) に入植し、1824年にはブレマー大佐がフォート・デュンダス (この植民地は短命に終わった) を建設。1824年にはブリスベン川の河口にも新たな流刑植民地が設けられ、1826年にはラックラー少佐がキングジョージ湾に集落を築いた。かくしてイギリスはこの年、大陸全土の領有権を手にしたのである。
新たな生活や一攫千金を夢見る人々が押し寄せたことで、植民地の人口は爆発的に増えていった。現在のブリスベン付近では、元兵士や囚人がユゲラ族を駆逐し、彼らの土地を手に入れた。1829年にはパースに囚人でも兵士でもない一般のイギリス人が入植。ポートフィリップ湾にはスクウォッター (「不法占拠者」のような意味を持つ) がやってきて、1835年にメルボルンの街を築いた (時期については異論もある)。イギリス国王から許可を受けた南オーストラリア会社がアデレードの街を建設したのもこの時期のことである。
歴史学者ロイド・ロブソンの調査によると、1788年から
1868年の80年間に、じつに16万1,700名もの流刑囚がオーストラリア各地の植民地に送り込まれたという。こうした新規入植者のおよそ3分の2は、活況に沸いて人口過密となった工業都市 (特に中部や北部の) で窃盗の罪を犯した者だった。しかし、「地球の裏側の古き良きイングランド」の発展に欠かせない、商人やさまざまな技能を持つ教養のある人々 (医者、宗教家、法律家、技術者) を乗せた船も、以前より頻繁にオーストラリアを訪れるようになっていった。
1820年代の前半から、増加する一方だったスクウォッターたちは集落を飛び出し、未開地を開拓して土地を占有するようになった。そこで彼らは広大な大牧場や大農場を築き、小麦やオート麦の栽培や牧羊をおこなった。こうした事業はわずかな元手で大きな利益を得られたため、真似をする者も少なくなかった。羊毛の生産はオーストラリア最大の、最も利益を見込める輸出品となり、その大半はイギリスの工場に運ばれた。1850年までには、わずか200人ほどのスクウォッターが30万平方キロメートル (11万5,830平方マイル) 以上の土地を我がものとし、オーストラリア大陸の社会において有力かつ「社会的地位の高い」階級を形成するほどになっていた。
一方、イギリス植民地省は「バーク総督の宣言」という文書を発行し、オーストラリア大陸を「テラ・ヌリウス」、すなわち「持ち主のいない土地」と宣言。これにより、王のみがこの土地を所有するとされ、アボリジナルの諸部族は条約締結の対象外とされた。また、ヨーロッパ人が持ち込んだ病気により、この言葉は法的により正確なものとなった。天然痘、インフルエンザ、はしか、百日咳、結核など、それまで存在しなかった病気によって多くの先住民が命を落としたのである。シドニーの植民地が創設されて間もなく、この地域にいたアボリジナルの半数が天然痘の流行によって命を落とした。また、疫病に任せるだけでなく、入植者たちも積極的に先住民を排除した。ホークスバリー戦争 (1795-1816)、ペマルワイの戦い (1795-1802)、テドベリの戦い (1808-1809)、ネピーアン戦争 (1814-1816) などにより、ヨーロッパ人とアボリジナルの関係はさらに険悪なものとなった。

ゴールドラッシュ Edit

1851年にニューサウスウェールズとヴィクトリア中央部で見つかった金は、膨大な人口流入を招いた。その規模は、最終的には1848年のカリフォルニア・ゴールドラッシュの人口爆発を上回るほどだった。この発見により、
中国、カリフォルニアの金鉱、アイルランド、イギリス、インドから、何隻もの船に乗り込んだ若い男たち (冒険心のある女性もいくらか混じっていた) がこの地へやって来た。その前職もさまざまで、一攫千金を狙う人々の中には、芸人や詐欺師、無宿者、偽医者、ギャンブラー、居酒屋の経営者なども混じっていたというから、その様相は人でごったがえすカーニバルさながらだったろう。ヴィクトリアの植民地は信じられないほどの勢いで成長し、1850年に7万6,000人だった人口は1859年には53万人を超えるにいたった。政府は許認可制度や強権的な警官隊によって秩序を押し付けようとしたが、こうした対応はたちまち暴動を誘発し、1854年の暮れにはバララットで衝突が発生。ディガー30名以上が死亡し、他にも多数が負傷する事態となった。その数カ月後、拡大する金鉱の管理について王立委員会が全面的な改革を断行したが、そこには許認可制の廃止、警察組織の再編、探鉱者への選挙権付与なども含まれていた。
各地の金鉱やアウトバック (オーストラリア内陸部の人口の少ない砂漠地帯) での流血沙汰をよそに、金や羊毛がもたらす富は、メルボルンやヴィクトリア、シドニーなどに投資と文明を呼び込んだ。1880年代までには、文化の発展と近代化により、これらフロンティアの都市では、人が路上で射殺されるような蛮行は滅多に発生しなくなっていた。また、この頃にはオーストラリアの住人の大半がオーストラリア大陸で生まれた人々で占められるようになっており、こうした人々は自らをオーストラリア人と考えるようになっていた。オーストラリア独特の様式は、この地の文学や芸術のムーブメントにも影響を及ぼしていた。こうした流れの中、オーストラリアの人々が遠く離れたイギリス本国からの自由と自治の拡大を考えるようになることは、もはや必然だった。
1890年、6つの植民地の代表 (当初はニュージーランド人数名も加わっていた) がメルボルンに集まって会合を持った。彼らが求めたのは、さまざまな植民地の統一と、憲法制定会議の出席者を選挙によって選ぶことだった。その翌年、シドニーで「オーストラリア全国会議」が開催され、討論を経て憲法の草案が作成される。ためらいの声も大きかったが、1900年3月、オーストラリアの使節団はこの草案を携えて渡英。同年7月、イギリス議会はこれを承認し、その後間もなくヴィクトリア女王によって裁下される。これを受けてイギリスの貴族がオーストラリアに派遣され、暫定内閣を組閣。連邦の設立を監督し、初の連邦選挙を実施した。かくして1901年1月1日、オーストラリア連邦は誕生したのである。
数度の深刻な干ばつやウサギの大量発生が少なからぬ農地に消えない傷跡を残しはしたが、産声をあげたばかりの国は順調に繁栄し、穏やかな日々が過ぎていった。オーストラリア連邦議会は数々の法案 (1901年の移民制限法など、問題のある法律も中にはあったが) を通過させ、植民地時代の軍隊を基盤にした正式な陸軍と海軍も創設された。さらには、オーストラリア自身も植民地の運営に乗り出し、その結果、1906年にイギリス領ニューギニアがオーストラリア領パプア準州となる。すべてが順風満帆に思われた。この若い国を世界大戦の荒波が飲み込むまでは。

20世紀 Edit

第一次世界大戦では、オーストラリアの人口490万人のほぼ10分の1にあたる人々が従軍を志願し、そのうち6万人が、ガリポリ、西部戦線、中東などで命を落とした。こうして流された血の見返りとして、オーストラリアはヴェルサイユ講和会議に代表を送る権利を手に入れ、そこで決議された条約に調印した。これはオーストラリアが結んだ初めての国際条約であった。オーストラリアは国際連盟にも加盟し、ドイツ領ニューギニア、ビスマルク諸島、小さな島国ナウルなど、ドイツの植民地をいくつか手に入れた。
1920年代には、労働問題、近代化の加速、世界恐慌、さまざまな政治的危機が発生した。さらに1930年代には、国際的な緊張が高まった。とりわけ日本の南太平洋への進出にオーストラリアは危機意識を募らせ、1937年の連邦選挙では自由党も労働党も防衛費の拡大をうながす論陣を張った。政府が「帝国防衛政策」によるイギリスとの協力を強く訴えた結果、必然的にオーストラリアは1939年9月に勃発した新たな世界大戦に巻き込まれることとなる。オーストラリア軍は地中海などの海上で活躍したが、開戦から2年後、より差し迫った脅威に直面することになる。太平洋の広範な海域と東南アジア、インドネシアとフィリピンの全域で、日本の攻勢が開始されたのだ。1942年2月、ダーウィンの港が空襲を受け、甚大な被害をこうむった。以後、オーストラリア本土は100回以上も空襲を受けることになる。
カーティン首相に鼓舞され、オーストラリアはいくつもの戦線で戦った… 中でも北のニューギニアは、日本軍にとっても侵攻の足がかりとなる地であったため、密林を舞台に激しい戦いが繰り広げられることとなった。国内でカーティン政権は完全な戦時体制を敷き、食料の配給制を開始。避難民を受け入れ、軍需工場や造船所を建設し、全国民に「最後まで諦めない」ことを訴えた。ようやく戦争が終結したとき、オーストラリアは2万7,000人以上の兵士、飛行士、船員を失っていた。

現在 Edit

戦後、オーストラリアは好景気を謳歌する。輸出経済は活況を呈し、政府はヨーロッパからの移民支援プログラムを大規模に展開。郊外地域が爆発的に発展し、芸術の分野では「新たなナショナリズム」が勃興した。アボリジナルの市民権も認められるようになり、冷戦における東西両陣営の相互疑心暗鬼的な対立からも比較的距離を置くことができた。21世紀はオーストラリアにとって、きっとさらに素晴らしい時代となるだろう。

オスマン Edit

 600年以上にわたってオスマン帝国はヨーロッパ、アジア、アフリカの交差路を支配した。最盛期には、東西はペルシアからハンガリーやポーランドの国境に至り、南は中東を越えて北アフリカまで達する広大な土地をその版図としていた。モンゴル軍の侵略とペストの猛威の後に生じた権力の真空地帯に台頭したオスマン帝国は、第一次世界大戦の少し後まで帝国として存続した。その間、オスマン帝国はヨーロッパと近東の政治の中心でありつづけ、多数の勢力と多数の民族、そして多数の言語と多数の宗教を抱える国内を統治した。

建国 Edit

オスマン帝国は、セルジューク朝ペルシアに仕えてビザンティンと戦ったイスラムの戦士たちによって建国された。その起源はアナトリアに定着した中央アジアの半遊牧民族にある。セルジューク朝がモンゴル帝国によって蹂躙された後、オスマン1世がオスマン朝を創始したことをもってオスマン帝国の歴史は始まる。当初、オスマン帝国はアナトリアの一画、ブルサ周辺を治めていた。トルクメン人の統治者たちと国境を接し、いまだ大きな国力を誇るビザンティンとも国境を接する、きわめて不安定な地政学的位置である。しかし、モンゴル軍の侵攻によって当時の中央アジアの政治と文化は流動的な状況にあり、オスマン帝国はビザンティンと戦って領土を広げることを望む者たちの目に魅力的な存在と映った。

黄金時代 Edit

オスマン帝国はビザンティンがバルカン半島と現在のトルコに持っていた領土を徐々に削ぎ取っていった。その一方で、セルジュークやトルクメンなど、競合するイスラム勢力を抑えて軍事的、政治的に伸長し、ドナウ川以南のヨーロッパの大部分を支配することに成功する。スルタン・メフメト2世は、1453年にビザンティンの都であるコンスタンティノープルを陥落させ、ローマ帝国の流れを汲む最後の王朝を事実上の滅亡に追い込んだ。帝国の版図はセリム1世とスレイマン1世の治世に最大となり、エジプト、レバント、北アフリカ、メソポタミア、さらにはハンガリー、ポーランド・リトアニア、ロシアなどヨーロッパの一部も支配した。
スレイマン1世の治世は、オスマン帝国の最盛期と考えられている。軍事的征服、政治と法律の改革、大規模な建設事業、芸術や工芸の奨励を特徴とする黄金時代だ。オスマン帝国の生活は、世俗の習俗、イスラム法学、地域の慣習、社会階級や階層などが複雑に絡み合っていた。イェニチェリはこうした混沌の端的な例である。もともとキリスト教徒として生まれ育ちながら、租税、あるいは供物としてオスマン帝国に差し出された少年たちが、イスラム教に改宗させられ、兵士として厳しく育てられたのがイェニチェリである。その生活は厳格な法と規律によって縛られ、結婚やまとまった財産の所有を禁じられていたが、きわめて忠誠心が厚く、帝国の精鋭歩兵とみなされていた。
戦争と同盟をめぐるヨーロッパの政治力学において、オスマン帝国は重要な要素であった。オスマン帝国はさまざまな国と時に同盟し、時に戦った。オスマン軍の侵攻を恐れる必要がなかった国も、帝国の軍事力や経済力には一目置いていた。ルネサンス時代の大半と産業時代の初期、イスラム教を奉じるオスマン帝国とキリスト教を奉じるヨーロッパ諸国の間には、常に争いの火種がくすぶりつづけ、ひとたび戦いになると両者は互いの宗教的違いを強調したが、平和になるとそうした違いには目をつぶった。

衰退 Edit

スレイマン1世の治世の後、帝国はゆるやかに衰亡していった。彼の後を継いだスルタンたちが、いずれも君主として大帝国を統治する力量に恵まれていなかったからだ。1571年のレパントの海戦など、軍事的な敗北もつづいた。それでも帝国はしぶとく、その後も数世紀にわたって命脈を保ちつづけた。オスマン軍は幾度もウィーンに襲いかかり、とりわけ1683年の第二次ウィーン包囲はヨーロッパを震え上がらせた。もっとも、ヨーロッパがオスマン帝国の拡大に苦しめられたのは、これが最後だった。

20世紀 Edit

オスマン帝国にとってとどめの一撃となったのは、第一次世界大戦である。オスマン帝国は中央同盟に加わって三国協商と対立したが、これが仇となって壊滅的な打撃を受けたのだ。帝国の旧弊な組織は改革が不十分で、政治的な痛手から立ち直ることはできなかった。トルコ人の民族主義の高まりと帝国各地で起きた独立運動により、崩壊はさらに進んだ。1920年、ムスタファ・ケマル率いる「青年トルコ人」がトルコ共和国を建国。それ以外のオスマン帝国の領土だった土地は、戦勝国の間で分割された。
軍事的な征服、単一の政治体制によるイスラム世界の統合、優れた芸術と建築など、オスマン帝国はいくつもの点で特筆に値する。3つの大陸が交差する地で、疫病と侵略がもたらした荒廃の中から勃興した帝国は、強くしなやかに、何世紀にもわたって数々の試練に耐え抜いたのである。

オランダ Edit

 オランダは、その小さな国土を物ともせずに発展を遂げた国である。オランダ人の粘り強さと創意は、木靴やチューリップ、風車にオレンジ色だけにとどまらず、特色のある文化を生み出した。より広い土地が必要になれば、オランダは北海の波を押し返し、水の底だった土地を手に入れた。またこの国の誇る艦隊は、祖国の岸を遠く離れ、彼方の土地に遠征した。武力にも支えられながら、オランダは貿易によって帝国を築きあげたのだ。

ゲルマニア Edit

西暦1世紀までに、ゲルマン系の諸部族がライン川を越えてこの地に移住してきた。後にオランダとなる地域に定住した人々は、この新天地にさして感銘を受けなかった。湿地は農耕に不向きなうえ、いささか臭かったからだ。しかし、川や湖の多い地形は、たいへん守りやすかった。ローマ人もそう考えたのだろう。彼らは辺境の国境地帯に2つの軍事基地 (ナイメーヘンとユトレヒト) を置いた。
しばらくの間、ゲルマン人たちはこの国境に満足していた。後にアムステルダムとなる土地で暮らしていた人々は、ローマ人とたびたび交易した。バタウィ族はローマ人に味方して戦うこともあったが、皇帝ネロの治世の末期に反乱を起こした。この反乱は鎮圧されて終わったが、これを端緒にその後も反抗の機運はつづいた。

フランク王国 Edit

ローマ帝国が衰退すると、低地地方ことネーデルラントを狙ってさまざまな勢力 (フランク人、フリース人、バイキングなどがその代表) が侵略してきた。特にフランク人はこの地に残る意志を固め、キリスト教を持ち込み、ナイメーヘンに宮殿を築いた。これは814年に (シャルルマーニュ大帝の死を受けて) フランク王国がいくつもの小国家へ分裂するまでつづいた。その後、独自の裁量権を得たオランダは、遠くアジアまで届く交易路を築いた。また、土壌の悪さと海面の上昇を克服すべく、湿地の干拓という遠大な取り組みに着手した。

独立 Edit

1433年までに低地地方の支配権はブルゴーニュ公に渡っていた。交易 (増加の一途にあった人口を支えるために必要不可欠な要素だった) の流れは順調だったが、ブルゴーニュ公の課した税は不評だった。スペインのフェリペ2世がオランダを相続した1500年代後半、現地のオランダ人たちが抱える不満は限界に達する。この継承の後、気づけばオランダは80年にわたる凄惨な戦争に突入していた。このスペインに対する反乱を指揮したのは、オランダの貴族オラニエ公ウィレム1世だった。彼は1584年に暗殺されたが、独立を求める戦いの火が消えることはなかった。オランダは1648年まで戦い抜き、ミュンスター講和条約に調印した。独立国家オランダの誕生である。
せっかく大国から独立したのに、たちまち別の国に征服されてしまっては元も子もない。そうした事態を避けるため、オランダは決然として貿易帝国を拡大させていった。オランダ東インド会社の権益は、アメリカ大陸の東岸から遥か彼方の島国である日本 (この国については独占交易権を手に入れた) にまで及び、アムステルダムは交易と造船の中心として、不確実な時代にチャンスをつかめる都市となった。
交易による利潤によって、オランダは芸術や科学に投資できるようになった。絵画の巨匠レンブラントが素晴らしい作品を残したのは、この時代のことである。数学者にして科学者のクリスティアーン・ホイヘンスは、土星の衛星タイタンを発見し、光の波動説を唱えた。地図製作者ヨアン・ブラウは、17世紀当時としては最大の、そして最も完成度の高い地図を作成した。彼の『大アトラス』(『アトラス・ブラウ』とも呼ばれる) には、ラテン語、フランス語、ドイツ語、スペイン語、オランダ語で書かれた594の地図が収められていた。

英蘭戦争 Edit

オランダの富の増大と、着実に存在感を高めていく艦隊に危機感を覚えたヨーロッパの国は少なくなかった。とりわけイギリスは、交易に関する規制を課し、イギリスが携わる取引においてオランダが「仲介人」のように振る舞うのをやめさせようとした。こうした動きに加え、イギリスが統一を求める主張 (苦労して独立を勝ち取ったオランダに対する事実上の解体要求) をするようになったことから、17世紀後半には数度にわたって英蘭戦争が発生した。この結果、イギリスはオランダの富と影響力、海軍力の飛躍的な増大を押し留めることには成功したが、戦火が静まった後もオランダは独立国の地位を保っていた。

ナポレオン戦争 Edit

オランダの人々にとって不幸なことに、ナポレオン・ボナパルト率いる帝政フランスは、国境を接する独立国の存在を快く思わなかった。18世紀末、ナポレオンは低地地方を制圧し、弟ルイを国王の座につけた。このルイ国王は、オランダの臣民から驚くほどの敬意を集めたが、その政策に不満を持ったナポレオンは弟と仲違いし、わずか4年後に彼を退位させる。その後も帝政フランスに従ったオランダは、フランスの戦争に参戦し、フランスの政策に従ったが、1813年に (にわかには信じがたいが) 血を流すことなく独立を取り戻した。新たに誕生した「オランダ王国」は、ベルギーとルクセンブルクも一時期その領土としていた。ただし、ベルギーは反乱を起こして1830年に独立。ルクセンブルクも、19世紀の終わりごろ、相続法に絡んだ騒動でオランダとの同君連合を解消した (もっとも、この顛末はとくに興味深いものではない)。
オランダは中立の立場を確立してこれを守り、自国の安全の確保と経済成長、そして内政に専念した。おかげで第一次世界大戦では比較的浅い傷を負うだけで済んだが、第二次世界大戦では傍観者でいられなかった。王家とオランダ政府は、ドイツ軍の侵攻を逃れるためにロンドンへ亡命。女王ウィルヘルミナはドイツによるオランダ支配に果敢に抵抗し、祖国に残る国民 (そして戦意旺盛なオランダのレジスタンス) の士気を高めた。オランダは4年にわたる占領に耐え、最後には連合国軍による祖国解放を支援した。その後大戦が終結すると、オランダは多大な労苦が待ち構える国土の再建に着手したのだった。

現在 Edit

現在のオランダは、戦後のヨーロッパにおいて重要な地位を占めている。国際的な司法機関の所在地であると同時に商業の重要な拠点であるだけでなく、この国は個人に大きな自由を認めていることで知られているが、これは社会的寛容の歴史を反映したものに他ならない。オランダは食料の純輸出国であり、土地の干拓と開発について最先端を行く存在でもある。実際、注目に値するいくつかの土木計画が、この国を舞台として進められている。北極と南極の氷が溶けることによる海面上昇が騒がれているが、オランダは不屈の精神、創意工夫、そして皮肉交じりのユーモアをもって不確かな未来と向き合っている。迫り来る海を押し返すことにかけては、千年にわたって粘り強く取り組んできたオランダ人に勝る者はいないのである。

カナダ Edit

 記録が残されていないずっと昔から、カナダには人が住んでいた。考古学的な証拠からは、ウィスコンシン氷期に最初の狩猟者の一団がシベリアから渡ってきて、その後ゆっくりと東や南東へ広がっていたことが明らかになっている。気候が安定するにつれ、定住した集団は土地ごとに多様化し、各地域に適応していった。これがカナダの先住民族 (最近は「ファースト・ネーション」と呼ばれている) の起源だが、一口に先住民族といっても、クリー、ホープウェル、イヌイット、トリンギット、オジブワ、ハイダ、ミクマクなど、多くの集団が含まれており、現在では存在しない民族も数えきれないほどいた。

バイキング Edit

カナダ先住民族とヨーロッパ人が最初に接触したのは、大西洋沿岸にバイキングが小さな集落を築いたときのことである。もっとも、この定住の試みは失敗に終わり、土地の支配権は先住民族に戻った。その後の1497年には、イングランドの航海者、ジョン・カボットが現在のカナダ大西洋州沖に到達した。最初の植民地化の試みは、本土よりも主に沿岸の豊かな漁業資源を狙ったものだった。

ヌーベルフランス Edit

1534年、フランソワ1世の命を受けてやって来たフランスの探検家ジャック・カルティエが、この地を「カナダ」と命名した。これを機に、イギリスとポルトガルが繰り広げていた領土争いにフランスも加わることになる。1541年以降、カルティエは数々の土地にフランスの恒久的植民地を設立した。17世紀末には、周囲の全域にフランスの交易や漁業の拠点ができており、フランスはカナダ本土の実効支配を固めていった。
先住民族との安定した交易基盤を背景にした毛皮取引は大きな利益を生み、生まれて間もない植民地に活気をもたらした。これにともない、セントローレンス川地域の探索と入植も進んだ。この時期、クーリュール・デ・ボワやボヤジャーと呼ばれた伝説的な毛皮商たちがカヌーを使ってカナダの内陸部を往来し、先住民族とフランス人入植者たちとの関係を深めた。入植者と先住民族との異民族婚も広がり、これがのちに両者の子孫であるメティの台頭につながっていく。メティは植民地政府や先住民族と関わりを持ち、カナダ史全体を通して重要な役割を果たすことになる。

七年戦争 Edit

ヨーロッパ本土でフランスとイギリスの緊張が高まると、カナダでも戦争が勃発した。フレンチ・インディアン戦争である。カナダ先住民族とヌーベルフランスの入植者たちが、アカディア (セントローレンス川の河口一帯から五大湖にかけての地域) で結束し、イギリス勢力と戦ったのだ。戦火が最も激しくなったのは、七年戦争の時期である。元をただせばヨーロッパの紛争だったこの争いは、瞬く間にカナダへ飛び火した。イギリスが支配する沿海州にもフランス人入植者がいたが、故郷を無理やり追い出され、ほとんどがケベックやカリブ海地域に移住した。アカディアの人々はミシシッピ川の河口地域に移り住み、「ケイジャン」と呼ばれるようになる。フランスが1763年にカナダに対する請求権を放棄すると、この地はイギリスの支配下に置かれた。現在のカナダは1つの政治体制の下で統治されているが、2つの異なる入植者文化を持ち、先住民族の影響力も非常に大きい。

19世紀 Edit

アメリカ独立戦争の時期には、多くのイギリス王党派が難を逃れてカナダに移り住んだ。アメリカ合衆国はこれを追うように大陸軍を派遣したが、遠征隊は完膚なきまでに叩きのめされ、敗走した。アメリカの軍事的傲慢の最も初期の例と言ってもいいだろうが、米英戦争の際にもジェームズ・マディソンは、カナダ征服を目的とした軍事遠征を承認している。このとき前大統領のトーマス・ジェファーソンは、「軍を進めるだけのことだ」と述べたといわれている。しかしその2年後、ホワイトハウスは焼き討ちに遭い、アメリカはフロンティア全域で苦しい状況に置かれることになる。結局、アメリカ政府は平和と引き換えに、戦争前の原状回復を喜んで受け入れた。
その後のカナダでは、政治改革と責任ある政府を求める声が日に日に高まり、1837年には武装蜂起も発生した。この反乱はすぐに鎮圧されたが、事件の調査報告書の中でイギリス政府はカナダ政府の改革を自ら訴えた。この結果、一連の改革が実施され、1867年にはその集大成として憲法が制定された。これは近代カナダの礎となる画期的な出来事であった。
カナダはその後も拡大しつづけたが、特に活発になったのは西部への入植の動きであった。この結果、フロンティアの土地や資源をめぐり、入植者たちと先住民族やメティとの間で諍いが生じるようになった。そこで先住民族との間に「番号付きインディアン条約」と呼ばれる一連の条約が結ばれ、先住民族から入植者に土地が譲渡されたが、正面きって反故にはしないまでも、政府の履行努力は表面的なものにすぎなかった。先住民族は入植者との交流を通して過去にも変革を経験していたが、怒涛のごとき入植者の流入は、伝統的な生き方を不可能にしかねない勢いだった。この時期に起きたもっとも重要な紛争が、1885年の「ノースウェスト反乱」である。メティと彼らに同調する先住民族が起こしたこの反乱は、預言者的な立ち位置にあったメティの指導者、ルイ・リエルに率いられたもので、政治的自治の確保を目的としていた。
反乱は鎮圧されたが、この争いはフランス語圏と英語圏のカナダ人の間に古くからあった分断をいっそう深めた。フランス系、先住民族、メティなどの少数派は、主流派だったイギリス系カナダ人文化の伸長を自分たちの文化への脅威と感じていた。公平を期すために述べておくと、イギリス系カナダ人の間に彼らを時代に逆行した過去の遺物とみなす傾向が根強く存在していたこともまた事実である (少数派を積極的に追い払うことまでは考えていなくても)。正義と尊厳の精神にもとづき、カナダ人は長くこの問題を懸命に議論してきたが、残念ながら今日に至っても完全な解決には至っていない。

20世紀 Edit

第一次世界大戦と第二次世界大戦でカナダは、英連邦軍を支える柱の一つとして人的支援と物的支援に力を入れたが、どちらの戦争でも徴兵は国民に大きな不評を買った。大戦が終結すると、カナダは国際政治の舞台で精力的に外交活動を展開した (レスター・ピアソン首相は、創設間もない国連を通じてスエズ危機を解決に導き、ノーベル平和賞を受賞した)。
カナダは比較的若い国だが、国土は北米最大である。この国の人々は、民族や言語の違いが原因で幾度となく分裂の危機にさらされたが、そのたびにカナダ人としてのアイデンティティを旗印に団結の道を選んだ。またそれと同時に、国内の歴史的な争いを解決すべく、粘り強い取り組みもつづけている。できることならシヴィロペディアでカナダの偉業や歴史を余さず紹介したかったのだが、紙面の都合でそれはかなわなかった。残念という他ない。

ガリア Edit

 ガリア全土を支配していた王はいない。ガリア人とは、言語や宗教、社会構造を同じくする諸部族の総称である。ガリア人は、カエサルとローマの逆鱗に触れたことで、ローマに完全に屈伏させられた。しかし、滅びたわけではない。その後はローマの文化を吸収し、ローマの領土だった時代からその後にかけて独自のアイデンティティを育み、後のフランスの礎を築いたのである。

先史時代 Edit

ガリア人は (カエサルの正確無比な記述によると) 当初、「ガリア人」とは名乗っておらず、 「ケルタエ」 と名乗っていたらしい。地域の名前となった「ガリア」とは、「異邦人」という意味のケルト語だった。つまりガリアとは、「異邦人 (この場合はローマ人) が治める王国」の意味だったのである。紛らわしいことに、ローマ人が「ガリアのケルタエ人」という意味で使っていた「ガラティア」という呼称は、「たくましい」という別のガリア語から派生したらしい。征服されたガリア人がローマ人に対して「自分たちはたくましいケルト人だ」と名乗った場合、「我々は異邦人に治められし国である」という意味にも聞こえたということだ。別のケルトの土地で暮らしていた彼らの遠い祖先がこれを聞けば、他人事とは思えなかったろう。
カエサルによる征服から千年ほど前、後にガリア人となる諸部族が、中央フランスのライン川流域に住み着いた。紀元前5世紀頃、この人々は地中海沿岸に向かって南下し、イタリア北部に定住する。彼らはそこで止まらず、イタリア半島をさらに南下して、ブレンヌスという族長に率いられて紀元前390年にはローマを略奪している (紀元前278年頃にギリシャに侵攻したブレンヌスという指導者がいるが、別人である)。ガリア人は恐るべき、無視できない勢力だった。ローマとカルタゴが争った第二次ポエニ戦争では、彼らはハンニバル・バルカに味方した。この時の同盟と略奪がローマを怒らせたことは言うまでもない。ローマ軍は侵攻してくるガリア人を押し返し、やがてはどうにか優位に立つことに成功し、最終的にはガリア戦争で彼らを征服した。紀元前51年、ユリウス・カエサルとその盟友たちによってガリアはローマの支配下に置かれた。ガリア征服はカエサル自身の悲願でもあった。彼は負債を返すための黄金 (ガリア人はたっぷり持っていた) と、本国からの批判をはねのける軍事的成功を必要としていたのだ。もちろん中にはローマによる統治に反旗をひるがえす部族もあった。特に有名なのが、ウェルキンゲトリクスのアルウェルニ族とアンビオリクス率いるエブロネス族だ。どちらの反乱もガリア側の敗北に終わったが、敗因は技量や戦意ではなく、資源と結束の不足だった。

ローマ支配 Edit

紀元前27年から紀元前12年頃に、ガリアはローマ帝国の統治下で3つの地域に分割された。後の皇帝アウグストゥスは、ユリウス・カエサルの記録を頼りにして境界を維持しようとしたというのだから驚かされる。西暦3世紀のゲルマン人の侵攻によってローマの求心力に陰りが生じるまで、地域の平和は (比較的) 保たれていた。
ローマによる征服以前のガリア人は、異なる部族の集まりとは思えないほど豊かで独特な社会を形作っていた。彼らはたくさんの金鉱を持っていた (当然カエサルはこれに目をつけた)。カエサルがガリア人から奪った黄金があまりに多かったため、金の価格が下落したというのだから、その豊かさが伺えるだろう。ガリア人はこうした黄金を加工し、さまざまな装飾品を作った。黄金は兜にもあしらわれた。女性は「トルク」と呼ばれる蹄鉄のような形をしたネックレスを、対になるブレスレットと合わせて身につけた。
ガリア人の政治や社会の仕組みは複雑だった。ドルイドと呼ばれる司祭が高い地位にあり、精神的、政治的指導者として振る舞った。一般的なイメージやローマ人による悪意ある宣伝と違い、人間を使った生贄の儀式などはおこなわれていなかった。部族にとってドルイドは、伝承を維持し、人々を治療する存在だったようだ。ドルイドは信仰や政治に関する助言を与え、必要なら裁判官の役を務めることもあった。ドルイドが信者たちに与える影響を危惧し、彼らの習わしや知識を弾圧しようとした者もいた。皇帝クラウディウス1世は中でも有名だろう。こうした動きに加え、一神教であるキリスト教が台頭したため、ドルイドによる「ケルトの」宗教は完全に破壊されてしまった。彼らがいかなる存在であったのか、今日では断片的な手がかりから解き明かしていくしかない。
ドルイドだけでなく、部族の長老や王が集まった評議会もガリア人を導いた。時には共同統治のような形で部族を率いる例もあった。部族はおおむね自治を許されていたが、この分断がカエサルに付け入る隙を与えたともいえる。ローマの統治下に置かれると、ガリア人の中でも豊かな者はローマの文化的素養を身につけ、階級間の格差の拡大と固定も進んでいった。こうした人々はローマ人のような服を着て、母語であるゲール語とラテン語が混ざった言葉を話した (フランス語の原型である)。家や村の築き方についても、征服後のガリア人はローマ人の真似をした。

現在 Edit

現在、ガリア人、つまりケルト人の子孫は、イギリス、ドイツ、バルカン半島諸国、トルコ、スペイン、フランスで暮らしている。彼らの遺産は、他のさまざまな文化と混ざり合ってきた。たとえばフランスは、ガリア人だけでなく、フランク人 (ゲルマン系部族)、ローマ帝国後期に攻め入って定住したゴート人、同じく侵略者であるノルマン人、そして他ならぬローマ人によって生み出されたのである。

ギリシャ Edit

古代ギリシャ Edit

 古代ギリシャ (ヘレニズムとも呼ばれる) の時代は、紀元前510年、アテネ最後の僭主の死によってはじまり、紀元前336年、マケドニアのピリッポス2世の暗殺とともに終わった。この時代が大物の死によって区分されるのはふさわしい。なぜならこの時代は――2度の大規模な戦争と影響力のある都市国家の衰退、そしてマケドニアの覇権のはじまりによって明らかなように――血なまぐさいものだったからである。しかしこの174年間にギリシャは西洋文明の基礎を築きもした。経験主義、芸術的美学、政治構造、文学形式など、文化を構成するほとんどの要素がこの時代にはじまっている。つまり、明暗に満ちた時代であり、世界史の中でも極めて象徴的な時期であったのだ。
ギリシャ人は、都市国家を意味するポリスという (誕生以来ずっと誤用されている) 言葉を生み出した。伝統的にこの言葉が指していたのは古代アテネのような形式の政治単位 (近隣の小さな街や村を支配する中心都市) だったが、スパルタのような組織形態 (とびぬけて強力な中心都市がなく、小さな街同士が結びついていた) を指す場合にも使われた。そしてこの違いによって、古代ギリシャの歴史について多くを説明することができる。特に有力な都市国家は4つあった (コリント、テーベ、アテネ、スパルタ)。それぞれのポリスは自治権をもつ政治的な存在であり、所属する市民に対してのみ責任を負っていた。各都市国家に暮らす市民は言語、歴史、文化を共有していたにもかかわらず、絶え間なく争い、気の向くままに戦争をはじめた。ギリシャ人は共通の敵を前にして団結することもあったが、当面の危機が去るとすぐに同盟は破棄され、互いに殺し合った。
すべては紀元前512年にはじまった。アテネの僭主ペイシストラトスが死去すると、アテネの貴族たちは、僭主 (当時はまだ「暴君」や「独裁者」といった軽蔑的な意味合いはなかったが) はもういらないと、息子のヒッピアスを追放する助力をスパルタに求めた。スパルタの王クレオメネスは統治にスパルタ式の寡頭制を導入しようとしたが、アテネのクレイステネスがそれを阻止し、市民同権の民主主義を制定する一連の改革を行った。そこでは、すべての市民 (もちろん女性と奴隷は除かれる) に、法の下で平等な権利が与えられた。こうして文明に民主主義がもたらされ、状況は大きく変わった。スパルタはアテネを攻撃して傀儡政権を樹立しようと奮闘したが、圧政から解放されたばかりの市民が強固な守りを見せると撤退を余儀なくされた。こうしてアテネとスパルタの対立がはじまり、数世紀もつづくこととなった。

ペルシア戦争 Edit

アテネとスパルタの対立はすぐに保留となった。より大きな脅威… ペルシアに対処しなければならなかったからである。紀元前8世紀からギリシャ人入植者はイオニア (小アジアの沿岸地域) に都市を建設していたが、紀元前6世紀なかばまでにすべてがペルシア帝国の軍門に下っていた。499年、イオニアの諸都市は「圧制者」に対し、いわゆるイオニアの反乱を起こした。アテネといくつかのエーゲ海の都市国家はこれを好機と見て同胞のギリシャ人に援軍を送ったが、効果はなかった。この連合軍が494年のラデ沖の戦いで完敗すると、ペルシアは報復に出た。マケドニアとトラキアへ進軍しながらすべてを略奪し、エーゲ海に艦隊を送り込んで片っぱしから船を沈めたのだ。490年にペルシアのダレイオス大王は、アテネを目標として2〜10万の軍勢をアッティカに上陸させた。マラトンでペルシア軍と対峙したのは9000人ばかりのアテネ軍と1000人ばかりのプラタイアイ軍であったが、それでも彼らはペルシア軍を打ち破った。この勝利によって、ギリシャは次の局面に向けた準備期間として10年を稼ぐことができた。
ところがギリシャ人は、せっかく得た10年を無駄にし、ただ言い争っていた。紀元前480年になるとペルシアのクセルクセス1世がギリシャへの攻撃を再開し、今度は自らが約30万の軍勢を率いてバルカン半島に上陸した。海上にいる同規模の艦隊から補給を受けつつ、巨大なペルシア軍はギリシャの諸都市を迅速に制圧しつつ、一路アテネを目指した。9月にテルモピュライの隘路で束の間の遅れをとったものの (屈強なスパルタ兵が300人ほどと、誰からも忘れ去られてしまったテスピアイやテーベの兵1100人ほどがペルシア軍と戦った)、ほどなくしてクセルクセス1世はアッティカに進軍し、アテネを侵略して焼き払った。ただし、この時点で人々はアテネから避難していた。
その一方、アテネ率いる271隻のガレー船と三段櫂船からなるギリシャの連合艦隊は、ペルシアのおよそ800隻の大艦隊をアルテミシオンの海峡で迎え撃つために集結していた。丸1日つづいた戦いは引き分けとなったが、ギリシャ軍にはそれ以上戦う余力がなく、テルモピュライでの戦いの連絡を受けると、勇敢にもサラミスの港へ撤退した。クセルクセス1世は決定的な打撃を与えて強情なギリシャ人たちを降参させようと、軽率にも艦隊をサラミス海峡へ送り込んだ。しかし狭い海域ではペルシア艦隊の数は有利になるどころか足枷となり、操船技術に勝るギリシャが上手を取ることとなった (歴史家ヘロドトスは、犠牲者の数に大きな偏りがあるのは、ギリシャ人は泳いで岸まで辿り着けたのに対して、ペルシア人のほとんどが泳げなかったからだと述べている)。
このような危険な場所で補給を絶たれることを恐れたクセルクセス1世は、海上輸送の途絶によって食糧や軍需物資が底をつきかけていたこともあり、ヘレスポント海峡へと段階的に撤退を開始した。紀元前479年には、スパルタのパウサニアス率いる連合軍が、「ギリシャ人にとどめをさす」ために残されていた大規模なペルシアの軍勢を破った。アテネ率いる海軍は、ミカレ岬でもペルシア艦隊を破り、翌年にはイオニアにあるギリシャの植民都市ビザンティウムを取り戻した。アテネは島々の都市国家とデロス同盟を結び (同盟の金庫がデロスという神聖な小島に設けられたことからこの名前がついたが、それも短い間だった)、エーゲ海からペルシアを追い払った。スパルタの重装歩兵隊は、戦いは終わったと判断し (事実そのとおりだった) 帰還した。
平和 (もしくはそれに似た状態) が訪れると、ギリシャ人たちは腰をすえて文化や文明を発展させた。ギリシャの劇作家は戯曲や喜劇を確立した。ペリクレスはデロス同盟の資金を横領し、パルテノン神殿などの素晴らしい建築物を建てた。彫刻家のフェイディアスやミュロン、ポリュクレイトスは、大理石、石材、ブロンズに生命を吹きこんだ。ソクラテスやアリストテレスのような哲学者やソフィストは、学園や書庫で (時には道端で)、人生をはじめとする万物の意味を熟考した。ヘロドトスやトゥキュディデスは
「歴史」の記録をはじめた。ピタゴラスやエウドクソスは西洋の数学の基礎を築いた。宗教が形式化され、法律は体系化された。ヒポクラテスはアテネで医者を開業した。そしてそれらすべてが記録された (イソップの寓話のような子供向けのおとぎ話でさえ)。ギリシャ人たちは他にも偉業を成し遂げていたかもしれない… 再び殺し合いをはじめていなければ。

ペロポネソス戦争 Edit

トゥキュディデスがこの不愉快な出来事をすべて書き留めていたので、現代の我々もペロポネソス戦争の経過を細かく知ることができる。ペロポネソス戦争とは、(絶頂期にあった) アテネ率いるデロス同盟と、スパルタが支配するペロポネソス同盟の間で長くつづいた戦争である。ミロスのように対立と距離を置こうとした都市国家でさえ、最終的には戦闘に参加することとなった (ミロスはデロス同盟への参加を求めるアテネの提案を断ったが、アテネに税を払って助かるか、それを拒んで滅ぼされるかという選択を迫られた)。紀元前460年にはじまった第一次ペロポネソス戦争は決着がつかないまま30年和約 (スパルタとアテネの「勢力」範囲を明確にした条約) によって紀元前445年に終結した。
しかし、その後も両陣営は相手の問題に介入しつづけ、紀元前431年には結局戦争は再開した。アテネとスパルタは10年にわたって幾度も方々へ進軍し、殺戮を繰り広げた後、「50年和約」とも呼ばれたニキアスの和平に同意した。だが、それも長くはつづかず、さらに方々への進軍、殺戮、略奪が繰り広げられた。紀元前415年、ついにアテネはコリントのギリシャ植民都市であるシチリア島のシラクサへ全戦力を派遣した。しかしこの作戦は完全に失敗し、紀元前413年までに全軍が壊滅した。その一方でペルシアは、エーゲ海の島々で高圧的なアテネの支配に対して勃発していた反乱を支援していた。紀元前405年にアイゴスポタモイで、スパルタの海軍提督率いるペロポネソス同盟の180隻の艦隊がアテネの新艦隊を破ったことが決定打となり、翌年にアテネは降伏。スパルタがギリシャに君臨した。
スパルタ王は新たな世界秩序の構想を持っていたが、スパルタによる支配はうまくいかなかった。実際のところ、この時代には半世紀の間にさまざまな衝突が起こったが (スパルタ対テーベ、スパルタ対アテネの再戦、スパルタ対テーベの再戦、スパルタ対復活したボイオティア同盟)、戦ってもなにひとつ解決しなかった。どの都市にもギリシャを統一したり支配したりする力はなかった。この時代に起きた策略や裏切り、戦いや虐殺の詳細は、ここで述べるには長すぎる。とにかく、数十年にわたる厳しい戦いでギリシャ南部の諸都市国家は弱体化し、力のバランスは北方のマケドニアに傾いた、と述べれば十分だろう。

マケドニア時代 Edit

紀元前359年頃、それまでギリシャ世界の粗野で未開な周辺地でしかなかったマケドニアの指導権をピリッポス2世が握った。野心的なピリッポス2世率いるマケドニアの重装歩兵隊は、すぐに近隣のパエオニア、イリュリア、トラキアの領土を侵略し、紀元前357年、トラキア最大の港アンフィポリスを奪った。その1年後、ピリッポス2世はアテネが守るピュドナの港を征服した。偉大な (そして後から考えると予言的な) 弁論家デモステネスは、アテネ市民などを相手に、マケドニアの拡大に対して断固戦う必要があると声高に説きはじめた。そしてまったく効果が出ないまま、手遅れとなった。紀元前338年、ピリッポス2世は16才の息子アレキサンドロスをともなって南に進軍した。若きアレキサンドロスは、少数のマケドニア兵を率い、先だって起こったトラキアの反乱を鎮圧しており、すでに将たる力量のあることを証明していた。ピリッポス2世は複数の少部隊を派遣した後、アテネ、コリント、テーベ、メガラ、カルキス、アカイア、エピダウロス、トロイゼーンの連合軍をカイロネイアの戦いで完全に打ち負かした。このカイロネイアの戦いこそが古代世界で最も決定的な戦いだったと論じる者もいるほどである。
それはともかく、ピリッポス2世が次に目をつけたのは、カイロネイアの戦いに参加しなかったスパルタとそのわずかな同盟国だった。そこで翌年はスパルタの領土を荒らし、マケドニアと敵対するスパルタの同盟国と和解し、スパルタを説得することにあてた。ピリッポス2世のこの努力はいくらか実を結び、紀元前337年の後半にコリント同盟 (マケドニア軍がコリントに駐留していたためこの名がついた) をなんとか作りあげた。コリント同盟は、同盟内の領土の平和と、宿敵であるペルシアに遠征する際にピリッポス2世を軍事支援することを約束するものであった。すべての都市国家がこの同盟に加わった… スパルタを除いて。コリント同盟はピリッポス2世をペルシア侵攻のストラテゴス (指揮官) に選出した。
ギリシャは事実上マケドニアの言いなりになり、紀元前336年には先遣隊が北部から小アジアへ送りこまれ、戦端が開かれた。ピリッポス2世も、ペルシアの中心まで侵攻できる大部隊 (ギリシャの同盟軍含む) を率いてつづくはずであったが、娘の婚礼の宴席で自分自身の護衛に暗殺されてしまい、既知世界の制覇は息子に引き継がれた。かくしてアレキサンドロスは20才にしてマケドニアの王位に就き、自動的にギリシャ全体の支配者となった。その後のことは、誰もが知るところである。

クメール Edit

 クメール王国を統べる勇ましき神王たちは、西暦9世紀から15世紀にかけて、東南アジアを制覇した。クメールは、農耕が盛んで軍事にも長けた強大な王国だった。その富は北の強国である中国すら一目置くほどだった。しかし皮肉にも、その富と米はクメールを敵視する隣国にとってあまりにも魅力的すぎた。最終的にクメールは、スワンナプームに征服されることとなる。

扶南 Edit

考古学的な研究と中国の史書の記述によると、クメールの歴史は西暦1世紀までさかのぼれる。発祥の地は、東南アジアのメコン川流域であったようだ。中国人はこの地域とそこで暮らすさまざまな民族をひとくくりにして「扶南」と呼んでいた (実際には彼らは一様ではなく、互いに争っていることも多かったのだが)。
クメールの伝説によれば、彼らの祖先はカンボジア最初の王、インドの王子プリア・ソン (中国の記録では混塡) と魔法の海の王国の聖なる蛇 (ナーガ) であるニエン・ネアク姫であり、この地域は姫の父親が娘夫婦とその子孫のため、ノコ・カウク・スローク島周囲の水を干上がらせて生み出したのだという。
この伝説は、ヒンドゥー文化がこの地域に多大な影響を及ぼしていることを示している。メコン川に基盤を置く扶南は、インドの旅人や西に向かう商人にとってうってつけの経由地だった。インド人はヒンドゥー教、法、商業、サンスクリット語をもたらし、それらはやがて現地のアミニズム的伝統と融合していった。
「扶南」とひとくくりにされた、このインドの影響を受けた雑多な集団は、数世紀にわたって互いに争った。集約された権力を持つ政府が短期間だけ成立することもあったが、中央集権化が進んだアンコール時代への移行は、西暦9世紀にジャヤーヴァルマン2世が登場するのを待たねばならなかった。

黄金時代 Edit

このクメール帝国最初の征服王は、西暦9世紀に即位した。それ以前のジャヤーヴァルマン2世は、ジャワ人の客人か、あるいはその囚人だった。そのどちらであったにせよ、故郷に戻った彼の情熱は、メコン川の競争相手を叩きつぶすという厄介な事業に向けられたようだ。
それが終わった後、彼に残された最後の仕事は、クーレン山脈のマヘンドラギリ山の頂で儀式を執りおこない、自らを「転輪聖王」すなわち「宇宙の支配者」と称することだった。西暦802年、ジャヤーヴァルマン2世は実際にこの儀式を執り行った。これによって彼は、帝国を築くにあたり、神々の後ろ盾を得たのである。
彼の手法には目を見張るべきものがあった。その後600年つづいた帝国の全盛期、クメールは現代のタイの大部分とベトナムの半分を支配し、首都の人口は100万人を超えた。10世紀までに帝国は南シナ海まで広がり、モンゴルと唐の南下を防いだ。メコン川の交易権を守りたいなら、これは悪い拡大の仕方ではなかった。
西暦1296年から1297年にかけて、周達観という中国の重臣がクメールを訪れた。その訪問に関する著書『真臘風土記』の中で彼は、「この国は昔から交易国だった」と述べている。周達観は黄金の土地と石の塔を描き、シャムとチャンパから入ってくる布と、中国から入ってきて現地人の日傘に使われる絹について記している。
クメールの甚大な富の源は、帝国の内外から途切れることなくもたらされる原材料だった。また、帝国は東南アジアの米蔵の役割も果たしていた。クメールの人口の80%もの人々が、米の生産や取引に関わっていたと言われている。
これがクメールの黄金時代だった。スーリヤヴァルマン2世がアンコールワットに寺院群の建設をはじめたのもこの時代のことである (完成は王の死から27年後)。アンコールワットは、物質世界、抽象世界、精神世界が収斂する地である伝説の須弥山を模していた。これによってクメールの王たちは、地上に天界を現出させようとしたのだ。
だが、建設の動機が純粋な信仰心の発露だったかと言えば、それは違う。ヒンドゥー教徒だった王たち (ジャヤーヴァルマン7世は仏教徒だが) は、神々を味方につけようと必死だったのである。ある王は神々の似姿をなんとか留めようとして、天上世界を模した寺院を築いた。クメールでは、より強力で魅力的な王ほど、より多くの民と土地を手に入れることができたのだ。
もちろんこれは、聖なる力に欠ける弱い王は、国を統べる価値がないとみなされることも意味していた。

衰退 Edit

皮肉なことに、クメールの破滅の原因となったのは、その富と栄華であった。西暦12世紀から14世紀にかけて、北のタイの人々 (現在のタイ、ラオス、シャン州) は、拡大をつづけるモンゴル帝国に圧迫されていた。彼らは険しい山岳地帯での暮らしをあきらめて南に移り、スコータイ、ラーンナー、アユタヤなどの小さな王国を築いたが、こうした国々がクメール帝国の外縁部を浸食するようになったのだ。
北の侵略者とも、長くライバル関係にあった東のチャンパ王国とも、クメールはもはや戦えなくなっていた。かくして西暦1431年にはアユタヤのタイ王国にアンコールを奪われ、クメールは玉座を現在のカンボジアの首都であるプノンペンに移さざるをえなくなった。
帝国は滅びたが、寺院は今も残っている。そして現在もカンボジアの人々の間では、自分たちが海から来たこと、遠い祖先のこと、インドの王子と蛇の姫のことが語りつがれている。

クリー Edit

 現在のクリー族は、カナダ最大の先住民族である (イヌイットは除く)。ただし「クリー」は英語名であり、彼ら自身は「ネヒラウェ」と名乗っている。伝統的に彼らは、現在のアルバータ州、サスカチュワン州、マニトバ州、オンタリオ州の亜寒帯と平原地域、そしてハドソン湾南西岸からケベック州の一部に食い込む一帯を主な勢力圏にしてきた。居住地域や方言によって幾つかの子集団に分かれ、独立した数多くの部族で構成されているほか、アルゴンキン系言語を話す他の人々の流入も見られるが、クリー族と他の先住民族の結びつきは緊密で、彼らが昔から外来者に対して寛容な姿勢を示してきたこともあり、他の部族や外来者からの血も多く入りこんでいる。

クリー族 Edit

クリー族の文化で大きな特徴を成しているのが、個人と集団の関係である。柔軟性と外来者を歓迎する風土が、民族としてのクリー族最大の強さといえるだろう。その歴史の大部分において、クリー族は家族を中心とする小さな集団をその構成単位としていた。男に期待されるのは狩りに出て部族を守ることであり、女はキャンプを築いて物資を管理するという重要な役割を担った。各個人は、部族に新しく加わってその部族に貢献することも、部族を去って別の部族に加わる道を選ぶこともできた。外来者も、結婚や養子という形である集団への仲間入りを果たすことが可能だった。こうしたことでクリー諸族の関係は強化され、同様に他の先住民族やメティ (カナダ先住民とヨーロッパ人の混血)、ヨーロッパ人と関係を結ぶこともあった。
こうした集団の統率権は、厳格な血筋よりも個人の資質に大きく依存していた (たとえば、首長の息子だからといって必ずしも父の後を継げるとは限らなかった)。首長には肉体的な勇猛さだけでなく、政治的に明達で、柔軟な思考を持ち、弁舌巧みであることも求められたのである。また、贈り物や問題の仲裁などを通じて、集団の内外で寛容さを示すことも求められ、意思決定においてはあらゆる方面からの忠告に耳を傾けねばならなかった。戦士たちや踊り子の集団は、次世代の有望な指導者たちに対して、戦いや政治の場で、自らの資質を示す機会を提供した。
このように、統一的な指導者がいなかった彼らを、「クリー族」という単一の集団として語るのには無理がある。とりわけ問題だったのは、西洋諸国の政府と交渉する必要があった場合だ。話し合いを求める者もいれば、戦いを主張する者もいるといった具合で、指導者ごとにその態度はバラバラだったが、クリー族の一員という表面上の立場は皆共通だったからである。
アメリカ先住民の多くと同様、クリー族は歴史の継承を口伝に頼っていた。創生神話の豊かな蓄積も例外ではなく、部族によって内容が異なることも珍しくない。そうした物語のひとつによれば、人々の祖先はかつて雲の上にいた。あるとき彼らは、青々とした緑豊かな下界を眺め、大小の川に縁取られたその土地に住みたいと考えた。彼らは偉大な精霊に、自分たちを下界に下ろしてほしいと頼んだ。すると精霊は雲で巨大な器を作り、人々をそこに入らせて下界に下ろした。しかし器は途中で木に引っかかってしまう。動物たちが次々と通り過ぎたが、誰も助けてくれない。だがそこに漁師が現れた。漁師は木に登り、人々を下ろしてくれた。

ヌーベルフランス Edit

ヨーロッパ側の記録に初めてクリー族が現れるのは、17世紀初頭にヘンリー・ハドソンがジェームズ湾とハドソン湾を調査した際の報告書においてである。このあと間もなく、ヨーロッパとクリー族の間で毛皮の交易が本格的に始まった。この交易はクリー族を根本的に変化させた。いや、彼らだけではない。北米の文化と経済が根本から一変したのである。
当時のクリー族は、主にハドソン湾周辺地域で暮らしていた。現在のオンタリオ州とケベック州の南にあたる場所である。彼らは罠師として、そして交易商として毛皮交易に関わり、ヨーロッパからもたらされた品と毛皮を交換した。クリー族の諸部族は、メティやヨーロッパ人と強固な関係を築くことに成功し、それを交易に活かした。クリー族同士で西洋の品を取引することもしばしばあった。
最終的にクリー族は、ソートー族とアシニボイン族と語らい、軍事と政治の両面にわたる同盟を結成した。これは「鉄の同盟」と呼ばれ、中央カナダにおける一大勢力として、150年にわたって存続した。同盟の基盤となっていたのは、ヨーロッパの毛皮市場との交易だった。この当時、クリー族の部族の多くが、森林を出て西の大草原へと移動していった。森の罠師や猟師だった彼らの社会が、馬にまたがる戦士やバイソン猟師へと急速に進化していったのだ。だがクリー族の西方拡大は、他の先住民族との衝突につながり、ブラックフット族やスネーク族との間に断続的な争いが生じた。
こうした部族間抗争は、馬、バイソン、領土といった平原の資源を巡る争いだった。襲撃と報復の負の連鎖は、平原に迫る脅威を前に、話し合いや養子縁組 (「パウンドメーカー」の項も参照) によって次第に鎮静した。

19世紀 Edit

しかし19世紀中頃までには、毛皮と肉を得るための乱獲により、バイソンの群れは急激にその数を減らしていった。アスペン・パークランドを拠点としていたクリー族は、南の草原地帯より早くバイソンの減少に直面したが、いきつく先はどこも同じだった。こうした「共有地の悲劇」はその後さらに悪化し、生活の糧を失ったクリー族はカナダ政府に支援を求めざるをえなくなった。
結局、クリー族の諸部族は、カナダ政府と「番号付きインディアン条約」を結ぶことになった。この背景には、政府から支援を引き出し、新しい生活をはじめたいとの考えがあった。また、自分たちが暮らす地域への白人入植者の流入を防ぐ思惑もあった。しかし、先住民族の諸部族はあくまでも個々の集団として署名することが多かったのに対し、政府は彼らが民族全体を代表して調印したと考えていた。こうした認識の不一致は、のちに先住民族が条約の義務を無視しているという非難に発展する。そしてこうした非難が、政府が約束を守らないことを正当化する材料となり、条約に署名した人々の不幸は一段と大きくなったのである。
クリー族の指導者の中には署名を拒む者もいた (あるいは、署名するにしても非常に渋った)。ミスタヒマスクワ (別名ビッグ・ベア) やピトカハナピウィイン (別名パウンドメーカー) はその代表格である。彼らはこうした条約が伝統的な生き方に終止符を打つものと考えていた。
アシニボイン族とクリー族の一部は、メティが起こした「ノースウェストの反乱」と同時期に発生した暴動に加わった。この反乱は、カナダ政府が条約を遵守していないという不満に加え、居留地の内外で暮らす先住民族の生活がバイソンの減少によって困窮を極めたことを原因としていた。だが、兵力、装備、兵站においてカナダ政府は優位にあり、一方の反乱勢力は連携すらままならなかったため、先住民族は敗北すべくして敗北した。これにより、カナダにおける一大勢力としての「鉄の同盟」は、終焉を迎えることになった。
反乱が鎮圧された後、クリー族は居留地に移住させられ、自分たちの土地の資源に対する権利を奪われ、その伝統的な文化は政府の監視下に置かれた。また、子供たちは先住民族のための寄宿学校に押し込められた。言うまでもなくこれは、母語と伝統文化の継承を妨げることを目的とした、強制的な同化政策だった。これはクリー族の文化の存続に、消えることのない大きな傷跡を残す結果となった。一部の伝統的知識は今や完全に失われてしまっており、その影響は今後さらに何世代も続くことになるだろう。
しかしクリー族は、自分たちの権利を主張することや国の舵取りに参加する権利を諦めてはいなかった。20世紀後半にはクリー族の弁論家が多数育った。そして今、クリー族はカナダ最大の先住民族として、世界中の先住少数民族の権利の擁護、そうした人々の土地の環境保全、土着の伝統文化の保存に尽力している。

グルジア Edit

 グルジア (現在はジョージアと呼ばれている) の黄金時代とされてきたグルジア王国は、中央アジアの交差路に500年近くにわたって存在した。キリスト教の拠り所だったグルジアは、独特の優れた文芸文化と芸術を発展させ、その独自のアルファベットは現在も使われている。聖地とルーシ (後のロシア) に関する外交事案で重要な役割を担ったグルジア王国は、ビザンティン帝国にとっては重要な同盟者であり、数々の属国にとっては守護者であった。

建国 Edit

グルジア王国の台頭は、キリスト教世界最古の王家の1つであるバグラティオニ朝の勃興と切っても切り離せない。バグラティオニ家は、自分たちの先祖であるバグラトの系譜をさかのぼると、イスラエルの王ダビデに行きつくと主張していた (彼らの紋章には、投石器と竪琴が描かれている)。ダビデ王云々はともかく、彼らの家名が少なくとも西暦6世紀にはコーカサス・イベリアの指導者と関連があったことは確かである。サーサーン朝ペルシアとアッバース帝国の力が衰えると、バグラティオニ家はその領土を広げ、やがてタオ・クラルジェティ王国を築いた。そして西暦9世紀の終わり頃には、バグラト3世がアブハジア王国を併合した。
その後も、建設王ことダヴィド4世を含むバグラティオニ家の諸王により、政治的な統合やセルジューク朝に対する戦いがつづけられた。賢明なことに、王の後継者は本格的に即位する前に、共同統治者として国事へ携わる慣習があった。デメトレ1世やタマル女王にもこうした共同統治の経験があり、おかげで単独統治する前に実践的な経験を積むことができた。
しかし、君主は必ずしも易々と王位に就けるとは限らなかった。力のある貴族が折に触れて反乱を起こし、支配者を玉座から引きずり下ろそうと陰謀を企むことがあったからだ。こうした企ては失敗に終わることが多かったが、貴族たちが君主の権力を抑えたり、要求を押しとおすことに成功することもあった。タマルがルーシの公子ユーリーを最初の夫として受け入れたことは、その最たる例である。これは貴族の強い要求があってのことであった (これについては別項を参照)。

黄金時代 Edit

グルジア王国はタマルの治世に全盛期を迎え、友好国や属国に囲まれた、南コーサカスを真に統べる帝国となった。また、建築、絵画、詩歌においても、中世ヨーロッパの全盛期に匹敵する繁栄を謳歌した。この女王の治世に書かれた『豹皮の騎士』という壮大な叙事詩は、グルジア文化の中心的な存在となり、20世紀まで婿入りや嫁入りの道具として扱われていたほどである。
グルジアは何度もセルジューク朝に対して出兵し、グルジアの将軍 (そこには王配も含まれた) は征服によって国土を広げた。黒海に面したトレビゾンド帝国の領土は、かつてビザンティン帝国が支配していた土地であった。ビザンティンの皇族たち (彼らはタマルと縁戚関係にあった) によって統治されたトレビゾンドは、グルジアの代理として中東に進出していった。十字軍がサラディンに敗れ、ビザンティン帝国が崩壊に向かっていた頃のことである。他にもグルジアは、エルサレムに存在するものも含め、聖地の修道院に対する権利も主張した (その一部は現在も所有している)。

衰退 Edit

しかし、西暦1213年にタマルが没すると、グルジアは急激に衰退する。それより前、第4回十字軍の結果としてコンスタンティノープルが陥落し、それによってグルジアは最大の後ろ盾を失っていた。時を同じくしてモンゴルがグルジアに侵攻し、タマルの息子ゲオルク4世を圧倒する。タマルの死後は娘のルスダンが王位についたが、モンゴルを撃退できず、グルジア西部への逃亡を余儀なくされた。これにより、東部はモンゴルの支配下するところとなる。次の数世代はモンゴルに対する反乱が相次ぎ、国土は広範囲にわたって荒廃した。
最終的にモンゴルの力は衰え、グルジアはゲオルク5世光輝王のもとで栄光の一端を取り戻した。ゲオルク5世はグルジアの領土を回復させ、モンゴルへの朝貢を止めた。そしてビザンティウム、ジェノヴァ、ヴェネツィアと外交関係を樹立した。しかし、この繁栄は長くはつづかなかった。遠征から戻ったグルジア兵が、一緒に黒死病を持ち帰ったのだ。ヨーロッパ各地や中東で猛威を振るったこの疫病は、数百万のグルジア人の命を奪った。
西暦1386年にティムールが遠征を開始したとき、征服と疫病で弱体化したグルジアに戦う力は残されていなかった。それから1世紀もたたずして、グルジアはゲオルク8世の死をきっかけに3つの小王国に分裂。それぞれをバグラティオニ朝の分家が統治し、互いに争った。
しかし王国の遺産は、常にグルジア人の文化的アイデンティティの中心でありつづけた。グルジアは古くからのキリスト教国であり、キリスト教世界の遠い東の果てとして、宗教上の敵や対立する文化に囲まれていた。政治的には、当時の重要な場面で影響力を行使し、兵士たちは国王や女王の名のもと、各地を征服した。さらにグルジアは、騎士道、愛、美、芸術、宗教といった分野における独自の観点で、ヨーロッパ中心部の国々と肩を並べ、中世における文化の成熟に大いに貢献した。今も残る修道院、詩歌、芸術作品は、かつての栄光を物語る何よりの証拠といえるだろう。

コンゴ Edit

 伝承によれば、コンゴと呼ばれる王国は、クイル川流域の (広大でありながらあまり豊かではない) ムペンバ・カシという部族王国の争いから生まれたとされる。伝承によれば、力の弱いムペンバ・カシはある時点で軍事主義的な近隣のムバタと同盟を結び、南方の台地の上に築かれていたムウェン・カブンガ王国を征服した。戦士ニミ・ア・ルケニがこの領土を統合した際、山の上の村落ンバンザ・コンゴを首都に定めたことで、西暦1390年頃にコンゴ王国が誕生した。コンゴ王国の絶頂期、領土はアフリカ大陸中部の大西洋沿岸からクワンゴ川まで、北はポワントノワールから南はロジェ川まで広がった。

コンゴ王国 Edit

最初のマニコンゴ (王) は当然ニミであった。ニミが死去すると、兄弟のムボカニ・ンビンガが後を継いだ。彼には2人の妻と9人の子がおり、多産な血統はその後も途切れることなく、独立コンゴの支配者として君臨しつづけた。ムボカニ・ンビンガの治世では、近隣のロアンゴ王国や周囲の小勢力を征服していった。ムボカニ王はまた、親族にコンゴの地方の支配権を与える政策を開始した。この中央集権化の下で、地方勢力の権威は象徴的なものに過ぎなくなった (かつて誇り高く独立していたムバタ王国も、1620年には「コンゴ王の祖父」という扱いでしかなくなっていた)。
こうした時代を通して、王朝は税収と強制労働、そして王国軍によって体制を維持した。軍の維持費を賄うために、海岸線に到着しはじめていたヨーロッパ人と奴隷、銅、象牙を取引することもあった。また、近隣の都市や王国に貢ぎ物を強く求めた結果、ンバンザ・コンゴは1500年代の終わり頃にはアフリカで最も豊かな都市の1つとなっていた。コンゴ王国はバントゥー族戦士の槍の力もあり、着実に成長をつづけた。ヨーロッパ人が到着した頃、コンゴの王は6つの地方 (ムペンバ、ムバタ、ンスンディ、ムパンガ、ムベンバ、ソヨ) と4つの属国 (ロアンゴ、カコンゴ、ンゴエ、ンドンゴ) を支配していた。伝承によれば、王は訓練と規律の行き届いた男女の戦士をたったの1週間で30万人も戦地に送り込むことができたといわれている。
コンゴの人口は首都ンバンザに集中しており、10万もの人が暮らしていた (当時のコンゴの人口の5分の1)。街は無秩序に拡がっていったかもしれないが、この人口集中は食料、資源、労働力の集積につながり、それらは王の命に応じてすぐに用いることができた。また、この集積によってンバンザは広大な商取引の中心地ともなった (いつだって最終的には金儲けにつながるのだ)。象牙や鉱石といった輸出資源の他に王国の勤勉な人々が目をつけた商品は、銅器、その他の金属製品、ラフィアヤシの服、陶磁器といった加工品だった。
1483年にポルトガルの探検家ディオゴ・カンは「未発見」だったコンゴ川を遡上し、その途上でコンゴ王国に辿り着いた。カンは一部の部下を「客人」として残し、コンゴの役人を何名か連れてポルトガルに帰国した。ポルトガル王はカンの功績を認めてキャバレイロ (騎士) の称号を授けた。1485年にカンは約束を守り (先住民に対するヨー
ロッパ人の態度としては珍しいことだ)、貴族とともにコンゴへ戻った。ンジンガ・ア・ンクウ王がキリスト教に改宗したのもこの頃である。1491年、カンはンジンガや貴族たちに洗礼を与えたカトリックの司祭を連れて、みたびコンゴを訪れた。ンジンガ王は当時のポルトガル王を讃え、洗礼名を「ジョアン」とした。カンは司祭や他の者とともにコンゴ人を1人連れて帰国し、そのコンゴ人は後にンバンザでポルトガル式の学校を開いた。だが、つまるところは押し売りと同じだ。一度ポルトガルを家の中に招き入れた結果がどうなるかは、言うまでもないだろう…

カトリック Edit

ジョアン1世 (旧名ンジンガ) の後を継いだのは息子のアフォンソ1世 (旧名ムベンバ・ア・ンジンガ) だった。父親はどう見ても熱心な信徒とは言えなかったものの(これは本人も認めている)、アフォンソは敬虔なカトリック教徒で、民の啓蒙に全力を注いだ。ポルトガルと教会の双方から相談役を招いて近くに置き、キリスト教と土着の信仰との統合を図った。その目論見はうまく行かなかったものの、国庫から学校や教会建造の資金を拠出し、現実的なカトリックの基盤が整えられた (臣民がこれを望んでいたかは別の問題である)。叙任された聖職者 (特に現地の言葉を話す者) が不足していたため、若い貴族が何名かカトリックを学ぶためにヨーロッパに派遣された。アフォンソの息子の1人は聖書を7年間学んだ後、北方の遠いウティカの司教に任命され、コンゴの教皇代理とされた。
しかしキリスト教の慈善と徳は、やがて奴隷貿易の急拡大と、ポルトガルの強欲によって妨げられてしまう。カンの到来から数十年で、コンゴ王国の地方領地はポルトガルにとって奴隷の大きな供給元となっていた。ヨーロッパ人が到来するはるか以前からコンゴでは奴隷制が存在しており、コンゴ人の奴隷市場が活況であったことは間違いないが、ポルトガル人がカリブ海やブラジルへ送る奴隷を集める勢いはその比ではなかった。奴隷貿易は莫大な利益を産み、王国南東の国境付近の紛争で捕らえた捕虜をうまく片づける良い方法だったが、コンゴの歴代の王は、多くの自国民が (捕虜の数が少ない時などに) 「違法に」奴隷化されているのではないかと疑った。これは王国の基盤を揺らがせる事態であるため、貿易運営機構が組織され、違法な奴隷化がおこなわれないよう監視した。適法な奴隷は輸出前にポルトガル人司祭から洗礼を授けられたので、少なくとも魂は救われたはずだ。

衰退 Edit

王国に終焉をもたらしたのはキリスト教でも奴隷制度でもなく、王位継承を巡る血なまぐさい争いだった。ムボカニの命により、当時のコンゴでは王のいとこや叔父、兄弟が地方や属国を治めており、それぞれが小さな軍を保有していた。このため、王が崩御するたびに内紛が発生し、1568年にはジャガによって首都が占領されてしまう (ジャガの正体については東方からの侵略者、反乱した臣民などさまざまな説がある)。ニミ・ア・ルケニ (カトリック世界から見ればアルヴァロ1世) は首都を取り返し、王に選ばれたが、そのためにはポルトガルの武器と支援を得なければならず、彼はポルトガルにルアンダ州を植民地として差し出した (この地が後にアンゴラとなる)。だが、ポルトガルはやがてコンゴの内政に干渉するようになるなど、これは失策であった。
クイル王朝の創始者アルヴァロと息子のアルヴァロ2世は、怒涛の進歩を目の当たりにし、王国の「西洋化」を図った。よりヨーロッパ人の好みに合わせようとしたか、もしくは避けがたい結末を避けたかっただけなのかはわからないが、いずれにせよこの西洋化は表面的なものにすぎなかった。アルヴァロはヨーロッパ式の称号を導入し (ムウェン・ンスンディは「ンスンディ公爵」となった)、アルヴァロ2世は首都をサンサルバドルと改名した。1596年、コンゴ人の使者が教皇を説得し、サンサルバドルはコンゴとアンゴラを含めた新しい司教管区の中心地として認められた。ところがポルトガル王はアルヴァロ2世の裏をかき、教皇からこの管区の司祭任命権を得た (相応の「寄付」をしたことは間違いない)。
アンゴラとコンゴの関係がこじれていく中、1622年にアンゴラの植民地総督がコンゴ南部を (わずかな間とはいえ) 侵略したことで、両者の関係はさらに悪化した。コンゴ王国では派閥争いが芽を出し、一部の地方君主は軍事と (奴隷などの) 貿易の両面でポルトガルと独自の協定を交わした。20年後の1641年、オランダがアンゴラの一部を掌握すると、ンカンガ・ア・ルケニ (ガルシア2世) 王はオランダに加担してポルトガルと対峙した。しかし、1648年にオランダが「戦略的撤退」したことで、王は窮地に立たされてしまった。国境のンブウィラ地区を巡ってコンゴとポルトガルが小競り合いをはじめると (それほど大きな領地ではないが、双方ともに戦闘の口実に飢えていた)、1665年10月のンブウィラ (歴史学者によってはアンブイラやウランガとも記述) の戦いへと発展した。
ポルトガル軍のマスケット銃兵と軽カノン砲の前に王国軍は惨敗を喫した。コンゴ王国側の戦死者は5千名を超え、その中には王も含まれていた。この戦いの後、キンパンザ派とキンラザ派 (どちらも王族の家系) が王位を争う内戦に突入し、次の世紀まで長引いた。地方は荒廃し、両派とも捕虜のコンゴ人を何千人も奴隷商人に売った。首都も何度か略奪に遭い、1696年までにほぼ放棄されるに至る。そしてついにキバングのペドロ4世が残った (数少ない) 貴族と協定を結び、王位を持ち回り制にすることで、平和がいくらかは戻った。
放棄されていたンバンザ=コンゴは、ポルトガルの支援を受けた現地のキリスト教預言者ベアトリス・キンパ・ヴィタと、彼女の信者アントニアンたちによって1705年に再び占領された。アントニアンとは聖アントニウスに由来する名前で、神の守護を受けた聖なるキリスト教コンゴ王国の建設を目的としていた。しかし、その目的が果たされることはなく、ペドロ4世 (在位1696年〜1718年) はベアトリスを捕らえて審問し、異端者として処刑した後、1709年に首都を再び支配下に置いて「独立」したコンゴ王国を取り戻した。
王位の持ち回り制によって比較的平和な時期がつづいたが、それでも時として王家の争いはあった。その点を除けば、18世紀と19世紀の情勢はコンゴにとって上向きだった。コンゴの芸術家たちはキリストを黒人として描く十字架像を制作し、最後まで懐疑的だった者もキリスト教に改宗した。国民の信心深さはすさまじいものとなり、サンサルバドルの破壊された大聖堂を天使がひと晩で再建したという話 (有名だ) も、まるで疑われないほどだった。1836年、ポルトガルはイギリスの強い圧力にさらされたことで奴隷貿易を廃止した。

植民地化 Edit

最終的にコンゴ王国の歴史に終止符を打ったのも、やはり王位を巡る争いだった。1856年にエンリケ2世が没し、キンラザ氏族の2つの派閥が玉座を求めて争った。ペドロ・レロが勝利したものの、そのためにはポルトガルの軍に頼らざるを得なかった。悪魔との取引は必ず代償をともなうものだ。1857年、ペドロ5世はポルトガルに隷属する条約に調印し、ポルトガル王に忠誠を誓った。翌年、ポルトガルはサンサルバドルに駐屯軍を置くための要塞を築き、誰が支配者なのかを明確に示した。1960年にコンゴ共和国が建国されるまで、コンゴに独立国家は存在しなかった。

シュメール Edit

先史時代 Edit

 実際に王国や帝国だったことはなく、時に中央権力が生まれることはあっても、基本的には共通の習慣を持つ都市国家の集合体にすぎなかったが、それでもシュメールこそが世界初の「文明」だったと考えられている。王権 (より正確には主導権) は聖職者が授与するものだったため、基盤が確立していて影響力のあった都市国家 (キシュ、ラガシュ、ウル、ウルク、アダブなど) の支配者による短命な王朝がつづくことになった。紀元前3000年より前のどこかの時点でシュメール人は文字 (厳密には表語文字) を生みだし、そのおかげで歴史学者は彼らの社会について多少なりとも推論を巡らせることができている。
これらの記述 (と、考古学的な証拠) から、ウバイド人がこの地域における初めての文明的な (と言っても、この時代における「文明」の基準はそれほど高くない) 勢力だったと考えられる。彼らが後のシュメールである。ユーフラテス川沿いの沼地を干拓し、日干しレンガで小屋や壁を築き、畑を灌漑し、織物、革製品、石工術に陶磁器、そして記述言語を生み出した。そして彼らは次に、文明社会の特徴をもう1つ手に入れた。北方の高原地帯で捕まえた者を奴隷として使役したのだ。シュメール人はいくつかの街を築いたが、それらは概して神殿を中心としており、ある種の中央政府を備えていた (通常は神官でもある王に加え、高齢の助言者たちがいた)。こうした都市化により、シュメール文明は最終的には紀元前4000年〜紀元前3000年のどこかで統一を果たした。

シュメール王国 Edit

神官でもあった王がただの独裁的な君主に「進化」したのは紀元前2900年頃のことだ。こうしてシュメールの「王朝時代」がはじまった。『シュメール王名表』によれば、非常に多くの王が権力の座に着いた。いくつかの王朝は何年かシュメールの王位を維持し、何度も王位につくことも多かった (たとえばウルクの王朝は5回、キシュは3回など)。都市国家群の主導権を与えるのは聖なるニプルの聖職者だった。シュメールの王の権威は自分の都市以外では限られていたと考えられているが、それでも王にはシュメール全体の平和を維持する義務があった。
しかし、王たちはその義務をうまく果たせていなかったようだ。現存する記述や記念碑が示すところによれば、続く数百年の間に暴力がエスカレートした。この暴力の増大は、ギルガメシュがウルクに築いた高い壁や、メソポタミア南部の小さな村々の消滅によって確認することができる。やがて影響力のある都市国家同士が交易と防衛のために結びつき、その一方で武力によって他の都市国家を永続的に支配しようとする者が現れるのは必然だった。
初めて武力による支配に成功したのはラガシュ朝 (紀元前2500年から2270年) のエアンナトゥムだった。彼は実質的にシュメール全土 (キシュ、ウルク、ラルサなど) を併合し、宿敵だったウンマを従属都市の地位に貶めた。ラガシュの王は恐怖政治を強いたらしく、ハゲワシの石碑 (内容を考えると的確な名前だ) にはラガシュの敵に対してなにをしたかが刻まれている (ラガシュの人にとっては好ましくない行為だった)。やがてウンマの王がラガシュを打倒し、征服したウルクを首都として、ペルシア湾から地中海に至る領土を確保した (というのはウンマの主張)。ウンマ人は、アッカドのサルゴン大王が侵入してくる以前のシュメール人最後の支配者となった。
この時以降、非セム系のシュメール人とセム系のアッカド人の運命は密接に交わることになった。アッカド帝国は紀元前2400年頃に頂点に達し、サルゴンの強大な軍勢が到達できる範囲にあった都市国家のほとんどを打ち破った。ニプルがアッカドに占領されてしまった以上、聖職者が屈服するのは避けられない事態となり、彼らはアッカドのシュメールに対する主導権を認めた。セム系のアッカド人の言語がシュメール語にとって代わり、シュメール語は時とともに「記述言語」となった。アッカドの慣習はシュメールの慣習となり、宗教も融合していった。

暗黒時代 Edit

(奴隷や小作農を除く) 誰にとっても順調な時代が訪れたが、アッカド帝国の崩壊とともにすべてが変わってしまった。アッカドの終焉から紀元前2112年頃にウル第3王朝が起こるまで、周辺地域は暗黒時代のただ中に置かれることになった。灌漑システムは崩壊し、畑は耕されず、ザグロス山脈から蛮族グティ族がシュメールに侵入してきた。グティ人は文明の素晴らしさには関心がなかったようで、都市国家の支配者として君臨したが、農耕、筆記による記録、公共の安全などにはまるで関与しなかった。彼らはシュメール人が飼っていた家畜をすべて野に返したと言われている。これに何十年もつづいた干ばつと穀物価格の急騰が重なり、地域全体が飢饉にみまわれた。
こうした中、アッカドの首都は何度も略奪を受けた。蛮族による強奪が徹底していたため (蛮族は本当にこの手のことに長けている)、現在に至るまでその遺跡は発見されていないほどだ。この混乱を利用し、南方のシュメール系都市国家の中には自治を取り戻すものも出てきた。グティ人はこうした内政に対応できなかったために退き、ラガシュの王朝が再び息を吹き返した。紀元前2093年頃にラガシュ朝は神性を主張し、ニプルの僧侶はラガシュが他の都市国家に優越すると宣言した。

シュメールのルネサンス Edit

しかしこの王朝も長くはつづかなかった。50年も経たずにラガシュ第2王朝はウル・ナンムとその息子シュルギが王となるウル第3王朝に取って代わられた。ラガシュの次の王朝ウルクのウトゥ・ヘンガルが、グティ人最後の王チリガンを打ち倒してグティ人の残党を排除すると、シュメールは復活を果たした。しかし『シュメール王名表』によれば、そんなウルク第5王朝も、ウル・ナンムの即位によって7年後に突如終りを迎えた。詳細はよくわかっておらず、ウルによる暴動だという説を唱える歴史学者もいれば、ナンムはヘンガルと血のつながりがあって平和裏に王座についたと考える者もいる。いずれにせよ、ナンムとその子が北部メソポタミアの全都市国家を征服し、「シュメールのルネサンス」がはじまった。
「ルネサンス」の頃には高尚さが戻り、新たな石碑がいたるところに建てられ、無神論者のグティ人が去った反動で宗教が盛り上がり、農業が再び栄え、そして文明の基礎となる法典『ウル・ナンム法典』が作られた。これは犯罪と、それに対する刑罰を記した長い一覧表であった (ほとんどは罰金刑だったが、極刑や四肢の切断もあった)。この時期の建築と彫刻は特に注目に値する発展を遂げた (代表作はウルのジッグラトだろう)。その発展ぶりは目覚ましく、歴史学者はこの時代を新シュメールと名付けて区別しているほどである。
シュルギは高名な父をも上回る偉業を成し遂げた。彼は首都ウルを中心とした行政手続きの形式を整えるために手を尽くした。官僚制度の整備、文書による記録、税体系、暦などはすべてシュルギの治世の賜物とされている (現代文明は彼に感謝するべきだろう)。また、(きちんと記録に残っている) 税収を利用して常備軍を設立した。聖職者は大いに感銘を受け、シュルギは存命中に神格化された。これは現代とは違い、非常にまれな名誉だった。
しかし、紀元前1963年に王位に就いたイビ・シン (シュルギの孫) の時代までに、シュメールの状況は悪化していた。イビ・シンが即位して最初の20年間、好戦的なアムル人による襲撃や侵略が繰り返され、臣民は彼の指導力に不信感を募らせた。エラムは独立を宣言し、キャラバンや無防備な集落への襲撃に加わった。事態がさらに悪化すると、イビ・シンはウルとニプル周辺の守りを固めたが、それほど効果はなかった。
王がシュメールを守れそうにないとわかると、さらに多くの都市国家がエラムにつづき、滅びゆく国家から離反した。穀物の価格が従来の60倍に跳ね上がり、疫病がいくつかの都市国家で猛威を振るい、シュメールは滅びの道をひた走った。シュメールの末期、イビ・シンの支配が及んでいたのは、自分の都市国家ウルのみであった。紀元前1940年、ザグロスを本拠地とする「粗野」な部族とともにやって来たエラム軍がウルを略奪し、イビ・シンは捕らえられてしまった。イビ・シンはエラムへ連行され、そこで投獄された (彼は投獄の直後に死亡しているが、死因は記録に残っていない)。

その後 Edit

シュメールの栄光は終わった。しかし、シュメールが成し遂げた偉業の数々は、時代を経てもその輝きを失っていない (人類史上初のものが多いからである)。専門家のサミュエル・ノア・クレーマーは、強い影響力を持つその著書、『歴史はシュメールに始まる』で39の「初」を挙げている。たとえば…
シュメールは川沿いの乾燥気味の土地で農耕を行っており、灌漑設備、運河、そして貯水池を初めて作った文明である。筆記を初めて生み出したのはシュメール人ではないかもしれないが、最も文字を (実に何世紀もの間) 活用していたのは確かだろう。彼らは後世に残すためにあらゆることを書き留めた。さらに、そうした文章を特定の場所に保管した (つまり「図書館」だ) のもシュメール人が初めてだった。その過程で、恋愛詩、英雄譚、動物寓話、自伝、哀歌など、あらゆる種類の文学が生み出された。
筆記により、シュメール人は書面での契約という概念 (言うまでもなく、契約後は言い逃れできないように保管場所へ移された) と、後の金融を育てることになる「信用」という概念も生みだした。当初は金額の一部だけを支払えばよく、残りは「借りればよい」という考えがシュメールの経済を刺激したことは間違いない (売り手にとってはあまり嬉しい話ではなかったろうが)。こうしたことをすべて記録に残せるように、彼らは数字を標準化した。そして支払いが秩序に則って行われるように1年を月に分け、1日を時刻に分割した。このような暦の制定もシュメール人による「初」の1つである。
さらに、車輪を初めて利用したのもシュメール文明である。荷車にも、鋤にも、戦車にも車輪があった。これによって交易や農耕、戦争に時間がかからなくなった。もしシュメールが車輪を発明した文明ではなかったとしても (この点は歴史学者の間でさんざん議論になっている)、車輪の有効な活用法を多く発見した文明なのは間違いないだろう。彼らがそれほど多くの馬を所有していなかったのが残念だ。
「初」のリストはまだつづく。
しかし、最終的にシュメールの失墜をもたらしたのは、しっかりした建築資材の欠如であった。日干しレンガでは、北、南、東から来襲する蛮族を防げるだけの高く、頑丈な防壁を築くことができなかったのだ。それでも、バビロニアやアッシリアといった帝国が成立できたのは、シュメールのおかげであることは疑いようもない。シュメールこそが真の「文明のゆりかご」なのだ。

スウェーデン Edit

 特徴的な「戦斧文化」 (高位の人物の墓から彫刻が施された石斧が出土することにちなみ、こう命名された) が栄えたスカンジナビア半島には、新石器時代以前から人が住んでいた。その多くは小規模な部族に分かれ、村落を築いて生活していた。西ローマ帝国末期 (この時期、スカンジナビアの諸部族は、民族移動の途上にあったらしい) から中世初期にかけては、キリスト教に改宗する以前のバイキングが、この地を拠点としてヨーロッパ各地を荒らしまわった。

バイキング Edit

キリスト教伝道の先鞭をつけたのは、9世紀の聖アンスガルである。しかし、キリスト教が本格的に広まったのは、バイキングの最盛期であった11世紀か12世紀だったようだ。この時期、バイキングの伝統的な生活様式は徐々に封建的なものへと変化していき、1280年にスウェーデン王マグヌス・ラデュロスが封建制度に基づく統治体制を確立すると、貴族は君主に仕える存在となった。
この封建制度と君主の強力な統治はその後も長くつづいた。青地に3つの黄金の王冠が描かれたスウェーデンの有名な「トゥレー・クローノー」の紋章は、14世紀初頭に初めて使用され、現在もこの国のシンボルとなっている。1389年、デンマーク、スウェーデン、ノルウェーの3国は、デンマーク女王マルグレーテ1世を君主とする一種の同君連合を構成するに至る。これが1397年のカルマル同盟へとつながり、3国は1人の君主によって統治されることになったのだが、その道のりは平穏なものではなかった。

独立 Edit

やがてドイツ諸邦とハンザ同盟を巻き込んだ派閥争いにより、デンマークとスウェーデンの間で疑心暗鬼と内輪揉めが激しさを増す。スウェーデンは数十年にわたって自治権を拡大しようと試みつづけていたが、デンマーク王クリスチャン2世が1521年にストックホルムでスウェーデンの有力者を多数処刑したことによってこの問題は頂点に達し、スウェーデン貴族グスタフ・ヴァーサによる独立につながる。貴族によってスウェーデン王グスタフ1世として認められたグスタフ・ヴァーサは、彼を排除しようとするデンマークを退け、自分の統治に反対する者を容赦なく叩き潰していった。これにより、現在は彼をスウェーデンの建国者と見なすのが一般的となっている。
スウェーデンはグスタフ1世の指導の下、新興のプロテスタントへ早々に改宗した。これはイングランドにおけるヘンリー8世の改宗とほぼ同時期だった (状況もよく似ており、どちらも王と法王の間に長くくすぶる諍いが原因だった)。スウェーデンはその後、数世紀にわたってルター派の拠点となった。グスタフ2世アドルフ (グスタフ・アドルフとも呼ばれる) は、スウェーデン史上最も有名な王の1人で、三十年戦争ではプロテスタントの側に立ち、獅子奮迅の戦いぶりを見せた。スウェーデンが北欧の強国となったのは、彼の功績に他ならない。グスタフ・アドルフは、1632年にリュッツェンの戦いで死亡し、王位は唯一の子女であったクリスティーナに継承された (クリスティーナの生涯については彼女の項を参照のこと)。

18世紀 Edit

しかし、18世紀初頭に起きた大北方戦争の後、スウェーデンのバルト地方に対する支配力は低下してしまう。この戦争でスウェーデンは、デンマーク軍とノルウェー軍を含むロシアとその同盟国に大敗を喫したのである。さらにナポレオン時代には、現代のフィンランドにあたる領土をロシアに奪われてしまう。さらに1810年には、ナポレオンのヨーロッパ再編策としてスウェーデンに派遣されたフランスの元帥ジャン・バティスト・ベルナドットがカール14世ヨハンとして即位し、ノルウェーと新たな同君連合を形成する。若い頃はパリのジャコバン派で急進的活動家としてならしたこの新たな王は、腕に「王侯貴族に死を」という言葉を刺青していたと言われている。
最終的にノルウェーとの同君連合は20世紀初頭に解消されたが、これはあらゆる人々に安堵をもたらした。20世紀初頭のスウェーデンの特徴は急激な工業化にあった。ノーベル賞の第1回授与式がおこなわれたのは、1901年のことである。多才な科学者で実業家でもあったアルフレッド・ノーベルがこの賞を創設したのは、手際よく人を殺す方法の発明者以外の形で人々の記憶に残りたいとの願いからであった。

現在 Edit

スウェーデンは、ナポレオン時代中期以降、ヨーロッパの戦争に対して中立を保つ政策を貫いた。第二次世界大戦中はこの政策の道義性が物議をかもし、今でも学者によって熱心に議論されている。しかしその後、スウェーデンは国際秩序こそ地球規模の戦争その他の政治的破滅を防ぐ方法であると考え、その熱心な支持者となった。
長い歴史の中で政治と統治の仕組みを改革しつづけてきたスウェーデンは、すべての国民が等しく平等な、安定した秩序ある平等主義的社会を創出することに成功した。2世紀にわたって軍事的冒険主義を放棄し、資源を国の発展に使ってきたことで、スウェーデンは生活の質に関する様々な評価で他国をリードしている。国連を通じた国際問題の政治的解決でもスウェーデンは先頭に立ちつづけ、経済学者にして政治家であったダグ・ハマーショルドは、第2代国連事務総長を務めるなど、20世紀の最も優秀な政治家の1人とみなされている。21世紀となった今も、スウェーデンは全世界の国々に適用されるべきものとして平等主義の原則を標榜しつづけており、恒久的な平和を実現しようとする人々の間では、仲裁に積極的な国家との評価が以前にも増して高まっている。

ズールー Edit

 ズールーはアフリカ南部で頭角を現したのち、軍事力によって一帯を征服して、アフリカの歴史を抜本から変える覇権を築いた。最終的には科学技術で勝る植民地帝国に敗れたものの、当時の世界で最も手強い敵に対して彼らが一矢報いたことは、紛れもない事実である。

18世紀 Edit

18世紀後半のズールーは、ングニ族と呼ばれ、アフリカ南東部で牛を放牧して作物を育てる半遊牧生活を送っていた。ズールーでは女が農耕と家族の世話を担い、男は戦いや狩り、そして牛の世話をした。ズールーの文化にとって牛は重要な存在だった。牛は富と地位の象徴であり、儀式の重要な一部であり、食料の主な供給源だったのだ。
個々の一族は、社会的な義務、一族の絆、忠誠のネットワークを介して他の一族とつながっていた。こうしたつながりは、ズールーの統合と組織化を加速させた。人々を率いるのは族長たちだった (彼らの権力は、19世紀初頭にはかなり大きなものになっていた)。

シャカの時代 Edit

シャカの時代に入ると、新兵の訓練制度であるイブートが改革され、インピは屈強で標準化された軍隊へと姿を変えた (詳しくはシャカとインピの項を参照)。シャカが族長の座についたとき、彼に従うズールー人は2000人に満たず、その領土はモナコ公国より狭かった。しかしそれから11年後、インピの戦士は5万人を超えていた。ズールーは近隣の対抗勢力を次々と征服し、従えていった。戦争もその様相を変えた。それまでの小規模な襲撃や征服は過去のものとなり、焦土戦術が用いられるようになったのだ。ズールーは南アフリカにおいて、右に出るもののない一大勢力となった。最終的にシャカは暗殺されたが、それまでに彼が成し遂げた征服の規模は、アレキサンドロス大王に匹敵するほどだった。
この征服は、サハラ砂漠以南のアフリカに大きな波及効果をもたらした。シャカの征服によって移住を余儀なくされた難民が大量に生じ、それにともなって戦争が相次いで発生した結果、中央アフリカと東アフリカを一変させたのだ。この事態は、「ムフェカネ」と呼ばれ、現在も研究や議論の対象になっている。ムフェカネはアフリカの歴史に触媒として作用し、植民地主義に抵抗する新たなアフリカの諸国家の誕生を促したからである。
統治者としての暴虐が目に余るようになったシャカが暗殺されると、ディンガネが王座を継いだ。ズールーが南アフリカに現れたヨーロッパの植民地主義勢力 (より具体的には、ムフェカネによって空白となった領土に入り込んできたボーア人) と対立しはじめたのは、このディンガネの時代のことである。
ディンガネから地位を奪って即位したのが、ズールーの王として最も長く王座にあったムパンデである。ムパンデはボーア人 (その一部はムパンデの反乱を支援した) と良好な関係を保ったが、植民地の拡大を許し、服従させた国 (および、自身の後継者) に対しては過酷な態度を示したことから、彼の統治については賛否が分かれている。ムパンデは1872年にこの世を去り、長男セテワヨが王位についた。セテワヨへの権力の移行が滞りなく進むよう、ムパンデが死没した正確な日付は伏せられた。大おじにあたるシャカを尊敬していたセテワヨは、インピの再建と規模の拡大に着手した。

植民地時代 Edit

その頃、ヨーロッパの植民地帝国の力は頂点に達しようとしていた。イギリス人とボーア人が土地の所有権を要求し (この地域でダイヤモンドが見つかると、圧力は一段と強まった)、この地域で最大の勢力を保っていたズールーと激しく衝突した。イギリスは南アフリカを連邦に加えようと画策し、セテワヨに挑発的な要求を繰り返した。最後の決定的な一打となったのは、セテワヨに対する軍の解体要求だった。セテワヨがこれを拒否すると、イギリスは1879年に宣戦を布告した。
イギリス軍は、近代的で洗練された、産業時代の軍隊だった。職業軍人と下士官がいて、ガトリング砲や連発銃を装備し、文化的な優越性を確信し、当時最新の (非常に人種差別的な) 文化論によって理論武装していた。そのため、イサンドルワナの戦いでセテワヨのインピに敗北を喫し、7割を超える死傷者を出したとき、彼らが受けた衝撃は大変なものだった。ズールーは世界最高の軍隊と正面から戦って策略と戦力の双方で上回り、敵を完膚なきまでに叩きのめしたのだ。その後も彼らは、イントムベの戦いとフロバネの戦いの2度にわたって完勝を繰り返した。
イギリスの自尊心をズタズタにしたこの敗北は、本国においてきわめて感情的な反応を引き起こした。自分たちを正当化する戦記が多数出回り、主戦論が高まった。ズールー軍にとって勝利の代償は大きかった。イギリスは次から次へと戦力を投入し、戦術にも修正を加えてきた。最終的にイギリス軍はズールー王国に攻め込んで首都ウルンディを陥落させ、セテワヨを捕虜にした。セテワヨはロンドンに連行され、大衆が自分たちの行為の醜悪さに気づくまで、戦勝パレードで見世物とされた (このとき毅然とした態度を貫いたセテワヨは、堂々とした、君主にふさわしい威厳の持ち主と評された)。この後、セテワヨはズールー王国への帰国を許され、イギリスが13に分割した自治体の首長の一人となった。
中心地を分割されたズールーは、ほぼ1世紀にわたって過酷な植民地支配と南アフリカのアパルトヘイトに苦しめられた。牛の疫病に起因する民族の離散、そして失業により、ズールーの人々は鉱山や南アフリカの都市で働くことを余儀なくされた。だが、希望は消えなかった。クワズールは「バントゥースタン」、すなわち南アフリカの民族グループのための自治区に指定され、1970年代には一定の自治権が認められた。1994年には、地域的な自治権がさらに拡大され、昔のズールー王国の土地を包含するクワズール・ナタール州が成立するに至った。現在、クワズール・ナタール州には、ユネスコの世界遺産に指定された場所が2つある。ウクハランバ・ドラケンスバーグ公園とイシマンガリソ湿地公園がそれであり、どちらも美しい自然、環境的な価値、文化的な重要性を備えている。
ズールーの人々は、今も自分たちの軍事的、文化的な遺産に誇りを持ち、伝統的な踊りとガンブーツダンスのような新しい形態のダンスの双方を楽しんでいる。また、ズールーの王は、国の儀式的な首長、伝統文化の守護者の役を担っており、過去の民族離散と現在の世界をつなぐ存在として活動をつづけている。

スキタイ Edit

 スキタイ人は牧畜を行っていた遊牧民の緩やかな (本当に緩やかな) 連合体であり、文字を持たず、中央アジアのステップ地帯を1000年ほど放浪していた。スキタイ人についての情報は非常にわずかで、幾ばくかの古代の「歴史家」 (ギリシャのヘロドトス、ローマ・ギリシャ時代のストラボン、ヒンドゥー教のいくつかの文書) の記述に頼るしかない。絶頂期にはポンティック・カスピ・ステップの全域と、さらにそれを越えた地域 (現在のウクライナから中国東北部) まで広がっていた。彼らはシルクロードをまたにかけ、奴隷貿易で富を築き、独自の芸術様式を生み、ケンタウルスとアマゾネスの伝説を残したが… そのくらいである。

スキタイ民族 Edit

ステップ地帯に居を構え、生活様式や言語にいくらかの類似点を有するものの、それ以外には関連性の薄い騎馬民族。現代の学者の考えでは、古代の物書きが「スキタイ」という語を用いた場合に指していたのは、だいたいこのような者たちであった。ヘロドトスによれば、スキタイ人は東方のステップ地帯に起源を持ち、近縁のマッサゲタイ人との戦い破れた後、西に移動してアラクセス川を越え、30年間にキンメリア人を追い払ったという (キンメリア人はアッシリアへ移動し、そこで暴れまわった)。卓越した馬術と弓術を身につけたスキタイ人は地域中に広がり、マケドニアやペルシアの入植地を襲撃した。
この数十年後の紀元前530年、ペルシアのキュロス大王はメッサゲタエ・スキタイ人の女性支配者トミュリスに結婚を申し入れる。トミュリスが求婚を断ると、キュロスは兵をシルダリヤ川に集め、船を作りはじめた。トミュリスは船の建造の中止を要求し、川から数日進軍した開けた場所 (騎馬戦闘に最適であることは間違いない) で「栄誉ある戦い」を申し出た。キュロスはこれを受け入れ、最精鋭部隊を連れて野営地を出発した。しかし、敵が酒精に不慣れであることを知ると、大量のワインを残し、それをわずかな兵力に守らせた。トミュリスの息子スパルガピセス率いるスキタイの本隊は、野営地を襲撃し、あびるように酒を飲み、そして待ち伏せていたキュロスに倒された (スパルガピセスは自害した)。敗北の報を聞いたトミュリスは、この戦術を「高潔でない」と宣言し、騎馬兵の第2波を率いてペルシア人に迫った。乱戦の中でキュロスは討ちとられ、ペルシア軍は敗走した。トミュリスはペルシア王の死体を持って来させると、その首を切り落とし、復讐の象徴として血をためた器に浸した… なお、これはヘロドトスの書物にある記述なので、実際の出来事はここまでドラマチックではなかった可能性もある。

2度目の戦争 Edit

紀元前513年、完全に腹を立てたペルシア人は、ダレイオス大王の直接指揮の下、7万人の軍勢を動員して再びスキタイ人の土地へ侵攻した。スキタイ人は守らなければならない畑や街を持たなかったため、広い土地と機動力を活かし、巧妙に会戦を避けた。騎馬弓兵は動きの遅い隊列を攻撃し、はぐれた者や本体から離れた荷車を狙い撃ちにした。ヘロドトスによれば、ある時スキタイ人の大部隊がついに戦闘のために整列したところ、突然大きな叫び声がこだまし、それに驚いた野うさぎが茂みから飛び出してきた。すると隊列の何名かは、その野うさぎを追って走り去ってしまった。これを知ってダレイオス大王は、「連中は我々を心の底から侮っているようだ」と言ったとされている。足の遅いダレイオスの軍隊は、いくらか数を減らしながらもついにヴォルガ川へ到達したが、糧食と物資が底をついてしまったため、結局なにも成し遂げられないまま自国へ帰っていった。スキタイ人がその後も意気揚々と国境を襲い続けたことは言うまでもないだろう。
クルガンと呼ばれる巨大な墳墓 (おそらくスキタイ人が作った唯一の永続的な構築物) から見つかった考古学的な証拠から、紀元前470年頃に指導者アリアペイテス (これはギリシャ語の名前。彼の本名は不明である) が複数のスキタイ人部族を統一し、「王」を自称したらしいことがわかっている。彼の後継者が紀元前340年頃まで同盟を統治したが、その後偉大なアテアス (またしてもギリシャ語の名前だ) によって王朝は打倒された。ストラボンによれば、ドナウ川からマエオティアの沼地までのスキタイ人部族をすべて統一したアテアスは、すぐにマケドニアのピリッポス2世と衝突したという。戦争中の紀元前339年頃に90歳のアテアスが戦死してしまうと、彼の「帝国」は崩壊した。それでも10年後、ピリッポス2世の息子アレキサンドロスは再びスキタイ人と戦っている。シルダリヤ川での「決定的な」戦いに勝利して国境付近における略奪行為を終わらせると、ギリシャ人たちは繁栄を求めて南進できるようになった。この戦いの影響はその後も尾を引き、スキタイ人は侵入してきたケルト人によってバルカン半島から追い出されてしまった。ステップ地帯とは違い、山岳地帯では自慢の騎兵も思うように力を発揮できなかったようだ。

敗北・衰退 Edit

同じ頃、一部のスキタイ人部族 (現在ではインド・スキタイ人と呼ばれている) がマウエスの指導の下、南東へ移動してバクトリア、ソグディアナ、アラコシアに入り、紀元前35年頃のアゼス2世の時代までにパンジャーブ地方とカシミール地方のインド・ギリシャ人にとって代わった。しかし、アゼス2世は (現在までに判明している中では) 最後のインド・スキタイ人の王であり、彼の死後にインド・スキタイ人はクシャーナ朝によって打倒されてしまう。しばらくするとパルティア人が西から侵攻してきて、これ以降スキタイ人はインドの記録に現れなくなる。
西方では、クリミアとウクライナのステップ地帯に広く残っていたスキタイ人部族が、さらに3世紀の間、大きな変化のないまま存続した。彼らは馬を駆って略奪をおこなったが、定住することもあった。スキタイのネアポリスとして知られる都市 (現在のシンフェロポール近郊) は、クリミアのスキタイ人同士の交易所として機能した。しかし、拡大を続けるローマ帝国が、スキタイ人の牧歌的な暮らしを終わらせることになる。ゴート族がローマの国境の大部分からサルマタイ人を追い払うと、今度はサルマタイ人がスキタイ人を侵略したのだ (ただし、これは征服というよりも同化と呼んだほうがふさわしい)。そして3世紀の中頃、ゴート族がスキタイのネアポリスを略奪し、公式にスキタイ人の文明は終焉を迎えた (ただし、ローマ人やギリシャ人にはステップ地帯の遊牧民をすべて「スキタイ人」と呼ぶ困った癖があった。たとえば東ローマ帝国の使者プリスクスは、アッティラの民 (フン族) をしつこく「スキタイ人」と呼んでいる)。
こうしてスキタイ人は歴史から姿を消し、ステップ地帯に散らばる草に覆われた塚だけが彼らの道のりの目印として残った。一般的な戦士の小さな塚から、指導者や偉大な戦士の眠る「王家の」クルガンまで、塚にはさまざまなものがあるが、これらは単に土やガラクタを遺体の上にかぶせただけではなく、中心にある部屋の上に芝土を何層も重ねて作ってある。この芝は、死者とともに埋葬された馬が、死後の世界でもやせ衰えないようにと用意されたものだった。あるクルガンでは、指導者のまわりに400頭以上の馬の骨が幾何学的に並べられていた。偉大なスキタイ人が死ぬと殺されたのは馬だけではない。配偶者や家臣も死者を追って死後の世界へ旅立つという、ありがたくない栄誉を賜ったのだ。最大級のクルガンは、6階建ての建物に匹敵する高さがあり、幅も90m以上あった。文字をもたない野蛮な騎馬民族にしては大したものといえるだろう。
ヘロドトスによれば、その埋葬は壮大なものだったという。会葬者は左手に矢を刺し (さすがに弓を持つ手に傷害が残るようなことはしなかったが)、腕や胸を切りつけ、時に耳の一部を切り取った。ある指導者の一周忌では、50頭の馬と50人の奴隷を殺して内臓を抜き、死んだ奴隷を死んだ馬に乗せ、直立状態でクルガンの周りに串刺しにしたという。このような仰々しい行為がギリシャのアマゾネス伝説につながったと考えられている (少なくとも多少は影響しただろう)。ドン川とヴォルガ川の下流沿いにあるこれらの墳墓のおよそ20%からは「まるで男のように」鎧を着て弓と剣で武装した女性が見つかっている。いわゆるアマゾネスそのものではないが、トミュリスにまつわる逸話からもわかるように、スキタイ人には女性戦士もいたのではないかと考えられている。
もし女性の戦士もいたのであれば、きっと強い心臓の持ち主であったに違いない。なにせスキタイ人の戦士は、「文明的な」隣人を震え上がらせていた存在であったのだから。髭は伸ばすに任せ、刺青を入れていたスキタイ人の騎馬弓兵は、短いコンポジットボウで武装していた。傷口が治りにくいように、その矢には返しがつけられていた。また、矢尻には蛇の毒、腐った血液、馬の糞などを塗り、傷を負った相手を確実に死に至らしめる工夫を凝らしていた。残っている記録によれば、スキタイ人は戦闘の後、倒した敵の血を飲み、戦利品を主張するために敵の首を切り落とした。そのような残忍さを示した者だけが、分け前にありつけたのである。血を飲むという行為は野蛮な民族の間では珍しくなかったが、首を切るのは手柄を示す方法としては独特だった。彼らは敵の死体から頭皮を剥いで馬や盾、矢筒を飾り、特に勇敢だった敵の頭蓋骨はメッキして栄誉ある酒杯として使った (スキタイ人は勇気を尊んだのだ)。
スキタイ人が呼び起こす恐怖はギリシャ人にとって非常に大きなものだったようだ。ケンタウルスはスキタイ人がモチーフになっていると考えられているほどである。スキタイ人の騎馬兵はとにかく悪名高い存在だった。聖書で預言者エレミヤはイスラエル人に対し、「残酷で慈悲を知らず、その声は海のように轟き、整列して馬にまたがった」戦士たちに襲われることを警告しているが、これはスキタイ人のことだと考える学者もいるほどである。聖書といえば、スキタイ人にも神々の殿堂はあった。だが、スキタイ人はそれほど熱心に信仰していなかったらしい。彼らの神々が定めた戒律、石に刻まれた律法の類いではなく、柔軟な指針という程度のものだったようだ。
もちろん頭皮や頭蓋骨ばかりではなく、戦利品も戦闘後の楽しみだった。スキタイ人はペルシアやマケドニアを頻繁に襲撃したり奴隷を売ったりすることで金銀を得ていた。スキタイ人の職人は、優れた意匠の品を作ることに長けていたが、中でも好まれたのは、狼、雄鹿、グリフォン、豹、ワシ、馬などの動物が命がけで戦っている姿だった。美術品、陶磁器、青銅器、副葬品の偶像などにはあらゆる種類の動物が見られ、死闘を繰り広げていない場合、それらは眠っている姿で描かれた。彼らの墳墓であるクルガンからは、大量のブローチ、ベルト、兜、イヤリング、首飾り、腕輪などの装飾品が出土しているが、これらにはそうした動物がよく描かれている。
スキタイ人の衰退と消滅の理由には多くの仮説 (学者にとって最大の商売道具だ) がある。一部の学者は、スキタイ人が近隣の者と結婚し、放牧や襲撃をやめて徐々に定住するようになったという説を提唱している。3世紀終わり頃に築かれたクルガンのいくつかには、家庭の団らんを象徴するストーブが入っていた (真のスキタイ人が草葉の陰で嘆くには十分な軟弱さだ)。他には、長い干ばつや馬の伝染病のために定住を余儀なくされたという説や、スキタイ人の酒好き (スパルガピセスの一件を覚えているだろうか?) が昂じて牧草地で穀物を育てるようになったことが遊牧生活の終焉につながったのだと断定する者もいる。
どの説が当たっているにせよ、スキタイ人がステップ地帯を闊歩し、後につづくサルマタイ人、フン族、モンゴル、ティムール、コサックなどが恋い焦がれるほどの残虐性と凶暴性を見せつけたことは確かである。

スコットランド Edit

 グレートブリテン島の北端一帯を占めるスコットランドの歴史は、南の強大な隣国と複雑に絡み合っている。その歴史は独立を求める戦いの連続だった。イングランドのみならず、スコットランドはたびたび諸外国から侵略の標的とされたのである。

ローマ支配 Edit

スコットランドに関する最古の記録のうちいくつかは、ローマ帝国による征服と彼らの旅にまつわるものである。西暦1世紀の終わりごろ、帝国はイングランドとスコットランドの大部分を平定した。当時のスコットランドにはさまざまな先住部族が住んでおり、ローマ人は彼らを「カレドニア人」と呼んだ。ローマとこうした現地部族の間には頻繁に小競り合いが生じた。それに業を煮やしたハドリアヌス帝は帝国を先住部族から守るべく、かの有名な長城を築かせたと言われている (防壁の効果については意見が分かれているが)。
西暦4世紀の中頃になると、ローマ人はブリテン諸島を支配しようという試みをほぼ放棄していた。それから1000年、スコットランドの諸王国は力を蓄え、互いに協力関係を築いていった。そうした勢力のなかに、西のゲール人とダルリアダ王国、そして東のピクト人とその王国があった。
ゲール人の言語 (と文化の多く) は、ピクト人の言語や文化を抑えて広まっていった。しかし、実態としてはゲール人が徐々にピクト人へと取り込まれていったようだ。ピクト人の王国は、のちにアルバ王国へと発展した。アルバとは、ゲール語で「スコットランド」を意味する。彼らの土地で暮らしていた人々は、やがてスコット人と呼ばれるようになった。
9世紀に差しかかる頃、デンマークやノルウェーのバイキングがスコットランド沿岸に襲来し、産声をあげたばかりの王国に新たな脅威をもたらした。もっとも、たしかにスコットランド西部沿岸の集落は、ノルマン人の襲撃にたびたび悩まされたが、彼らの猛威にもっぱら苦しめられたのは、むしろイングランドだった。

黄金時代 Edit

1124年、デイヴィッド1世がスコットランド王に即位する。この王の即位は大きな変化をもたらした。その規模があまりに大きかったことから、歴史家はこの期間を「デイヴィッドの革命」と呼んでいる。封建制度の台頭がスコットランドの土地所有権の在り方を変え、政府や軍の構造をも変えたのである。
このデイヴィッド1世の時代、勅許による最初の街が築かれた。正式な認可を受けたこうした自治都市は「バラ」と呼ばれ、その後数世紀にわたってスコットランド君主の重要な収入源となる。バラで生まれた商業 (そして税収入) は、中世を通してスコットランドの継続的な発展を支える立役者となった。

独立戦争 Edit

デイヴィッド1世の治世から200年ほど経ったころ、スコットランドの土地と民を狙うイングランドの脅威が強まった。そして悪名高いイングランド王、「長脛王」エドワード1世の治世に、第一次スコットランド独立戦争と呼ばれる戦いがはじまることとなる。この王の容赦のない戦術とスコットランド人に対する嫌悪により、戦いは20年以上もつづいた。
スコットランドで最も有名な2人の英雄、サー・ウィリアム・ウォレスとロバート・ブルースが歴史の表舞台に登場したのは、この戦いのさなかのことである。2人はスコットランドの軍勢を率い、当初は長脛王と、後にその息子であるエドワード2世と戦った。
ロバート・ブルースは、1320年、スコットランド王ロバート1世としてアーブロース宣言に署名した。ローマ教皇に届けられたこの書簡文には、スコットランドの主権が謳われており、これをもってこの文書を世界初の独立宣言とみなす者も多い。後のアメリカ独立宣言にも影響を及ぼしたこの宣言は無事に承認され、しばらくは遵守された。
ロバート・ブルースの後を継いだのは、息子のデイヴィッド2世である。この王が子供を持たぬまま1371年に死去すると、王位はロバート2世の手に渡った。ロバート2世はロバート・ブルースの孫 (母親はロバートの娘マージョリー) にして、スコットランド王室執事長ウォルター・ステュアートの息子だった。
ステュアート家の初代であるロバート2世の即位により、17世紀初頭まで途切れることなくスコットランドを統治したステュアート朝の幕が開いた。ステュアート朝の君主でも特に有名なのが、スコットランド女王メアリー1世だろう。イングランド女王エリザベス1世の暗殺を企んだとして有罪を宣告され、幽閉されたのちに斬首された悲劇の女王である。
1706年、スコットランドとイングランドは、2つの王国を統一すべく交渉に入った。争いのさらなる長期化を避け、両陣営の財政基盤と貿易協定を改善させるためである。両者は「合同条約」に同意し、その後1707年5月1日に「合同法」が成立した。これによって2つの国は正式に統一され、グレートブリテン連合王国が誕生した。
産業革命と時を同じくして、18世紀には「スコットランド啓蒙主義」の時代が到来し、スコットランドの文化が花開くこととなる。建築や土木工学、文学、音楽、医療の発展は、スコットランドの名声と影響力を世界的に高めた。スコットランドの造船技術が有名になったのもこの時代で、木造の帆船から鉄製の蒸気船への移行が進んだ。

スペイン Edit

 フェデリコ・ロルカはこう記している――「スペインでは、世界のどの国よりも死者が活き活きとしている」。確かに、血にまみれたスペインの歴史には数多くの死者が登場する。レコンキスタの終わりにカスティーリャとアラゴンが連合して誕生したスペインは、大規模な戦争や数世紀にわたる政情不安を生き延び、黄金時代や宗教運動も経験した。新世界の (再) 発見と植民地化、世界を股にかけた帝国、文化や人生のロマンへの貢献、そして数えきれない戦争まで、スペインは全世界の文明に包括的な影響を与えたと言える数少ない国の1つである。

アル・アンダルス Edit

西暦711年、イスラム教を信奉するウマイヤ朝は、北アフリカから海峡を越えてイベリア半島に進出し、西ゴート族を改宗させるか殺すかして、わずか7年でほぼ全域を手中に収めた。この侵略者たちは信仰と目的 (利益) を共有していながら、まるで統率がとれていなかったため、11世紀初頭になると複数のムーア人王国が勃興した。中でも有力だったのは、バレンシアやグラナダを拠点とした王国である。イスラムの支配者は他の信仰に対し非常に寛容で、特別な税と若干の差別的な扱いにさえ耐えれば、領内でユダヤ教やキリスト教を信仰することが許された。この不利益は (当時としては) 大したものではなかったが、それでも多くの住民はイスラム教へ改宗した。

レコンギスタ Edit

ムーア人は争いを好んだ。ムーア人同士の戦争はよくあることだった。そして (ムーア人にとって) 残念なことに、この内輪の争いが北方に残存していたキリスト教国に国境を広げる機会を与え、イベリア半島をイスラム教徒の支配から「解放」するという考えを持つ余裕を与えてしまった。こうして数百年にわたる血なまぐさいレコンキスタ (再征服運動) がはじまり、キリスト教国家 (レオン、ナバラ、アラゴン、カスティーリャ、そして最終的にはポルトガル) はイスラム教徒を追放するための「十字軍」を組織した
(教皇や善良なカトリック教徒の支持も得ていた)。さらにこれらのキリスト教国家は、互いに絶えず争っていたため、イベリア半島は大混乱に陥った。この混乱は1469年にイサベル1世とフェルナンド2世が結婚し、カスティーリャ・レオンとアラゴンの宿命的な統一が果たされるまでつづいた。2人の君主はイスラムの最後の拠点だったグラナダに攻撃を集中させ、1492年、781年ぶりにイスラム教徒をイベリア半島から駆逐した。
また、新生スペインにおけるキリスト教の信仰を揺るぎないものにするため、フェルナンドと (特に) イサベラの後押しで、スペイン異端審問所が設立された。審問所はスペイン王の直属で、教会が助言をおこなった。デ・トルケマダを筆頭とする最高審問官は、頑固なイスラム教徒やユダヤ教徒、プロテスタント、モリスコ (カトリックに改宗したイスラム教徒) など、ローマ教会の権威を拒む (またはそれに挑む) 者を見つけ出すことに心血を注いだ。魔女、冒涜、重婚、同性愛、フリーメーソンなどの「犯罪」の取り締まりも異端審問の範囲に含まれていた。スペイン全土
(他のヨーロッパ諸国にも薄まった形で広まった) で行われた審問会では、訴えられた者が拷問され、裁判にかけられ、多くの場合は有罪とされた。有罪判決が出ると (つまりほとんどの場合)、資産は没収され、異端判決宣告式 (公式に真の教会に戻る) か処刑されるかの選択肢が与えられた。1834年7月に廃止されるまでに異端審問を受けたおよそ15万人のうち、約5000人が死亡した。異端審問所は異教の文書との戦いも監督し、禁書を教皇の指示の下で燃やした (焚書は異教徒や同性愛者の火刑ほど面白い見世物ではなかったので、大して注目されなかった)。

大航海時代 Edit

イサベラはまた、海を西へ進めば伝説に語られる極東へ到達することができると考えており、とある酔狂なジェノバ人に出資した (フェルナンドはこのジェノバ人を疑っていた)。西回りなら、すでにアフリカ経由でアジアに到達していた強欲なポルトガルと競合する心配もなかった。1492年、クリストファー・コロンブスは新世界に辿りつき、スペインは史上初の真の「世界国家」になった。コロンブスの後にあらゆる種類の冒険家がつづき、手っ取り早い稼ぎを求めたコルテスやピサロといったコンキスタドールに加え、より長期的な計画をもった使節団や入植者が海を渡った。スペインは「大航海時代」で世界をリードして、おびただしい数の植民地や公国からおびただしい富を得た。最盛期のスペイン帝国は南北アメリカ大陸のかなりの部分とヨーロッパの一部、そして北アフリカの数々の都市やインドの東側など、当時知られていた世界のすべてに領土を持っていた。太陽は常にスペイン帝国の領土を照らしている、と言われていたのは事実なのである (ハリケーン、火山の噴火、焼畑農業の煙で太陽が見えない場合は除く)。
スペインの新領土は貴金属や香辛料、農作物をもたらしただけでなく、新たな知識や文化もヨーロッパにもたらした。このスペインの「黄金時代」には、知と精神の改革も行われた。ヒューマニズムの高まりや、(審問所の努力にもかかわらず) プロテスタント革命のはじまり、そしてサラマンカ大学の創設などがこの時代に起きている。この頃、スペインは帝国を維持するために多くの財宝や血を支払ったが、おそらく長期的に見てそれは割に合うものではなかった。
大きな力には大きな重荷がともなう… 少なくともバルバリアの海賊や老練なイングランドの船乗りが帝国の沿岸部で暴れることを防ごうとすれば。イングランドとオスマン帝国の脅威以外にも、スペインは定期的にフランスと戦争をしていた。宗教的不安定と戦争がこのカトリックの帝国をゆさぶった。プロテスタント革命がスペインをヨーロッパ全土で多くの紛争に巻き込んだのだ。ハプスブルク家の君主はメキシコやオランダ… さらに多くの未開の地で反乱に直面した。社会不安と宗教的狂信が及ばなかった場所には疫病がその魔手を伸ばし、1650年代に帝国全土がセビリアの大疫病によって揺れ動いた。

衰退 Edit

この時以降、スペインの権勢と影響力は、当初は徐々に、その後は急速に弱まっていった。スペインはポルトガルとオランダというヨーロッパの領土さえも失った。そして大きな爪痕を残した三十年戦争により、軍事力の衰退にもあえいだ。戦争に次ぐ戦争がかつて栄華を誇っていた帝国を破壊し、この後の2世紀に渡りスペインを苦しめつづける。スペイン継承戦争ではハプスブルク家が玉座から失墜し、ブルボン朝がはじまることになる。1713年のユトレヒト条約でスペインはイギリスにジブラルタルを譲った
(この地には今もイギリス軍が駐屯している)。そして18世紀の終わりには、ポルトガルに行くためと主張した狡猾なナポレオン・ボナパルトに侵略され、19世紀の初期には1人の愛国者がフランスの支配に対して反乱を起こしたことでスペイン独立戦争 (半島戦争) が勃発する。最終的にはフランスから勝利を奪ったものの (ナポレオンがロシア遠征で大損害を受けたことが大きかった)、スペインは政治的混乱に陥ってしまう。そのため、ブルボン家が王位に返り咲くこととなる。

米西戦争 Edit

その後、複数の植民地で独立運動が勃発し、スペインはこれまでとは反対の立場で戦争へと突入する。1808年〜1833年の間、アメリカ大陸のスペイン支配地域では、「解放」戦争の嵐が吹き荒れた (新興国のほとんどは結局独裁制か軍事政権となった)。現地民による反乱は他にも、フィリピン、キューバ、アフリカ、そしてアジアなどで数多く起こった。19世紀の終盤には、アメリカ合衆国もこの瀕死の帝国から幾ばくかの領土を奪おうと決意し、米西戦争が勃発する。
1873年〜1874年の短期間だけ共和政が採用されたが、結局は君主制に戻り、ブルボン家の「立憲」君主は1931年まで王座に君臨した。この期間、帝国の名残を失った以外に (あるいはそのせいで) スペイン人がしていたのは、過去の文化的栄光の夢を見ることだけだった。エル・グレコやゴヤといった芸術家、セルバンテスやロペ・デ・ベガといった作家、サラサーテやフェルナンド・ソルなどの作曲家が再発見され、人気が再燃した。地域ごとの言語や料理の違いが見直されたのもこの時期の特徴である。それでも人々はなおも政治に熱い情熱を燃やしていた (よせばいいのに)。

スペイン内戦 Edit

1931年4月の選挙で、君主制派と共和派の間には埋められない溝があることが明らかになった。群衆が通りに集まり、経済状況と君主制派による国会支配に抗議すると、アルフォンソ13世 (不吉な数字である) は友人たちの助言を聞き入れ、すぐさま国外へ脱出した。スペイン第二共和政は女性に投票権を与え、さらなる自治を求めるバスクの願いを認めたが、それによって経済的、社会的な苦悩が解消されることはなく、政権は5年しかもたなかった。血と暴力の高まりは最終的に軍事クーデターにつながり、民主主義の左派共和主義との間で3年間も悲惨な内戦がつづけられた。この衝突によって国は荒廃し、推定で50万人の犠牲者を出し、ヨーロッパの主要国を巻き込みつつ、ファシズムの台頭で幕を閉じた。以後、スペインでは、フランシスコ・フランコ将軍の支配の下、36年間もファシズム政権がつづいた。

現在 Edit

1975年にフランコ将軍が死去すると、フアン・カルロス1世デ・ボルボン・イ・ボルボンの下で立憲君主制を復活させる機運が高まった。かくしてブルボン朝が復活し、今回は長続きした。選抜された諮問委員会と民衆の支持を得て、若き王は賢明な改革の使者であることを証明した。結果として国会はほぼ民主主義的な新憲法を採択し、1978年12月の国民投票で裁可された。スペイン人は再び過去の栄光を夢見る長いシエスタに戻ることができるようになり、豊かな遺産や世界的に有名な祭りや休日を祝った。以前と少し違うのは、激しい都市化と工業化、そして公害の猛威だった。

ドイツ Edit

 1870年にビスマルクがさまざまな小邦国に、1つであることの利点は多数であることの利点に勝ると納得させるまで、「ドイツ」という国は存在していなかった。

ゲルマニア Edit

ユリウス・カエサルは、これらライン川の向こう側の未開の土地を、「平和な」ガリアと区別して呼ぶためにゲルマニアという言葉を初めて使ったことで知られている。地理的に見たドイツは、ライン川からビストゥラ川、バルト海からドナウ川にかけて広がっている。カエサルが言うように、ガリア人は好戦的ではあったものの、文明化が可能な人々であったのに対し、チュートン人は征服するしかないほど野蛮で粗野な民族であった。ローマ帝国の崩壊にともない、これらの粗野な部族は「ばらばらの独立したゲンス (人々) とレグナ (王国)」となった (つまり、カエサルの見たては正しかったわけだ)。共通の言語 (だが一定の方言はあり、他の地域のドイツ人にはほとんど理解できない場合もあった) や慣習、そしてお互いを殺し合うという伝統を除くと、これらの国々に共通するものはなにもなかった。

フランク王国 Edit

これを (短期間とは言え) 統一する役目は、シャルルマーニュ大帝に任された。シャルルマーニュ大帝は800年12月に教皇レオ3世によって西ローマ皇帝の冠を授けられていた。しかし実際の統一は、レックス・テウトニコラム (ドイツの王) として936年に戴冠した王子オットー1世が、後に帝権移転の原則のもとで教皇ヨハネス12世に神聖ローマ皇帝と宣言されるのを待たねばならなかった。その後、教皇ヨハネス12世とオットー1世は喧々諤々の議論を経てディプロマ・オットニアナムに署名し、これによってローマ教皇はカトリック教会の神聖な長として認められ――この結果、高位聖職者たちが聖書を好き勝手に解釈することはできなくなった――、ドイツの王でもある皇帝がその世俗の守護者となった。オットー1世は残りの生涯を「部族公国」(自治権と選挙権を持つ、ドイツの有力な5つの公国、フランケン、バイエルン、ロタリンギア、ザクセン、スワビア) をなだめたり、フランス人、マジャール人、イタリア人、スラヴ人と戦ったり、さまざまな反乱を鎮めたりと、概してあまり楽しくない日々に費やした。

神聖ローマ帝国 Edit

オットー1世以後の皇位継承は、常に変化する要因の坩堝であり、控えめに言ってもひどい有り様だった。ドイツの王は代々、1356年の金印勅書によって制定された「7人の選帝侯」(3人の大司教と4人の宗教と関係のないドイツの諸侯) によって選ばれていた (ちなみにドイツ人たちがこの方式に同意するだけで400年もかかっている)。それ以前のレックス・テウトニコラム (ドイツの王) の選出は、「礼節をわきまえた混乱」と呼べるような状況だった。三十年戦争のおかげもあり、プロテスタントとカトリックのバランスを保つために選帝侯が1人追加され、1692年には票が運悪く同数になってしまわぬよう、さらに選帝侯が1人追加された。そしてナポレオンがすべてを台無しにしてしまう直前の1803年、選帝侯に関する憲法が改正された。いったん王に選ばれれば、神聖ローマ皇帝の戴冠式などは、その時点での教皇による通過儀礼に過ぎなくなったのだ。
オットー大王以後も王と皇帝の座は長く引き継がれていった。サクソン人、サリ族、ホーエンシュタウフェン家、ヴェルフ家、ルクセンブルク、ヴィッテルスバッハ家、そしてその座を長く譲らなかったハプスブルク家。ハイン
リッヒ4世や赤髭王フリードリヒ1世のような偉大で輝かしい者もいれば、オットー4世やルートヴィヒ4世のような強欲でうぬぼれた者もいた。だが、能力や政策がどうであれ、大国の「力」や特権をねたむ数百もの小国に対処しなければならないのは、みな同じだった。

ハンザ同盟 Edit

こんな混成国家が安定するはずがない。1040年頃にはフランケンが、都市国家のフランクフルト、大司教区のマインツ、シュパイアー、ボルムス、方伯領のヘッセンなどに細かく分裂した。1200年代には東でチュートン騎士団がプロイセンを侵略して自分たちのものとすると、ボヘミア、シュレジエン、ポンメルンは野心的なドイツ貴族によってスラヴ人から奪取された。この他にもさまざまな争いがあった。
それにもかかわらずドイツは比較的平和であり、さらに重要なことに、繁栄していた。繁栄の要因の1つとして、ハンザ同盟の設立が挙げられる。ハンザ同盟とは、バルト海や北海沿岸における貿易を支配していた港や銀行ギルドによる「商業同盟」である。木材、毛皮、穀物、鉱石、魚は西へ、加工品は東へと運ばれた。ハンザ同盟は1226年に皇帝フリードリヒ2世が「帝国自由都市」と定めたリューベックを中心に、ケルンやブレーメン、ハンブルクのような都市で強固な地位を築き、ロンドンやノヴゴロドのような遠く離れた港にも倉庫や事務所を持っていた。ハンザ同盟は1200年代から1500年代にかけて栄えたが、この時代の多くのドイツ人はヨーロッパで最も高い生活水準を享受しており、戦争や伝染病があったにもかかわらず、人口は増えていた。ちなみに1500年にはおよそ500〜600万人が住んでおり、その多くは職人や商人としてギルドに属していた (ごく一部のギルドでは女性の加入すら認められていた)。
都市が発展して余剰資金が増えると芸術も栄えた。12世紀には女子修道院長のヒルデガルト・フォン・ビンゲンが礼拝の詩や歌曲、ヨーロッパ最古の道徳劇だけでなく、影響力をもった神学と医学の本を書いた。1世紀後、フォン・デア・フォーゲルバイデが、この時代におけるヨーロッパ叙情詩の最高水準の作品を発表した。そしてマインツの思想家であるヨハネス・グーテンベルクが、組み換え可能な金属製の活字、つまり活版印刷を開発した。民衆の識字率が上がり、支配層の考えを熟慮できるようになると、すべてが変化した (読み書きの能力が一般人に広がるのには数世紀を必要としたが、やがて宗教改革や北方ルネサンス、科学革命へとつながっていったのだ)。
ドイツではすべてがうまく進んでいたかに見えた。聖職者マルティン・ルターが聖書を自国語に翻訳し (当時、印刷機のおかげで本当に誰でもそれを買うことができた)、1517年10月、ヴィッテンベルクにある諸聖人の教会の扉に「免罪符の力と効果についての95ヶ条の論題」を釘で打ちつけるまでは。ルターの「プロテスタント (異議を唱える者)」神学説は、すぐに農民戦争 (フランス革命以前ではヨーロッパ最大の民衆反乱) を引き起こし、1555年のアウクスブルクの和議の崩壊後、より残虐な三十年戦争を引き起こした (アウクスブルクの和議によりルター派の信仰は適法と認められ、諸地域の信仰は各支配者の信仰と同じとすることが認められた)。1618年から1648年にかけて、カトリック同盟とプロテスタント連合の軍隊や傭兵たちは、「信仰をともにしない人々」を思う存分殺戮した。この宗教熱が燃え尽きるころには、ドイツの人口は20%から38%も減少していたと推定されている。
マルティン・ルターはたしかに非凡な人物であったが、アルブレヒト・デューラーのような芸術家やヨハネス・ロイヒリンのような学者、パッヘルベルのような音楽家、そしてエリアス・ホルやハンス・クルンパーのような多くの有名建築家とともに、ルネサンス期のドイツの偉人のひとりに数えられているのは皮肉な話だ。しかし、1600年代から1700年代のドイツ人科学者たちは、文明にさらに大きな影響を及ぼした。彼らは他のどの国も及ばないほどの科学的な発見や理解、そして誤用の基礎を築いた (最も有名な科学者の1人、インゴルシュタット大学のフランケンシュタイン博士がドイツ人と設定されているのには理由があるのだ)。シュトゥットガルトのヨハネス・ケプラーは宇宙論に革命を起こし、大学者のライプニッツは微積分学を発展させ、1700年にプロイセン科学アカデミーを設立し、哲学者のイマヌエル・カントは道徳観の科学的根拠を探求した。さらには天文学者であるザクセンのマリア・ヴィンケルマンや昆虫学者であるフランクフルトのマリア・メリアンは、他のドイツ人女性が科学の道で名を挙げられるように扉を開いた。そして印刷技術の発展にともない、感受性の強い人々を困惑させる機会も多くなったのである。

改革 Edit

ドイツの芸術家や科学者たちが文明を啓蒙しても、神聖ローマ帝国は順調とは言い難かった。この時点ではすでにヨーロッパの封建制度は法律によって廃止され、新進の中産階級が声をあげはじめていた。ドイツの多くの国々では新しい、より力強い支配者が現れはじめていた。ブランデンブルクとプロイセンを支配したホーエンツォレルン家、バイエルンを支配したヴィッテルスバッハ家、ザクセンを支配したヴェルフ家、そして (もちろん) ヘッセンを支配したヘッセン=カッセル家などである。これらの支配者たちは、オーストリア人でありながら1500年頃からドイツの王、そして神聖ローマ帝国の皇帝でありつづけたハプスブルク家の支配に苛立ちはじめていた。主な血統が途絶えた際にバイエルンのカール7世が短い間 (1742〜1745) 皇帝となったが、すぐにハプスブルク=ロートリンゲン家が王座を取り戻した。しかし改革の空気は広まり、(遅々としてではあるが) 皇帝もそれに応じていった。
戦費を捻出し、息子のマクシミリアン1世をドイツ国王の座につけるためにドイツの公国君主たちの援助を必要としたフリードリヒ3世は、意志決定への参加を要求する共同戦線に直面することになった。公国君主たちは、帝国議会 (ライヒスターク) において王への助言や監督をおこなえる選帝侯と他の公国君主からなる集まりを設けることを「要求」した。フリードリヒ3世は1回目の帝国議会が招集される事態を避けたが、父より融和的な (もしくは聡明ではなかった) 息子はついにボルムス議会を招集する。この議会で、王と公国君主たちはまず4つの法案に同意した。帝国改革と総称されたこの一連の法律は、崩壊しつつある帝国に必要な基盤を作ることを目的としており、その中には
「永遠の平和」(ドイツの貴族間の争いを禁止する令) や
「コモンペニー」(新たなインフラを造るための帝国の税金) が含まれていた。後の帝国議会はさらに法律や改革… そして税金を追加した。
しかし1700年代中頃までには、ドイツ王国や神聖ローマ帝国の一体感を守ろうという手遅れの努力よりも速いペースで周辺事情が変化していった。支配者たちはこれまでどおり独自の軍隊や外交団を維持し、「王」の意向や行動とは関係なく勝手に使用するようになっていた。シュレジエン戦争や七年戦争では「啓蒙絶対主義」の指導のもと、プロイセンがヨーロッパで「超大国」として認められるようになり、バイエルンやビュルテンベルクでは支配者たちが宮殿や愛人、芸術に資金をつぎこみ、ヘッセン=カッセルやハノーファーの方伯たちは、自分たちの精鋭兵士を傭兵として貸し出して金を稼いだ。そしてついにハノーファー公国君主はイングランドの王家となり、ドイツの出来事に関心を失っていった (ロンドンで生まれ、アメリカ独立戦争時にはイングランドの王であったジョージ3世は、一度もハノーファーの土を踏まなかった)。

神聖でもローマでも帝国でもない国の終焉 Edit

統一という見せかけが崩れつつあったちょうどそのとき、ドイツ王国はフランス革命とその後のナポレオン戦争に対処することとなった。血塗られたフランス革命への恐怖から、ドイツの小国併合や教会領の接収は加速した。小国併合では、隣接する君主国の領土を併合する際、併合される方が権利を交渉できた。また、教会領の接収では、貴族が近隣に散らばっている教会の小さな土地を残らず自分のものにした。1792年以降、革命中のフランスはドイツのほとんどの (連携の取れていない) 国と戦争に突入した。アウステルリッツでフランスが勝利すると、1806年はじめに (オーストリアの) フランツ2世は退位し、ドイツ王国と神聖ローマ帝国は正式にナポレオンによって解体された。ナポレオンはドイツ王国のほとんどをライン同盟に再編したが、最終的には1815年にドイツ連邦がこれにとって代わった。

ヌビア Edit

 アフリカ大陸北部、ナイル川が大きく蛇行している地域で栄えたヌビアは、紅海とナイル川デルタを結ぶ要衝に位置していた。この地域は当時の交易の中心地であり、その領土はナイル川源流から地中海に注ぐ河口にまたがっていた可能性すらあると考えられている。ヌビアにとって不都合なことに、彼らの北で暮らすエジプト人は、ヌビアと異なる考えを持っていた。2つの文明は、時に用心深い隣人、時に征服者、時に属国と役割を変えながら数百年を過ごしたが、やがて遠く離れた地から次々と侵略者が現れ、両者のライバル関係には終止符が打たれることになった。

都市国家ケルマ Edit

最初期のヌビア文明は、現在のスーダンにあたる地域で興った。都市国家ケルマが築かれた場所は、ナイル川の第3瀑布のすぐ南に広がる肥沃な土地だった。ナイル川に隣接していたケルマの立地は、水路と陸路のどちらから見ても理想的なもので、ケルマが交易の要衝として発展するのはいわば必然だった。さらにケルマの地位を確固たるものにしたのが、黒檀や黄金など、多岐にわたる豊富な鉱物資源の発見と採掘である。しかし、交易が富をもたらす一方、富は襲撃をもたらした。富は欲しいが交易という手段で手に入ることには興味のない者たちが、暴力に訴えたのである。
都市と交易路の守りを固めたケルマは、ナイル川流域でその影響力を少しずつ拡大させていった。やがてケルマに味方する村や砦、交易施設を結んだ総距離は、1287kmに達するまでになった。大雑把にいえば、第1瀑布から第5瀑布までの距離である。当時のケルマは、規模においても影響力においても、エジプトに匹敵する勢力だった。
紀元前2千年紀以降のケルマに関する史料はほとんど残っていない。ケルマの人々が書き言葉を持っていたとしても、それは遠い昔に失われてしまった。この王国にまつわる記録の大半は、エジプトの文献 (とりわけ、隣人であるヌビアとのささやかな争いに関するもの) によって占められている。そうした記録には、ケルマは中央集権化が進んだ国だと記されているが、文字を持たずに広大な領土を管理するのは、さぞ苦労が多かっただろう。
隣り合う王国の間には争いが絶えなかった。ケルマの軍勢のかなりの割合を占めていた精強なヌビア人弓兵にちなんで、エジプトはヌビアを「弓の国」と呼んだ。彼らの弓兵は敵によほど強烈な印象を残したらしい。のちにヌビアの領土に築かれたエジプトのある砦は、「弓避け」と呼ばれた。自信と願望の両方が読み取れる名前と言えるだろう。
ケルマの力は紀元前1580年ごろに頂点に達したが、ヒクソスとの間に結んだ同盟が仇となり、最終的には没落の憂き目に遭う。東方からの侵略者であるヒクソスは、紀元前17世紀半ばにエジプトの一部を支配したが、住人たちの反抗とテーベを拠点とするエジプト王朝の残党に手を焼いていた。このときケルマが考えたのは、残っているエジプトの一部を自分たちのものにすることだった。それによって彼らはエジプトの命脈を絶とうとしたのである。

エジプト支配 Edit

この目論見はあと一歩で成功するところだった。ケルマは30年かけてエジプトの領土深くに攻め入り、宗教や文化にまつわる宝を自分たちのものにした。だが最後には、エジプトがヒクソスの諸侯を倒し、これを追放することに成功する。ケルマの侵略は大規模かつ苛烈なものだったので、エジプト人はのちに彼らの侵略に関する記録をすべて消し去った。また、ヒクソスと関わる「第15王朝」の記録も合わせて抹消した。だが、さすがの彼らも、ケルマに持ちさられたエジプトの財宝を消すことはできなかった。
それでもなおファラオたちは恥辱を忘れなかった。その1世紀後、報復としてトトメス1世はケルマの街を征服した。その2代後のトトメス3世は、ヌビアの領土のさらに奥まで攻め込み、最終的にはゲベル・バルカル山とその近くの都市ナパタをエジプトの新たな南の国境とした。
ヌビアはおよそ400年をエジプトの支配下で過ごした。もちろん幾度も反乱が起きたが、時が経つにつれ、ヌビアとエジプトの文化は融合していった。ケルマはゆっくりと消えていき、やがて忠実なヌビア属州は、エジプトにとって黄金の産出地、紅海への経路、弓兵の供給源となった。かつてエジプトを震え上がらせた弓兵は、今やエジプトの敵を震え上がらせるようになっていた。
紀元前10世紀ごろ、エジプトが地中海の出来事に目を向けるようになると (そしてその後、エジプト新王国が崩壊すると)、ヌビアは再び自分のことを自分で決められるようになった。それから数百年、クシュ王国はゆっくりと力をつけていき、一方のエジプトは、領土を広げすぎたことが裏目に出て、リビュアの王侯への服従を余儀なくされることとなった。
数奇な運命の巡り合わせにより、クシュ王ピイは、下エジプトを侵入者であるリビュア人から解放することはアムン神の神命であると宣言する (この神はエジプトの主神であり、ゲベル・バルカルの神殿は、エジプトのファラオであるトトメス3世によって築かれた)。この宣言は実行に移され、ナイル川デルタの支配圏を握ったこのヌビアの王は、エジプトの第25王朝を創始。エジプトにかつての栄光を取り戻すべく動きはじめる。
しばらくの間は彼の目論見どおりに事が進んだ。ピイとその後継者たちは、異国の支配下に置かれていたせいで停滞していた記念碑、神殿、公共事業の再建を目指した。こうしたエジプト文化の再興は、第25王朝の最大の功績といえるだろう。だが、これは長くは続かなかった。
たとえ小さなものであろうと、スズメバチの巣をつつくのは愚の骨頂だ。第25王朝のファラオたちは、この教訓を忘れ、近東に勢力を伸ばそうとした。この結果、近東を属国とみなしていた強大な新アッシリア帝国との争いが勃発する (ピイは新アッシリアの君主に対するカナンの反乱を支援していたが、これは意味をなさなかった)。新アッシリアの王エサルハドンは、紀元前674年にエジプトへ侵攻し、自らの地位を確立。それからわずか3年足らずで侵略者は第25王朝の息の根を止め、ヌビアとエジプトの結びつきは永久に断たれることとなった。
エジプトからの撤退は、最終的にヌビアの得になった。新アッシリアにならい、他の地中海勢力もエジプトを魅力的な属国候補とみなすようになったためである。ヌビアがその都をナパタから遠いメロエへ移したのも賢明な判断だった。この遷都によって紅海のギリシャ商人との交流が実現し、ナイル川流域での交易よりもはるかに大きな利益を望めるようになったからだ。また、この遷都には北方からの侵略を断念させる効果もあった。ペルシア、マケドニア、プトレマイオス朝エジプトのいずれも、メロエのクシュ王国に本腰を入れて攻め込んでくることはなかった。

ローマとの衝突 Edit

その後、紀元前25年にヌビアはローマ帝国と衝突した。ローマの将軍ペトロニウスは、ヌビアの隻眼のカンダケ (「女王」)・アマニレナスと幾度も刃を交えた。ローマ軍がナパタを占領し、アムン神殿を完全に破壊すると、アマニレナスはいよいよ激しく抵抗した。その凄まじさは、ペトロニウスに征服よりも平和が好ましいと考えさせるに十分なものだった。その後、アウグストゥス・カエサルがクシュと結んだ平和条約は、当事者自身が驚くほどヌビアに有利なものだった。彼らを交戦国としてではなく友好的な保護領として扱う内容だったのである。
このローマ帝国による破壊の後、メロエでは建設の槌音が響きはじめた。時は紀元前1年、音頭を取ったのはカンダケ・アマニトレ (彼女については別項で説明する) である。この再建の時代は、ヌビア北東のベジャ王朝が西暦1世紀、メロエを制圧したことで終わりを迎えた。ベジャはヌビアの領土を広げようと考えていたが、内部の反乱やアクスム王国との衝突を経て、最終的に覇権はアクスム王国の手に渡った。

ノルウェー Edit

 ノルウェーのバイキングには、故郷を離れたがる傾向があったようだ。西暦800年の時点で、バイキングたちはシェトランド諸島、オークニー諸島、フェロー諸島、ヘブリディーズ諸島の他、誰もそれほど欲しがっていなかった土地に入植していた。820年頃にはアイルランド西岸に入植し、ダブリンなどアイルランドの大都市を築いた。また、870年前後にアイスランドを発見すると、すぐに400名の指導者の間で土地が分割された。その100年後にはグリーンランドに現れ、1000年頃にはレイフ・エリクソンが北アメリカ大陸に到着した (居着きはしなかったが)。この間ずっと祖国ノルウェーは統一されることさえなく、主導権を争う小王国が群雄割拠する状態だった。

バイキング Edit

ハーラル美髪王によるノルウェー建国がはじまったのは872年頃 (バイキングの記録はあてにならないため、歴史学者にも確かな日付けはわからない)、ハヴルスフィヨルドの戦いで敵対する指導者全員を打ち破った時である。しかし、真に統一されたノルウェーの王座に就いたのは、オーラヴ・ハラルドソンだった (と言っても、つづく数世紀の間、多くの君主が支配から逃げ出そうとしたが)。
「聖」オーラヴはキリスト教を国教とし、オーディンやトールなど、伝統的な北欧の神々との絶縁を決心していた。そのため、地方を治める組織にキリスト教への帰依と教会の建設、異教の建物の破壊を義務づける法律を作らせ、トロンハイムをノルウェーにおけるキリスト教の中心と宣言した。残念ながらオーラヴ本人はスティクレスタッドの戦いで戦死したが、キリスト教信仰はノルウェーに残った。
ハーラル苛烈王はイングランド王位を狙った末、1066年にスタンフォード・ブリッジで没したが、その一族は「十字軍王」として知られるシグル・マグヌソンが1130年に死去するまでノルウェーを支配しつづけた。彼の死によってノルウェーは内戦の時代に入り、その状態は1217年にホーコン4世がスヴェレ朝を築くまで1世紀近くつづいた。ホーコン4世とその子孫による統治のもと、ノルウェーは政治と文化の両方で黄金時代を迎え、アイルランドとグリーンランドを併合した。1266年に「改法王」マグヌス6世 (彼は崩壊していた多くの法を修正した) は、猛々しいスコットランド人勢力からヘブリディーズ諸島の入植地を守り切ることはできないと判断し、ヘブリディーズ諸島とマン島をスコットランド王に売り渡した (シェトランド諸島とオークニー諸島も1468年に同じ道を辿る)。
スカンジナビアは平和と繁栄の時代を迎えた。その最大の功労者はノルウェー人だった。バイキングの商人は南は中東、東はロシアの荒野、そして西はブリテン諸島までおもむき、毛皮、モミ材、魚、鉱石といった原材料と引き替えに富を持ち帰った。海岸線では農耕が栄え、工芸もかつてない高みに達した。ノルウェーの職人は木材と金属を用いてオーセベリ船から壺まで、6つもの異なる様式で優れた芸術品を生み出した。船大工は大洋を渡れる船を造り、鍛冶師はヨーロッパ全土で最も優れた武器と鎧を鍛えた。それもそのはず、バイキングの王国間は平和だったものの、ノルウェー人は相変わらず近隣の誰かを毎週のように襲っていたからだ。しかし楽しい時代にも、やがて終わりがやってくる。
1349年頃、黒死病がスカンジナビアにも到来し、その後の数年間で人口の50%近くを死に至らしめた。当然税収が減り、中央の権威は失墜した。他方、カトリック教会は「十分の一税」を増税してますます勢力を強め、遂にトロンハイムの大司教は国会の議席を要求し、実際に手に入れるに至った。14世紀の終わり頃、ハンザ同盟は着実にノルウェーの交易路を乗っ取っていった。ハンザ同盟は
1343年、ベルゲンに商館 (国外交易所) を設立し、1400年までにはベルゲンの中に自分たちの地区を作り、独占的に漁船と交易する特権を定めていた (ベルゲンは1600年代中頃までハンザ同盟に加盟していた)。

カルマル同盟 Edit

これらの出来事を元に、困難に立ち向かうために古いバイキングの王国を統一しようという考えが生まれた。1376年5月、オーラヴ2世は5歳にして、祖父の死によりデンマークの王位を継承し、また父が死ぬとノルウェーの王位も継承した。その後の400年間、ノルウェーの支配はコペンハーゲンから行われ、二重王国の一部となった。それからまもなく、デンマークの摂政だったマルグレーテ1世がスウェーデンの王位も統合し、カルマル同盟が結成された。同盟にはこの3つの王国だけでなく、海外のノルウェーの属国やフィンランド (当時はスウェーデンの支配下にあった) も含まれていた。バルト海におけるハンザ同盟やドイツ諸侯の増大する影響力に対抗するために結成されたこの同盟は、1523年に「ストックホルムの血浴」でスウェーデンに革命が勃発し、グスタフ・ヴァーサが「自由スウェーデン」の王として戴冠するまで存続した。
カルマル同盟は大いにノルウェーに役立った… 宗教改革にまつわる混乱を除いては。デンマーク・ノルウェー王フレゼリク1世はルターの異説に肩入れしたが、民衆はルターの説に賛同しなかった。そんな中、1529年に王がノルウェー人にプロテスタントの信仰を強制しようとしたため、深刻な問題が発生した。抵抗運動を率いたのはもちろんトロンハイムの最も新しい大司教である。彼は亡命して年老いていたカトリック教徒のクリスチャン2世を招聘した。しかしクリスチャン2世は捕らえられ、残る人生を幽閉されて過ごすことになる。フレゼリク1世の没後につづいた内紛のさなか、ノルウェーのカトリック教徒は再び蜂起したが、結果は前回よりも悪いものとなった。勝利したデンマークのクリスチャン3世は、1536年、大司教を追放し、ノルウェーを同等の地位を持つ王国からデンマークの一地方に格下げし、翌年にはルター主義を強制した。
その後しばらくの間、ノルウェー人は新しい秩序に落ち着き、平穏が訪れた。短気なデンマーク人が自分から飛び込んだ戦争――カルマル戦争 (1611〜1613)、三十年戦争 (1618〜1648)、第二次北方戦争 (1657〜1660)――が時折あり、国境線が変わることはあったものの、全体としてはうまくいっていた。人口は300年 (1500〜1800) の間におよそ75万人増加した。やがてデンマークの行政システムに改革が起こり、ノルウェーは複数の国に分裂することとなった。有能な王がつづいたことで、政府が任命した1600人の役人がノルウェー全土に広がっていたにもかかわらず、政府の腐敗はむしろ減少した。だが (少なくともデンマーク人にとっては) 残念なことに、ノルウェーはまもなくナポレオンの大戦争に巻き込まれてゆく… しかも敗者の側として。

スウェーデン支配 Edit

国民議会が招集され、1814年5月には立憲君主制の憲法が作成されていたにもかかわらず、戦争が集結する頃には、ノルウェーはスウェーデンの一部になっていた。スウェーデンは1814年7月にノウルェーに侵攻し、降伏しておとなしく従うことを条件に憲法を認め、8月にモス条約に同意した。こうして憲法上のスウェーデンとノルウェーの統一がはじまり、スウェーデンの君主カール・ヨハンが2国の冠を戴くこととなった。ノルウェー人には国粋主義と自由主義が定着したが、のんきなスウェーデン人はノルウェー人に相当な自由を与えていた。ノルウェー銀行が1816年に設立されると、自国通貨 (ノルウェーターラー) が発行された。1821年には古来からつづいていたノルウェーの貴族政治が議会によって廃止された。1832年になると農民は自分たちが他のどの集団よりも母数が多いことに気づき、その年の選挙で国会議席の大多数を獲得した。この結果、地方の税は引き下げられ、かわりに関税が上がり、新たに制定された地方委員会法によって地方の運営をおこなう地方議員が選出された。

民主主義国家 Edit

スウェーデンがノルウェーとの自由貿易協定を破棄して国境線を引き、ノルウェーの外務大臣を任命するのを拒否すると、ノルウェー各地に独立運動が広がった。1905年6月、スウェーデン王が再びノルウェーの外務大臣の任命を (議会は賛成していたにもかかわらず) 拒否すると、議会は統一解消を決議した。その後おこなわれた国民投票で統一の維持に賛成したノルウェー人はわずか184名だった。ノルウェーの新政府はデンマークの王子に国王として即位することを依頼し、王子はこの申し出を受諾してホーコン7世となった (本名はカール)。500年ぶりにノルウェーは再び独立国家となったのだ。
つづく10年間にノルウェーは進歩的な国家であることを証明した。1913年、ノルウェーは女性の参政権を可決した2番目の国となったのである。議会は疾病手当や工場の監査、労働者安全法、1日10時間労働を定めた法律を可決し、大資本家につけいる隙を与えなかった。鉄道が海岸沿いに敷かれ、1909年にはベルゲン線が完成した。工場、特に水力発電所が他の追随を許さない速度で建設された。アムンゼン (初めて南極に到達)、スベルドラップ、ナンセンなど、ノルウェー人探検家の名は世界中に知れわたった。まさにノルウェー第2の黄金時代だった。

現在 Edit

スカンジナビアの近隣諸国と同様、ノルウェーもまたヨーロッパの紛争と距離を置くよう努めた。第一次世界大戦ではその状態を保つことができたが、次の大戦ではそうはいかなかった。海軍によって海岸線を封鎖する能力をもち、領海を遠慮なく侵犯するイギリスと、軍需工場で使うためにノルウェー北部の鉄鉱を必要としたドイツに挟まれてしまったのだ。1940年4月、ノルウェーに侵攻したナチスドイツは瞬く間に国内を制圧し、鉄鉱を輸送する陸路を押さえた。ノルウェー政府は亡命し、悪名高いヴィドクン・クヴィスリング (その名前は「裏切り者」と同義語になっている) が協力政府を組織した。それでも、いくらかの強襲作戦やゲリラ活動があったことを除けば、ノルウェーは概して戦争の周辺部にあった。ただし、ノルウェーの商船団 (当時の世界第4の規模) のうち80%ほどは国外に逃れ、連合国に協力した。
戦争が終結するとノルウェーは伝統の中立を回復し、外交政策の労力を国際連合に注ぎ、ノルウェー生まれのトリグヴェ・リーが国際連合初代事務総長となった。しかし冷戦期にはどの国も中立ではいられなくなり、1949年にノルウェーはNATOの創設メンバーに名を連ねることとなる
(ただし、外国軍の駐留や核兵器の持ち込みは決して認めなかった)。1969年に北海で石油 (エコフィスク油田) が見つかり、何十億ドルという資金がノルウェー経済に流れ込むと、比較的人口が少ないこともあって、ノルウェーは世界最高レベルの生活水準を享受することになった。全体として見ると、ノルウェー人は戦後、良質な暮らし、ウインタースポーツ、数度のオリンピック開催、そして観光客を呼び込むことに力を注いできたようだ。

バビロン Edit

 バビロン帝国は紀元前2000年頃、ユーフラテス川とティグリス川の間、現在のバグダード南西に位置する土地で成立した。当時のこの地の人々は、バビロン人ではなくアモリ人と呼ばれていた。スムアブムという首長が隣接する都市カザルからの独立を宣言したことがバビロン第1王朝の始まりである。ただしバビロンは、この王朝で最も有名な支配者、ハンムラビ王が登場するまでは弱小の都市国家に過ぎなかった。

ハンムラビ Edit

ハンムラビはバビロンの社会基盤を改善し、同盟、裏切り、征服の数々を経て領土を広げていった。彼はこの帝国を、刑罰の扱いを詳細に記した「ハンムラビ法典」によって支配した。実際、彼の法は驚くほど具体的かつ合理的だった。この法典の「目には目を、歯には歯を」は現在でもよく知られているが、窃盗の罰 (たとえば雄牛を盗んだ場合は元の値段の30倍を支払うことが定められていた) や医療事故に対する補償も具体的に記されていた。特に「有罪が証明されるまで無罪と推定される」という、当時としては画期的な概念が含まれていた点は重要である。
軍事遠征のために国を空けることの多かったハンムラビだが、彼は遠隔地からも統治の手をゆるめず、急速に拡大する帝国に君臨しつづけた。42年に及んだその治世が終わる頃、ハンムラビはメソポタミア南部全域を支配していた。バビロンは帝国の首都としての地位を確立し、メソポタミアの富と権力の中心となった。

衰退 Edit

紀元前1750年にハンムラビが死去した後、バビロンは衰退した。巨大な帝国をまとめていた理念や同盟、武勇を継ぐ者は誰もいなかった (少なくとも生存中に神格化された者は一人としていなかった)。ハンムラビの後継者サムス・イルナの治世に帝国は崩壊を始める。ハンムラビが拡大した領土はアッシリア人に侵食され、その後の王たちも国境を維持できず、バビロンは再び弱小の都市国家へ没落していった。
その後数百年にわたり、バビロンは幾度も敗北し、略奪され、征服される。不作や強力な統治者の欠如、外部との紛争のため、国内の体勢すら建て直せず、ヒッタイト人、カッシート人、カルデア人、アラム人、最終的にはアッシリア人によって支配された。だが、カッシート人の支配下でバビロンは再び息を吹き返す。都市の名はカランドリアシュに改められたものの、特に学問の分野で発展を見せ、数学、医学、天文学で名を馳せた。これによりバビロンは、400年以上後に再び征服されるまで命脈を保つことができた。
アッシリアによる支配の後期、アッシリア王センナケリブの統治下にあったバビロンは、絶え間ない混乱と反乱にさらされつづけた。この都市を焼き払う以外に事態を終息させる方法はないと判断したセンナケリブは、バビロンに火を放った。城壁は崩れ、街は廃墟と化し、神殿や王宮も破壊された。この所業に衝撃を受けたセンナケリブの息子たちは、償いとして父王を亡き者とし、その後は都市の再建に努めた。

再興 Edit

紀元前612年には、カルデアのナボポラッサル王がバビロン再建に着手した。彼はまず同盟を結ぶことから始め、その息子のネブカドネザル2世により、バビロンは古代有数の美しい都市として再興された。ネブカドネザル2世は、エ・テメン・アン・キのジッグラトやイシュタル門など、芸術的な建造物を次々と築いた。また、妻のために空中庭園を建設させたとも言われているが、その正確な場所はわかっていない。
他の多くの地域と同様、紀元前500年頃にバビロンはペルシアの大王キュロス2世により滅ぼされた。キュロス2世とその後のダレイオス1世の統治下で、バビロンはペルシアの第9総督領首都、ペルシア帝国の政治的中心地となり、学問と芸術の都の地位に返り咲く。その後200年、バビロンは繁栄をつづけた。しかし、やがて暴動が発生するようになり、負担に見合う構造改革がおこなわれないまま増税が課された後はいっそう激化した。

その後 Edit

アレキサンドロス大王の征服により、バビロンは富と知識を再び取り戻した。征服からの12年間は、過ぎ去りし黄金時代の名残りがこの都市に息づいていた。しかし、アレキサンドロスの死と将軍たちによる無分別な領土の分割、そして一部の住民の「移送」により、この都市国家はまたしても商業的重要性を失ってしまう。
征服、破壊、再建を繰り返したにもかかわらず、バビロンが歴史から消えずに存在しつづけることができたのは、卓越した学問と建築技術のおかげである。空中庭園がバビロンに実在したかどうかはともかく、この都市には驚嘆に値する建築物が他にいくつも残されている。征服を経ても、バビロンが完全に荒廃して不毛の地になることはなかった。それどころかこの地の征服者たちは、それまでの景観を残すことを許した。現在はイラクに属しているこの都市の遺跡には、イシュタル門や額石、床の一部までもが残され、発掘の (もしかすると再建の) 時を待っている。

ハンガリー Edit

 ハンガリー王国は千年近く中央ヨーロッパの主要国の一つとして存在感を発揮しつづけ、歴史の中心地としてこの地域の統治者や王国に影響を及ぼしてきた。多民族国家であり多言語国家でもあるハンガリーの文化への貢献と軍事的な歴史は、東西のヨーロッパが出会う要所でも特に重要なものだ。首都ブダペストを分断している大河ドナウをはじめとして、ハンガリーには何本もの川が流れている。カルパチア盆地には開けた平原がある一方で、周囲には高い山々が連なっている。温泉も豊富で、ローマの時代から人々を惹きつけてやまない。ヨーロッパの玄関口ともいうべき要衝に位置するこの国は、他国の王と国内の野心的な貴族のいずれにとっても、まさに垂涎の的だった。

ハンガリー公国 Edit

10世紀、首長アールパードに率いられたマジャール人がハンガリー公国を建国した。彼らは半遊牧民的な生活と収奪の繰り返しをやめ、より封建主義的な暮らしを選んだのだ。とはいえ、彼らの気質が一変したわけではない。それは新たな臣下が使うスラブ系の言葉を自分たちの言語に取り入れたことからも窺える。ハンガリーを公国から王国にしたのは、アールパード朝のイシュトヴァーン1世である。キリスト教の国教化に尽力した功績から、この初代国王は教会の聖人にも列せられている。ハンガリー王国の領土は、「聖イシュトヴァーンの王冠の地」と呼ばれることもある (厳密に言えば、国王と領地の法的な関係は、土地ごとにさまざまであるが)。
ハンガリー王国の貴族はかなりの自由を享受していた。1222年にアンドラーシュ2世が金印勅書を発布すると、王は相対的に制約を受ける立場になった。貴族は課税を免れ、王が法に反した場合には不服従が許された。また、国境を越えて戦争に赴く義務もなかった。貴族間の上限関係は抑えられ、どの爵位にもある程度の平等性が確立された。ハンガリーのこの金印勅書とイングランドのマグナ・カルタの類似性は、注目に値するだろう。
1241年に起こったスブタイ率いるモンゴル軍のヨーロッパ侵攻は、他のヨーロッパ諸国同様、ハンガリー王国にも大きな被害をもたらした。国王ベーラ4世は国境に無数の砦を築き、再度の侵略を防ごうとした。しかし他のヨーロッパ諸国との争いによって王国は弱体化し、アールパード朝は1301年に滅亡する。それから約1世紀はアンジュー朝が王国を統治し、その後は王朝を形成しなかった統治者が支配した (その中には神聖ローマ皇帝も含まれていた)。

分轄時代 Edit

中世が終わりに近づきつつも、近世はまだイタリアで論じられている概念にすぎなかった頃、マティアス・コルヴィヌスが議会によって王に選出された。この王が統治した時代、王国の軍事力は拡大し、行政は改革された。彼の治世は、ハンガリー王国有数の黄金時代とみなされている。しかし、マハーチの戦いでラヨシュ2世がオスマン帝国のスレイマン1世に惨敗したことで、この黄金時代は打ち砕かれてしまう。
モハーチの戦いはヨーロッパの歴史の中でも特に重要な戦闘である。重装備の騎士と徴兵された歩兵という封建的な部隊で構成された小規模なハンガリー軍は (一世代前の黒軍は、時代の先を行く先進的な軍隊であったというのに!)、倍の兵力を誇り、近代的な考え方にもとづいて編成された砲兵とマスケット銃を装備した精鋭のイェニチェリを主力とするオスマン帝国軍の前に完敗を喫し、ラヨシュ2世をはじめとする多くの貴族が戦死した。この戦いの後、オスマン帝国はハンガリー王国を神聖ローマ帝国と分割し、神聖ローマ帝国に対する緩衝地として利用した。
それから3世紀半の間、ハンガリー王国はオスマン帝国と神聖ローマ帝国の紛争に幾度となく巻き込まれた。自らの意思を押しとおすほどの力はなかったが、中央ヨーロッパの地政学上、無視できるほど弱い国でもなかったからである。貴族の自由という概念は、ハンガリーの伝統の中でも特に神聖視されていたため、神聖ローマ帝国を支配していたハプスブルク家は、政治や軍事でハンガリーの支援を得るため、この権利を繰り返し認めねばならなかった。この結果、ハンガリーのアイデンティティの根幹は、消えることなく残りつづけた。

二重帝国 Edit

こうした独立独歩の気風をいつまでも抑えておけるはずもない。やがてハプスブルク家の支配に対し、謀反の企てや公然とした反乱が相次ぐようになる。スペイン継承戦争の時期には、トランシルヴァニア公ラーコーツィ・フェレンツ2世が反乱を起こした。ラーコーツィ蜂起と呼ばれるこの戦いは、1703年から1711年までつづいたが、味方の少なさや国外からの支援の不足によって挫折した。一方、ヨーロッパ各地で起きた1848年革命では、待望の独立を勝ち取るまであと一歩のところへ迫った。領土のいたるところで革命が起き、若い世代の熱烈な愛国者たちに迫られて、ハプスブルク家はもう少しでハンガリーの支配を完全に明け渡すところだったのだ。ハプスブルク家がどうにか支配権を回復できたのは、ロシアとオーストリアの同盟のおかげであった。そして1867年のアウグスライヒ (「妥協」の意味) で、ハプスブルク帝国は正式に二重帝国となり、オーストリア=ハンガリー帝国が誕生する。ハプスブルク家もついに、帝国におけるハンガリー王国の存在感を認めざるを得なくなったのである。

現在 Edit

王国は第一次世界大戦後、ハプスブルク帝国の解体にともなって消滅した。その後の大戦間の短い期間には、短命に終わった共和政府が国を統治し、第二次世界大戦の混乱期には、復活した右翼勢力によって王国が再建された。第二次世界大戦でハンガリー王国は、枢軸国の側に立って戦った (ハンガリー史上最大の汚点であろう)。しかしこの王国も、進攻してきたソ連軍によって1944年に占領され、終焉を迎えた (もちろんハンガリーという国が消滅したわけではない)。
ハンガリーの首都ブダペストはヨーロッパ最大の都市の一つであり、壮麗な建築物、活気あふれる文化、国際色豊かなファッションで知られている。ブダ、ペスト、「古いブダ」を意味するオーブダの3つが1つになったブダペストは、ケルト時代の集落の遺跡も見られるなど、悠久の歴史を感じさせる魅力的な都市である。ドナウ川に面した中心地域は、ユネスコの世界遺産にも登録されている。

ビザンティン Edit

 ビザンティン帝国は、旧ローマ帝国の東部に成立した帝国である。もっとも、「ビザンティン」とは後世の歴史家がつけた名前であり、当時の人々はそのような呼び方をしていなかった。ちなみに「ビザンティン」という名前は、コンスタンティヌス1世がコンスタンティノープル (現在のイスタンブール) を築いた際にその地に昔からあった集落「ビュザンティオン」に由来している。旧ローマ帝国はやがて東西に分裂したが、これは地中海地域の根本的な文化、言語、政治の分断に根ざしたものであり、後にキリスト教が東の正教会と西のカトリックに分かれたのも、つきつめれば同じ理由からだった。1453年にオスマン帝国に攻め落とされるまで、コンスタンティノープルはこの地域におけるローマ帝国の進歩と存在感の継承者でありつづけ、東欧に大きな影響を与えた。

ローマ襲来 Edit

ローマがギリシャを征服したのは、紀元前150年頃のことである。文化大国だったが軍事的には弱かったギリシャと征服者であるローマとの関係は、複雑なものだった。ローマはギリシャの宗教、哲学、学問を取り入れはしたが、多くのローマ人は自分たちとギリシャ人は根本的に違うと考えていた。ローマ人が軍事を重視し、領土拡大を志向したのに対し、ギリシャ人は哲学や詩を愛した。こうした分断が解消されることはなく、アドリア海の一方ではラテン語が、もう一方ではギリシャ語が話されつづけた。
西から見て東は異質な土地だったが、その交易路は帝国にとって不可欠な存在だった。その重要性は、西暦330年に東の首都としてコンスタンティノープルが築かれたことからもうかがえる。この都市を築いたコンスタンティヌス1世は、初めてキリスト教を信仰したローマ皇帝でもあった。こうした地理学的な動きと宗教の変化は、いずれもローマ史における新時代を告げるものであり、後にビザンティン帝国の成立につながっていった。コンスタンティヌス1世の時代から100年後、西ローマ帝国は幾度となく蛮族の侵攻を受けたが、東は比較的平和と繁栄を保ち、その交易路はペルシアやインド、さらには中国 (!) にまで達していた。西暦476年に西ローマ帝国最後の皇帝が廃位され、帝国の血統が途絶えたことをもってローマ帝国は滅亡したと、多くの歴史家は考えている。

東ローマ帝国 Edit

しかし、ローマ帝国は真の意味では滅びていなかった。コンスタンティノープルをローマ帝国の中心とする意識が育ち、歴史家 (と私たち) が「ビザンティン」と呼んでいる国が、「ローマ」の名を継承したからである。そうはいっても東の文化は西と著しく異なっていた。言語も、東では主にギリシャ語が使われていた (ただし、ビザンティンの領土でもエジプトではコプト語が、近東ではシリア語が使われていたし、他の言語も用いられていた)。また、(西ローマでも重要だったが) ビザンティンにおいてキリスト教は絶対的な存在だった。臣民にとって皇帝は地上における神の代行者であり、キリスト教正教会の守護者でもあったのだ。
コンスタンティヌス1世をビザンティウムの精神とするなら、ユスティニアヌス1世 (527〜565) はさしずめ帝国を飛翔させた打ち上げロケットと言えるだろう。もっとも、このロケットはあやうく打ち上がらないところだった。それぞれが政治的党派を抱え、ライバル関係にある戦車競技チームを応援する者たちが、即位から間もなく暴動を起こしたのだ。この「ニカの乱」では数万人が死亡し、首都の広い範囲が焼け、皇帝も危うく命を落とすところだった。ユスティニアヌス1世は先帝から戦争も引き継いでいたが、こちらはさらに厄介だった。ビザンティン帝国は敵対するサーサーン朝ペルシアと国境を接していたし、ローマに居座ったゴート族や北アフリカのヴァンダル族など、かつての西ローマ帝国の領土には蛮族が次々と王国を打ち立てていたからである。そのうえ、ユスティニアヌスが継承した帝国は、互いに矛盾することも多い複雑な法や慣習でがんじがらめの状態だった。
難題が山積みだったが、ユスティニアヌス1世は全力で解決に取り組んだ。コンスタンティノープルに委員会を置いて複雑な法体系の見直しをおこない、新たに「ユスティニアヌス法典」を編纂させた。ペルシアとの和平も実現した。イタリアではゴート族と長く戦い、ローマとイタリア半島の一部を奪還した。北アフリカでは500万人近くが死んだとされる戦争を経て、ヴァンダル族の王国を滅ぼした。ヨーロッパとアフリカの歴史における最初の腺ペストの流行も、ユスティニアヌス1世の治世を語る際に忘れてはならない出来事のひとつだ。ユスティニアヌス1世をもってしても帝国を完全に復活させることはできなかったが、国内はそれなりに繁栄し、ローマは再びローマ人の手に戻った (正しくはギリシャ人だが)。実際、ビザンティン帝国の版図が最大に達したのは、ユスティニアヌス1世の治世のことである。

イスラーム襲来 Edit

しかしビザンティン帝国が地中海の覇者としてローマの栄光を取り戻しかけたちょうどそのとき、新たな人物が歴史の表舞台に登場した。ユスティニアヌス1世の死から約50年後、預言者ムハンマドが現れたのだ。イスラム教という新たな信仰の後押しを受け、アラブ人の諸国家は急速にその勢力を伸張させた。統一されたイスラム帝国はムハンマドの死後すぐに瓦解したが、その後継者である正統カリフたちとウマイヤ朝は、ビザンティン帝国がペルシアから奪った領土とシリアやエジプトのような重要な属州を即座に奪い返した。それと時を同じくして北方から新たにスラヴ人がビザンティン帝国に侵入し、バルカン半島の領土を脅かした。
674年には、アラブ勢力がコンスタンティノープルを初めて攻囲した。彼らは近くに海軍の拠点を設け、それを足がかりとして毎年のように帝都を襲った。しかし時のビザンティン皇帝コンスタンティノス4世は、巨大なテオドシウスの城壁にも助けられ、容易には屈しなかった。皇帝は強力な切り札で敵海軍を迎え撃った。今日、油と生石灰の混合物と考えられているこの新兵器は、水の上でも燃えつづけたとされている。この「ギリシャ火」により、攻囲は退けられた (少なくとも当面は)。
この頃のビザンティン帝国は悲惨な状態にあった。襲撃は絶え間なく、西の領土の大半は蛮族に奪われていた。アフリカと近東の領土もかなりの部分が失われ、帝国は広範囲で停滞していた。はるか東へ伸びていた交易路の富は、今やアラブ諸国に流れていた。帝国の諸都市では人口が減り、コンスタンティノープルの様子も以前の繁栄とは程遠かった。ペルシアやアラブとの戦いに兵力を投入し、バルカン半島を手薄にしたことも、中央アジアの大草原から侵攻してきた勢力に追われたスラヴ人に帝国流入の余地を与えていた。こうして入り込んだスラヴ人の集落は、やがて統一されてブルガリアとなり、時には味方になったが、たいていは敵としてビザンティン帝国の前に立ちはだかった。
こうした状況の中、イベリア半島の征服に成功して自信を得たウマイヤ朝は、コンスタンティノープルを攻略すべく2度目の攻囲に乗り出した。勝利を確実なものとするため、アラブ陣営は野心家だった将軍レオンを懐柔して味方に引き入れた (つもりだった) が、レオンはブルガリアとも密約を交わしていた。皇帝レオン3世として即位した彼は、ウマイヤ朝の臣下になるどころか、逆に門前払いをくらわせた。かねてより恐れられていたギリシャ火と巧妙な防御 (たとえば彼は、海上交通の要所に鎖を張らせた。単純な策だが、これによって敵船は立ち往生し、ギリシャ火の格好の餌食となった) により、ウマイヤ朝の軍勢は撤退を余儀なくされた。レオン3世が新たにイサウリア朝を興すと、もはやアラブ諸国はコンスタンティノープルに手出しできなかった。実際、この攻囲の失敗が、今日の東欧やロシアの宗教や政治の様相を決したと考えられている。
ここまでのビザンティン帝国の物語は、衰退の物語に見えるかもしれない。しかし、その後は復興の時代だった。バシレイオス1世とバシレイオス2世の時代、ビザンティン帝国では軍制改革が実施され、常備軍であるタグマ制の整備や騎兵への新技術の導入がおこなわれた。この結果、ビザンティン帝国軍はエーゲ海沿岸全域で、ウマイヤ朝に取って代わったアッバース朝の侵攻を退けることに成功する。また、バシレイオス2世はブルガリアの征服に乗り出し、情け容赦のない戦いの末、1018年にこの地を帝国の版図に加えた (ただし、1世紀後にブルガリアは独立を取り戻す)。遠く離れたスカンジナビア半島の情勢がビザンティン帝国にも影響し、ルーシがヴォルガ川地域を荒らし、ノルマン人が地中海を脅かしたが、彼らの中にはビザンティン帝国の兵士となった者もいた。

黄金時代 Edit

ビザンティン帝国は、1100年代に最後の黄金期を迎えた。芸術と文学が発展し、都市でも地方でも社会基盤の整備が進んだ。宗教は人々の生活と切り離せなかった。旧ローマ帝国や西ローマの領土だった地域を地盤とするカトリックと、コンスタンティノープルやギリシャ、東欧で主流派を占めていた正教会の間で分裂が生じたのは、ビザンティン帝国の時代である。イスラム教思想の影響を受けた正教会は、聖書は偶像を作るのを禁じているとして、8世紀から9世紀にかけて偶像、すなわち宗教的な人物の似姿を作ることに反対したが、ローマ教皇はそれに異を唱えた (これに端を発する緊張の高まりにより、756年に東西両協会の対立は決定的なものとなった)。このいわゆる「聖像破壊運動」の波はやがて落ち着いたが、ローマ教皇がコンスタンティノープルの任命を受けなくなるなど、後々まで続く分裂 (シスマ) が生じた。この仲違いは、1054年の「大分裂」によって決定的なものとなり、以後、西のカトリック教会と東の正教会はそれぞれ独自の道を歩むことになる。なお、当時は偶像をめぐる問題以外にも、ローマ教皇が他の都市の総主教に優越するか否かや、儀式や神学に関する問題が数多く論じられた。この分裂は、文字 (キリル文字とラテン文字)、言語 (ギリシャ語とラテン語)、習慣など、東欧と西欧の不一致があらゆる面で広がっていく前兆であり、またその原因でもあった。

終焉 Edit

悲惨な結果に終わった1204年の第4回十字軍ほどこの分裂を明白にした事件はない。1182年、アンドロニコス・コムネノスという男が、摂政だったアンティオキアの公女マリアを殺害し、コンスタンティノープルの実権を奪った。ラテン語を話し、西欧寄りだったマリアは、正教会よりカトリックを優遇しているとして評判がよくなかった。マリアを亡き者にすると、正教会派だったアンドロニコスは、コンスタンティノープルにいたカトリック教徒やラテン語を話す市民の虐殺をはじめた。この事態に衝撃を受けたローマ教皇は、コンスタンティノープルに対する十字軍を諸国に呼びかけた。それから20年近くが経過してからようやくコンスタンティノープルにやって来た十字軍は、街を略奪し、多くの住民を殺害して、ビザンティン帝国にとどめの一撃を与えた。この出来事で何よりも衝撃的なのは、キリスト教勢力が別のキリスト教勢力を聖戦の対象にした点である。こうして東西の分裂は、後戻りができないものとなった。
ビザンティン帝国は二度と立ち直れなかった。十字軍からコンスタンティノープルを取り戻すことはできたが、帝国が負った傷はすでに致命的だった。そしてここにまた別の勢力が登場する。かつては傭兵としてビザンティン帝国に仕えていたオスマン・トルコやアラブの統治者たちが、自らの旗を掲げて戦いを開始したのだ。ビザンティン帝国は領土を蚕食されていき、ついに1453年には難攻不落を誇ったコンスタンティノープルの城壁がオスマン軍の砲撃によって破られた。
現在、コンスタンティノープルの街はイスタンブールと名を変えているが、ビザンティン帝国の遺産は正教会という形でロシアやギリシャ、エジプト、東欧に受け継がれている。また、かつてこの街を守ったテオドシウスの城壁の一部は、今も見ることができる。

フェニキア Edit

 フェニキアは通常の意味の都市国家ではなく、独立した海洋都市の緩やかな連合体と表現する方が実態に近い。通常、それぞれの都市にはそれぞれの王がおり、共通の文化的歴史が彼らを結びつけていた。フェニキア人は優秀な交易商にして航海者であった。また、彼らの考案した表記法がなければ、西洋の文字の大半は今の形になっていなかっただろう。「フェニキア」という言葉はギリシャ語に由来している。聖書は彼らを「カナン人」と呼び、アッカド人は「キナッフ」と呼んだ。現代の考古学者によれば、本人たちは「ケナーニ」と名乗っていたようだ。

古代フェニキア Edit

フェニキアの4つの主要都市、テュロス、シドン、アルワード、ビブロスはすべてレバントにあった。現在のレバノンやシリアがある地域だ。考古学的な証拠は、ビブロス周辺の地域にはほぼ1万年前から人が住んでいたことを示しているが、この地域にフェニキア人がやって来たのは、紀元前3000年頃であるというのが定説になっている。当初はエジプトのファラオに従っており、その期間がかなり長くつづいたが、紀元前1500年頃からフェニキア人としてのアイデンティが確立されてきたらしい。エジプトとフェニキアの交易については記録が残っており、この文明の初期の様子を知る手がかりとなっている。
フェニキア人は「紀元前1200年のカタストロフ」と呼ばれる大変動を驚くほど見事に乗り切った。エジプトの敗北は、レバントに好機をもたらした。はるか南、今日のイスラエルまで領土を広げる機会が生まれたのだ。実際、フェニキア人は政治的な空白地帯へやすやすと入り込んだようである。彼らは交易網を拡大し、地中海全域で探索と入植を開始した。錫を求めて遠くブリテン諸島まで進出した可能性もある。歴史家ヘロドトスは、フェニキアの船乗りがこの時期にアフリカを一周したと記している。

ローマ・ギリシャ襲来 Edit

アレキサンドロス大王はフェニキア人の諸都市を征服したが、彼らが交易をつづけることは許した。東部の諸都市はローマに併合されてシリアの属州となったが、独立国家に準ずる扱いで活動を認められた。フェニキア人の入植地であったカルタゴは、歴史の中で特別な位置を占めている。拡大期にあった初期のローマ帝国に、幾度となく挫折を味あわせたからだ。カルタゴとローマの間に起きたポエニ戦争は、地中海におけるローマの覇権確立と王者フェニキアの玉座からの転落を象徴する事件となった。
当時一般的だったガレー船の設計に、斜めにずらした第2の漕ぎ手の列を初めて加えたのは、どうやらフェニキア人であるらしい (詳細は「ビレーム」の項目を参照のこと)。フェニキア人は地中海沿岸の多くの王国、帝国、民族から船造りを請け負った。ヘロドトスは、ペルシアの第2次ギリシャ侵攻に使われた艦船は、雇われたフェニキア人によって造られたものだと記している。史料から「ギリシャ船」と「ペルシア船」の違いを知るのは難しいことが多いが、フェニキア人が依頼されて造った船は話が別だ。フェニキア人は航海の助けとなる灯台や大規模な港も築いた。カルタゴのコトンはその代表例である。
史料の中のフェニキア人は、錫、レバノンスギ、象牙など、貴重な品々を各地へ運ぶやり手の交易商として描かれている。フェニキアといえばホネガイから採った紫の染料を連想する人もいるかもしれない。王者の紫とも呼ばれたこの染料を作れるのはフェニキア人だけだった。『イーリアス』や聖書など、フェニキア人の金属細工の腕前は、さまざまな書物の中で称賛されている。考古学調査により、たいへんな価値を持つ金箔の青銅像も見つかっている (何らかの儀式に用いられたものにちがいない)。優れた職人だったテュロスのヒラムは、ソロモン神殿を建てた建築家として伝説に名を残している。フェニキアの芸術家たちは、1世紀にはガラスの吹きづくり技法を編み出していたようだ。
当時の記録は、フェニキア人に対して辛辣なものが多い。そこからは、彼らの富や贅沢に対する驚嘆と、交易という商売に対する蔑みが入り混じった、複雑な心情が窺える。フェニキアの都市同士の関係も時として不安定で、拡張と植民地の建設にともなって隣人同士で土地や富をめぐる諍いが生じることも珍しくなかった。ローマとの間に起きたポエニ戦争も、こうした緊張関係に端を発したものだった。

その後 Edit

フェニキア人の宗教は多神教であった。その多くは土着の神々と習合し、さまざまな名前を持っている場合が多かった。とはいえ、神々を束ねていたのがエルという主神で、女神の中ではアスタルテ (またはアスタルト) が最上位に位置していたという点では、学者の意見はほぼ一致している。特にアスタルテは、地中海に広がるフェニキア人の勢力範囲全域で熱烈に信仰されていた。聖書はレバントで興った一神教の聖典だが、その著者たちはフェニキア人の信仰するセム系の多神教を心底忌み嫌っており、それを隠そうともしなかった。
だが、フェニキア人の後世への最大の貢献は、彼らが考案した表記体系だろう。この表記体系では、別個の象形文字を使って言葉のさまざまな音的要素を表現しており、書記が覚えねばならない象形文字の数は、他のどの表語文字体系 (エジプトのヒエログリフなど) よりも少なくて済んだ。要するに、読み書きを教えやすかったのである。フェニキアの商人は各地を行き来していたので、この表記体系は比較的短期間で交易相手にも伝わった。文字言語の最も早い例は、遅く見ても紀元前16世紀中頃には登場しており、実際に誕生したのはさらに数世紀前だった可能性もある。ギリシャ語 (およびその派生言語)、ヘブライ語、アラム語 (延長としてアラビア語) の文字は、すべてフェニキア文字から派生したものだ。そしてフェニキア文字の最初の2文字の発音は、「アレフ」と「ベト」なのである。ここまで言えば、アルファベットが何から生まれたか、察していただけるだろう。現代に生きる我々だが、大いなる歴史の鎖によって古代のフェニキアと結ばれているのだ。そう考えると、感慨深いものがあるではないか。

ブラジル Edit

 ブラジル最高の小説家、パウロ・コエーリョは自国民についてこう書いている。「ブラジル人は自らの運命という宝を探しあてはしたが、本気でその運命を成就させたいとは思っていなかった」。ブラジル人は世界第7位の経済規模 (今も成長をつづけている)、流入するさまざまな文化、南アメリカ大陸で最高の生活水準、そして世界有数の豊かな生態系を享受しているが、大半の人には「お祭り騒ぎが大好きな人種」として知られているだろう。だが、今日でこそこうした印象を抱かれているが、ブラジルの歴史は決して華やかではない。その大部分はむしろ、悲惨と呼べるものだった。

ポルトガル植民地 Edit

教皇アレクサンデル6世が承認した1494年のトルデシリャス条約によって新世界の領土は分割され、南アメリカ大陸の一部は東側 (ポルトガル側の領土) に属することになった。ポルトガルがこの条約で得たのはこの土地だけだったが、これはとても大きな収穫だった。1500年4月、ペドロ・カブラルは船団を率いてアフリカ沿岸を下り、喜望峰をまわったが、予定よりもはるか西へ逸れ、図らずも南アメリカに上陸し、その地の領有を宣言した。彼が到着したときには、約2千もの先住民族 (「インディオ」と呼ばれた) が沿岸やアマゾン川流域に居住していた。半遊牧的な生活を送る先住民族は、狩猟や漁労、移動式農業をして命をつなぎながら、部族間の争いや人肉嗜食に耽っていた。先住民族に肥沃な土地を開発する意欲がなく、また「良いキリスト教徒」でないことは明白だったため、ポルトガルからの最初の移民集団が1532年にこの土地の領有権を主張した。
ブラジルボク――稠密かつ硬質な橙赤色の木材で、染料の抽出、それに時代遅れの楽器や家具の原材料となる――の発見は、ポルトガル王室の関心を引いた。1534年、国王ドン・ジョアン3世は民間による植民地探検を奨励。1549年には総督を任命し、ブラジルは正式にポルトガルの植民地となった。フランスとの度重なる戦争をとおしてポルトガルは徐々に領土を南北に拡大、1567年にはリオデジャネイロを、1615年にはサンルイスを手中に収める。1680年、リオデラプラタ周辺の領有を宣言し、これがポルトガル領の最南端となった。また、同じ頃にアマゾン川流域のイギリスとオランダの拠点を次々と攻め落とした。インディオはアメリカ大陸の他の先住民族と同じ運命を辿った。つまり同化されたか、奴隷にされたか、さもなければ根絶やしにされた。
ブラジルへの移住は危険を孕んでいた。ヨーロッパ人がもたらした病気で何万人ものインディオが死亡し、数千人のヨーロッパ人が現地の熱病で死亡した。ブラジルの内陸部は気温と湿度が高く、大部分がジャングルと湿地に覆われ、濁った川によって分断され、ちょっとしたかすり傷を負っただけで長く苦しい死が待っていることもあった。他の入植者に撃たれたり、あるいは怒れる先住民に食われたりせずに済んだとしても、植物の多くは有毒で、動物は蚊からワニに至るまですべて腹を減らしていた。人間を押し潰せるほどの大蛇や骨から肉を食いちぎる魚の噂が囁かれ、開拓者たちは心の休まることがなく、腐蹄症が追い打ちをかけた。それでもポルトガル人は不屈の精神で内陸部を突き進み、川岸に沿って前哨基地とプランテーションを建設していった。

経済成長 Edit

17世紀の末までに、点在するポルトガルの植民地の中で、ブラジルは最大かつ最も重要な場所となっていた。ポルトガルはブラジルボクに加え、サトウキビや染料、香辛料などを輸出していたが、世界的な需要の高まりに応じるため、アフリカからの奴隷の輸入にも乗り出した。ポルトガルは世界屈指の奴隷貿易国家となり、ブラジルの奴隷人口は数十万人にも達した。わずか数センターボで仕事を代わってくれる者がいるのに、利益を求めてジャングルに分け入り、数々のおぞましい死に方をする危険を冒す者などいなかった。この頃、ブラジルのジャングルと高地で行われていた探鉱は長らく成果が出ていなかったが、ようやくミナスジェライスで広大な金鉱脈が発見された。続くゴールドラッシュによってもたらされた莫大な富を政府がよりよく管理するため、1763年、植民地の首都はサルヴァドルから南部のリオデジャネイロに移された。
沿岸に面するリオ、レシフェ、マセイオ、フォルタレザなどの港湾都市が成長し、富を海外へと運びだした。これらの都市は植民地の文化的中心地となり、教会、学校、コンサートホール、酒場、遊廓、女性援助団体など、文明的な施設が集まった。やがて故郷ポルトガルから夢を抱く人々が殺到してきた。1808年、ポルトガル王室 (当時の女王は「狂女ドナ・マリア」と呼ばれたマリア1世) と重臣たちはナポレオン・ボナパルトによって祖国を追われ、リオデジャネイロへと避難した。母マリア1世の精神の不調のため、執政として政務を代行したジョアン王子はリオに遷都し、そこから「帝国」の統治をつづけた。

ブラジル帝国 Edit

ブラジルに居を移したジョアン王子は、首都に各省庁を設けるとともに、王立図書館、士官学校、王立造幣局、印刷所、医学校、法学院を建設した。1815年にはブラジルをポルトガルと同格の王国とする旨を宣言した。ナポレオンがヨーロッパで敗れた後もジョアン王子はブラジルに留まろうとしたが、急進派による反乱に対処するために帰国を余儀なくされ、1821年4月に息子のペドロを摂政に任じた。このペドロに仕える大臣の多くはブラジル生まれであり、ポルトガル軍が離れた途端、ペドロに独立を促した。1822年9月、若き摂政はブラジルの独立を宣言し、すぐさま皇帝ペドロ1世として戴冠。1825年、ポルトガル政府が不承不承ながらも正式にブラジルの独立を認めると (どの道、当時の状況下ではどうすることもできなかった)、1年以内にヨーロッパの大半の国々がそれに追随した。
ペドロ1世はブラジルを手に負えない隣国のような、内紛と革命が相次ぐ国にはすまいと決意していた。そのためにペドロ1世は、(当時としては) きわめてリベラルで先進的な新憲法の立案を主導した。しかし、彼は次第にポルトガルの政情に巻き込まれてゆき、1831年には娘にポルトガルの王位を継承させるべく、当時5歳の息子を跡継ぎとしてヨーロッパに戻らざるをえなかった。ペドロ1世の急な出国がもたらした政情不安を抑えるため、ペドロ1世の息子は14歳になるとすぐに戴冠し、皇帝ペドロ2世となった。この新皇帝による50年の治世は開明的かつ先進的であり、ブラジルにあまねく「黄金時代」をもたらし、この時代を通じてブラジルの政治、経済、産業、社会、文化などあらゆる分野が大きな発展を遂げた。ペドロ2世の統治下でブラジルは3度の戦争に勝利し、国際的声望を高め、近代化を成し遂げ、司法制度と通貨体制の刷新を行い、農業の多様化を推し進め、奴隷制を廃止したのである。しかし、奴隷制の廃止は地主層の支持を失うことにつながり、ペドロ2世が齢を重ねるとともに、彼の理想と政策が育んだ都市部の新興中産階級、およびリベラルな学生たちは彼から離れていった。1889年11月、依然として国民から敬愛されてはいたものの、ペドロ2世は軍による無血クーデターで廃位させられ、ブラジルは共和制に移行した (これは長く続かなかった)。それでも根っからの愛国者である元皇帝は、ヨーロッパに亡命する際、「ブラジルの繁栄を乞い願う切なる気持ち」を表明して祖国をあとにしたのだった。

暗黒時代 Edit

次の1世紀、ブラジルは一連の独裁者や暫定軍事政権の支配下に置かれ、一時的に民主主義が躍進しても、野心的な将軍の登場によってそれはたちまち潰えた。1894年、平和な時代の最中、ペイショト将軍は渋々ながらプルデンテ・デ・モラエスに大統領の座を明け渡した。ブラジル初の文民出身大統領の誕生である。前職はコーヒー栽培で栄えるサンパウロ州の知事で、いわゆる「カフェ・コン・レイテ」体制の初代大統領と言われた。彼以降、サンパウロやミナスジェレイスの地主階級出身の裕福な政治家が相次いで大統領に就任したが、彼らは経済を改革して社会基盤を整備するとともに、平和を維持し、国際社会が激動に揺れた時代を孤立主義に近い方針で乗り切った。しかしその一方で、カフェ・コン・レイテの大統領たちは国民に真の民主主義を享受させなかった。当時、投票を許されたのは土地を所有する少数の者だけだったうえ、選挙そのものも不正が横行していた。地方政界を牛耳る大物たちは、時の大統領を支持する限り、どれだけ汚い手をつかっても、事実上罪に問われることがなかったのだ。
カフェ・コン・レイテ体制を終わらせた原因は2つある。まずコーヒーの価格が1930年代の世界恐慌で急落し、大統領に当選して富を得るための資金が不足したこと、そして青年将校 (テネンテス) による政治運動が影響力を増したことである。人民主義を標榜するテネンテスは、民主主義ではなく改革と発展のために戦った。彼らはブラジルの近代化を成し遂げられるのは軍だけだと頑なに信じていた。そのために文民政治家の追放、連邦政府の権限の拡大、軍の近代化、強大な中央集権政府の確立による地方優先主義の排斥といった計画を温めていた。不況と社会不安は大統領選で敗れたジェトゥリオ・ヴァルガスに味方し、テネンテスの支持を得て権力を掌握する道を開いた。

安定化 Edit

ヴァルガスは経済危機を乗り切るまでの間、一時的に政権を任されたものと思われていた。しかし彼は議会を閉会して憲法を破棄、州知事たちを罷免して自分の支持者を後釜に据えた (その大部分は軍人だった)。1935年に共産主義者のクーデターが、1938年にファシストのクーデターが失敗に終わると、ヴァルガス政権は完全な独裁政治に発展し、暴政と報道の弾圧が行われた。1964年、再び起こった軍事クーデターによってこの政府は転覆した。新たな軍事政権の施政もまた苛烈だったが、当時の南米大陸に存在した他の政府に比べれば残虐性は低かった。加えて、資本主義化や近代化の推進、国際協定の締結といった功績により、中産階級以下の人々による高い支持率を誇った (容疑者を逮捕、拷問し、裁判ぬきで処刑していた間でさえ)。1974年に大統領に就任したエルネスト・ガイゼル将軍は、驚いたことに民主政府へ政権を返還するための「緩やか、かつ安全な」政策を開始した。数年がかりで政治犯に対する拷問と出版物の検閲をやめ、最後は軍事政権そのものに終止符を打った。彼の後継者もこの路線を引き継ぎ、タンクレド・ネベスが健康上の理由で就任を断念すると (彼は後に死去した)、1985年には初の自由選挙によってホセ・サルネイ大統領が誕生した。

フランス Edit

 フランスはオートキュイジーヌ、オートクチュール、オートコントルや、その他たくさんの「オート (高級)」を文明にもたらした。しかし、フランスが文化以外の面で世界に貢献したことも事実であり、フランスは、百年戦争、恐怖政治、ナポレオンのヨーロッパ征服 (の試み) など、フランスは歴史にさまざまな足跡を残している。

建国 Edit

ローマ人が手に余るガリア人の支配をあきらめると、暗黒時代の初期にいくつかのフランク族の小王国が生まれ、その多くは2、3世代つづいた。やがて、中世のフランス王国が、シャルルマーニュ大帝の統べる帝国の西部、西フランク王国から生まれた。カロリング朝の最後の王が死去すると、王家の内紛による流血を避けるため、ランス大司教がフランク王国の諸侯に呼びかけて新たな王を選出した。イル=ド=フランスの領主であるユーグ・カペー公爵が最終的に選ばれ、987年7月、ランス大司教により聖別されて戴冠した。こうして一挙に近世のフランスが形作られ、最も長くつづいた王朝が開かれた (数度の不幸な中断はあったが、1848年まで存続した)。
長くつづいたカペー朝の支配にはいくつかの基盤があった。カペー朝の王は (敬虔さには大きな差があったものの) 常にカトリックで、安定した中央政府を好んだ教会と密接な関係を築いた。(頑固なイギリス人を除く) 他国の王もカペー朝の由緒ある輝かしい血脈を認めていたため、根本的に他の諸侯より有利な立場にあった。また、カペー家が円満な家族関係を好んだことも有利に働いたが、王位継承は例外だった。しきたりによって王の弟には領地 (公領、郡、都市など) が与えられ、長子相続権の規則で家族が被る苦痛を和らげた (当然姉妹にこうした領地は与えられず、大抵は長子の継承後すぐに結婚させられた)。カト
リックとユグノーの間に起きた宗教的な内紛を除くと、フランスは大抵の隣国が苦しめられてきた災い、内乱を巧みに回避できていた。貿易、芸術、工芸や、さらには宗教 (勿論カトリック) や教育も――1150年頃にパリ大学 (あるいはソルボンヌ大学とも) 創設――カペー朝のもとで隆盛を極めた。つまり、大まかに言ってカペー朝は国民に支持されていたのだ。
つづく2世紀にカペー朝の勢力と影響力は増したが、汚点がなかったわけではない――聖地を解放するため6度に及ぶ十字軍に加わり、イタリアの都市国家間の紛争に干渉し、フランスで異端と認定された民衆運動を弾圧 (そのたびに多くの血が流れた) し、1312年にはテンプル騎士団を虐殺して財産を奪った。もちろん百年戦争 (厳密に言うと戦争期間は116年) も忘れるわけにはいかないだろう。

百年戦争 Edit

西暦で言うところの14世紀に入ると、フランスはヨーロッパで最も強大な国家となった。1328年、フィリップ6世が王座を奪取した。プランタジネット朝のイングランド王はアキテーヌを領有しており、フランスの王位継承権を細々と主張していたが、フィリップ6世がこれを継承した際に圧力をかけることはしなかった。しかし、1337年にフィリップ6世がアキテーヌを没収すると、イングランドのエドワード3世はこれに怒って王位継承権に対する主張を再燃させ、とうとう2つの王朝は戦争に突入した。1346年7月、侵攻を開始したエドワード3世は、長い進軍の末、かの有名なクレシーの戦い (「戦い」というより思い上がっていたフランス騎士の虐殺) に勝利して港町カレーを占領した。その翌年、黒死病が発生し、膨大な数の犠牲者が発生したために侵攻は中断されたが、これに若い貴族たちは苛立ちを募らせた。
1356年に黒死病の流行がようやく収まると、再び血が流されはじめた。この年の9月、フランス王ジャン2世はポワティエの戦いで黒太子エドワードに捕らわれ、多くの貴族が殺害された (フランスが身代金の支払いを拒否したため、ジャン2世は捕らわれの身のまま没した)。戦争はアジャンクールの戦いまでもつれ込み (イングランドが再び圧倒的な勝利を収めた)、1420年のトロワ条約の締結によってフランスとイギリスの統一が宣言され、生まれて間もないヘンリー6世にイギリスとフランスの王位が与えられた。だが、この結果に納得できない者もいた。王太子シャルル7世は庶子と噂されて軽んじられたが、イギリス人に支配されるくらいならどんなフランス人でも良いと感じた愛国者は多かった。その愛国者の中に、(控えめに表現しても) 風変わりな農民の娘、ジャンヌがいた (なにせ神の声を聞き、啓示を得たというのだから只者ではない)。わずか数年でジャンヌ・ダルクはフランス軍を奮起させて勝利に導き、すべての前線からイギリス軍を押し返した。シャルル7世は1429年にフランス王として戴冠し、聖女ジャンヌは火刑に処せられた。

ブルボン朝 Edit

こうした経緯を経て、カペー家の分家であるヴァロワ家がフランス王の座を得た。このカペー朝の後継者は前身をしのぐ権勢ときわめて大きな影響力を有していた。フィリップ1世 (好色王、1060-1108) が奔放なパリの男爵をかろうじて御していたのに対し、ブルボン家 (またしてもカペー家の分家) のアンリ4世 (1589-1610) には教皇と神聖ローマ帝国のハプスブルク家の両方と事を構えられるほどの力があった。これらの王による統治の期間は短かったが、前任者と比較して文明に与えた影響はずっと大きいと言えるだろう。
栄光に満ちたルイたちの統治の下――「公正王」13世、「太陽王」14世、「最愛王」15世、そして不運な16世 (ギロチン刑に処された)――、フランスは大陸で並ぶ者のない国力を得て、ヨーロッパ文化の洗練の中心地となった。ルイ13世の時代には植民地競争に参入しようとして、探検家と入植者が北アフリカ、アメリカ、アジアの各地にフランスの文化を広めた。太陽王の長い治世では封建主義の名残が消え去り (農奴だった者たちは気がつかなかったかもしれないが)、ベルサイユが (おおむね) 完成した。また、テュレンヌやヴォーバンといった名将、モリエールやラシーヌのような大作家、その他にも才能ある芸術家たちが活躍した。史上最も有名な公妾、ポンパドゥール夫人はルイ15世の深い寵愛を受け、芸術分野――特に建築学とインテリアデザイン (豪華なルイ15世様式など)――に絶大な影響力を発揮した。フランスは2世代の間に重々しいゴシック様式から華やかなロココ様式へ移行した。しかし、アンシャン・レジーム (旧体制) は1789年に崩壊した。

フランス革命 Edit

持てる者と持たざる者の格差に苦しめられていたパリ市民は、1789年7月にバスティーユ監獄を襲撃し、君主制のくびきから逃れた。共和主義が生まれ、革命は各地へと波及。自由、平等、友愛を標榜する青年たち (ロベスピエール、ダントン、マラー) が恐怖政治の扉を開き、数千人もの特権階級と公安委員会に反発したすべての者を「人道的」にギロチンで処刑した。1793年6月には憲法が制定され、フランス初の共和制政府が成立した (この憲法の立案者の多くも後に投獄ないしギロチン刑に処せられた)。だがヨーロッパの諸王は民衆に広まる自由主義思想を受け入れず、ただちに第一次対仏大同盟 (オーストリア、プロイセン王国、グレートブリテン王国、スペイン王国などが参加) を結成してフランスを攻撃した。

ナポレオン帝政 Edit

1795年、選出された5名による総裁政府が樹立されたが、政治は順調とは言えなかった。共和国のために戦場で立てた勲功を土台として、1799年11月にコルシカ島生まれのナポレオン・ボナパルトがクーデターを起こし、総裁政府を打倒してフランス第一帝政を開始した。それから15年間、フランスは対仏同盟との連戦 (合計6度) に入り、その大半で完勝を果たした。しかし、ナポレオンを打倒せんとする圧倒的な大戦力は彼を弱らせていった。イベリアとロシアの戦場でフランス軍は数千※1もの兵を失い、海は難敵であるイギリスが支配していた。ナポレオンは戦費を工面するため、ルイジアナを建国間もないアメリカ合衆国に売らなければならなくなった。歴史的なロシア遠征からの撤退後、第六次対仏大同盟はついにライプツィヒで大陸軍を撃破し、1814年3月にパリへ入城した。ナポレオンはエルバ島へ追放され、ブルボン家が君主に返り咲いた。
だが、それも長くはつづかなかった。ナポレオンがフランスに舞い戻り、新たに軍を興したのだ。ルイ18世は痛風を患いながらも危機を察知する感覚は鋭く、パリを逃れてオランダへ身を隠した。ヨーロッパの君主たちは再度同盟を結び、100日間の戦闘の果てにフランス軍をワーテルローの戦いで破った。ナポレオンは再び孤島の監獄へ流された (1821年、51歳にしてこの島で死去した)。フランスはまたも王政に戻った… 少なくとも1848年までは。(1回目ほどはうまく組織されていなかったものの) 再び起こった革命は、カペー朝の系譜による王政に終止符を打ち、フランス第二共和政が成立した。しかし、この政体もわずか3年で終わりを迎える。ルイ=ナポレオン・ボナパルトが叔父の足跡を辿るように自由主義者を打ち倒し、第二帝政を成立させたのである。

だが、第二帝政も1870年までしかもたなかった。ナポレオン3世が普仏戦争のセダンの戦いでプロイセン軍の捕虜となってしまったのだ。フランス下院には暴徒と化したパリ市民が殺到し、共和制への移行を求めた。決して愚かではなかった代議員たちは、すぐさま第三共和政を樹立した。皇后はイングランドへ逃亡し、フランスでは共和主義の熱狂が吹き荒れた。この時点まで、フランスはどうにも安定した政権を築けなかった (プロイセンはその間にアルザス・ロレーヌを領土として手に入れ、ドイツ帝国を成立させていた… が、これはまた別の話である)。

※1...史実ではロシア遠征で大陸軍と同盟軍は数十万の逃亡を含み損失を被った

第三共和政 Edit

フランス第三共和政の統治は総合的に見て優れており、イギリス、ロシア、アメリカ合衆国とは良好な関係を築き、失わずに済んだ植民地については支配を固めることに成功した。退廃の都パリには世界中の浅ましい娯楽が集まった。まるで明かりに群がる蛾のように、ムーラン・ルージュ、セーヌ川の左岸、クレイジー・ホース、バル・ブリエには観光客が押し寄せた。前衛芸術が全盛期を迎え、フランスは「よき時代」の只中にあった。ファッション、食文化、流行の決定権はフランスにあった。フランスは政権を変えることなく第一次世界大戦を生き残ったが、「ピュロスの勝利」(「大きな犠牲を払って得た勝利」という意味の慣用句) は荒廃と貧困を残していった。
第三共和制は1940年までなんとか存続し、ヴィシー政権と交代した。ヴィシー政権はドイツ第三帝国が支配しようともしなかった地域を統治した。厳しい状況の中での4年間が過ぎ、フランスの首都は1944年の夏から秋にかけてようやくイギリス軍とアメリカ軍によって解放された (ド・ゴールは「自由フランス」軍の功績だと主張したが)。1945年にナチスドイツが降伏、やがて第二次世界大戦が終結したため、次の政権の出番となった。1946年10月に新憲法が採択され、第四共和政が成立した。
第四共和政が崩壊に至ったきっかけ (そう、またも政権が崩壊したのだ) は、1958年のアルジェリア危機だった。世界大戦で甚大な被害を被ったため、フランスの指導者は滅びゆく植民地帝国を守ることに固執し、インドシナやアルジェリアで多くの血を流した。1956年のスエズ動乱はフランスに更なる厄災をもたらし、1958年5月、国民議会はド・ゴールを首相に返り咲かせた。彼はフランスの本質には威厳が必要だと断言し、「威厳ある政策」のもと、すみやかに第四共和政を解体して第五共和政を樹立した。以来、この共和政体は現在まで続いている。

ベトナム Edit

 ベトナムは東南アジア屈指の古い国だが、その歴史は独立を保ち、外敵の侵略に抗う戦いの連続だった。実際、ベトナムは中国の歴代皇帝やヨーロッパの植民地主義、アメリカの侵略にさえ屈しなかった。

農耕文明 Edit

初期のベトナム人 (キン族) は紅河流域に定住し、紀元前1200年頃 (鴻龐氏が建てた王国の時代) に水田による稲作を開始した。伝説では、初期のベトナムの農民たちに稲作の方法を教えたのは貉龍君だったとされているが、紀元前6世紀には周囲を流れる河川を利用して、灌漑網や運河、堤防を築くまでになった。稲作は人々の結びつきを強くし、都市化は職人と手工芸の発展を生む。ベトナムでは、手の込んだ絹織物や、赤銅や青銅の道具と武器が生み出された。中でも特筆すべきは、この時期に作られた「ドンソン銅鼓」であろう。
しかし、繁栄があるところ戦いもついてまわる。その黎明期からベトナムと北の隣人である中国諸王朝の関係は複雑なものだった。ベトナム人は東アジアの儒教思想と大乗仏教を取り入れ (近隣のラオスとカンボジアは上座部仏教を信仰していた)、漢字や中国の土地制度の概念を採用し、(歴史家にはありがたいことに) 中国に倣って様々な記録を残した。だが、この関係は単なる文化的交流ではなかった。軍も関与していた。

南越 Edit

北ベトナムを征服した趙佗は、中国の秦の将軍だった。しかし秦王朝そのものが瓦解すると、趙佗は自らが皇帝になることを決意し、現在の中国南部とベトナム北部にあたる土地に南越国を建てた。趙佗はベトナムの皇帝なのか、それとも中国の皇帝なのか? これはとても興味深く、きわめて政治的な意味合いをはらんだ問題だ。しかし、このことに頭を悩ませるのは歴史家くらいのものだろう。なぜなら、中国の漢王朝が南越国を滅ぼし、ベトナムを併合してしまったからだ。趙佗がどのような存在であったにせよ、いなくなってしまったのだから考えても仕方がないではないか。
これはベトナム人にとって最初の (もちろん最後ではない)、占領に対する抵抗の時代だった。ベトナム人に中国の法律は受け入れがたく、特に女性の力を制限する法は、母権文化の色が濃い東南アジアの伝統を長く受け継いだベトナムにとって、承服しがたいものだった。したがって、行動を起こしたのも女性だった。西暦40年、徴姉妹に率いられた民衆が、漢の太守である蘇定に対して反旗をひるがえし、勢いに乗って65の県を独立国ベトナムのために奪還したのである。姉の徴側が玉座に就き、姉妹による統治は2年つづいた。業を煮やした漢の光武帝が領土を奪還して姉妹の首をはねるべく軍を派遣したが、皇帝の望みがかなえられることはなかった。姉妹は敗北したものの、虜囚となって辱められることを厭い、自ら命を絶ったのである。

独立 Edit

しかし、抵抗が途絶えたわけではない。西暦225年には、趙氏貞 (婆趙とも呼ばれる。婆は「夫人」の意) が新たな反乱を起こした。敗北はしたものの、徴姉妹と同じく彼女も強烈な印象を残した。その後も李賁をはじめとする多くの指導者が反乱を起こしたが、ベトナムが独立を果たしたのはじつに938年のことである。ただし、西暦1000年以前もベトナムは占領下にありながら繁栄を享受しており、その遺跡からは遥かなローマとの交易品が発見されている。
ベトナムは938年の白藤江の戦いにおける決定的勝利により独立を果たしたが、その内情は不安定だった。20年に及ぶ内紛の後、丁部領によって丁朝が開かれ、国名は「大瞿越」(「偉大な越」の意) に改められた。丁部領は厳格な法を制定し、有力な氏族を味方につけようと努めたが、わずか8年後には皇太子とともに暗殺されてしまい、その統治は終わりを告げる。一方、事の成り行きを注意深く見守っていた中国 (宋) は、この機に乗じて侵略を開始する。暗殺された前皇帝の息子 (6歳) が帝位を継いだものの、彼の母親と結婚した黎桓が実質的な支配者となり、前黎朝が開かれた。黎桓は奇策 (どのような策であったのか、中国の記録には残されていないが、敗戦に連座した指揮官と将軍は一人残らず斬首されたという) を用いて中国軍を撃退した。その後、中国は (しばらくの間) ベトナムから手を引いたが、これは朝貢を得られたからで、ベトナムを本当に恐れたわけではないだろう。定期的に金が入ってくるのに、わざわざ占領する必要がどこにあるのだ?
その後、ベトナムは約500年にわたって独立を維持した。また、その領土も沿岸を下り、紅河流域 (ハノイ地域) から南のメコン川流域に向かって拡大していった。その過程では、チャムやクメール (カンボジア) といった他民族といくたびも干戈を交え、これを征服した。実際、ベトナムのメコン川流域では、上座部仏教を信仰し、カンボジア語を話すクメール族が、今なお数多く暮らしている。

李朝 Edit

今日のベトナムの基礎を築いたのは、南方への領土拡大後に成立した李朝である。この時代にベトナムは隆盛を極め、王朝は約400年にわたって存続した。李朝は内政に力を注いだ。経済発展を目指した李朝がまず手をつけたのは、国民への投資だった。文廟、つまり「文学の神殿」の創設はそのひとつである。教育の門戸が身分を問わず開かれ、ベトナムから中国、韓国、日本に至る地域に見られる儒教的能力主義制度のもと、平民も科挙を受験することで官吏として出世できたのである。これは単なる男性優位主義ではなかった。税制も再編され、女性が徴税の責任者となった。また、李朝においては宗教がより大きな社会的役割を果たすようになり、とりわけ仏教、儒教、道教が力を強めた。
ただし、この時代も争いと無縁ではなかった。李氏から陳氏へと王権が交代した際、ベトナムはモンゴルと中国の両方から (またしても) 侵略を受け、併合したチャム族による反乱にも直面したのだ。こうした戦乱と陳朝の統治者の人気凋落も相まって、ベトナムは造反に対して脆弱になっていた。1400年代に帝位を簒奪した胡季犛は、多くの大胆で進歩的な改革案を打ち出した。しかし封建領主からの評判は悪く、彼らが陳朝復権への助力を中国 (明) に要請したことで、1407年には再び中国がベトナムを支配する事態となる。中国の法律の下、またしても中国文化をより採用するよう圧力をかけられたベトナムだったが、彼らが出した答えはこれまでと同じく「否」だった。このときの反乱を率いたのが有力な豪族であった黎利で、最終的には独立を果たし、黎朝を開いた (これを引き継いだのが西山朝と阮朝だが、とりわけ阮朝の名は非常に人気が高く、多数の一族が改姓したため、現在のベトナムでも阮姓は圧倒的多数を占めている)。 黎朝は儒教思想の影響を受けていたため、進歩的な新法が数多く導入され、教育の充実と領土拡大が再び重んじられるようになった。

仏領インドシナ Edit

そのため、1700年代に西洋人がこの地に姿を現しはじめたとき、キリスト教を広めようとする彼らの取り組みは、多くの人々からベトナム文化の根幹に対する直接的な攻撃と受け取られた。この見方はある意味では間違っていなかった。宗教がベトナムを植民地化する口実として用いられたからである。すなわち、自国の宣教師が処刑されたことを理由に、フランスはスペインと結んでベトナム南部への侵攻を開始し、これを占領したのだ。その後も侵略はつづき、1887年までにはベトナム、カンボジア、ラオスの全土がフランスの支配下に置かれた。
フランス領インドシナは、常に戦争状態に置かれているような有様だった。フランスは、ラオスの支配権を巡るシャムとの紛争の合間に、ベトナムの反乱軍とも戦わねばならなかった。そして、最後の反乱が終息した直後、第二次世界大戦が勃発したのである。

ベトナム戦争 Edit

ここで新たな人物がベトナムの歴史に登場する。ホー・チ・ミンである。フランスで教育を受け、青年期をアメリカとイギリスで肉体労働者として過ごした彼は、明敏な政治学者でもあった。フランス、アメリカ、ロシアなど、ありとあらゆる国々の革命家たちへの共感を強くしていったホー・チ・ミンは、第二次世界大戦中にベトナムに帰国し、ヴィシー政権下のフランスや日本と戦った。戦後に彼が発表したベトナム独立宣言は、妙に聞き覚えのある文言から始まる。いわく、「すべての人間は平等に創られている。人は生命、自由、幸福の追求をはじめとする侵すことのできない権利を創造者によって授けられている」。第二次世界大戦中の枢軸国との戦いではアメリカから支援を受けていたため、彼は当初、フランスからの独立についてもアメリカの支持を得られるものと考えていたのだ。だが、それは誤りだった。アメリカがフランスによる植民地支配を支持したため、ホー・チ・ミンがハノイで結成したベトミン (ベトナム独立同盟会) は、ソビエト連邦との繋がりをますます強めていった。ベトナム軍はディエン・ビエン・フーの戦いでフランスを破り、1954年にフランスの占領を終わらせた。
しかしこの戦争が終結したとき、ベトナムはソビエトが支援する北部とアメリカが支援する南部に分裂していた。この分裂は、ベトナムが独立を果たすや否や、すぐさま公然たる戦いへと発展した。ちなみにアメリカはこれをベトナム戦争と名づけたが、ベトナムではアメリカ戦争と呼ばれている。北ベトナム軍はこの戦争に勝利し、ホー・チ・ミンは今につづくベトナム社会主義共和国を建国した。だが、戦争終結の後に続いたのはさらなる紛争だった。大量虐殺で悪名高いクメール・ルージュを追放しようとして、ベトナムがカンボジアに侵攻したのである。クメール・ルージュは中国と同盟していたため、1979年に (またしても) 中国がベトナムの国境を侵す事態となる。結局、動乱の時代は100年近くつづいたわけだが、この紛争でもベトナムはどうにか中国を退け、抵抗の歴史をまた刻んだのであった。

ペルシア Edit

 ペルシア帝国は、最盛期にはメソポタミア地方の大部分と小アジア、黒海沿岸、中央アジアの一部 (のちのアフガニスタン)、コーカサス山脈の一部、エジプト、トラキア、マケドニアを支配下に置いていた。ペルシアは2世紀近くにわたって「文明のゆりかご」を支配していたが、そこにアレキサンドロスという男が現れる。この成り上がり者のマケドニア人は、4年に満たない短い期間で世界最大の帝国を粉砕したのだった。

建国 Edit

その屈辱的な崩壊とおなじくらい注目に値するのは、にわかには信じがたい建国の物語である。いくつかの説話によれば (信憑性はどれも怪しいのだが)、若きキュロス2世が祖父のアステュアゲスと折り合いをつけられなかったことが、すべての始まりだったという。公平を期すために述べておくと、老王はキュロスが生まれた直後に彼を殺そうとしたのだとか… キュロスが紀元前546年にペルシア王を名乗ったとき、祖父の土地をまっ先に征服対象リストに載せたのも、因果応報というものだろう。紀元前540年頃までにキュロスはリディアを制圧。勢いに乗ってその1年後にはバビロンに進軍し、入城を果たした。この結果としてキュロスは、エジプトとの国境から黒海の岸にまで達し、古代メソポタミア地方のすべてを内包する一大帝国を統べることとなったのである。
キュロス2世 (現在では「キュロス大王」あるいは「諸王の王」とも呼ばれている) が当時としては比較的道理をわきまえた統治者であったことに異論を挟む余地はいない。彼のペルシア帝国は、数多くの民族集団を公平な責任と権利に基づいて統治した歴史上最初の帝国だった (もちろんそれは、臣民が税を納め、平和を保っているかぎりにおいてであったが)。キュロスは被征服地の貴族からなる「サトラップ (総督)」制度を設け、それぞれの属州に自治に近い形で統治させた。また、各地方の土着の慣習、宗教、経済に干渉しないことも約束した。ステップ地方からやって来る蛮族の略奪を防ぐため、東の国境沿いに砦を築いたのもキュロスの業績である。こうした蛮族の代表としてはスキタイ人が挙げられるが、紀元前530年のキュロスの不慮の死は、彼らによるものだとする説もある (あくまでも1つの説に過ぎないが)。
キュロスの後を継いだのは、その息子カンビュセス2世である。彼は即位後ただちに弟のバルディヤを殺害し、王位を脅かす芽を摘んだ。そして兄弟殺しの次には、当時の流儀に違わぬ行動に出る。侵略である。カンビュセスは、紀元前525年にエジプトに進軍し、ペルシウムとメンフィスで勝利を収めた。その近隣のカルタゴとヌビアへの攻撃では芳しい結果を残せなかったものの、それでもエジプトとその富は帝国にとってすばらしい収穫だった。バルディヤなる人物が謀反を起こしたという知らせが彼のもとに届けられたのは、こうした軍事遠征の最中のことであった。バルディヤ、それは彼が亡き者にしたはずの弟の名だった。今度こそ弟の息の根をとめ、反乱を鎮圧すべく帰途についたカンビュセスだったが、彼はその途上で謎の死を遂げる。
このとき、王は絶望して自ら命を絶ったのだと主張したのが、カンビュセス2世の遠い親戚にあたるダレイオスだった (彼はペルシアの将軍で、王が死んだとき、その傍に近づける立場にいた)。ダレイオスはメディアに軍を進め、バルディヤを偽物として討ち取った。その後、ダレイオスが諦めざるをえないほど明確な継承権を持つ者が現れなかったため、彼はダレイオス1世として自ら王位に就く。この厚顔無知な振舞いに対し、いくつかの属州がただちに反乱を起こしたが、わずか1年のうちに19もの戦いを経て、彼はこうした反乱の大部分を鎮圧してのけたのだった。

政治改革 Edit

かくして帝国は落ち着きを取り戻した。ダレイオス1世は紀元前521年までに己の立場を確固たるものにすると、行政組織を再編し、広大な帝国の公用語をアラム語と定め、「ダリク」金貨を中心とする統一通貨制度を制定した。自分にちなんだ名前を硬貨につけるのは、王位簒奪
(彼の即位はそう考えられている) の特権である。ダレイオス1世の指導のもと、ペルシア帝国は度量衡の単位を統一し、街道の建設計画 (その最たるものが、スーサからサルデスに至る2699キロメートルの「王の道」の再建と完成だ) を策定し、スーサ、バビロン、メンフィス、パサルガダエ、そして新都ペルセポリスといった都市で数々の公共事業に着手した。
紀元前516年までにはダレイオス1世の統治体制は盤石のものになっていた。王位は安泰と見た彼は、遠くインダス川流域にまで食指を伸ばし、1年とたたないうちにこの地方を征服してしまう。ギリシャ人のスキュラクスをガンダーラのサトラップに任命すると、彼はあらためて帝国の再編に取りかかった。領土を20の行政区 (サトラピー) に分けると、各所に自分が選んだサトラップを置き (たいていは親戚の誰かだった)、それぞれに決まった割合の供物を納めさせたのだ。また、サトラップが力をつけて反乱を起こすのを防ぐため、どのサトラピーにもサトラップとはまた別に、王の命令にのみ従う将軍を置いた。さらには王直属の密偵 (「王の耳」と呼ばれた) も派遣し、サトラップと将軍の両方を見張らせて定期的に報告させるという徹底ぶりだった。
インドから凱旋したダレイオス1世 (この偉業により、「大王」と呼ばれるようになった) は、その矛先を騎馬民族であるスキタイに転じた。スキタイはペルシアとの決戦を避けつづけたが、繰り返し撤退を余儀なくされたことで豊かな牧草地や家畜を失い、それにともなって味方の数も減っていった。しかし苦境はペルシア軍も同様だった。一か月におよぶ荒野の行軍は歩兵を疲労させ、物資の欠乏を招いたのである。成果もないまま進軍をつづけていたずらに疲弊することを懸念したダレイオス1世は、スキタイも十分に痛手を負っているはずだと確信していたこともあり、オアロス河の岸で軍を停止させた。ヘロドトスによれば、彼はその地に「互いにある程度の距離を保って8つの要塞を築いた」という。この膠着状態をとりあえず勝利と宣言した後、大王はスキタイほどすばしこくない敵を求めてヨーロッパに転進した。

ギリシャとの戦争 Edit

遠征は、ダレイオス1世がヘレスポント海峡を渡り、対立の絶えないギリシャの政治に巻き込まれることからはじまった。これがトラキアの侵略につながり、さらにエーゲ海北部のいくつかの都市国家の征服がつづいた。マケドニアは自発的にペルシアに降伏し、その属国となった。ダレイオスはトラキアの息の根を止めるために配下のメガビュゾス将軍を残し、自分自身はサルデスで休養すべく帰還した。しかし、さほどの間をおかずしてイオニアのギリシャ人都市が次々と反乱を起こす。アテネとエレトリアの支援を受けたイオニア軍は、紀元前498年にサルデスを占領し、街を焼き払った。ダレイオスが苛立ったであろうことは想像に難くない。
やっとのことで「イオニアの反乱」を完膚なきまで叩きつぶしたダレイオス1世は、紀元前492年、トラキアとマケドニアを再び征服するため、義理の息子を派遣した。さらに、エレトリアとアテネを服従させるため、ギリシャへも遠征軍を派遣した。軍勢はエーゲ海の島々を伝って移動し、途中でナクソスを制圧しつつ、紀元前490年にエレトリアを包囲、制圧し、街を焼き払った。その後ペルシア軍は、アッティカの海岸に沿って南下し、アテネも同様の目に遭わせようとしたが、マラトンで兵数3万のギリシャ連合軍と戦い、完敗を喫してしまう。ダレイオス1世はただちに次の侵略の準備に取りかかった。今回は自ら陣頭指揮を執る計画だった。しかし3年後、計画を実行に移すことなく大王はこの世を去った。
成り上がりのギリシャ人の相手は、ダレイオス1世の後継者たちに引き継がれることになった (最初にその任についたのは、彼の息子、クセルクセス1世であった)。しかし結局、他に類を見ない大帝国を総べながらも、彼らはそれに失敗することになる。
クセルクセス1世はまずエジプトの反乱を鎮圧した。しかし先王と違い、彼は反乱を起こした属州を厳しく扱った。現地の指導者を排除し、ペルシアによる直接支配をおこなったのである。紀元前482年にバビロニアが反乱を起こすと、彼らに対しても同様に対処した。最終的にクセルクセス1世は、強大なペルシア海軍の支援を得て、大軍勢でギリシャ北部に侵攻した。その途上に位置していた都市国家は、この侵略者に対してなすすべがなかった。テルモピュライでスパルタ軍とボイオーティアの諸都市の軍が果敢に抗戦したものの、ギリシャ連合軍はクセルクセス1世のアテネ侵攻を止めるには至らず、ギリシャ側は最も重要な都市国家を失うこととなる。
とはいえ、アテネの人々はペルシア軍が現れる前に街を脱出しており、またアテネ海軍も有力な戦力として健在だった。紀元前480年、クセルクセス1世はサラミスの海戦で敵の手強さを思い知ることになる。この海戦では、わずか370隻の三段櫂船からなるギリシャ海軍が、800隻から成るペルシアのガレー船団を退けたのである。ペルシア側は300隻の船を失ったと考えられているが、一方のギリシャ側の損失はわずか40隻だった。この敗北により、ギリシャ深部へ攻め込むペルシアの計画は1年遅れ、ギリシャ側は侵略者に対する守りを強化する時間を得たのだった。結局、クセルクセス1世はペルシアに戻ることを余儀なくされ、後のことは配下のマルドニオス将軍にゆだねられた。この新たな指揮官はギリシャ軍に対し、すぐさまいくつかの重要な海戦と陸戦で敗北を喫してしまう。プラタイアの戦いでマルドニオス将軍が戦死するとついに遠征は打ち切りとなり、生き残ったペルシア兵はほうほうのていでギリシャから引き上げていった。
クセルクセス1世はその後二度とギリシャに侵攻しなかった。もっとも、これは興味を失ったからではなく、彼が暗殺されたためである。王は紀元前465年に、忠実な近衛隊長の陰謀によって命を落とし、主君を手にかけたこの男もクセルクセスの息子アルタクセルクセスによって討たれた。
クセルクセス1世の後を継ぎ、紀元前465年から404年まで帝国を統治した3代のペルシア王 (アルタクセルクセス1世、クセルクセス2世、ダレイオス2世) はいずれも柔弱で才気に欠けていた。紀元前5世紀の終わり、エーゲ海である程度の力を取り戻していたペルシアは、アテネとスパルタの間で長くつづいたペロポネソス戦争においてギリシャ人同士を争わせることに成功する。しかし、紀元前405年にエジプトで反乱が発生。ペルシアはこの反抗的な属州の支配権を半世紀以上にわたって失うことになる。
ダレイオス2世の後はアルタクセルクセス2世が継ぎ、45年にわたって国を治めた。その長い治世において、アルタクセルクセス2世は小アジアのギリシャ都市を再び手に入れるべく、スパルタと干戈を交えた。この戦いではペルシアがアテネ (ペロポネソス戦争で喫した壊滅的な敗北から立ち直ろうとしていた) と手を組んだため、スパルタは和平を結ぶより他なかった。

衰退 Edit

こうした成功が時折あったものの、ペルシアの弱体化と混乱は紀元前4世紀の間に深刻化していった。紀元前373年にはサトラップの一団による反乱が発生。これは鎮圧されたものの、反乱はその後も相次ぎ、発生の頻度も高まっていった。王の地位がますます不安定になっていったことは言うまでもない。紀元前359年、背信の結果として王となったアルタクセルクセス3世は、王位を確かなものとするため、手当たりしだいに兄弟や親族を殺害したが、彼自身、紀元前338年に宦官のバゴアスによって毒殺されてしまう。その後、この宦官によってアルタクセルクセス3世の末子アルセスが擁立される。アルセスはすぐにバゴアスを抹殺しようとしたが、その試みは失敗に終わり、反対に自分が殺されてしまう。その後、バゴアスが即位させたのが、ダレイオス3世である。
元はアルメニアのサトラップだったダレイオス3世は、亡き王とは親戚関係にあったものの、血筋としてはかなり遠い位置にいた。しかし血統的によりふさわしい候補者がほぼ死に絶えていたため、継承者として即位することが叶ったのである。彼が有能な指導者だったかどうかの判断は難しい。ダレイオス3世が王になった頃のペルシア帝国は、1世紀以上におよぶ凋落の途上にあったからだ。中央政府は機能不全に陥り、反乱がひっきりなしに起こっていた。宮廷にうごめく陰謀は体制を一段と弱体化させ、生き残りに必死な有力者たちは、帝国の利益を考えるのと同じだけの時間を自分の保身に割いた。こうした状況で権力の座に就けば、どんな指導者も頭を抱えることだろう。
だが、国内の状況がどれだけひどいものであろうと、ヘレスポント海峡の向こうから迫りつつある問題に比べれば、大したことではなかったかもしれない。紀元前336年、マケドニアの若き王、のちに「大王」と呼ばれるアレキサンドロスが、崩壊寸前のペルシア帝国にとどめを刺すべく行動を開始したのである。ダレイオス3世は戦場でアレキサンドロス3世と何度か対峙した。数においてはペルシア軍が圧倒的優位にあることのほうが多かったが、アレキサンドロスはそんな劣勢をものともせず、ペルシア軍に対して次々と勝利を重ねていった。紀元前330年、ペルシアの首都ペルセポリスが陥落。その年のうちにダレイオス3世も命を落とした。それはアケメネス朝最後の「諸王の王」の死であった。

ポーランド Edit

 ポーランドの地形で最も目を引くのは、北のバルト海から南のカルパチア山脈に至る広大な平原だ。この平原が災いしてポーランドは侵略者の通り道となり、西の国境からはヨーロッパの敵、東の国境からはアジアの敵の侵入にさらされてきた。ドイツとロシアの間に位置していたのも、ポーランドにとっては都合の悪いことだった。どちらもポーランドの豊かな平野と資源を、(1000年以上の長きにわたり) 虎視眈々と狙っていたからである。しかし、どんな逆境にもポーランドは屈せず、この地域の覇者として君臨した時代すらあったのだ。

建国 Edit

信憑性は定かではないが、ポラン族はグニェズノという要塞化された集落で暮らし、ミェシュコという男によって治められていたと言われている。略奪者として知られるマジャール人が現れ、クラクフのヴィスラニ族を脅かすと、ヴィスラニ族と深い結びつきを持っていたミェシュコは、彼らとポラン族の統合を実現し、ピャスト朝を創始した。その後、ボヘミアからローマ・カトリックの伝道師が来て精神と実用の両面からキリスト教の恩恵を説くと、ミェシュコはキリスト教に改宗し、966年に洗礼を受けた。いくらか議論はあるものの、現在では最も懐疑的な学者でさえこれをポーランド建国の年と認めている。

カトリック王政 Edit

ミェシュコの後継者たちはいずれも強力 (あるいは強引) であったため、国民は徐々にカトリックへ改宗していき、王朝の強固な支配権が確立され、ポーランドは望むと望まざるとに関係なくヨーロッパ文化に染まっていった。ミェシュコの息子ボレスワフは、ポーランド人のカトリック聖職者だけの組織を設立し、現世での権威を神聖ローマ帝国のドイツ人皇帝から認められた。この結果、1025年にはボレスワフの戴冠式が執り行われ、彼は初代「ポーランド王」となった。
ポーランドはすぐにバルト海からカルパチア山脈まで勢力を伸ばし、1100年までには曖昧ながらも歴史的な国境が定まった。しかし、ボレスワフ3世が1138年に崩御すると、生まれてまだ百年の王国は「病」に苦しむこととなった。ポーランドには長子相続制の伝統がなかったため、国土が前王の数人の息子たちによって分割されたのだ。この分裂によってその後の数世紀、ポーランドは内紛と国外からの圧力にさらされることとなる。
ヴワディスワフは、ピャスト家の中でそれほど重視されていない公爵だったが、その生涯を王国の再統合に捧げ、その甲斐あってヴワディスワフ1世となった。ポーランドを守るため、ヴワディスワフ1世はリトアニアやモンゴルの異教徒に対する聖戦を指揮し、独善的で強欲なチュートン騎士団を追放するためにも戦った。やがて王位はヴワディスワフの息子、カジミェシュ3世に継承されたが、彼は後にカジミェシュ大王と称されたほど優秀な統治者となった。カジミェシュ大王は、明敏な外交手腕と短期戦の勝利によって父の業績を守っただけでなく、ポーランドを文化、教育、商業の中心地へと育て上げたのである。彼は王国の領土をそれまでの倍以上に広げたばかりか、経済と法体系を再編し、さらにはポーランド初の大学を創設した。また、その自由主義的な統治の下で、ポーランドは土地を奪われた者や迫害された者たちの避難場所となった。ドイツ人が都市に住み着き、アルメニア人やスラヴ人の避難民が地方の低地に住み、数千のユダヤ人が流入して繁栄を享受した。しかしカジミェシュ大王は世継ぎにめぐまれず、1370年に彼が崩御すると、ピャスト朝は断絶してしまった。
カジミェシュが後継者に指名していたのは、ハンガリー人の甥、ラヨシュ1世だった (カジミェシュは生涯の大半をハンガリーで過ごした)。このラヨシュ1世が1382年に崩御すると、反抗的なポーランド貴族たちによって末娘のヤドヴィガがポーランド王に担ぎあげられることとなる。ヤドヴィガはリトアニア大公ヨガイラと結婚したが、この人物はカトリックに改宗し、名前もヴワディスワフ2世とポーランド風に改めて、自らもポーランド王となった。2人の君主は共同で統治にあたったが、1399年にヤドヴィガが逝去すると、ポーランドは再び1人の王によって統治されることとなった。
1401年、ヴワディスワフ2世はポーランドを紛争に巻き込んだ。チュートン騎士団と激しい戦いを繰り広げていたリトアニアを助けるべく馳せ参じたのである。1410年7月、グリュンヴァルトの戦いでリトアニア・ポーランド連合軍はチュートン騎士団に圧勝。中世で最も熾烈な戦闘のひとつに数えられるほど激しかったこの戦いの結果、チュートン騎士団の指導者の大半は戦死または捕虜の憂き目に遭い、チュートン騎士団は実質的に消滅した。
ヤギェウォ朝の君主は数十年もの間、再起したチュートン騎士団、プロイセン公国、ボヘミア王国、ハンガリー王国、モスクワ大公国、南方のオスマン帝国やクリミア・タタール人など、強欲な隣人たちとの戦争に明け暮れた (そしてその大半に勝利した)。わけてもクリミア・タタール人は執拗で、1474年から1569年までの間に75回もポーランドに侵攻しているのだから、懲りるということを知らなかったらしい。いずれにせよ、全体として見ればポーランド王は、国境と領土内の影響力を維持することができていた。
前述の勝利よりもいくらか意義深く、そして永続的な成果として、ヤギェウォ朝の時代には社会と科学が大きく進歩した。1505年、ニヒル・ノヴィ法によってほぼすべての立法権が国王からセイム (ポーランド貴族から成る議会) に移譲され、民主政治に向けての大きな一歩となった。また、数々の宗教改革運動 (特にボヘミアのヤン・フスが率いたもの) はポーランド・カトリック教会への攻撃に発展し、結果として宗教的寛容をうながす諸法の成立に結びついた。ヤギェウォ朝のジグムント1世とジグムント2世は、ルネサンスの理念にのっとってポーランドの芸術と文化の振興に努めた。ポーランド人天文学者ニコラウス・コペルニクスが太陽中心説 (地動説) を証明する画期的な著書を出版したのは1543年のことである。

共和制移行 Edit

民族主義の高揚、「民主主義」への指向、そして (多少の) 外国の脅威に対する恐れの広がりといった要因に後押しされる形で、1569年6月、議会はポーランド・リトアニア共和国を成立させる法案を採択した。この共和国は選挙王政にもとづく連邦国家だったが、統治の主役は貴族によって構成された地方議会と中央の国会だった。後継者に恵まれなかったヤギェウォ朝最後の王ジグムント2世はこの法案を受け入れ、署名した。こうして成立したポーランド・リトアニア共和国は安定と繁栄の一時代を現出させ、ウクライナやロシア西部といった地域に西欧文化を広めるという功績を残したが、ロシアやスウェーデン、オスマン帝国、コサックといった厄介な隣人とたびたび戦火を交えることになった。
度重なる戦争による被害、とりわけ大北方戦争 (1700〜1721) に巻き込まれて甚大な痛手をこうむったことは、選挙で選ばれた柔弱な王がつづいたことと相まって、ポーランドに内政改革の必要性を痛感させた。こうした流れの中で、18世紀半ば、ポーランド議会は商業、軍事、社会、教育の各分野にまたがる改革を実施する。1773年に設立されたヨーロッパ初の国立教育機関、「国民教育委員会」もその成果のひとつである。そこでは小作農たちが自分で聖書を読めるようになるまで教育を施したが、すぐに彼らは聖書を読むだけではあきたらず、さらなる権利と民主政治への参加を求めるようになっていった。
この頃までには、ポーランド人の大部分にとって読み物といえば聖書だけ、という時代は終わっていた。過去数世紀の間に、さまざまな気高い君主の統治の下、ポーランドは独自の文化を発展、開花させていったのである。そうした中で現れたのが、クラシツキやヤン・ポトツキなど、さまざまな文学や詩を次々と著したポーランド人作家たちである。ポーランドの文化には、ゲルマン、スラヴ、ラテン、東ローマ帝国の系譜が深く根付いていたが 、独自の特徴を持つ建築や芸術、舞踊も見られるようになった。中でもポーランド人がその才能を見せつけたのは音楽だった。ポーランドの作曲家が奏でる音色や調子、テンポや味わいは、強く心を打つものだった。後のショパンなど、ポーランド人作曲家が活躍する礎を築いたのは、この時代を生きたミエルチェフスキ、オギンスキ、シマノフスカをはじめとする名音楽家たちに他ならなかった。
ポーランドは主に農作物の輸出によって富の面でも成長を遂げた。ポーランド共和国はヨーロッパでも群を抜く穀物の一大生産地であったのだ。農地が広がるにつれ、ポーランドは果物、香辛料、ニシン、織物、材木、ビール、そしてワインの大輸出国となった。こうした品はすべてヴィスワ川、ブク川、ネマン川を行き来する船によって運ばれ、グダニスクなどのバルト海に面した港からフランドルやオランダへ輸出された。陸の交易路も大いに発達し、神聖ローマ帝国の奥深くまで達するほどになった。膨大な富の行方を見失わないようにと、ポーランド議会は1496年に自国通貨としてズウォティを鋳造した。ポーランド最後の王スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキの治世には財政改革の一環としてこの硬貨が標準化されたが… それは共和国の終焉と時を同じくしていた。

分轄時代 Edit

改革のための公共支出によって国庫が底をつき、軍が弱体化してしまったばかりか、貴族が自分の命を危険にさらしたり財産を差し出すことを渋ったため、ポーランドは隣国からの干渉を阻止することができなくなる。1772年、第1回ポーランド分割が起こり、ロシア、オーストリア、プロイセンがポーランドの一部を占領。さらに、短期で終結したポーランド・ロシア戦争の後、プロイセンとロシアによって第2回ポーランド分割を実施され、多くの領土を失ったポーランドはついに経済的にも軍事的にも立ち行かなくなってしまう。そして1795年、オーストリア、ロシア、プロイセンによる第3回ポーランド分割によって最後の土地も割譲させられ、独立国家としてのポーランドはついに消滅してしまったのであった。
最後の分割の後、ポーランドはいったん歴史から消えたが、ナポレオン・ボナパルト率いる帝政フランスの自由従属国、ポーランド公国として復活する。だがナポレオンが敗北すると、またもポーランドはプロイセン、オーストリア、ロシアによって引き裂かれてしまう。第一次世界大戦後、ポーランドは独立国家として蘇ったが、その自由を守るため、誕生したばかりのソビエト連邦と2年間も戦わなければならなかった。さらに1939年には、盟友だったはずのナチスドイツとソビエト連邦によってまたも分割の憂き目に遭う。戦後、三度復活を果たしたポーランドは、鉄のカーテンの向こう側で共産主義に支配されつづけたが、1990年代、鉄のカーテンに生じたほころびを利用してソ連の支配から脱した最初の国のひとつとなり、今度こそ本当の自由を手に入れた。あきらめることなく独立を求めつづけてきた人々、それがポーランド国民なのである。

マオリ Edit

 正確な時期はわからないが、13世紀、南太平洋のマルキーズ諸島のどこかからカヌーに乗った一団が旅立ち、南西に向かった。やがて一行は、現在ニュージーランドと呼ばれている島々にたどり着き、アオテアロア、すなわち「白い雲が長くたなびく地」と名づけた。彼らは、自然界に表れた手がかりを頼りにしてこの土地の存在を推測し、ポリネシアに古くから伝わる高度な航海術を用いてこの土地を見つけのである。そこはこれまで人が住んだことのない未開の地だった。大陸から切り離されて1000万年、長期にわたる地理的な隔たりは、この地に独自の貴重な生態系を形成するに至っていた。そこは空を飛べない巨大な鳥をはじめとする無数の鳥類、ぞっとするほど大きな爬虫類、低木の茂みに隠れひそむ動物たちの楽園となっていたのである。この地に陸生の哺乳類はわずかしかおらず、その一方で古代の姿をとどめる爬虫類が何種類も残っていた。生命は、島を取り巻く海にも満ちあふれていた。

先史時代 Edit

知られている中で最古のマオリの居住地は、南島のテ・ポコヒウィ (ワイラウバー) の近くにある。ニュージーランドを構成する2島を隔てている海峡に、ワイラウ川が注ぎ込んでいる地域だ。島へ到来したときの様子を伝えるマオリ自身の言い伝えでは、彼らは「ハワイキの民」の子孫であるとされている。また、ニュージーランドの島々は、英雄マウイが深海から釣り上げたのだという言い伝えも残っている。最初の集落を築いたのは、クペとトイテフワタヒだ。マオリ文化では、ファカパパ、つまり家系の暗唱がきわめて重要な位置を占めている。ファカパパを語る者は、歴史の中にその身を置き、はるか遠い神話の時代まで時をさかのぼっていくのだ。複雑なことこの上なく、文化的に重要な意味を持つファカパパは、いつの時代もマオリにとって大切な社会システムでありつづけてきた。
マオリのポリネシア的伝統は、彼らが定住した土地の影響を受けて、300年ほどの間に徐々にその形を変えていった。ほとんどのハブ (「集団」)は、それぞれの族長によって統率された。族長はマナ、すなわち名声と力の持ち主であり、友人には親切を返し、敵には相応の報復を加えた。マオリはポウナムという緑の石や、島に住む鳥の羽を加工して美しい品を作った。それぞれのハプには、カヌーを漕いでこの島へやって来たときまでさかのぼる、独自の口承が受け継がれていた。やがてマオリは、儀式化された身振りと表情をともなう力強い祈りの言葉、ハカを完成させ、力、勇気、勇猛さ、敬意を表現する手段として用いるようになった。マオリが顔に施す特徴的なタトゥーはタ・モコと呼ばれ、その模様は一人ひとり異なっている。男は顔全体に、女は唇やあごにタ・モコを入れるのがマオリの伝統である。

ヨーロッパ襲来 Edit

ヨーロッパ人がニュージーランドを発見したのは1642年のことだが、マオリが定期的に接触するようになったのは18世紀に入ってからである。マオリはヨーロッパ人をパケハと呼んだ。現在この言葉は、広い意味で「マオリにあらざる者」を意味している。銃や大砲、さらにはヨーロッパから病気が持ち込まれたことは、マオリに深刻な、しかも良くない影響を与えた。ヨーロッパ人は本格的な居住地の建設にも着手し、1840年にはイギリス政府がワイタンギ条約を起草、多くのマオリの族長がこれに署名した。
先住民と植民地政府の間で不平等な条約が取り交わされた例は枚挙に暇がないが、ワイタンギ条約もその系譜に連なる条約であった。その不平等性が特に表れているのが、土地の請求権をめぐる認識である。マオリには、西洋的な「土地所有」という概念が存在しなかった。条約そのものに関する理解も、マオリとイギリス人の間では大きな食い違いがあった。イギリス人は法的に疑義のある、なかば力づくでマオリに土地の売却を迫った。むろんマオリは自分たちの権利を把握しておらず、土地を売った見返りに彼ら得たのは、わずかな賠償金だけであった。

抵抗 Edit

こうした扱いに対し、マオリが起こしたのがキンギタンガ運動だ。1つの旗印、1人の政治的な人物のもとにマオリが結集することで、ハブ同士の抗争とそれによる同胞間の分断の進展を食い止めようとしたのである。ところがこの運動は、植民地政府による弾圧と土地の没収を加速させ、ついにはマオリとパケハが刃を交えるマオリ戦争に発展してしまう。この当時、マオリは良い土地を次々と奪われ、貧しくて条件の悪い土地へどんどん追いやられていった (これは北島で特に顕著だった)。植民地政府は土地の押収をつづけ、時には抵抗した人々ばかりか、自分たちに味方したマオリからも土地を奪った。また、露骨なやり方だけでなく、法を盾にしてマオリから土地を取り上げることもあった。こうした暴虐は、1世紀近くにわたってつづけられた。

環境破壊 Edit

島の生態系も、人の到来によって大きく変化した。マオリの上陸とともに、ニュージーランドの繊細な生態系にネズミや犬が入り込んだのだ。マオリがやって来て1世紀も経たないうちに、数多く生息していたモアが絶滅し、この巨鳥を捕食していた大型のワシも死に絶えた。それ以外にもさまざまな動物 (ポッサム、イタチ、ブタなど) が持ち込まれたことで土着の植物や動物の生息環境が損なわれ、島の固有種だった鳥類の40%以上が失われてしまった。森の伐採も進められ、農業や牧畜に適した土地に作り変えられていった。
20世紀に入ると、マオリに対する不当な行為の歴史が広く認識されるようになった。また、マオリ自身の間でも、自分たちの文化を保護し、称賛する機運が高まった。マオリ担当大臣を務めたサー・アピラーナ・ナガタは、マオリの法的地位を改善するために尽力し、マオリの伝統的な音楽や詩の普及に努めた。第二次世界大戦では、彼はマオリに従軍を促すことさえしており、実際、多数のマオリがイギリス軍の一員として戦い、ガリポリ、北アフリカ、イタリアといった激戦区で敵味方双方から一目置かれる活躍をしている。
20世紀後半のマオリによる抗議運動は、彼らが受けた歴史的な不正への問題意識をさらに高めた。これに応えるため、ニュージーランドではマオリの言語や文化の保護、発展のための取り組みがおこなわれ、マオリ文化の独自性に対する認識は着実に向上しつつある。今のところマオリが経済、健康、教育の面でパケハに遅れをとっているのは事実だが、平等の実現に向け、国家的な取り組みが進められているのである。
さらに最近では、地球や自然に対するマオリの態度に多くの人が関心を寄せている。ニュージーランドでは環境負荷を減らすための取り組みを国家規模で推進しており、固有の生態系の保護や外来種の駆除に力を入れている。領海内での新規の原油掘削を禁じる法律を制定したのは、記憶に新しいところである。地球に対する連帯責任を訴えるマオリの思想は、「白い雲が長くたなびく地」のみならず、今、世界中で共感の輪を広げつつある。

マケドニア Edit

 古代ギリシャに広く伝わっていた (そして他ではほとんど聞かれなかった) 言い伝えによれば、マケドニアはアルゴスからやって来てヴェルミオス山周辺に少しずつ広がっていった古代ギリシャ人が築いた国であるという。その最初期の入植者だったペルディッカス1世がアルゲアス朝を開き、最初のマケドニア王になったというのだが、マケドニアのはじまりについては諸説ある。より信憑性の高い説によれば、最初のマケドニア人は周辺地域に暮らしていた古代ギリシャ人やトラキア人、イリュリア人とは異なる民族であり、北方から来た蛮族であった彼らは、家畜にしていたヤギに適した広大な土地を発見し、誰のものでもなかったそこで暮らしはじめたのだと考えられている。

建国 Edit

記録に残るマケドニアの最初の王カラノスは、紀元前808年に玉座に就いた。具体的に何があったのかは霧の中だが、その後の3世紀のあいだ、マケドニア人はかなりの乱暴者ぶりを発揮している。ピエリアとボッティアを支配し、アクシオス川を渡ってミグドニアとアンテムスを征服したばかりか、イオディア族を追い払い、同様にアルモピアも襲ったのである。こうして彼らは、遂にはトラキアとテッサリアの間に広がる全域を支配するに至ったのだが、運悪くペルシア人がギリシャに進出してきたため、繁栄と殺戮の黄金時代は突然の終焉を迎えることになる。

ペルシア支配 Edit

賢明にも服従の道を選び、紀元前492年にペルシアの支配下に入ったマケドニアは、これまでどおり自分たちの法律、習慣、王を維持することを許された。親ギリシャ主義者だったアレキサンドロス1世は、ペルシア王クセルクセス1世のギリシャ侵略 (いわゆるペルシャ戦争) においては特に目立った役割を果たさなかったが、ペルシア軍が退けられるとすぐさま征服というお家芸を再開させる。この結果、クレストニアとビサルティアが軍門に下り、マケドニアの東方における支配はストリュモン川に達しようかというところまで広がった。マケドニアの丘陵地帯に古くから住んでいた諸部族 (リンセスティスなど) も服従したが、彼らは朝貢と引き換えに自分たちの王を頂くことを許された。
マケドニアの宮廷文化が古代ギリシャ的というよりミケーネ的な特徴を備えている一方、ギリシャの都市国家は貴族制や民主制を採っていた。しかし、こうした相違にもかかわらず、紀元前5世紀のマケドニアは、小競り合いの絶えないギリシャ南部の都市国家に対する政治的な関与を徐々に深めていった。アレキサンドロス1世は親ギリシャ主義だったが、息子のペルディッカス2世はたびたびスパルタ・アテネ間の戦争を煽り、マケドニアに近いギリシャの都市とはオリュントス同盟を結成した。そしてペロポネソス戦争では、利があると見れば背信行為も厭わず、たびたび陣営を乗り換えたのだった。
次に王位についたアルケラオス1世は、ペルディッカス2世の息子ではあるが庶子であり、世襲によらずに王位に就いた僣王であった。このアルケラオス1世のもとで、マケドニアは地域有数の経済大国に成長を遂げ、のちの圧倒的な軍事力の礎を築くことになる。アルケラオス1世は全土に街道を敷き、各地に砦を築いた。当時、マケドニア人のごとき「蛮族」は、古代オリンピックへの参加が認められていなかったので、王はこれに対抗する祭典を創始した。その一方で、国民にギリシャ文学を奨励し、何かと物議をかもしていた劇作家エウリピデスを王宮に迎えたりもした。しかしアルケラオス1世は不実で好色な人物だった。結局、彼は暗殺されてしまうが、犯人は彼の欲望の犠牲者だったと考えられている。
紀元前399年にアルケラオス1世が暗殺されたことは、王宮の内外に長い騒乱の時代をもたらした。直系の王位継承者がいなくなったため、マケドニア宮廷は陰謀と暗殺の舞台となり、果てしない内戦の嵐がマケドニア領土の各地で吹き荒れたのだ。王位を要求する者が次々と現れ、イリュリア人、テーベ人、スパルタ人、そしてアテネ人までもがその後ろ盾についた。分裂状態に陥ったマケドニアは、強欲な近隣各国に取り込まれ、一時は歴史の泥沼に埋もれてしまうかに思われた。しかしアミュンタス3世の登場によって情勢は一変。マケドニアは再び安定を取り戻すことになる。
アミュンタス3世には3人の息子がいたが、長男のアレキサンドロス2世は、マケドニアが抱える問題を解決するために拡大政策を採った。ギリシャ北部に攻め込んだ彼は、
テッサリアの諸都市にマケドニアの駐屯兵を配置し、その引き揚げを拒否した。しかし、アレキサンドロス2世にとっては残念なことに、マケドニア軍はやがてテーベによって力尽くで排除され、王弟が人質とされてしまう。アレキサンドロス2世の死後はペルディッカス3世が王位を継いだが、この王はイリュリア人との戦いで4000ものマケドニア兵を失い、自らも命を落としてしまった。
ペルディッカス3世には後継者がいたが、まだ幼かったため、アミュンタス3世の三男であったピリッポス2世によって早々に退位させられてしまう。これを転機として、世界史は大きく動くことになる。
紀元前359年にピリッポス2世が即位するまで、マケドニア王の最も顕著な資質は、粗暴なまでの武勇と外交面での狡猾な日和見主義だった。ピリッポス2世はここに「軍事の才」を加えることになる。屈強な戦士としてのマケドニア人の評判を取り戻そうと立ち上がったのだ。しかし当時の情勢を考えると、それはけっして容易な仕事ではなかった。彼が退位させた幼い甥の他に、マケドニアには王位継承者を名乗る者が少なくとも5人いて、うち2人には異国の軍が後ろ盾についていたのである。ペルディッカス3世を破って勝利に酔いしれていたイリュリア人はマケドニアを侵略して西の属州の大半を占領していたし、北のパエオニアと東のトラキアも攻め込む隙をうかがっていた。
ピリッポス2世は2年の月日を費やして軍の再編と改革に取り組んだ。彼は通常の重装歩兵団とその用途に数々のバリエーションを取り入れた。なかでも槍の大型化と盾の小型化は特筆に値する変化である。また、新たな兵科として、ヘタイロイと呼ばれる重装甲の騎兵と散兵として利用できる軽装の歩兵を設けた。一連の改革に満足すると、ピリッポス2世は王国を脅かすすべての敵に対し、新たな鉄床戦術を披露した。彼はまずイリュリア人を追い払い、それから矛先をパエオニアに転じ、敵軍を壊滅させてペラゴニアの一部とパエオニア南部を併合した。しかしピリッポス2世は、隣国を征服するだけでは満足しなかった。
アテネが最初の同盟市戦争 (紀元前357〜355年) に気を取られている隙をつき、ピリッポス2世はアテネの盟友だったアンフィポリスを攻撃。この都市を制圧すると、アテネが支配していたピュドナとポティダイアも占領し、次いでストリュモンとネストゥスの間に広がる沿岸地域すべてを従えた。これによってトラキア地方の金鉱はマケドニアのものとなり、年1000タレントの歳入がもたらされることになったのである。
ニカイアとキュティニオン、そしてエラテイアまでもが占領されたところで、アテネはようやく成り上がり者の
ピリッポス2世をどうにかしようと決意した。そうして戦いを挑んだ結果、カイロネイアの戦いで見事に返り討ちに遭ってしまう。マケドニア軍に勝利をもたらしたのは、無敵と謳われた陣形、マケドニア式ファランクスであった。マケドニアによるギリシャ支配は、紀元前337年に結成されたコリントス同盟によって正式なものとなる。この同盟にはギリシャの全都市国家が参加した。スパルタだけは例外だったが、ピリッポス2世はスパルタを無視することにした。ギリシャを征服したピリッポス2世は、次にペルシアに目を向けた… が、娘の婚礼の最中、パウサニアス (7人いた直属の護衛の1人。同名の人物が多い) の凶刃に倒れる。享年47歳。生涯の半分近くを王として統治した人物の非業の最期だった。

アレキサンドロス大帝国 Edit

ピリッポス2世の息子アレキサンドロス3世は、ペルシア侵攻という父の計画をただちに継承し、最終的には古代世界最大の帝国を築きあげた。アレキサンドロス大王については別項で詳しく語られているが、この王の早すぎる死は、マケドニアという国そのものにとっても弔鐘となった。アレキサンドロスはギリシャとスーサの貴族を何人も縁組させたが、こうした婚姻はそのほぼすべてが破綻。ギリシャでは諸都市が反乱を起こしたのだ。マケドニア国内でも王位継承者を名乗る者が乱立し、情勢は混迷を極めた。
10年におよぶ流血の争いの末、紀元前311年に和平が結ばれた。その条件として、生き残った主要な将軍の権利 (自分が持っているものをそのまま持っていて良いとされた) とギリシャの全都市の独立が定められた。また、アレキサンドロス大王とその妻ロクサネとの間に生まれた息子が統治をおこなえる年齢になるまで、将軍アンティパトロスの息子カッサンドロスがマケドニアの権力を預かることになった。しかしその後、カッサンドロスはロクサネと幼いアレキサンドロス4世の殺害を命令。アンティパトロス朝を開き、紀元前305年にマケドニアの王位を簒奪した。
そのカッサンドロスも紀元前297年に浮腫のために死去。その後、アンティパトロス朝はアンティゴノス朝に滅ぼされる。諸王朝が戦いに明け暮れたため、マケドニア全土が無政府状態に陥り、アレキサンドロス大王の築いた帝国のなれの果ては、それぞれが異なる道を辿りはじめた。マケドニアがようやく安定を取り戻したのは、数代後のアンティゴノス2世の時代である。そしてこの王の後継者たちのもと、マケドニアはかつての強大な軍事力をも取り戻していった。
それを是としなかったのがローマである。ピリッポス5世が頼りとしていたマケドニア式ファランクスは、ローマ軍の前に完敗を喫することになる。さらにその息子ペルセウスは、紀元前168年にピュドナの近くでローマ軍と戦って敗北。マケドニアの財産の大部分に当たる6000タレントもの財貨を持ってサモトラケ島に逃れることを余儀なくされる。こうして王国は征服され、マケドニアはローマによって4つの「属州」に解体された。しかし、かつてマケドニアに科された税の半分を貢ぎ物として納めさせる以上のことをローマは求めなかったため、結果として独立国としてのマケドニアの滅亡に不満を抱く者はほとんどいなかった。

マプチェ Edit

 スペイン語で「アラウカノ」族 (地域における名前に由来していると思われる呼称だが、現在では蔑称と考えられている) と呼ばれるこの民族は、現地の言葉で「大地の民」を意味する「マプチェ」と呼ばれることも多い。チリ中央部とアルゼンチンの一部に暮らす先住民族である彼らは、その2500年近い歴史の中で、数え切れないほどの侵略と困難を経験し、生き延びてきた。

先史時代 Edit

広い地域に存在する多様なグループ (北のピクンチェ、南のウィジチェ、チリ中央部のモルチェを含む) のゆるやかな集合体であるマプチェは、共通の伝統と社会的習慣によって結ばれているが、一致団結するのは、交易や外敵への対処など、何らかの目的がある場合に限られていた。

インカ襲来 Edit

16世紀初頭にスペインのコンキスタドールが現れるまで、マプチェにとっての主な脅威は、チリ北部に達していたインカ帝国だった。強力で、統制もとれていたインカは、新たな征服地であるチリへの入植を、ゆっくりと進めていた。
インカによる領土拡張の試みは、「マウレの戦い」で頂点に達した。この戦いでは、マプチェの戦士2万人がマウレ川に集結した。戦いは数日におよんだが、いずれの陣営も敵を圧倒するには至らなかった。結局、インカは南方への進出を断念し、戦いはマプチェの勝利に終わった。歴史が伝えるように、この戦いでの引き分けは大きな転換点となった。これ以後、インカがマプチェの領土へさらに攻め込むことはなかったからである。
戦争さえなければ、マプチェの人々はチリ全土に多用な農村を築き、数百年前から変わらない暮らしをしていた。伝統や文化は共通していたが、この時期のマプチェは多数の独立した村の集合体であり、それぞれの村はその村の長によって治められていた。
初期の集落は、森を焼いて農地にするという初歩的な農法に頼っていたが (彼らの主食はジャガイモだった)、やがてマプチェはチリからアルゼンチンへ徐々に広がっていき、それにともなって生活にも遊牧民的な様式が取り入れられていった。

スペイン襲来 Edit

西暦1536年にスペイン人がやって来ると、マプチェは戦術や戦略に対する理解を深めることを余儀なくされた。また、スペイン人の進出により、彼らの社会そのものも変わらざるをえなくなった。戦争の無慈悲さに直面し、故郷を追われた彼らは、農耕を中心とした自給自足の生活を断念し、狩猟採集の比重を大きくしていったのである。また、スペイン人はこの時期に、それまでは存在していなかったさまざまな家畜をこの地に持ち込んだ。その中には、この大陸では誰も見たことのなかった馬も含まれていた。これにもマプチェは適応するより他なかった。
それから10年、数えきれないほどの小競り合いを経て、総督ペドロ・デ・バルディビアに率いられたスペイン人は、マプチェへの圧迫を徐々に強め、その土地の多くを手に入れた。マプチェの将軍として名を馳せたラウタロが初めて歴史の表舞台に姿を見せたのは、この頃である。
スペイン人に捕えられ、バルディビアの下で無理やり働かされていたラウタロは、コンキスタドールのやり方や戦術をじかに見て、己のものとした。とりわけ大きかったのは、馬術を学べたことだった。その後ラウタロは脱走し、スペイン人に関する新たな知識を携えてマプチェの同胞のもとへ戻った。彼はすぐに副将軍に任じられた。スペイン人がマプチェの土地を脅かしつづける以上、戦力を集めて全面戦争に突入する以外に道はなかったのだ。
西暦1553年、ラウタロはカウポリカンというもう1人のトキ (「戦いの長」) と一緒に、トゥカペルという街にあるスペイン人の砦を襲った。6000人ものマプチェの戦士により、増援が到着する前に街は制圧され、壊滅した。これはスペインとの長い戦いの始まりを告げる狼煙となった。その後、チリが独立戦争によってスペインの支配から解放されるまで、戦いは300年近くつづくことになる。

アラウカニア征服作戦 Edit

19世紀中頃になると、外国勢力の脅威に直面することはなくなったが、今度は同じくらい厄介なチリ人の入植に悩まされることになった。農業を中心とした地場産業の復興と拡大を模索するチリ政府の政策により、マプチェの土地はまたも脅かされることになったのである。
スペインによる征服と異なり、チリ政府は当初マプチェの共同体を「平和的に」取り込もうとした。つまり、彼らの領土を併合し、必要なら住人を追い出したのだ。当然こうした政策は、、行き場をなくした人々を貧困に追いやり、強制移住に対して反乱を起こす以外の選択肢を奪った。度重なる武力衝突によってマプチェは人口を減らし、チリ軍によって土地を奪われ、作物は荒らされ、家畜は接収された。公然とした戦争状態は10年以上もつづいたが、その間にチリは少しずつ国家の基盤を固めていった。
一説によると、マプチェの総人口は半減し、20世紀に入った頃には10万人を割り込んでいたとも言われている。マプチェは政府の政策推進によって塗炭の苦しみを味わったのだと言い切ってもよいだろう。事実、数えきれないほどの人々が、先祖伝来の土地を追われたのである。
現在では、マプチェの多くの人々が、さらなる平等の実現と、自分たちの文化、伝統への認知度の向上を求め、戦いをつづけている。マプチェの血を引く人々は数百万を超えるが、チリ政府内に代表者を送り込めていないため、彼らの声は届きづらい状況にある。1990年代以降の散発的な抗議は、ともすると暴力に終わりがちで、政府は多くの先住民活動家をテロリストと呼んでいる。だが、国の発展にともなって土地を追われた多くの先住民グループと同じように、マプチェが主に求めているのは、歴史的な境界にもとづいて自分たちの土地を取り戻すことなのだ。この問題に対する世間の関心はここ数年で高まってきているが、彼らの奮闘は今もつづいている。

マヤ Edit

 初期のマヤ文明は、紀元前2000年から西暦250年にかけて栄え、ユカタン半島には数々の都市国家を築いた。いずれも神の加護を授かった王に治められており、その規模は、小さいものからエル・ミラドールのような大都市までさまざまだった。こうした都市国家は、他のメソアメリカ文化と違って一度も統一されなかったが、言語や文化は共有されていた。競い合うのと同時に協力しつつ、マヤはその勢力を拡大させていった。

古代マヤ Edit

マヤ人が入植した場所は、独特の(勇気が要る、といってもよい) 立地だった。ユカタン半島は、他の文明がしていたような農耕が可能な土地ではない。マヤの人々は、川が流れる渓谷ではなく熱帯雨林に都市を築いたが、岩盤は石灰岩であり、土壌はけっして厚くなかった。また、河川が少ないので、交通や取水にも問題があった。しかし逆境は時に革新を生む。初期のマヤ人は、水の塩分濃度が高い場所では石灰岩でろ過して飲料水を得ることを覚え、密林では盛り土を利用して作物を育てた。とりわけ特筆に値するのは、象形文字を使った書き言葉を考案したことである。
マヤの象形文字は、1つのマスにいくつかのパーツを収めることで形作られる。読み方は現代のアメリカンコミックに似ていて、左上から右に読み進めていく。端に達したら下の段に移り、また左から右に読むのだ。この象形文字には絵文字と表音文字が混在しており、その点では現代の日本語に似ていると言えるだろう。マヤ人は記録を残すことに熱心な人々で、この文字はメソアメリカにヨーロッパ人が現れるまで使われつづけた。
樹皮などで作った「コディセ」と呼ばれる書物の大半は、スペインに征服されたときに焼かれてしまったが、「ステラ」と呼ばれる石碑は残った。マヤの石碑には長期暦という特殊な暦の日付が刻まれており、そのおかげで大昔の出来事の年代を特定することが今も可能となっている。
西暦250年までには、カラクムル、パレンケ、ティカル、ボナンパク、カミナルフユ、コパンなど、マヤの主要都市が勢力を伸張させはじめていた。その頃の都市の数は40を超え、それぞれに5000人から5万人の住人がいた。こうした都市の成長とともにマヤ文明は繁栄した。人気の遊戯のために球戯場が築かれ、高くそびえるピラミッドが建造された。層を重ねていくマヤ式の工法のおかげで、ピラミッドは完成後もさらに大きくすることができた。優秀な学者も生まれた。
マヤのピラミッドの工法は、エジプトのピラミッドとは異なっている。レンガのみで作るのではなく、まず石灰石と接着用の漆喰で基礎となる土台を作るのだ。その上に上塗り用のきれいな漆喰を塗り、そこからさらに色を塗る。手を加えたくなった場合は、石灰石を足して漆喰を塗り、彩色するだけでいい。手間のかかる複雑な補修は不要で、構造上の問題をいちいち心配することもなかった。こうしたピラミッドの多くは神々を崇拝するための場所だった。「クーナー」と呼ばれるこうした神殿にはいくつもの部屋があり、それぞれが神に捧げられていた。
マヤの都市は外へ外へと広がっていく形で発展していった。市内には神殿や宮殿、球戯場が立ち並び、いずれも中心的な広場を囲むような形に配置されていた。広場は1つとは限らず、他の建物は広場を中心に外へ向かって広がっていった。富裕層が暮らす地区は、フレスコ画や彫刻で飾られた。こうした芸術品は王侯のために作られ、そうでない場合も王侯に関係するテーマであることがほとんどだった。芸術は歴史的な瞬間を祝うためにも利用された。近年ではレーダー技術の進歩により、こうした都市の真の姿が明らかになってきている。これまで考古学者は、マヤの人々は広い範囲に散らばって暮らしており、神殿に集まる程度だったのではないかと考えていた。しかし最近の研究では、驚くほど大きな居住地がジャングル全体に広がっていたと明らかになっている。
マヤ文明について語るべきことは、記念碑、数学、スポーツ、科学にとどまらない。統治体制の確立、交易路の管理、敵対する都市国家への警告など、その目的はさまざまだったが、マヤでは軍事遠征も頻繁におこなわれた。戦争や個々の戦闘はいずれも重要であり、芸術作品や碑文の形で記念され、称揚された。優れたマヤの統治者となるためには、優れた戦士でなければならなかった。統治者には戦いを指揮し、名将ぶりを発揮することが期待された。敗れた側の王や貴族は捕らえられ、神々に捧げられた。もっとも、そのような生贄はマヤでもまれであり、たいていは他の供物で代用することが認められた (たとえば紙に数滴血を垂らし、それを燃やす程度でも十分だった)。

衰退 Edit

900年頃になると、マヤ文明には陰りが見えはじめていた。勢力は衰え、人口も減り、中には完全に放棄された都市もあった。だがそれは栄枯盛衰が一巡したにすぎず、12世紀までにはカリブ海沿岸や湾岸地域に新たな都市が現れた。
こうした都市の中で最大の勢力を誇ったのがマヤパンだが、11511年にスペイン人が偶然のいたずらで (船が難破して漂着したのだ) 現れた時点で、すでに崩壊の途上にあった。初の接触を果たした後、スペイン人は遠征隊を3度にわたってユカタン半島に派遣し、1521年にアステカの首都テノチティトランを征服した。そしてそこから南下して現在のグアテマラに向かい、中央アメリカの征服に取りかかった。マヤ最後の都市ノフペテンが陥落したのは、1697年のことだった。

スペイン支配 Edit

マヤの都市は姿を消し、スペイン人は土着文化の大半を消し去ろうとしたが、マヤ人は小さな村落に移り住み、伝統的な生活様式を守った。このため、征服後も彼らの習俗の一部は生き残った。その傾向は、食文化や工芸において顕著だ。マヤの子孫は健在であり、言語や神聖暦「ツォルキン」など、マヤの社会のさまざまな要素が現代にも残っている。

マリ Edit

 アフリカのサハラ、サヘル、サブサハラ地域を結ぶ交易拠点であったマリ王国、のちのマリ帝国は、長い歴史を誇る、敬虔で、非常に豊かな国であった。国内はイスラム教によって統一され、300年以上にわたって名君たちが統治にあたった。最盛期は13世紀から16世紀の間で、その後は内部からの圧力と外からの脅威によって崩壊していった。

交易圏 Edit

西アフリカは3つの宝に恵まれていた。金と塩と銅である。いずれも大きな需要があり、西洋史に記録として残っているほぼすべての期間、この地域との交易は絶えることがなかった。2世紀に荷物運びにラクダが用いられるようになると、サハラを越えての交易はさらなる活況を呈した。
こうした状況の中、マリ王国は9世紀に地方勢力として勃興した。イスラム教がこの地域に広まったのは、10世紀か11世紀のことである。13世紀に入ると、マリはスンジャタ (またはスンディアタ)・ケイタのもとで拡大と征服に乗り出す。この人物のことは、マリの吟遊詩人であるジェリやグリオが語るいくつかの有名な賛歌の主題になっている。1235年、スンジャタはキリーナの戦いでスースー王国を破り、マリを黄金時代に導いた。『スンジャタ叙事詩』には、彼は貴族を集めてマリを治めるための憲章を定め、社会を組織化し、財産権を認め、環境を守り、女性の権利を認め、個人の責任を列記したとある。(『スンジャタ叙事詩』の価値は計り知れず、ユネスコの無形文化遺産にも登録されている。ちなみにこの憲章には、王族に冗談を言ってよい人物まで定められていた。

マリ王国 Edit

マリ王国は、都市国家や地方ごとに存在する自治組織の同盟によって成立している、連邦に近い形の国家だった。上流階級に属する戦士は、貴族として扱われた (この点は他の多くの国と同じである)。統治者は、語り部であり、口伝による歴史家であり、吟遊詩人でもあるジェリの助言を受けた。ジェリ (グリオとも呼ばれた)は、今日でも西アフリカ全域で重要な役割を果たしている。スンジャタはマンデ人による統治の中央集権化に着手したが、地方の統治者や王族はケイタ家のマンサ (皇帝) に忠誠を誓った後も権力を保った。

マンサ・ムーサ Edit

スンディアタの孫にあたるマンサ・ムーサ・ケイタ1世は、14世紀の初頭から25年間、マリ帝国を統治した。この王が莫大な財貨を持ってメッカへ巡礼したことは有名で、滞在先の国で惜しげもなく黄金を配ったという逸話が残っている。また、旅先の各地でムーサはイスラム法学者や学識者、芸術家、科学者たちに声をかけ、マリへ連れ帰ろうとした。この巡礼の期間中にマリの将軍たちはソンガイ帝国を征服し、トンブクトゥやゴアといった街を版図に加えた。ムーサはこれらの新たに征服された領土を通って帰国したという。
サハラの端に位置するトンブクトゥは、以前から豊かな交易都市として栄え、金や塩の交易における経由地として重要な役割を担っていた。マンサ・ムーサはここにモスクを築くことを命じ、サンコーレのイスラム神学校についても拡張を指示した。この結果、この街はアフリカ最大の図書館を持つ法学の中心地となった (同じ時期にヨーロッパではボローニャが学問の中心地となっている)。練り土を使った特徴的な建築は、当時は目新しい技術だったが、今ではマリの建物様式を象徴するものと捉えられている。
伝説的な旅行家にして歴史家であるイブン・バットゥータは、1349年から1353年にかけてマリの各地を旅した。彼の記録は、繁栄の絶頂にあったマリの様子を知る最高の史料である。滞在中、バットゥータはマリの司法や治安のよさ、泥棒がいないこと、熱心なイスラム信仰などを賞賛している。一方で、男女の自由な交わり (彼の目には節度がないものに見えた。露出の多い服装も気に入らなかったようだ) やイスラム以前の文化や伝統への寛容 (彼の目には信仰への侮辱と映った)、マンサ・スレイマン・ケイタから賜った伝統的な食事 (自分の身分には合わないと考えた) にはよい印象を持たなかったようだ。
14世紀から16世紀のマリ帝国の記録はほとんど残っていない。中央政府が弱体化し、無能な統治者がつづいたためだろう。帝国後期のいくつかの問題には、気候変動などの環境変化も関わっている。サハラ沙漠の拡大は南の森林地帯に及び、燃料となる木材の供給を減少させた。また、16世紀初頭に起きた気候の湿潤化は、ツェツェバエの大量発生を招き、マンデカル騎兵の南進を阻んだ。非力な統治者、モロッコの強大化、ソンガイの復活、さらにはマフムード・ケイタ4世の死に端を発する後継者問題により、マンデ人の中心地はいくつもの後継国家に分裂していった。
マリ独特の伝統的な西アフリカとイスラム文化の融合、口伝遺産 (とりわけジェリやグリオの果たす役割)、そして途方もない富。マリは研究対象としてひときわ魅力的であり、成果も多い。同時代のヨーロッパ人が描いたアフリカの地図には、王冠をかぶり、大きな金貨を手にした黒い肌の王が、黄金の玉座に座っている姿が描かれている。ここから読み取れるのは、声高ではないものの、文化的、物質的な富の象徴であるトンブクトゥへの憧れだ。マンサの統治した時代は、今も西アフリカの人々にとって大きな誇りとなっている。

モンゴル Edit

 モンゴル帝国の絶頂期、彼らの猛威は東アジアから西ヨーロッパまでを覆いつくした。やがて彼らの大帝国は露と消えたが、その後継者たる王朝には20世紀まで存続したものもある。モンゴルの真の歴史を伝えるなら、征服の恐怖だけでなく、彼らの優れた手法についても語らねばならないだろう。そう、科学技術から文化に至るまで、帝国内に存在するまったく異なるさまざまな要素を統合する手法を。

遊牧民 Edit

現代の我々が「モンゴル」と呼んでいるのは、実際には匈奴 (紀元前209年に国家として成立) や契丹 (4世紀に存在感を示した) など、中央アジアのステップ地帯で暮らしていたさまざまな部族の集合体であった。
遊牧生活を送る好戦的な部族の人々は、馬に乗ったまま矢を射る技術を発達させ、周辺地域に存在する集落や国にとって油断のならない脅威となった。
彼らはいわゆる「蛮族の群れ」であり、折に触れて合併を繰り返し、そのたびに脅威を増した。しかし結局は撃退され、(漢に挑んだ匈奴のように) 滅亡寸前まで追い込まれた。それでも紀元前2世紀頃までに、モンゴルはタタール (韃靼) と並んで中国にとって無視できぬ厄介な存在となり、漢の皇帝はその掃討を命じ、それと同時に万里の長城を築かせた。

チンギス・ハーン Edit

我々が知る「本当の」モンゴル帝国は、西暦1162年にステップ地域で生まれたテムジンという人物を起源としている。ボルジギン氏族の長の息子だった彼は、周辺地域のライバルと戦い、彼らを速やかに打ち負かしていった。ともすると武勇だけが語られがちだが、テムジンは諜報にも長けていた。また、血縁ではなく功績や実力にもとづいた軍組織を構築した。西のナイマン、北のメルキト、南のタングートは彼が率いる軍勢に敗北し、帝国に取り込まれていった。西暦1206年、テムジンは「チンギス・ハン」として即位した。
全モンゴルの指導者となった彼が最初にしたことは、統一された法令集、すなわちヤッサの制定であった。ヤッサは新たに生まれた帝国の社会制度を整え、王にも平民にも等しく責任を科し、財産の分配や婚姻について定め、民間や軍での貢献を臣民に義務づけた。
チンギス・ハンのヤッサのもとでは、彼に絶対的な忠誠を誓っている限りにおいて、すべての臣民に信仰の自由が与えられた。宗教的な指導者たちは課税を免除され、前述した「民間や軍での貢献の義務」からも解放された。
チンギスの三男であったオゴデイの治世以降、ハンたちはカラコルムにある道教、キリスト教、仏教、イスラム教の寺院や崇拝の場を保護した。また、帝国はのちに中国のキリスト教教会、ペルシアの仏教寺院、ロシアのイスラム教学校を経済的に後援した。これは現地の伝統を尊重しつつ帝国の法に従わせる巧みな手法だった。
西暦1240年代、チンギスの孫バトゥがバルカン半島に進出する頃には、帝国はキプチャク・ハン国 (別名「黄金のオルド」) として知られるようになっていた。バトゥは首都をアフトゥバ川の街サライに置いた。現ロシアのセリトリャンノイェにほど近い場所である。14世紀までに、彼らの国は2850万〜3100万平方キロメートルの土地を陸続きで支配する、歴史上最大の帝国となっていた。
ひとたび遠征を開始すると、モンゴルの戦士たちは軽やかに馬を駆って素早く進軍し、途中で手に入れた材料を使ってハシゴや橋、攻城兵器などを作った。戦いに使う弓の調達や製作は、各人の責任においておこなわれた。彼らが村や都市で休むことはなく、フェルト生地を張って木の枝などで補強した簡素なテントで眠ることを常としていた。※1

※1...元軍は前軍.中軍.後軍に分かれており、後軍は家族と資材であり、彼らはそこへ帰り休んだ。

そして目的地に到達すると、帝国各地から集めた武器で攻撃に取りかかるのだ。豪勇をもって知られた彼らの力と科学技術の両方をもってすれば、どんなに堅牢な都市であろうと陥落は時間の問題だった。
モンゴル人は芸術文化にそれほど縁がなかったが、帝国が成立する過程で、各地の芸術、文化、技術が、領土の津々浦々に伝播していった。たとえば、フレグ・ハンが西暦1250年にバグダード遠征に乗り出したとき、彼は中国の投石機技師1000人 (とその家族全員) を連れていき、彼らの知恵と知識を利用してバグダードの城壁を攻撃した。のちに錘式の投石機に通じたイル・ハン朝のシリア人たちは、遠く中国に足を運び、南宋と戦う元を支援した。

瓦解 Edit

強大な力を誇り、人々に恐れられたモンゴルだったが、その帝国を揺るがしうる唯一の敵は、帝国そのものだった。西暦1259年に大ハンであったモンケが死去すると、帝国は根本から崩れることになる。モンケは後継者を決めていなかったため、空席になっている玉座を手に入れようと、彼の息子や親族が一斉に立ち上がったのだ。
西暦1271年までに帝国は内戦によって瓦解し、4つのハン国に分裂した。バトゥが興したキプチャク・ハン (金帳汗) 国は、ロシアと西部ステップ地域を支配した。西トルキスタンではイスラム教を信奉するチャガタイ・ハン国 (チンギスの三男オゴデイの子孫) が、現在のロシア、中国、アフガニスタンの一部を含む中央アジア全域で、500年にわたって力を示した。イル・ハン朝は、イランから中央アジアにかけての広大な領土を治め、チンギスの孫フビライは、中国の宋を滅ぼして元を建国した。
その後、帝国はティムールのもとで一時的に勢力を盛り返すことになる。西暦1380年から1400年にかけて、この優れた軍事指導者は、イラン、ホラーサーン、ヘラート、バグダード、インド、アゼルバイジャン、アナトリアにまたがる地域を征服し、分裂した諸ハン国を事実上再統一した (長くはつづかなかったが)。
帝国は歴史の彼方に消えてしまったが、モンゴルはいまも残っている。チンギス・ハンの末裔であるアーリム・ハーンは、20世紀までウズベキスタンにあったブハラ・アミール国を統治し、ソ連の粛清を生き延びた人々は現在、自分たちの (と言って良いか否かについては議論の余地があるが) 独立した国で暮らしている。

ローマ Edit

 紀元前750年頃にローマを建国したのがロムルスとレムスだと信じる者もいれば、ローマを築いたのはトロイの避難民だとか、近くに澄んだ水源のある住むのに良さそうな丘を偶然見つけた追放者だと考える者もいるが、いずれにせよローマには数世紀にわたって (ことわざのとおり) すべての道が通じていた。やがて古代ローマの貴族階級は、庶民にはパンとサーカスさえ与えておけば深刻な問題には無関心でいるのだという不変の真理を理解する。かくしてローマ共和国は独裁制となり、最後には帝国となった。ローマは西洋文明の基礎を築き、その伝統は良くも悪くも今日まで生きつづけている。

建国 Edit

ローマでは、神マルスを父に持ち、人の王の娘を母に持つ、双子の兄弟「ロムルス」と「レムス」がローマを築いたと信じられていた。兄弟は生まれてすぐに捨てられたが、雌オオカミに拾われ、その乳を与えられて育てられた。兄弟は成人する頃に新しい都市を築き、どちらが統治者となるかで争った (壁の高さを巡って争ったとする説もある)。結局、ロムルスがレムスを殺し、ローマの最初の王となった。この捨て子と雌オオカミと殺害の逸話は、その後のローマの歴史を雄弁に物語っていると言えそうである。
ローマの戦略的な立地は隣国も認めるところだった。ラテン人は2世紀にわたり、エトルリア人とサビニ人の攻撃を退け、ついにはその両者を従属させ、文化、宗教、技術、富、そしてもちろん領土を手に入れ、帝国拡張の土台を築いた。

共和政ローマ Edit

言い伝えによれば、ローマ最後の王は残忍な暴君だった。傲慢王タルクィニウス・スペルブスの治世は、彼の息子がある高潔な貴族の女性に乱暴した後、市民の手によって転覆させられた。しかし、現代の歴史学者たちは、真実はもっと平凡な話だっただろうと考えている。面白みのない学者たちの説は、エトルリア人がローマを占領してローマ王を追放したが、自分たちの王国を築く前に、なんらかの外的な要因によってローマを明け渡さざるを得なかったというものである。ローマの人々は君主などいないほうが好ましいことを知り、タルクィニウスを再び王として迎え入れず、ギリシャの民主制を「漠然と」参考にした共和制を敷いた (当のギリシャ人もそれほど民主的だったわけではない)。
ローマの政治構造は複雑だが、おおまかに言うと統治は次のようにおこなわれた。まず、ローマには2人の執政官がいた。執政官は街の行政長官であり、軍の最高司令官でもあった。2人の執政官は毎年、「ケントゥリア民会」(ローマの軍隊) によって選出された。また、有事の際には命令系統を一本化するため、絶対的な権力をもつ「独裁官」が執政官の中から選任されることもあった。ローマ政府の第2の権力は元老院が握っていた。元老院は上流階級から選ばれた約300名の「有徳な」男性で構成されていた。学説によれば、元老院はあくまで助言をおこなう機関だったが、構成員は誰もがうなるほどの財産をもっていたので、実際には強大な政治的影響力を有し、その「助言」はほぼ常に聞き入れられた。良くも悪くも共和制ローマは後の世に現れたほとんどの共和国のモデルとなった。
共和制時代のローマの歴史は、大部分が近隣諸国との戦争で占められている。他の弱い王国の犠牲の上に、ローマは着実に領土を広げつづけた。だが、そうして獲得した領土のほとんどは、紀元前390年にガリア人がローマ軍団を倒し、ローマが略奪された際に失われてしまった (文字も読めない蛮族が永遠の都ローマを闊歩したのはこれが最後ではなかった)。ローマはこの惨敗から立ち直るのに半世紀近くも費やしたが、紀元前200年代中頃までにイタリア中央部をほぼ支配し、南北に広く伸びたラテン系民族の植民地を有していた。さらに成長をつづける共和国の各都市を結ぶ、他に類を見ないローマの道路網が敷設され、初の艦隊の編成にも取りかかっていた (残念ながら、その艦隊は間もなく大半が地中海の底に沈む運命にあったが)。

ポエニ戦争 Edit

ローマの領土と評判が広まるにつれ、同じように最強を目指す他国との衝突は避けられなくなった。特にフェニキア人のカルタゴは、北アフリカのチュニジア沿岸部を拠点としていた強大な海洋帝国であった。カルタゴはエジプトより西の北アフリカの大部分、スペインとフランスの沿岸部、そしてシチリア島、サルディーニャ島、コルシカ島の大部分を支配していた。ローマとカルタゴは地中海西部の覇権をかけて、3度に渡る「ポエニ戦争」(紀元前264年〜146年) を戦った。戦争の結果、ハンニバルの優れた才気、カルタゴ海軍の勇気、そしてカルタゴの政治家の鋭い洞察力にもかかわらず、カルタゴは領土ともども消滅し、やがて帝政となるローマに飲み込まれていった。
ローマは地中海のいたるところで戦争をつづけたが、紀元前1世紀には数万の兵が退役兵としてローマに帰還することになる。この当時、ローマには国外の植民地から多数の奴隷が送り込まれていたため、元兵士たちに行き渡るほどの職はなかった。執政官に選ばれるため、ローマの政治家は元兵士たちをなだめる必要があった。そこでローマの政治は大衆主義へと大きく舵を切りはじめ、政治的内紛が熾烈さを増していくことになる。不満を抱く軍部の忠誠を勝ち取った者がローマを支配できるのは明らかだった。そして紀元前62年、3人の男が権力を分けあうことに同意した。第一回三頭政治は、偉大なるグナエウス・ポンペイウス、元老院議員マルクス・クラッスス、そして名家出身の無名の将軍ユリウス・カエサルによっておこなわれた。

ローマ帝国 Edit

彼らの「協力する」能力と、「権限を共有したい」という意志の程度は、一般的な人食いサメと同じくらいだった (つまり、ほとんどなかった)。クラッススが戦闘で敗死すると、カエサルとポンペイウスは激しく対立するようになった。最終的にカエサルが自分に忠誠を誓う軍団を引き連れてローマに進軍すると、ポンペイウスと元老院は街から逃亡した。紀元前49年、カエサルは一切の抵抗に遭うことなくローマ入城を果たした。以降、国としてのローマはうわべこそ共和制を維持していたものの、カエサルが事実上の独裁官となっていた。カエサルは自らがすべての元老院議員を指名する権利をもつとし、議会はカエサルが選んだ候補者や法案についてのみ投票できるように体制を変えてしまった。紀元前44年、独裁者の横暴にうんざりした元老院派によってカエサルは暗殺された (クレオパトラなる外国の魔女と深い仲になり、良識あるローマ市民を憤慨させたのも良くなかった)。
カエサルの死後、副官だったマルクス・アントニウスは、マルクス・レピドゥスとガイウス・オクタウィアヌス (カエサルの甥) と同盟を組み、カエサルの共和制を破壊した暗殺者を倒した。その過程でアントニウスは、エジプトの再建を目論んでいたクレオパトラとその息子 (カエサルとの子) と親しくなった。しかしこの第二回三頭政治もまた、いさかいが絶えない時期だった。最終的にはクレオパトラ、カエサルの息子、アントニウス、そしてその他大勢が死に、「アウグストゥス」という称号を得たオクタウィアヌスが異論を受けつけない永続的な独裁官の地位に就いたことで決着した (ローマに対する脅威は完全に取り除かれたにもかかわらず、オクタウィアヌスは独裁官となったのだ)。共和制ローマは崩壊し、帝政ローマ時代がはじまった。そして世界はこの帝国の力と繁栄に身震いすることとなる。
つづく400年間、ローマは「カエサル」という名の独裁官、すなわち皇帝が統治した (その権力の起源を忘れぬよう、ユリウス カエサルの名前が引き継がれたのだ)。おびただしい数の歴代皇帝には有能な者もいれば (ティベリウス、ウェスパシアヌス、ハドリアヌス)、非常に優れた者 (トラヤヌス、マルクス・アウレリウス、コンスタンティヌス)、どちらでもないもの (オト、ペルティナクス、バルビヌスなど枚挙に暇がない)、そしてあからさまに悪辣な者 (カリグラ、ネロ、コンモドゥス等々) も多数いた。在位の長い者もいれば (テオドシウス2世の48年間が最長)、ほんの数ヶ月しか持たなかった者もおり (数日で終わった者も)、親衛隊の刃に塗られた鉛の毒で死んだ者も多い。革命や反乱、蜂起、戦争、そして国境を維持するための蛮族たちとの終わりのない紛争など、心配の種は増えることはあっても減ることはなかった。
こうした混乱の時代にあって、ローマは長く後世まで伝えられる作品群を生み出すことに成功している。古代ローマの芸術や文学は、もはやギリシャの猿真似ではなかった。ギリシャではまったく評価されることがなかった風刺作品はローマによる発明であり、古代ローマの彫刻やフレスコ画、風景画 (そもそもローマ人が創り出したジャンルだ) は、それまでのあらゆる芸術を超越していた。建築に対するローマの貢献としては、アーチやアーチ形天井に丸天井がある。水道橋や橋などの建築物には、現存しているものも多い。また、裕福なローマ人は世界で初めて観光旅行に出かけ、エジプトやギリシャ、ペルシアなどを訪れてはモニュメントや遺跡を見て大いに感心した (もっとも、彼らの文明と比較するほどのものではなかった)。旅行に出ない者もコロッセオで行われる血なまぐさい見世物やキルクス・マクシムスの戦車競走を楽しんだ。そしてアッピア街道では、退屈しのぎにちょうど良い磔刑が定期的に行われていた。
トラヤヌス帝の治世に最大となったローマ帝国の領土は、スコットランドの低地からムーア人の住む山々、ユーフラテス川からライン川にまで及んでいた。ローマ自体も世界最大の都市であり、市民とその他を含めると200万人の人口を抱えていたと推定されている。アフリカ、ガリア、スカンジナビアや遠くインドからローマの領地へ交易品が流れ込み、すべてが統一された度量衡で測られ、ローマの記数法によって計算された。ローマ人の几帳面さとあいまって、帝国の発展とともにあらゆるものが標準化されていった。
ローマ人にとって実に素晴らしい時代だった。

衰退 Edit

しかし3世紀になるとその勢いは失われつつあった。帝国はあまりにも野放図に拡大し、当時の通信手段で危機に対応するのは不可能だった。285年、ディオクレティアヌス帝は広がりすぎた領土を東西に分割した。東半分はビザンティウムを首都とし、ローマにいる皇帝の名のもとに支配する「2番目」の皇帝が置かれた。それまでは異教に対して寛容だったローマに偏狭なキリスト教が定着し、テオドシウス1世帝の時代には国教となった。宗教的不寛容によって社会構造の亀裂にさらにくさびが打ちこまれることになったのだ。蛮族の技術も格段に進歩し、ローマ帝国の辺境を蝕んでいた。ローマの水道は素晴らしい建築物だったが、鉛が使われていたため、ローマの人々は鉛中毒にも悩まされた。
なにが要因だったにせよ、西ローマ帝国最後の時代には、無能な支配者や皇位の簒奪、帝国の中心地への蛮族の侵入が目立って多くなっていた。410年にはローマ市が西ゴート族の王アラリックの軍勢に略奪され、アフリカではヴァンダル族の侵略によって地方支配者が自らの王朝を開く夢を追って帝国から離反した。最後はローマ人に雇われていた傭兵隊長のゲルマン人、オドアケルがローマに侵攻。ロムルス・アウグストゥルス帝を廃して帝国の記章をビザンティウムへ送り、自らを新たなイタリアの王と称した。こうして「ローマの光」は消え去った。だが、その影は今もヨーロッパとそのさきまで覆っている。

ロシア Edit

 ボヤール、コサック、タマネギ型のドーム、一面の雪景色、シベリアの「不毛の地」、牧歌的な農村、感動的な音楽、終わらない冬、そして氷のように冷たいウォッカ。ロシアは確かにロマンに溢れた国かもしれないが、実際の歴史はロマンだけというわけでもない (特に農奴が語る話は味気ない)。片足をヨーロッパ、片足をアジアに踏み入れるロシアほど世界中の文明に影響を与えた国家は少ないだろう。ロシアの起源はノルウェー人がノヴゴロドを集落とし、882年にオレグがキエフ・ルーシ王国を建国したときにはじまる。オレグはその地に住み着いていたイルメンのスラヴ族、フィン・ウゴル系民族、ヴェプス人、ヴォート人をどうにか征服したが、これらの物語には神話と伝説がないまぜになっている。そこで、ここではモスクワ大公国の勃興から振り返るとしよう。

建国 Edit

すべては名高いアレクサンドル・ネフスキーの四男にして末子のダニール・アレクサンドロヴィチ王子からはじまった。1263年に父が死没すると、2歳のダニールは最も価値の低かった領地であった後進の小さな公国、モスクワを受け継いだ。つづく10年間は強欲な兄弟や西進して来たモンゴル人の攻撃を退けながら過ごした。こうした兄弟喧嘩やモンゴルの侵略があったにもかかわらず、ダニールは公国を流血沙汰から遠ざけることにまずまず成功していた (実のところ、1652年にダニールは「柔和さ、謙遜さ、そして静謐さ」を理由に正教会から列聖されている)。彼が平和を成し遂げることができたのは、なによりもジョチ・ウルス (キプチャク・ハン国) への貢納が功を奏したからである。近縁の、あるいは遠縁の親族が死ぬたびに「平和裏に」領土を加えていき、聖ダニールが1303年に死去した頃には、モスクワは「大公国」になっていた。

大公国時代 Edit

ダニールの後にも有能な (しかしそれほど平和的ではない) 大公がつづいたが、モスクワ大公国の地位を確かなものにしたのは、大公イヴァン3世 (別名「イヴァン大帝」) だった。彼は40年あまりの在位期間 (1462〜1505) に、モスクワ大公国の領土を3倍に広げた。ノヴゴロド共和国やトヴェリ大公国などを併合し、ジョチ・ウルスへの貢納を終わらせ、最低限の中央政府を築き、ボヤールの独立性を制限し、クレムリン (リューリク朝の本拠地だった宮殿) を修復した。ロシアの核となる部分を統合したイヴァン3世は、自らツァーリ (皇帝) と「ルーシの支配者」という称号を名乗った。初めて公式に「ツァーリ」として玉座を継いだのはイヴァン4世 (「雷帝」の愛称で知られている) かもしれないが、ロシア「統合」に向けた基礎固めを開始したのはイヴァン3世の時代であった。
誇大癖のある社会病質者だったイヴァン4世は辛い子供時代を過ごした。病弱だった3歳のときに父が亡くなり、長期にわたる摂政政治が巨大な政治的陰謀の場となり、イヴァン4世の苦しみは増した。イヴァン4世が成人を迎えると、状況は「悪い」から「非常に悪い」へ、あるいは「最悪」と言っても差し支えないほどになっていた。イヴァン4世の人となりについて判明していることは実はそれほど多くなく、ただ病気がちであり、6回結婚したということくらいしかわかっていない。いずれにせよ、ようやく自分で力を振るえるようになると、イヴァン4世は実質的に自分以外の全員を犠牲にして、自らの権力を強化した。帝国議会からは独立志向の貴族を一掃し、自分にへつらう権威主義者ばかりにした。将軍たちも同様に追放された。イヴァンは何千平方キロメートルにも及ぶ最高の土地をオプリーチニナ (皇帝の直接統治のみを受ける君主の土地) と宣言した。また、イヴァン4世の軍事指導力は、彼の人本主義へのこだわりと同様に非常に低かったので、25年ほどつづいたリヴォニア戦争では実質的に軍を壊滅させ、国を破産状態に追い込んだ。ロシアが危うく難を逃れることができたのは、 イヴァン4世が1584年に崩御したおかげであった。
1世代の後、リューリク朝はロマノフ朝にとって代わられる。フョードル1世 (イヴァン4世の息子) には男子の世継ぎがいなかったため、彼の死後、ロシアは王位継承の危機 (大動乱期) へ突入する。ロシアの議会はボリス・ゴドゥノフを新たなツァーリに選出したが、その治世の7年間は常に「偽ドミトリー」と呼ばれた詐欺師たちに悩まされた (彼らは死んだフョードル1世の弟であると主張した)。国外の詐欺師も含め、こうした事態が最終的に収束したのは1613年に、ボヤールたちがミハイル・ロマノフを王位に選出してからだった。ロマノフ朝は、エカテリンブルクの地下でボルシェヴィキによって一族全員が銃殺されるまで、途切れることなくロシアに君臨しつづけた。
独裁的な暴君という基準で考えると、ロマノフ朝のツァーリはそれほど悪くなかった。実際に何名かのツァーリは「大帝」というあだ名を獲得し、同姓同名の人物に先を越されてさえいなければ、同じくらいの称賛に値した者もさらに何名かいた。ロマノフ朝の初期の皇帝たちはスウェーデン、ポーランド・リトアニア共和国、ウクライナ人の
コサックとどうにか条約を締結し、自分の命に従うことに同意させた。しかし農奴に対してはより厳しい制限を新たに設けたため、塩一揆や銅一揆、モスクワ暴動といった小作農の蜂起が立てつづけに起こった。しかし、こうした暴動がいつもどおりに鎮圧されると、ロシアは領土を増やしつづけた。中でも東方のシベリアへ至る征服と入植には特筆すべきものがあった。

ピョートル大帝 Edit

そして大帝の時代が到来する。ピョートル大帝はオスマン帝国とスウェーデンに対する戦争に次々と勝利し、不凍港を領土に加え、ヨーロッパへの海路を確保した。それから彼は、嫌がるロシアをルネサンス時代に引っぱり込んだ。ピョートル大帝の死から40年後には、エカチェリーナ大帝 (彼女はロシア生まれですらない) によって有名な「黄金時代」が開始された。ロシアはヨーロッパの大国の仲間入りを果たし… 我々には理解しかねる理由から遠く離れたアラスカの植民地化をはじめた。「祝福されし者」として知られる皇帝アレキサンドル1世は、ナポレオン戦争の混乱した時代にロシアを導いた。フランスの侵略に対して戦闘を避けさせ、フランス軍の前方にあるすべての物を焼き払ったことが、ナポレオンを破る主因となった。1821年のギリシャ革命後には、バルカン半島の苦境にロシアをしっかりと食い込ませた。その後を継いだのが「解放者」アレクサンドル2世だが、有名な農奴の「解放」など多くの偉業にもかかわらず、彼は最後には暗殺されてしまった。
この長い年月の間にロシアは独自の文化、優れた文学、音楽、舞踊、そして建築という伝統を生み出した。ピョートル大帝が門戸を大きく開き、ヨーロッパからの影響を広く取り入れるようになる以前の数世紀、ロシアの民間伝承や民族工芸は、正教会の影響 (あるいは悪影響) が色濃く反映されたスラヴ系のものだった。コンスタンティノープルが実施した初めての、そして最も効果を上げた改宗活動は、キエフ・ルーシに使節団を送ったことだった。10世紀中頃までにギリシャ正教会はロシアの大衆にしっかりと根づき、その影響力は現在まで薄れていない。リューリク朝とロマノフ朝の初期には、スカンジナビアやアジアなど、他の影響が文化のるつぼに加えられた。国外居住者が世界中に伝えたことで、ロシアの文化は高い評価を得るに至っている。
文学の世界では、スラヴ民族の口承叙事詩が土台としてあったことが、ゴーゴリ、ドストエフスキー、トルストイなどの壮大な作品につながっている (チェーホフも文豪と呼ぶにふさわしいが、彼の作品の文字数は控えめだ)。バラライカ、ガルモーニ、ジャレイカなどで奏でる民族的な音楽の素朴なハーモニーがやがて進化し、グリンカ、ムソルグスキー、リムスキー=コルサコフ、そしてロマン派最高の作曲家であろうチャイコフスキーの、複雑で圧倒的な作品へと変わっていった。今もロシア全土で楽しまれている小作農のハラボードやバリーニャといった民族舞踊は、文化的なエリートに愛されるバレエの下地となった。ちなみにバレエを初めてサンクト・ペテルブルクにもたらしたのは、他でもないピョートル大帝だった。
おそらくロシアの文化で最も認知されているのは (少なくとも一般の大衆に)、建築だろう。正教会の到来とともに東ローマ帝国の建築様式が入り込み、それは数少ない石造の建築物、要塞と教会に表れた。ピョートル大帝が西方に対して門を開き、芸術のルネサンスを支援した時、ロココ調がロシアの建築と結びついた。女帝エカチェリーナやそれに続くロシア皇帝の治世において首都サンクト・ペテルブルクは新古典様式の博物館へと変貌を遂げたが、やがて単調な石ばかりのソビエト様式が義務化されてしまった。
ロシアは絵画や彫刻の分野ではそれほど多くの偉大な (あるいは知られているという程度の) 芸術家を生み出さなかったが、誰もが知っている郷土芸術の産地である。鮮やかに彩られた入れ子式のマトリョーシカ人形は世界中で愛され、現在では観光客向けに大量生産されている。ロシアのイコン (木に描かれた宗教画) は、正教会信仰とともにスラヴ民族の心に染み込んでいる。ときに金で飾られる精巧なイコンはそれ自体が芸術品であり、初期ロシアの偉大な職人たちは崇拝する聖人たちのイコンに己の技術を注ぎ込んだ。「グジェリ」という言葉を知る者はほとんどいなくとも、ほとんどの人はそれが指す独特な様式の陶器のことは知っているはずである。

衰退 Edit

解放者の息子、「調停者」アレキサンドルの次は、ロシアを統治していたロマノフ朝最後の有名な皇帝が登場した。確かに一族の血を引いてはいるが器量に欠けていたニコライ2世である (二つ名などつくはずもない)。ニコライ2世が継承したロシアは、内外のあらゆる問題に悩まされていたが、彼は「善意の」独裁体制を強く信じ、皇帝は臣民の「小さな父」であるべきと考えていた。ニコライ2世は父の保守的な政治を維持するという失策を選び、ドイツの公女と結婚したが、皇后は不人気で、状況はなんら改善されなかった。
1900年の時点でロシアは改革と近代化を必要としていたが、かわりに得たのは抑圧と流血だった。へつらう者たち (怪僧グリゴリー・ラスプーチンもここに含まれている) によって現実から隔離されていたニコライ2世は、農業や産業の生産力を高めることができず、ロシアはヨーロッパで最も遅れた国となっていた。さらに悪いことに、ニコライ2世はイギリス式の民主主義に深く感銘を受けていたにもかかわらず、不平の膨らむ時代に政治改革をもたらす慧眼にも恵まれなかった。彼は自らが創設した諮問委員会ドゥーマの声にも耳を傾けなかった。
ニコライ2世が沈みゆく国を正しく導こうと奮闘しても、事態は悪化するばかりだった。ホディンカの惨事、血の日曜日事件、ユダヤ人虐殺、不成功に終わった1905年の革命の鎮圧といった出来事に加え、彼は発言力の大きい敵対者を処刑することを好んだため、臣民のほとんどから非難されていた。そのうえ、ロシアを破滅的な軍事行動に巻き込み、1905年には帝政日本に屈辱的な敗北を喫することにつながった。これらの敗北は、ロシア軍が戦術、訓練、装備など、すべての点で改革と近代化を必要としていたことを示していたが、それは果たされず、戦艦ポチョムキンの反乱などが勃発した。これらすべての問題に加え、ロシアが第一次世界大戦の渦中に踏み込んだことで、ニコライ2世の誤算は完璧なものとなった。

革命 Edit

1917年2月、飢え (街に食料が不足していた) と寒さ (厳しい冬に石炭と木材の不足が重なった) に苦しむ市民に向けてサンクト・ペテルブルクの警察が発砲すると、戦争の終結と皇帝の退位を求める暴動が巻き起こった。当初は制圧の努力も見られたが、軍のボリンスキー連隊が命令を拒否して反乱を起こすと、他の部隊も加わり、首都の秩序は完全に崩壊した。ドゥーマは臨時の民主政府を結成し、ニコライ2世は退位した (この時、ニコライ2世の弟のミハイルはドゥーマから皇帝の座を提案されたが、賢明にも断っている)。帝国にかわって成立した民主政府は、間もなくソビエト社会主義共和国連邦にとって代わられることとなる。

韓国 Edit

 朝鮮半島の歴史は争いの歴史だったと言っても過言ではない。グレートブリテン島とおおよそ同じくらいの面積の土地に、おびただしい数の王朝が栄え、倒れ、復興してきた。また、他国の影響は、友好的か敵対的かにかかわらず、半島の先行きを絶えず不透明なものにした。

古代朝鮮 Edit

朝鮮半島最古の国家として知られているのは古朝鮮である。この王国は、豊富な天然資源と豊かな農業によって栄えた。古朝鮮は (事実ではない可能性が高いが)、紀元前2333年、檀君王倹によって建国された。伝説によれば、檀君は桓雄という神と熊女の子であり、数々の困難と試練を乗り越えて国を築いたとされている。だが、古朝鮮は紀元前108年に瓦解。いくつもの相争う国家に分裂してしまった。

三国時代(朝鮮) Edit

現在につづく韓国の歴史は、紀元前1世紀の三国時代にはじまる。3国のなかで最も大きかったのは、北の山岳地帯を領土とする高句麗だった。東側の海岸に面する南東の地は新羅のものであり、残る百済は黄海に接する南西の土地を治めていた。他にも扶餘や伽耶などの小国が存在していたが、確固たる勢力を確立できたのはこの3国だけであった。6世紀までに新羅は多くの小国を征服し、高句麗も武力で名を馳せた (名高い騎馬隊により、隣国との国境を脅かした)。一方、百済は農耕や、中国、日本との貿易に力を入れた。
やがて新羅の征服欲はその隣人に及んだ。新羅は3国のなかで最も小さかったが、同盟相手を幾度も変えることで伽耶のような小国がたどった運命を避け、高句麗と百済を互いに争わせた。最終的には、新羅のソンドク女王が中国の唐王朝と同盟を結んだことで (詳しくは別項を参照)、3国の運命は決した。西暦7世紀後半、唐に北部の土地を譲るのと引き換えに、朝鮮半島を支配する国は新羅だけとなった。新羅の統治では儒教が広まったが、仏教も活況を呈し、多くの寺院や僧院が建てられた。
新羅にとって不幸なことに、彼らの伝統的な身分制度である「骨品制」は、やがて国に衰退をもたらした。骨品制は西洋の「青い血」に通じる概念で、要するに社会的階級を親の地位にもとづいて決める一種のカースト制度である。出自より上の階級に行くことも可能だったが、逆に身分を下げられることもあった。この制度に対する不満が、やがて内戦を引き起こし、王国の凋落につながっていったのだ。
新羅の衰退に乗じて高麗 (韓国を意味する英語「Korea」の語源) が台頭し、西暦818年から1392年まで朝鮮半島を支配した。高麗の時代には技術が飛躍的な発展を遂げた。活字印刷は、グーテンベルクの活版印刷より200年も前に誕生し、印刷物が大衆に広まった。だが、急速な進歩の反面、内政は荒れ、更に13世紀にはモンゴル人が支配する元王朝の侵略を受けることとなる。30年にわたって6度の侵攻に耐えた高麗は最終的には元と和睦したが、その代償は元の属国となることだった。
14世紀の中頃、モンゴル帝国は混乱状態に陥り、高麗は独立を取り戻した (北部は元の残党が支配したままだったが)。西暦1388年、明が朝鮮半島征服を企んでいるとの知らせが届くと、高麗の武将であった崔瑩は、先手を打って攻撃を仕掛けることを李成桂に命じた。だが、この命令に不服だった李は、いったんは部下を率いて威化島に向かったものの、間もなく崔瑩と王に反旗を翻した。

李氏朝鮮 Edit

李成桂は太祖と名を改め、みずから王を名乗り、西暦1392年に李氏朝鮮を興した。このように、朝鮮半島では王朝が数世紀ごとに盛衰を繰り返したが、その間も学問は滞ることなく発展をつづけた (表音文字であるハングルの発明や活字の進歩など)。宗教の面では、仏教より儒教が優勢となった。国外に目を向けると、女真族の脅威の後に満州族の脅威がつづいた。教育面では、難解になりすぎた宋明理学の後にシルハク (「実学」) の教育改革がつづいた。

日本襲来 Edit

動乱、内部の権力闘争、そして異国によって侵略された時代もあったが、朝鮮半島は比較的安定した状態を保っていた。しかし19世紀後半、中国やロシアに対抗するため、日本が半島を侵略。一時的だったはずの占領は長期化し、最終的には韓国併合に至った (ここで言う「韓国」とは現在の大韓民国ではなく、1897年から1910年まで李氏朝鮮が用いていた国号である「大韓帝国」のこと)。朝鮮半島の人々にとってははなはだ不本意ながら、1910年から第二次世界大戦の終結まで、半島は日本の植民地だった。大戦後も平和は訪れず、半島は1948年に北朝鮮 (共産主義) と韓国 (資本主義) に分裂。国際連合は韓国を支持した。筆舌に尽くしがたい3年の苦難を経て、北朝鮮と韓国は1953年、休戦に同意する。しかし平和条約は今に至るも結ばれておらず、2017年現在、2つの国は半世紀以上にわたる長い戦争状態にある。

大コロンビア Edit

 大コロンビアは、中央アメリカ南部から南アメリカ北部にまたがる地域に、炎のように現れた国家である。その輝きはまばゆかったが、燃え尽きるのも早かった。だが、わずか12年とはいえ、ヨーロッパによる支配から脱却した統一国家の姿を示したことは、まぎれもない事実である。

先史時代 Edit

のちに大コロンビアとなる土地は、スペインによる新世界征服にその起源を持つ。スペイン人の到来以前、この地域には南西部のキンバヤ族、カリブ海沿岸地域のアラワク族やカリブ族、中央サバンナ地帯のチブチャ人 (フンザのムイスカ人も含まれる) など、さまざまな民族が暮らしていた。こうした集団をスペイン人は、黄金のため、労働力のため、そして改宗のため、激しく攻撃した。黄金郷エル・ドラードの伝説に駆り立てられて内陸を目指したスペインの冒険家たちは、そこに豊富な黄金に恵まれたムイスカ連邦を見出した。ムイスカ連邦は大都市を隠そうとしたが、結局は無駄だった。現在のボゴダの街は、ムイスカのとある村の上に築かれている。その後、この地域はスペイン植民地の行政区であるヌエバ・グラナダ副王領の中心地となり、豊かで強力な都市へと発展していった。しかし、繁栄の陰では憤懣が募り、地元のエリートが主権を訴え、ヨーロッパの支配からの解放を目指す機運が高まっていった。そして最終的にこうした憤懣が革命へとつながっていったのである。

独立 Edit

コロンビアとベネズエラの独立戦争でシモン・ボリバルが勝利を収めると、勝者たちはすぐに政府の樹立に向けて動き出した。しかし、彼らはけっして一枚岩ではなかった。ボリバル派が中央政府の統治する統一された大コロンビアを目指したのに対し、ベネズエラとエクアドルの独立を求める勢力もあった。また、ボリバルは強い権限を持つ政府と世襲による上院を目指したが、人による支配ではなく法による支配を求める人々もいた (ボリバルの腹心、サンタンデール将軍はその筆頭だった)。だが、少なくとも当初の大コロンビアはボリバルの構想に沿ったものとなり、司法、立法、行政がはっきり分かれた中央集権的な政府が生まれた。
1819年12月17日、コロンビア共和国が建国された。今日の歴史家は、現在のコロンビアとの混同を避けるため、この国を「大コロンビア」と呼んでいる。しかし、この時点でスペイン軍はまだ撤兵しておらず、ボリバルは1822年まで戦争の終結を宣言できなかった。

混乱・衰退 Edit

この共和国はなかなか落ち着かなかった。「解放者」という個人のカリスマ性に頼った統治か、憲法による法の統治かを巡る、ボリバルとサンタンデールのイデオロギー的な相違に加え、地域間の分断も存在していたからである。1826年、騎兵指揮官として名を馳せていたホセ・アントニオ・パエスが、ベネズエラ解放を求めてボリバルに反旗をひるがえした。ボリバルはパエスの懐柔を試みたが、そうした対応はサンタンデールを一段と苛立たせ、新しい国の亀裂はいっそう深まった。
その後も騒乱は続き、これを終息させるためにボリバルは1828年に終身大統領となる。サンタンデールはこれに猛反発し、急進的な連邦憲法を採用する。さらにボリバルのこうした行動は、数ヶ月後、彼自身の暗殺未遂事件を招くこととなった。
政治的にも地域的にも分裂した大コロンビアは衰退をはじめた。1830年、支持の低下と健康状態の悪化により、ボリバルは辞任へと追い込まれる。ラファエル・ウルダネタ将軍を筆頭とするボリバル派は、復職するよう彼を説得しようとしたが、徒労に終わった。1831年、大コロンビアは複数の独立国家へと分裂する。1830年から1831年にかけて、3人の大統領が大コロンビアを救おうと手を尽くしたが、崩壊を止めることはできなかった。
しかし、南米がスペインの手に戻ることはなかった。大コロンビアが倒れた後に誕生したコロンビア、ベネズエラ、パナマ、エクアドル、ガイアナは、いずれもおおむね当時のままの形で存続している。

中国 Edit

 中国は文明に多くの貢献をしてきた。紙、鈴、釣りのリール、火薬、羅針盤、隔壁、トランプ、油井、木版印刷、絹など、中国由来の発明品は数多い。また、宗教 (儒教、道教、法教、毕摩教など) や、哲学 (墨家、法規主義、自然主義、玄学など) の分野への貢献も計り知れない。著作家としては施耐庵や呉承恩、芸術家としては韓幹や馬遠、作曲家としては魏良輔や蔡琰などが文明を豊かにした。さらには、奴隷制度、一夫一婦制、スパイ活動、政府の転覆、プロパガンダ、都市化、凌遅刑 (何度も何度も切りつける処刑方法) なども中国からもたらされた。

春秋戦国時代 Edit

戦国時代 (およそ紀元前475年〜紀元前221年)、古代中国には斉、秦、趙、燕、韓、楚、魏の7つの王国があった。これらの国は互いに仲が悪く… いや、「極めて」仲が悪く、絶え間なく戦争をつづけていた。最終的に秦の王である嬴政が中国を統一し、最後の敵国である斉を征服して自ら「始皇帝」と称した。始皇帝による栄光の統治の下、書物は焼かれ、皇帝の意に沿わない学者は生き埋めにされた (戦国時代は「諸子百家」と呼ばれる、嘆かわしい自由主義哲学と自由思想にまみれた学者をたくさん生んでいたのだ)。また秦は広域に及ぶ道路や運河の建設に着手。また、遊牧民を攻めこませないために万里の長城の建設を開始した (この努力は無駄に終わる)。始皇帝は手を尽くして伝説の不死の仙薬を探し求めたものの、ついに発見できず、紀元前210年に崩御。遺体は70万人の「無償労働者」によって長安付近に建設された巨大な霊廟に葬られ、かの有名な兵馬俑が死後の護衛を務めた。始皇帝の死後、秦帝国はわずか数年で崩壊した。

項羽と劉邦 Edit

地方の農民だった劉邦は生まれながらのトラブルメーカーだった。紀元前207年、野心豊かな楚の将軍項羽の後押しを受けて始皇帝の後継者である子嬰を玉座から引きずり下ろすと、劉邦は項羽を排除して漢王朝を打ち立てた。一時的に新王朝によって中断された時期もあるが、漢の治世は言語の統合、文化的な実験、政治的表現、好景気、領土の探検と拡張、そして技術革新など、じつに良い時代だった。後年、武帝がステップ地帯で匈奴の連合軍を打ち破り、伝統的な中国の国境を広げたことで、漢の繁栄は頂点に達した。漢の遺跡でローマ製のガラス製品が発見されたことから、漢の商人は遠くパルティア帝国やインドにまで足を運んでいたことがわかっている。漢の歴代皇帝は、元兵士を農民として西域に多数移住させ、いわゆるシルクロードの基礎を築いた。

三国時代 Edit

曹操の存在感の増大は、漢皇帝の権威の低下を意味した。西暦208年、曹操は皇帝の相談役である三公を廃し、自身を丞相の地位に着けた。215年、曹操は献帝に皇后との離婚を強制し、曹操の娘を新たな皇后として娶らせる。天の兆しが示すとおりに漢王朝の天命は尽き、献帝は220年12月に皇帝の位を退き、曹操の息子、曹丕に玉座を譲った。曹丕は魏王朝を打ち立てた… が、中国統一はほどなくしてバラバラになった。
黄巾の乱が起きてから60年間――中国の研究家は想像力豊かに「三国時代」と呼んでいる――魏、蜀、呉の3国が秦や漢のような中央集権国家を建て直すために争ったが、いずれも達成できずに滅び、後の晋王朝がようやくそれを成し遂げることになる。司馬炎は魏王である曹奐に禅譲を強制し、その卓越した軍略によって西暦263年に蜀を、西暦279年に呉を征服した。しかし晋王朝は皇子たちによる争いで深刻な衰退をはじめ、間もなく中国北部と西部の支配を失った (以後の晋王朝は単に東晋と呼ばれる)。やがて中国は五胡十六国時代 (またしても中国研究家たちによる命名) へ移り、これが439年まで続いた。

統一王朝時代 Edit

いくつかの国は血河の果てに併合されたが、西暦589年まで中国全土が1人の支配者によって統一されることはなく、やっとそれを成し遂げた隋王朝もまた短命だった。つづいて唐王朝が生まれ、907年まで (おおむね) 中国を統一しつづけた。唐の治世は漢に似ており、交易と外交を重視することで中国に安定と繁栄をもたらした。宗教や文化においても隆盛を極めた時代である。隋王朝の時代からはじまった大運河が完成し、シルクロードによる東西交流が再びはじまった。また、律令の修正も行われた。特にこの結果、女性の権利が徐々に拡大され、官僚の選抜試験も開始された。実施された改革は他にも多岐にわたる。租税は身分に応じて標準化され、国民全員に納めさせるために中国で初の国勢調査が行われた。李白と杜甫のような才ある詩人はこの時代を大いに称え、彼らの作品は中国文学の水準の高さを示すものとして後世に残った。
しかし、唐王朝は自然災害にたびたび苦しめられた。黄河と大運河周辺の氾濫、そしてそれにつづく干ばつは、大飢饉と経済の崩壊を引き起こした。農業生産は半分まで落ち込み、民衆は通例に従って新たな指導者を求めた。唐王朝は度重なる反乱に悩まされ、西暦907年にかつては塩の密輸業者だった朱全忠が将軍に取り立てられる。彼は唐最後の皇帝を退位させ、自ら王朝を開いた。そして五代十国時代が到来し (中身はおよそ名前のとおりである)、960年頃までつづいた。その後の4世紀、5つの王朝が再び中国を統一した。順に宋朝、遼朝、金朝 (2度目)、西夏、そして元朝 (フビライ・ハンが万里の長城を越えてきた) である。いずれの王朝も人間の織りなす文明に技術的発展、哲学の追求、そして社会的な前進という形で貢献したが、最も想像力を惹きつけるのは明王朝だろう。

漢民族の復活 Edit

民衆の胸にはモンゴル人の支配に対する憤りがくすぶっていた。西暦1340年代に起きた飢饉と疫病の蔓延は人々の不満に火を付け、大規模な農民反乱のきっかけともなった。もはやフビライの子孫が天命から見放されつつあるのは明白だった。貧しい農民から反乱軍の指導者になった朱元璋 (今日では洪武帝と呼ばれている) は、大都 (現在の北京) を占領した後、1368年に明王朝の初代皇帝として即位した。朱元璋が皇帝に至る道程は長かった。伝説によれば彼は7人ないし8人兄弟の末子で、貧しかったために兄弟の何人かは売られたという。さらに黄河の氾濫が村を襲い、疫病によって家族をすべて失った後は、仏教の僧院 (皇覚寺) に身を寄せることで生き延びた。この僧院もゾロアスター教徒の反乱に対する報復としてモンゴル軍に破壊された。しかしその後、朱元璋は紅巾党の反乱に加わり、30歳になる頃にはそれを率いるまでになっていた。復讐は復讐を招くのである。
明王朝は中国に華やかな時代の到来を告げた。ひとたび玉座を得た洪武帝は数々の政策を打ち出した。彼は何よりもまず、前王朝で専横を享受していた宦官たちに対し、宮廷内での昇進や影響力を制限すべく動いた (明王朝が末期に味わった苦難の原因は、宦官の力が蘇り、事実上2つの政権に分かれてしまったことである)。社会秩序においては貴族、農民、職人、商人という4つの階級が定められ、それぞれに義務と権利が与えられた。後年の明皇帝は商人階級の活躍が王朝に更なる富と税をもたらすと考え、彼らの便益を増やした。モンゴル軍の脅威を再び退けた一方、朝鮮と日本との戦争では蓄えた富の多くを吐き出すことになり、さらに天災が再び襲ってきた。西暦1640年には大人数の農民が蜂起した。彼らは皆飢餓に苦しみ、税を納められず、そして度々打ち破られていた明軍を恐れていなかった。この反乱によって明王朝は滅び、混迷の果てに清王朝 (満州族による王朝) が成立した。
ヨーロッパ人の波紋が広がるまで、中国は順調だった。かのマルコ・ポーロや、時折来訪する商人、冒険家は、中国のいわば裏口から入国していたのだが、ポルトガル人のジョルジュ・アルヴァレスは1513年、海路から中国本土へ上陸した。彼らは明の皇帝を言いくるめてマカオをヨーロッパ人の「居留地」として認めさせ、1557年に最初の統治者を置いた。とはいえ、清の時代の中国の経済と統治は――賢明にも外国との無用な摩擦は避けていた――安定していた。高い識字率、政府が支援する出版産業、都市の拡張、平穏な内面の探求を重視した儒教の普及などが、芸術や哲学の分野における急速な発展に貢献した。また、書道、絵画、詩歌、演劇、料理といった伝統的な工芸も再興された。

衰退 Edit

しかし、よそ者は横やりを入れつづけてきた。19世紀前半になり、中国は己がヨーロッパ、明治時代の日本、そして帝政ロシアの前に無防備だと気づかされる。はるかに優れた海軍力や良質な兵器、通信技術、互いに戦争を繰り広げたことで研ぎ澄まされた戦術などにより、植民地政策をとる列強は、清を従わせて交易を掌握すると、思うままに振る舞おうとした。1842年、第一次アヘン戦争で中国はイギリス軍に敗れ、悪名高い南京条約 (多く結ばれた「不平等条約」の初期の1つ) に調印することを強いられた。通商条約のほとんどは不平等なもので、中国経済は1900年までに大きく傾いた。急速な近代化を果たし、植民地獲得競争に参加した日本は、中国から朝鮮と台湾の統治権を奪いとった。清が名目上の君主として残っていたにもかかわらず、ロシアを含むヨーロッパが領土のすべてを各々の独占的な勢力範囲に分割した。一方、アメリカは中国における門戸開放政策を一方的に宣言した。

中国分割 Edit

もはや限界に達していた。1899年、一般大衆により義和団が結成され、中国を自国民の手に取り戻そうとする義和団の乱が巻き起こる。だが、残念ながら彼らは鎮圧された。1901年、中国にとって厳しい内容の平和条約が結ばれた。「八カ国連合」(義和団の攻撃を受けた国家から成る) は義和団を支援した清の官吏を残らず処刑し、外国軍の首都への駐留を規定、年間の税収を上回る巨額の賠償金を課した。清は拡大する内乱に翻弄された。西太后は民衆の訴えに応じ、各地の官吏へ改革案の提出を求めた。だが、広範で革新的な案が生まれ、それが実行に移されていたとしても、時すでに遅しだった。1908年11月に光緒帝が突如として崩御 (ヒ素中毒と思われる)、その翌日に西太后もまた崩御。暴動と反乱の結果、1912年に隆裕皇太后は幼き溥儀皇帝を説得して退位させ、2000年に渡る中国の帝政に幕を引いた。そして中国は新たな闘争と、残忍な軍閥に支配される時代へと移っていく。

日本 Edit

 長く閉鎖的な島国として守りを固めていた日本は、最近150年の間に世界有数の工業力と、経済・文化の面で最も影響力をもつ文明の1つとなった。江戸時代の侍は歌舞伎や浮世絵、国内政治に明け暮れていたが、100年後の日本は芸術家、建築家、ファッションデザイナー、サラリーマンを世界の桧舞台に送り出した。古くからの伝統である「和」の精神(英語では「ハーモニー (調和)」と訳される) は、良きにつけ悪しきにつけ、進歩と利益にとって代わられた。

建国 Edit

日本で初めて記述された書物である『古事記』 (紀元前712年頃) には、原初の5代の神の後に生まれたイザナギとイザナミの兄妹神が、434の日本の島々を創りだしたと記されている。巨大な矛で海をかきまぜると、槍から垂れた水滴が陸地となり、兄妹はそこに住まい、他の多くのカミ (神、霊的存在) を生んだという。現実はこの物語よりももう少し散文的だった。日本列島が大陸から切り離される4万年前、人々は地峡を渡り、約2万9千年後にアジアから切り離された。紀元前660年にはすでに文明が存在し、太陽の女神天照の子孫とされる天皇も存在していたようである。

大和王権 Edit

日本の「有史時代」は3世紀頃からはじまるが、それ以前の西暦57年の後漢時代の書物にも、捉えどころのない記述が残っている。この「古墳時代」に日本では複数の軍事的な氏族が興った。中でも本州の南中央部にいたヤマトが支配的となったが、その過程で多くの血が流れたことは間違いない。他氏族をすべて屈服させたヤマトは、自らを統一された日本列島の帝であると宣言した。しかし続く2世紀にヤマトの権勢は次第に衰え、朝廷の権力は野心的な豪族 (当時の日本における「領主」) によって徐々に侵食されていった。
ヤマト政権初期の数世紀の間に日本の農民は鉄製の農具を使うようになっていった。鉄製の農具のおかげで農耕が発達し、米を栽培する田が大きく広がった。米は味が良く、栄養価も高かったため、すぐに日本食に欠かせない食材となった。この農地拡大によって少ない人数で非常に多くの食料生産が可能になったため、豪族は余った労働力を軍事に注ぎ込めるようになった。こうして、「傍で仕えるもの」を意味する侍という新たな階級が日本社会に生まれた。あらゆる封建領主が私兵を抱えるようにるのに時間はかからなかった。また、この時期に日本は隣国から当時の先端技術をいくつも取り入れたが、中でも重要なのは中国から伝わった筆記だろう。筆記ともに宗教 (儒教) が入り、6世紀には仏教も伝来した。

鎌倉時代 Edit

初期の将軍は、天皇から任命される官職の1つで、正式には征夷大将軍 (「蛮族遠征軍の総司令官」) といった。征夷大将軍の役割は、蝦夷 (えみし) やアイヌなど、天皇の支配を頑なに拒む勢力を平定することだった。やがてこの称号は世襲となり、将軍は単なる軍事的指導者ではなく帝すら凌ぐ実質的統治者として認識されるようになる。当然、将軍の地位を巡って内紛が多発した。西暦1185年、源平の合戦において源氏は当時将軍家だった平氏をほぼ完全に滅ぼした。源氏はすぐさま法を定めて封建制度を確立し、天皇を表舞台から引き下がらせて単に崇められるだけの名目上の支配者にした。
源頼朝が没すると、その妻の一族である北条氏が幕府を支配した。北条氏について特筆すべきは、時宗の時代にモンゴルの侵略を2度撃退し、禅宗を広め、「武士道」を完成に至らしめるのに貢献したことだろう。モンゴルの侵略は、日本の歴史にとって2つの極めて重要な意味を持つ。まず、従来の刀ではモンゴル軍の鎧 (茹でて硬化させた分厚い革でできていた) の前に折れてしまいがちだったため、その心配を払拭するために刀工の手によって名高い「日本刀」が生み出されたこと※1。そして、このモンゴルによる侵略は、侍が本土の同胞以外と戦ったわずか3度※2の機会のうちの最初のものだったということだ (他の2回は1592年の朝鮮出兵と1609年の琉球征服)。そう、侍はもっぱら同国人同士で斬り合っていたのである。

※1...元の記録で極めてさいなり(切れ味が良い)という記述あり日本刀が生み出された後に元襲来が時系列として正しい。

※2...東南アジアで日本人傭兵、倭寇として東シナ海で戦闘記録がありスペイン人などとも切り合っており3度ではない

南北朝時代・室町時代 Edit

その後も北条氏は権力を保ったが、1333年、後醍醐天皇が実質的な支配権を皇族に取り戻そうと反乱を起こした。倒幕には貴族に加え、武士、そして僧兵の協力を得ていた。しかし後醍醐天皇に味方した主要勢力は、獲得した利益の配分に不満を抱き、1336年に反旗を翻して天皇を北の吉野山へ追いやった。その後の60年間は、北朝と南朝の2つの朝廷が存在し、日本の統治は二分された。名目上は南朝の天皇の統治が続いていたが、実権を握っていたのは足利幕府だった。1391年、朝廷が再統一され、将軍足利尊氏が権力の座に就いた。
ここから日本は「戦国」として知られる時代に突入する。この150年間は、社会的な大変動、暗殺を含む政治的陰謀、大名同士の軍勢によるほぼ絶え間ない軍事衝突に彩られている。しかし、そんな時代にも花開いた文化はあった。この時代に築かれた壮麗な城は芸術の域に達し (現存するものもある)、兵士は多様な武器に熟練した※1。ヨーロッパの貿易商が銃をもたらした後は、マスケット銃の扱いもそこに加わった。戦国時代は忍者が活躍した時代※2でもある。やがて、才気あふれる織田信長の下、天下統一はほぼ成し遂げられたが、信長は不幸にも1582年に最も信頼していた部下に裏切られ、志なかばにしてこの世を去る。その後、豊臣秀吉により朝廷権力と武力により天下統一を成し遂げられる。秀吉没後に豊臣政権は弱体化し多くの血が流されたが、ついに1603年、信長と国境を接していた大名であり盟友でもあった徳家康 (最も有名な侍の1人) が征夷大将軍の座に就き、幕府を開いた。

※1...侍は元々の起こりである鎌倉時代から複合兵種である
※2...起源は鎌倉時代から活躍した記録がある

江戸時代 Edit

こうした時代にヨーロッパ人も日本にやって来ていた。まず1543年、中国へ向かっていたポルトガル船が種子島に漂着した。その後の数年間で、ポルトガル、スペイン、さらにオランダとイギリスの貿易商が日本に立ち寄り、イエズス会、ドミニコ会、フランシスコ会の宣教師たちが布教に努めた。だが新たな将軍は、貿易のために築かれた居留地や教会は、実のところヨーロッパ人による侵略の前触れではないかという疑念にかられていた。実際、キリスト教は急速に広まり、虐げられてきた農民の間で特に流行していた。1637年、約3万人のキリスト教信者 (ほとんどが百姓) と浪人 (君主をもたない侍) が起こした島原の乱は、将軍が派遣した大軍によって鎮圧された。
将軍の施策は徹底的だった。島原の乱の後、徳川家光の下でいわゆる鎖国 (隔離法) が開始され、後継者によってつづく250年の間に強化された。長崎の出島から出ることを禁じられたわずかのオランダ人と中国人を除き、宣教師や貿易商をはじめとするあらゆる外国人が追放され、朝鮮との交易は対馬に限定された。入国しようとする外国人も出国しようとする日本人も、ただちに死刑に処された。カトリック教徒は追放され、カトリックの学校や教会は取り壊された。大名の改宗も禁じられ、違反した者にはやはり死刑が待っていた (日本における標準的な刑罰である)。
鎖国政策のおかげかどうかはわからないが、250年以上にわたる江戸時代に日本は社会と文化の最盛期を迎えた。また江戸時代は比較的安定した平和な時代でもあった (たとえ刀の切っ先を突きつけての強制的な平和だろうが)。浮世絵、歌舞伎、そして文楽は見事な作品を生み出し、琴や尺八の最も有名な曲もこの時代に作られた。芸者は単なる芸人 (あらゆる意味で) から、洗練された女性らしさの極みへと進化を遂げた。侍が芸術を後援したことで、全国に優雅な景観や建築が広がった。社会構造は厳格なものとなり、その体制下では人口の約85%を占めた最下層の百姓から250の大名まで、各々が身分と責任を受け持った。身分を逸脱したことに対する罰は厳しく、また即座に行われるものが多かった。茶を飲むことから自害まで、あらゆることが厳格に儀式化されていた。

幕末 Edit

日本が平穏だったのは、1853年にアメリカのマシュー・ペリー提督が訪れるまでのことだった。ペリーは4隻の近代的な軍艦の砲撃準備を整えて江戸湾を航行し、開国して西洋と規制のない貿易をおこなうことを日本に要求した。翌年ペリーは7隻の艦隊を引き連れて再び来訪し、武力を背景にして将軍に日米和親条約を結ばせた。それから5年以内に、日本はほとんどの西洋諸国と同様の条約を結ぶ「喜び」を味わった。今まで犯されることのなかった門戸を外国の軍に踏み荒らされ、火力によって圧倒された恥辱の中で徳川幕府は倒れ、実質的な権力は天皇のもとへ戻ることとなった。

黎明期・黄金時代 Edit

1867年に即位した精力的で若い明治天皇は、国の上から下まで飲み込む抜本的な改革の時代を開始した。その目的は、日本の近海を航行していた軍艦の所有者である欧米諸国に匹敵する軍事力と経済力を獲得することにあった。1912年までに政府は封建制度を廃止し、ほとんどの大名の領地を「天皇の統治」下に置き、その大半を百姓に与えた。また、信仰の自由を定め、貿易を推進し、武士階級を実質的に廃止した。より実際的な面では、殖産興業を奨励し、ヨーロッパ諸国に倣った立憲君主制を確立した。そして1873年、日本は全国的に徴兵制を敷き、日本帝国陸軍および海軍を創設した。
その改革は非常に効率的で、日本はアジアの大国として急速に頭角を現した。やがて、これも西洋を真似、植民地帝国の建設にとりかかった。1894年、日本は朝鮮の支配権をめぐって瀕死の中国と対立した。日本はやすやすと勝利を収め、朝鮮、台湾、澎湖諸島、遼東半島の「独立」を獲得した。しかし列強諸国は遼東半島を中国に返還させ、中国はそれをすぐにロシアへ貸与した。日本は激怒し、その結果とした1904に勃発した日露戦争は、日本には「西洋」の列強を叩きのめす力があることを証明する機会となった。第一次世界大戦では、日本は敗北したドイツが太平洋とアジアに所有していた領土を獲得するチャンスを得た。次に日本は中国を少しずつ侵食しはじめ、満州に進出してほぼすべての国を驚愕させた。しかし、世界恐慌とブロック経済は、全体主義的な軍国主義による政権掌握に拍車をかけることになる。1930年代終盤、欧米の民主主義国家と日本帝国の衝突はもはや避けられない情勢になっていた。

敗戦 Edit

中国でおこなわれた残虐行為、フランスのナチスドイツへの完敗に便乗したインドシナ進駐、満州でのソ連との衝突が報じられたのにともない、アメリカでは民衆の反日感情が高まっていった。それから間もない1941年、日本はアメリカと大英帝国に宣戦を布告。第二次世界大戦に参戦した。だが、最初こそ驚異的な成功を収めたものの、その後日本は総崩れとなり、敗色が濃厚となった1945年8月、原爆によってとどめを刺された。しかし、アメリカの占領下、日本はフェニックス (日本風に言えば「鳳凰」か) のごとく蘇り、世界有数の経済力、技術力、文化力を有するに至った。



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