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最終更新: 2026-03-19 (木) 14:01:31
FrontPage / 歴史的背景 / 区域・建造物

区域・建造物 Edit

都心 Edit

 都心とはある都市の政治、文化、歴史、商業、地理の中心を指す。少なくとも理屈の上ではそうだ。しかし世界各地の例を見るかぎり、その誕生は村が町へ、町が都市へと発展する中で文明に付随するさまざまな要素が自然と強調された結果であり、計画的なものではないことが多い。都心を歩くとさまざまなことがわかる。まず、都心に暮らす人はそれほど多くない (少なくとも高層マンションが出現するまでは)。そのかわり都心には人目をひくモニュメントや大きな公園、空高くそびえるオフィス、仰々しい政府施設などがあり、いわば街の「人格」が垣間見える。また、大都市に発展する以前に最初の集落ができた場所 (再開発で消えていることが多いが) でもあるため、その街で最も歴史のある一画であるとも言える。

宮殿 Edit

 王になりたい。遠い昔にそう考えた原始の部族の長たちも、他の誰も住めないような豪華な小屋に住むことを夢想していたに違いない。宮殿 (パレス) とは、文明国家の指導者が住む住居である――という説明は、いささか時代遅れかもしれない。なにしろ今どきは、カジノだろうがなんだろうが「パレス」と名前がついている時代だ。現代の指導者たちが住む建物は「官邸」であるとか「ホワイトハウス」などと称されていることのほうが多いが、いずれにしても意味するところは同じである。宮殿 (や、その現代版) が持つ役割は、大きく3つに分けられる。指導者が統治に必要な人や情報に接することができるようにすること、指導者を襲撃の危険から守ること、そして指導者の威光 (と自惚れぶり) を内外に示すことである。

モニュメント Edit

 人間は忘れやすい (あるいは単にうぬぼれが強い) 生き物であるため、なにかにつけて記念碑を作りたがる。それらは主に「重要な」人物や出来事、軍事的勝利、神々、あるいは物語の登場人物 (たとえばケンジントン公園のピーターパンなど) に関連したものであり、歩行者や運転手の目に入りやすいように街の中心に作られることが多い。モニュメントの形や大きさはさまざまで、美しいものもあれば不気味なものもある。大抵の大都市には、勝利の門や柱、オベリスク、記念碑、慰霊碑といったモニュメントがあり、人々に市民や国民としての誇りを植えつけるのに一役買っている。また、図らずもハトの休憩場所や観光客の記念撮影スポットとなる点も、これらに共通する特徴のひとつである。

旧神のオベリスク Edit

穀物庫 Edit

 農業が発達してくると、余剰の穀物をネズミや害虫、そして人間から守るための保管場所が必要となった。これまでに発見されているものとしては、紀元前9500年頃、新石器時代のヨルダン渓谷にあったとされているのが、最も古い穀物庫である。インダス渓谷にも紀元前6000年頃には存在していたことがわかっており、同時期にはエジプト人も余剰穀物を地下サイロに保管して不作の年に備えていた。東アジアでは、紀元前5000年頃に中国の黄河流域に存在していた仰韶文化において高床式の穀物庫が作られ、やがて朝鮮 (紀元前1000年) や日本 (紀元前800年) でも同様のものが作られるようになった。現代では、他の多くのものと同様に、穀物庫でも巨大化と自動化、そして複雑化が進んでおり、アメリカやロシアでは膨れ上がった人口を養うため、各地に巨大なエレベーター付きのサイロが設けられている。

水車小屋 Edit

 水車小屋は水の流れを利用して羽根車を回し、それを動力として製粉や紡糸、製材、鍛造などをおこなう場所で、加工の対象となるのは主に穀物、木材、生地、鉱石、金属、紙などである。水車小屋というと麦から小麦粉を作る製粉所をイメージするが、実際、最古の水車小屋は製粉所であった。紀元前280年から220年頃に生存したとされるギリシャ人技師、ビザンティウムのフィロンは水車小屋の仕組みについて書き残しているし、ローマのウィトルウィウスは歯車を使った下掛け水車の建設方法に関する最古の技術解説をしている。暗黒時代に入る頃には水車小屋は生活に欠かせないものとなり、ほとんどすべての集落に設置されるまでになる。それ以降もヨーロッパ人は、水車を動力とする製粉所の建設と運用方法を継承しつづけたが、効率と経済性にまさる蒸気機関や電動の製粉機が出現すると、水車を使って小麦やトウモロコシを製粉するのは文明から切り離された一部の人々だけとなった。

パルグム Edit

下水道 Edit

 ひとつの場所にある程度の人と家畜を集め、道を舗装し、そして雨が降るとどうなるか… まず間違いなく人は下水道の必要性を感じるようになる。少なくとも古代のインド人はそうだったようで、人類最古の下水道はインダス文明の遺跡で発見されている。廃水の処理と下水問題は常に人類を悩ませてきたが、古代ローマで作られたテヴェレ川に廃水を流す (それも飲み水を汲む場所よりも下流に) 「クロアカ・マキシマ」は、土木工学の傑作と考えられている。多くの場所では自然の川を上から覆うことで下水道にしており、ロンドンのフリート川などもそのひとつである。産業革命と都市の爆発的な成長により、19世紀前半には多くの土木技師が機能的に統合された下水道システムの構築を提唱した。特に1858年にロンドンで発生した「大悪臭」騒ぎは、行政の財政的支援を受けた近代的な下水道システムを誕生させ、その後につづく下水道の進化の礎となった。

防波堤 Edit

太古の防壁 Edit

 火薬、爆撃機、はては核ミサイルによって無用の長物と化すまで、防壁は街の安全にとって重要な役割をはたしていた。押し寄せる蛮族から住民とその財産を守るには、強固な防壁が不可欠だった。知られているかぎりでは、シュメールのウルクが、防壁で囲まれた世界最古の都市であり、その壁は神話の王ギルガメシュによって築かれたと言われている。また、コト・ディジなど、インダス文明の街のいくつかにも、石とレンガによる巨大な防壁が築かれていた。一方、強力な軍隊が存在すれば防壁は必要なく、実際、スパルタやローマなどは数世紀にわたって防壁を築くことがなかった。今日いくつかの街にはこうした防壁が残っているが、無視されるか、せいぜい「地元の特色」くらいにしか思われていない。

中世の防壁 Edit

 城を意味する英語「キャッスル」は、ラテン語の「カステッルム (小規模な砦)」を語源としている。城の役目は、重要人物と彼らに仕える者たちを外敵から守ることであった。城はときに堀や小さな丘に囲まれ、大抵は柵や外壁を備えていた。また、多くの場合、城の中心部にはキープがあった。頑強な城は、戦況がよくない場合に逃げ込む、文字どおり最後の砦であった。無闇に攻めれば塔や防壁に配置された兵士によって撃退されるのが関の山であったため、賢明な攻め手は城を取り囲み、城内の者たちを飢えさせて降伏に追い込むという策をよく用いた。このような様式の城がいつ誕生したのか、正確な時期は歴史家たちにもわからないが (まあ、いつものことではある)、9世紀、あるいは10世紀に領主の館をマジャール人やイスラム教徒、バイキングなどから守るために築いた防壁が発展していったのであろうと考える者が多い。そこにローマ伝来の土木技術を組み合わせることで、こうした城は文明の前哨地として難攻不落に近い存在となっていったのである。のちに大貴族は、民衆の反乱に備え、都市にも城を築くようになった。こうした城もその役割をよく果たした。少なくとも民衆が銃を手にするまでは。

ルネサンス時代の防壁 Edit

 戦争に火砲が使われるようになると、高く垂直な防壁は、それまでのような防御力を発揮しなくなった。そのため、15世紀半ば、イタリアの軍事技術者たちによって星形要塞が発明されることになる (ルネサンスの時代、イタリアでは戦争が相次いでいたのだ)。その構造はさまざまなスケッチに見ることができるが、いずれも平らで、低く、厚く、スロープ状の防壁に囲まれており、互いを援護できる位置に多くの稜堡が配置され、外周には砲弾をそらす傾斜と歩兵の侵攻を阻む溝が設けられていた。フィレンツェの防衛計画を任されたミケランジェロもこの星形要塞を採用し、そのコンセプトはのちに建築家のペルッツィによるシエーナの要塞化や作家でもあったスカモッティの活動を経ていっそう磨かれていった。頻繁に侵攻してくるフランスとハプスブルク家に対抗するため、イタリアの都市はやがて伝統的なやり方と星形要塞の組み合わせによって防衛力の強化を図ったが、その有効性から星型要塞は1530年から1540年代にはイタリア半島の外にも伝わり、軍事技術者として有名なヴォーバンが登場する頃にはヨーロッパ全土でスタンダードとなっていた。

ツィク Edit

聖地 Edit

 信仰によって統率された文明においては、神殿、寺院、修道院、祭壇、教会などが集まる「宗教地区」が都市に形成されることがある。そうした場所は、奇跡や啓示などがもたらされた「聖地」であることが多い。カアバ神殿を中央に抱くイスラム教最大の聖地メッカもそうした場所のひとつである。エルサレムもまた多数の聖地に彩られた場所であり、ローマの中央にはローマ・カトリックの聖都バチカンがある。イスラム教徒にとってのハッジ (メッカへの巡礼) やシーク教徒の黄金寺院への毎日の礼拝、ユダヤ教徒やキリスト教徒の神殿の丘を望まんとする想いなど、聖地への巡礼を願う心は今も健在である。

ラヴラ Edit

 東方正教の流れを汲む修道院であるラヴラ (ギリシャのアトス山やルーマニアのネアムツなどに見られる) は、修道者の各居室と中央にある聖堂または修道院長室を回廊によって結んだ造りになっている。おそらく最も有名なラヴラは、サンクトペテルブルクにあるアレクサンドル・ネフスキー大修道院だろう (修道院に軍人の名前をつけることの是非についてはロシア人の良識を信じるほかない)。ここにはネフスキーその人をはじめとして、オイラー、スヴァーロフ、ムソルグスキー、チャイコフスキー、ドストエフスキーなど、名高いロシア人が多く埋葬されている。4世紀前半、エジプトの砂漠にあるニトリア周辺におよそ600人の修道者が住みつき、それがラヴラの起こりとなったと考えられている。厳格な隠遁生活を旨とする修道者たちは、俗世と交わることなく祈りに専念した。また、救いを得るため、己の敬虔さのさらなる証明として、沈黙、貞節、瞑想、断食といった誓いを立て、それを実践している者も多かった。

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 人々は神を祀るために社を築く。それが林の中を流れる小川のほとりに置いたただの大岩であろうと、高くそびえる大理石のアーチや一面に縦溝が彫られた柱のような手の込んだものであろうと、信者が訪れ、巡礼や供物を捧げる場所であることは変わらない。社は文明に欠かせない景観のひとつとであり、預言者 (あるいはただの聖人) が奇跡を起こしたり、啓示を受けたり、大衆に語りかけたり、天に上る場所となったりしてきた。こうした聖なる場所はほぼあらゆる宗教に存在するが、人々が新しい宗教に改宗し、新しい神を崇める必要に迫られると、破壊されてしまうことも少なくない。

神殿 Edit

 神殿は神に捧げられた場所であり、祈り、霊的交流、供物がおこなわれる場所でもある。組織化された宗教は例外なくなんらかの形の「神殿」を有している。それは単なる社とは違い、信仰と神の力が具現化した場所と考えられている。また、十分の一税や寄進などが集まり、司祭や侍者、巫女、僧侶、ラビなどのための食事や衣服なども必要となるため、神殿には事業 としての側面もある。判明している最古の神殿は、紀元前10世紀頃、メソポタミアに存在していたが、当時のそれはまだ簡素な建物だった。しかし時代を経るにつれ、神殿はより精巧に、より大規模になっていき、テーベのカルナック神殿、アテネのパルテノン神殿、ブッダガヤのマハーボーディー寺院、ソルトレイクシティのモルモン教徒イエスキリスト教会など、文明に大きな影響をもたらす建物も誕生するようになっていった。

スターヴ教会 Edit

 バイキングがキリスト教に改宗して異教徒でなくなると、スカンジナビアのいたるところに支柱と梁で組まれたスターヴ教会が建てられた。スウェーデンだけでも1000棟以上のスターヴ教会が存在したとされ、最も古いものは1100年代半ばに築かれたと言われている。こうした教会は、宗教施設としてだけでなく、集会所や文化の中心、裁判所、はては市場としても機能した。初期のスターヴ教会は柵に囲まれ、その屋根は雪を落とすために鋭角に尖っていた。また、精巧な木彫りの像なども置かれており、その多くはキリスト教の聖人だったが、かつて彼らが信仰していた土俗の神話に登場する英雄や神が彫られることもあった。その後、スターヴ教会の建築様式は、骨格を厚板材で覆い、角の柱だけを地中に埋め込む形になった。現存しているスターヴ教会は全部で30棟しかなく、そのうちの28棟がノルウェーにある。

プラサート Edit

 メコン川流域と東南アジア主要部の支配に精を出していたクメールの王たちは、それ以外の時間を信仰に費やした。神々を崇めるのに他の方法などないと言わんばかりの、巨大な寺院を築きはじめるのだ。
クメールの信仰の中心となるこうした聖地は、武を尊ぶ王たちの信心深さと土木技師たちの卓越した技術の象徴だ。記録に残る最も古いクメール神殿はプラサット・アクヨム (西暦800頃) である。頂上に王冠を戴き、高くそびえるこの巨大な建造物のデザインは、当時の南インドの神殿を模したものだった。無論クメール人は、自分たちの繁栄の証として、プラーン (塔堂) や塔をこうした建物に加えることも忘れなかった。
こうした寺院の建設は、その後のクメールの王たちに長く受け継がれた。当初はヒンドゥー教のシヴァ神を祀る寺院が東へ向かって次々と築かれたが、ジャヤーヴァルマン7世が12世紀に大乗仏教を国教とすると、西へ西へと寺院が築かれていった。

大聖堂 Edit

 かつてイタリアでは交差点ごとにカトリックの教会が建てられていたが、あるとき何人かの司教が、教区の信者、そして複数の司教が共有できるような、より大きな施設を建てる必要があると考えた。こうして誕生したのが、ラテン語で「席」や「椅子」を意味する「カテドラ」を語源とする大聖堂 (カテドラル) である。このコンセプトの誕生は、コンスタンティヌス1世がキリスト教を公認した313年にさかのぼる。皇帝による公認は、多くの宗教のひとつに過ぎなかったキリスト教をローマ帝国の国教とし、司教の多くも帝国各地で行政官的な地位に就くことを (ある者は嬉々として、ある者は嫌々ながら) 承諾することとなった。そして古代ローマの行政官たちが装飾をこらした集会所 (バシリカ) で職務を遂行していたことから、司教たちもほどなくして大聖堂を築き、その巨大な外観で民衆に神の威光を示すことになったのである。建材や労働力は敬虔な信者たちから「無償で提供」された。人の一生涯をかけても完成しないこともしばしばであったが、こうした大聖堂は文明が生み出した最も驚くべき建築物のひとつと言えるだろう。西暦319年頃に最初の大聖堂がイタリアのアクイレイアに建てられて以来、人類はいまだに新たな大聖堂を作りつづけている。

ガードワラ Edit

 「グルに至る門」を意味するガードワラは、シーク教の寺院だが異なる信仰を持つ者も受け入れ、それぞれの形で祈りを捧げることを認めている。通常ガードワラには、ダルバール・サヒブと呼ばれるシーク教の経典『グル・グラント・サーヒブ』を展示する大きなホールがあり、シーク教徒が訪問者に無償で食料を提供するランガーと呼ばれる場所が設置されている。平等主義を旨とするガードワラには、その他にも託児所や図書館、病院、教室などが付属していることもある。シーク教の初代グルであるナラック・デヴ・ジーは、1521年にパンジャーブ州にあるラービー川のほとりに最初のガードワラを建設したと言われており、この最初のガードワラは、敬虔な信者たちがグルの言葉に耳を傾け、ワーヒグル (神の意味) を賛美する歌を捧げる場所となった。またこの場所をガードワラと名づけたのは、6代目のグルであったとされている。こうして瞑想と経典の学習を核とするシーク教において、ガードワラは教徒の道徳心と精神の成長に欠かせない場となったのである。

公会堂 Edit

 カトリック教会が壮麗な大聖堂を建設したのとは対照的に、プロテスタントは信仰とは禁欲的なものであり、芸術などにうつつを抜かすべきではないと考えた。そうして会衆派は、手近な建材 (基本的には木と石) を使って飾り気のないシンプルな建物――公会堂を作り、そこを祈りを捧げる場としたのである。新世界におけるプロテスタントの入植地では、多くの場合、公会堂が信仰や交流の基盤となり、文化と社会の両面で重要な役割を果たした。また多くの場合、初期のクエーカー教徒や清教徒、メノー派、ユニテリアン派、バプテスト派などの信徒にとって公会堂は政治の場でもあり、政治討論や投票の場所としても使われた。大西洋沿岸の入植地では、最初に建設される建物は公会堂と相場が決まっていたほどである。やがて合衆国に政教分離の原則が広まると、これらの公会堂はすべて政庁舎へと作り変えられることになった。

モスク Edit

 イスラムの法はモスクの条件について厳しい基準を設けており、それに満たない施設はムサッラー (集会所) と呼ばれる。イスラム聖法のもとでは、適切に築かれたモスクは聖地となり、ヤウム・アルディン (最後の審判の日) まで残りつづけるものとされている。世界で最も古く、最も大きなモスクは、西暦638年頃にメッカに建てられたマスジド・ハラームである。聖地であるカアバ神殿を内包するこのモスクは、イスラム教のあらゆる施設の中でも最も神聖な場所とされている。預言者ムハンマド自身もいくつかのモスクを建立したと言われており、中でもメディナのモスクは広く知られている。ドーム型の屋根と尖塔、イマーム (イスラム教指導者) によって監督される礼拝堂などの特徴を持つこうしたモスクは、7世紀にアラビアや中東、北アフリカを武力で征服した敬虔なイスラム教徒たちによって各地に建設された。極東においては、西暦8世紀半ばに西安に建造されたモスクが最古のものとされている。祈りと慈善と学習の場として、モスクはイスラム文明の中核をなしていると言えるだろう。

パゴダ Edit

 パゴダとは厳密にはひさしのせり出した多重構造の塔を指すが、欧米では一般に、仏教、道教、神道、儒教など、アジアの宗教建造物全般を意味するようになった。パゴダのルーツは紀元前3世紀にネパールで築かれたストゥーパ (仏塔) にあるとされ、その建築様式はそこから中国や東アジアに広がり、仏教徒が聖なる遺物や経典などを保管する場所として用いられるようになっていった。僧侶や巡礼など、仏教を信じる者にとってパゴダは偉大なるブッダの住まう場所として現世における信仰の中心をなしている。建材や外見は地域や宗派によって異なり、質素なものから装飾を凝らしたものまで千差万別だが、塔の階層が奇数であることは伝統的に決まっている。奇数でない例外としては、1762年にウィリアム・チェンバーズによってロンドンのキュー・ガーデンズに建設された高さ50mのパゴダが挙げられるが、イギリス人はこの建物を見事な建築物として高く評価した。

シナゴーグ Edit

 ギリシャ語で「集会」を意味するシナゴーグという言葉は、礼拝と教育の場であるユダヤ教の教会を指すことが多いが、本来の意味は必ずしもこれに留まるものではない。礼拝は聖域とされる主室でおこなわれ、祈りではラビ (「師」を意味する)
が人々を導くが、そもそもラビのいないシナゴーグも数多く存在する。また、ユダヤ教徒が10人以上集まると (この状態を「ミニヤーン」と呼ぶ)、公的な礼拝が催される。シナゴーグは西暦70年にエルサレムの第二神殿が破壊される前から存在していたが、ラビの1人であるヨハナン・ベン・ザッカイは、各地に散らばったユダヤ教徒たちが自分たちのルーツを確認できるように、各々が礼拝のための建物を作ることを推奨した。これにより、あらゆるユダヤ人とユダヤ教諸派 (セファルディム、ハシディズム、カライ派、正統派、改革派など) が、シナゴーグを設立できるようになった。

ワット Edit

 カンボジア、タイ、ラオスにある仏教の僧院は、「ワット」 (サンスクリット語で「囲まれた場所」を指す) と呼ばれている。ワットの中には学校があることも多く、教育の場所にもなっている。ワットは、ブッダの像が安置されている本堂、読経場、経文の保管庫、休憩室、書庫、学習部屋、鐘楼、鼓楼、宿房などで構成されている。ワットには王族の後援を受けているものとそうでないものが存在する。ワットは東南アジア全域で見られるが、民族同様、建築様式も一様ではない。ただし、僧侶や修行僧の住まいが本堂から独立しているのはどこも同じである。ときに装飾や金箔で飾られていることもあり、ワットはこの地域において最も特色ある歴史的建造物となっている。また、12世紀にスーリヤヴァルマン2世の後援によって築かれたカンボジアのアンコール・ワットも広く知られている。

仏塔 Edit

 スワート渓谷への道すがら、シャンカダール村を通ると、小さな街を覆うように鎮座する巨大な石のドームに出くわす。とはいえ背後にそびえる山々に比べれば子供のようなものだが。この建造物は仏塔であり、仏教を信仰したスワート王によって、西暦2〜3世紀の間に建てられた。
仏教を奉じた王たちは、ただ好きだから巨大なドームを建設したわけではない。仏塔は記念碑であり、アジア全域でその姿を見られる。仏塔が最初に建てられたのはインドで、紀元前4世紀のことである。
多くの仏塔には、ブッダやその弟子に関する遺物が収められている。また、中国の寧夏にある108基の仏塔のように、教義にとって重要であるとか、精神的な恩恵を得るためといった理由で築かれた仏塔も存在する。
歴史は、アジアの仏塔に対して必ずしも優しくはなかった。今に至るまで無事に残っているものも多いが、戦火や災害によって損傷した仏塔も決して少なくはないのである。

ダルエ・メフル Edit

 紀元前9世紀ごろに現れた最初のゾロアスター教の建物、ダルエ・メフルは、「アータル (聖なる炎) 」という概念と強く結びついていた。ダルエ・メフルの中心には炎と清浄な水が配置されていたが、これは崇拝の対象ではなく、儀式によって清めを得るための手段だった。
神殿の名は、祀られている火の種類によって決まった。最も聖なる炎は、アータシュ・バフラーム、すなわち「勝利の炎」と呼ばれた。この炎の儀式には、16種類の聖なる炎、32人の司祭、年単位の準備が必要とされた。
こうした神殿は、丘の上など、他よりも高い場所に築かれることが多かった。神殿の中には、聖なる炎が燃えるアータシュガーと呼ばれる部屋があったが、アータシュガーもその中の炎も、気軽に拝めるものではなかった。しきたりにより、聖なる火を目にできるのは、敬虔な信者だけだったのである。

キャンパス Edit

 キャンパスはラテン語で「野原」を意味する。大学の敷地をこう呼んだのは、1746年に設立されたプリンストン大学が最初である。以後、この言葉はあらゆる機関や大学、ときには少し気取った会社の敷地などを指す際に使われるようになった。学習に身を捧げる場所としてのキャンパスの起源は、12世紀にヨーロッパに存在した学校だと考えられている。こうした学校では、教師と生徒が世間から独立した住居で共に暮らしていた。このキャンパスの原型が保有していた権利と特権は、しばしば当時の君主や聖職者によって保障され、その敷地は街から提供されていた。

書院 Edit

観測所 Edit

図書館 Edit

 文学が人類に根づくと、文字の書かれたもの (本、雑誌、地図、新聞、巻物、書き板など) が必然的にひとところに集められるようになり、図書館が誕生した。最初の図書館は、紀元前2600年頃にシュメール人によって作られたと言われており、そこにはくさび形文字が記された粘土板が収蔵されていた。また、ニネバにあるアッシュールバニパルの図書館からは、ギルガメシュ叙事詩を含む、3万点以上の粘土板が発掘されている。古代において最も大きく、最も重要だった図書館はアレキサンドリアの図書館だが、他の多くの大図書館と同じように、火災によって焼失してしまった。ヨーロッパが暗黒時代に陥る中、図書館文化はアラブ系イスラム教徒の間で隆盛を迎え、彼らが発明した製紙技術は世界中で文書の収集に大きく貢献することになった。図書館の多くは一般に開放されていたが、本当の意味で大衆のものとなったのは、1850年にイギリスで制定された公共図書館法によってである。これによりイギリスでは、身分に関係なく識字率が大きく向上 (1870年の時点で約76%) したのである。

大学 Edit

 高等教育機関である大学の原型は西暦1100年頃に誕生したとされるが、そのルーツは6世紀におけるカトリックの聖堂や修道院学校にまでさかのぼる。パリ大学 (西暦1150年頃創立) のような例外をのぞき、ボローニャ (1088)、オックスフォード (1167)、モデナ (1175)、ケンブリッジ (1209)、パドヴァ (1222)、クラクフ (1364) など、初期の大学のほとんどはカトリック学校の代替として君主によって創設されたものである。カトリック教会に対抗する意味合いを含んでいたこれらの大学は、開放された門戸と学問の自由を信条としていた。その姿勢の最初の顕れが、1155年に神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世がボローニャ大学で学ぶ者の権利と安全を保障したハビタ勅令であった。こうして大学は、法学、医学、論理学、哲学、科学、古典などを学ぶ場となったのである。 (今日の若者が取得できる学位は、仏教文学、バイオエンジニアリング、はてはゲームデザインにいたるまで多岐に渡る。)

マドラサ Edit

 マドラサは独立した教育施設であるが、しばしば宗教的な要素も備えている。ここでは主に医学、法律、科学、哲学、宗教といった学問が教えられ、女性の教育もおこなわれている。また論理学や世界史、外国語、数学、美術、比較文学などを教える場所もある。最初のマドラサであるアル・カラウィーンは、西暦859年に裕福な商人の娘であるファティマ・アル・フィリによって創設されたと言われている。ファーティマ朝、アイユーブ朝、マムルーク朝の時代には、エジプトや中東に散らばっていた力と富を持つ権力者がマドラサを後援していた。そして1331年にはオスマン帝国による最初のマドラサがイズニクに設けられ、イスラム教スンニ派の伝統が引き継がれることになった。ヨーロッパが暗黒時代に苦しむ中、トルコ人やアラブ人はマドラサを作って古典時代の叡智を保存し、それを土台として創意工夫を重ねたのである。

航海術学校 Edit

錬金術協会 Edit

研究所 Edit

 研究所は医学、物理学、化学、ロボット工学、クリーンエネルギー、テレビショッピングで売られる新製品など、さまざまな分野や物品を研究する場所である。研究所には、公的資金によって運営されている場所もあれば、利益を追求する大企業によって運営されている場所もあり、大学に付属しているケースや、学界から (そして時に倫理道徳からも) 独立した形で存在するケースもある。研究分野がなんであるにせよ、今日の研究所に求められるのが「効率性」であることは間違いない。この世界の謎が徐々に解き明かされていくにつれ、情熱的な1人の科学者が地下室にこもって「ひらめいた!」と叫ぶような時代は過去のものとなりつつある。今後、自然界について学んだり、新しい技術や商品が注目を浴びたり、生活の利便性が向上したり、なんらかの恐怖がこの世にもたらされるとしたら、それを生み出すのはおそらく研究所だろう。それを実現するのが、欧州原子核研究機構 (CERN) の大型ハドロン衝突型加速器のような巨大装置であるか、小さなコンピューターの中でおこなわれるシミュレーションであるか、それはわからないが。

兵営 Edit

 古代の統治者が粗末な武器を持たせた農民に代えて職業軍人による軍隊を持とうとした場合、まず必要なのはそうした者たちが戦闘に従事していないときに駐屯する場所だった。兵士と民間人が混在することは望ましくない。そこで軍隊の生活と訓練の場として築かれたのが兵営である。兵営はしばしば要塞化され、兵舎、厩舎、貯蔵所、訓練場など、軍隊が必要とするあらゆる設備がそろえられていた。中には相当な規模を持つ兵営もあり、たとえばローマ帝国の最盛期には、数千人規模の軍団を丸ごと収容できる兵営が普通だった。ローマの法と伝統は、軍隊が街に入ることを禁じていた。それは悪くない考えだったが、紀元前87年、ルキウス・スッラが配下の軍団を率いて街に入り、自らを独裁官と宣言するのを止めることはできなかった。

イカンダ Edit

タイン Edit

兵舎 Edit

 民兵は自分の家や仕事を持ち、食糧と衣服も自力で調達し、戦いに参加するのは招集がかけられたときに限られていた。一方、戦いを仕事とする職業軍人は、家を持たず、正式な制服と食糧を支給されていた。文明に関連した多くのものがそうであるように、職業軍人による軍隊もまた筆記の発明によって可能となった。家を持たない彼らは兵舎に住み、それらは内外の脅威に即座に対応できるよう、街の中心に置かれるのが普通だった。いわば常設の宿泊所でもある兵舎には、運動場や浴場、医療施設、食堂、訓練施設といった設備が整えられており、不測の事態に対応できるよう、最低限の防衛体制が敷かれていることが多かった。職業軍人たちはこうした場所で休息し、彼らの故郷たる戦場へと帰っていったのである。

バシリコイ・パイデス Edit

 バシリコイ・パイデス (「王立子弟学校」程度の意味) はマケドニアに古くからあった教育機関だが、これを君主と国家の要請を満たす組織へと変革させたのはフィリッポス2世である。マケドニア貴族の子息や、王に目をかけられた者たちがバシリコイ・パイデスへの入学を認められたのだが、これはある種、体のいい人質という側面もあった。フィリッポス2世は優秀な家庭教師を雇うためなら金に糸目をつけず、そうして雇われた1人である高名な哲学者アリストテレスは、バシリコイ・パイデスを「将軍のための学校」と呼んだ。
高貴な家柄の若者たちは、この学校で単に戦争や統治に関する知識を学ぶのみならず、命を賭して君主を守り忠誠を誓うことや、何よりもマケドニアの利益を優先することを叩き込まれた。こうして強固なものとされた国との結びつきは、血縁による繋がりを薄め、貴族による反乱を生じにくくする役割も果たした。卒業者たちにはヘタイロイ
(「友」を意味する精鋭騎兵部隊) における高い地位が与えられた。父王の死後、この伝統はアレクサンドロスに受け継がれることになった。

厩舎 Edit

 騎兵に兵舎があるように、馬には厩舎がある。それどころか、軍で飼育されている馬やロバは、それを世話する人間より上等な扱いを受けるのが一般的である。多くの場合、厩舎は騎兵部隊の兵舎を内包する形になっていた。ローマ帝国のトゥルマ (騎兵小隊) や英国の王室騎兵はその良い例である。敷地内には馬房や飼い葉桶、食糧庫、馬手の住居などがあり、軍の厩舎となると柵で囲まれた馬場や獣医の待機する場所などもある。また、イギリスなどでは、厩舎 (stable) という言葉自体が騎兵部隊の本部を指すものとして使われていた時代もある。軍の厩舎の他に、王侯の馬や馬車を管理する君主専用の厩舎などもあり、そうした場所には近衛騎兵が駐屯しているのが通例であった。ただし、これはすべて過去の話であり、今日、こうした厩舎の大半は、味気ない駐車場にとってかわられている。

オルド Edit

武器庫 Edit

 武器庫は武器や防具を製造し、修理をおこなう場所である。また、当面敵と戦う予定がない場合、兵士に武具を持たせておく必要はないため (それが長い槍や板金製の鎧ならなおさらである)、武具が殺戮に使われることのない平和な時代には、こうした武器庫は倉庫としての役割も果たすことになる。武器庫の歴史はシュメールとアッカドに最初の職業的軍隊が誕生した時代にさかのぼり、以後、それなりの質を備えた軍隊は武器庫を持つのが常となった。その形は単に警備の厳重な倉庫のようなもの (一般民衆を武器から遠ざける目的もあった) からマスケット銃の生産施設のようなものまでさまざまであったと考えられ、軍隊が使用するという目的上、主として兵舎の近くに設けられた。武器庫には文明の道筋を形作ってきた側面もあり、そうした性質を持った場所としてはロンドン塔やハーパーズ・フェリー、クレムリン武器庫、スプリングフィールド造兵廠、ベルリンのドイツ歴史博物館などが挙げられる。

士官学校 Edit

 職業的な軍隊が誕生すると、それを指揮する者もプロフェッショナルとして訓練する必要が生じた (そのほうが効果的だからだが、必ずしもそれは無能な軍隊の誕生を回避するものではない)。より高度な「戦争の技術」を教え、士官を育てる場所である士官学校は、1700年代初頭、ヨーロッパで創設されはじめた。最も古いのは1720年にイギリスのウェルベックに設けられた王立陸軍士官学校であり、ここは工兵や砲兵など、軍隊の中でも特に専門的な技術を必要とする者たちを訓練する場だった。フランスでは1751年に王立士官学校が創設され、一般的な軍事教練を行う初めての場所となった。その後ほどなくして、プロイセン、ロシア、オーストリア、スウェーデン、その他ヨーロッパの小国においても陸軍士官学校が設けられ、士官が養成されることになる。また、少年の頃から戦闘技術を教えるという目的のもと、寄宿学校が設立され、イギリス (ウェルベック大学)、フランス (サン・シール陸軍士官学校)、アメリカ (バレー・フォージ・ミリタリー・アカデミーなど)、ロシア (スヴォーロフ陸軍学校)、その他の国々で大学入学年齢に達する前の士官候補生の訓練がおこなわれるようになった。

Edit

 安全地帯、嵐からの避難所、休息場所、修理をおこなう場所… 港とはつまりそういうところだ。港の必要性は人類が海に漕ぎ出すとすぐに明らかとなった。古代の文明は天然の港を求め、歴史はしばしばそうして選ばれた場所を起点として展開した。やがて防波堤、突堤、護岸、灯台、乾ドックなどが作られるようになり、必要とあらば海底を削って港を作るようにもなった。港は交易や海戦の中心であり、冒険航海の起点であり、移民の終着点でもあった。テクノロジーの進歩により、今では近代的な商船や浚渫船、揚水場などを収容可能な、コンクリートと鋼鉄でできた港を人工的に作ることもできるようになった。塩沼と干潟を干拓したロングビーチ港などはその好例である。

王立海軍造船所 Edit

 1960年代後半まで、イギリス海軍は正式には「英国王立造船所」と呼ばれる施設を世界各地に擁していた。イギリス海軍の基地として機能していたこれらの施設では、艦艇の整備、改装、修理が可能だった。西暦1496年、イギリス最初の造船所がポーツマスに築かれた。以後、数世紀にわたり、この造船所の存在はスペインとフランスを苦しめることになった。1728年には初の国外造船所として、アンティグアのイングリッシュハーバーに王立造船所が設けられた。英蘭戦争、ナポレオン戦争、植民地戦争、そして2つの世界大戦において、王立造船所はおおいに活躍した。しかしイギリス海軍の役割が縮小し、帝国が衰退していくのにともない、20世紀後半には多くの王立造船所が閉鎖され、残っている施設も大部分が海軍の宿舎や訓練施設となった。

コトン Edit

灯台 Edit

 海は危険な場所であり、浅瀬やサンゴ礁、岩などが、不注意な船を奈落に引きずり込もうと待ちかまえている。また、疲労した船員にとって、安全な港を見つけるのはそう簡単なことではない。そのため、古代に人類が船を操るようになるとすぐに、船を危険から遠ざけ、港にいざなうための火が灯されるようになった。そうした火は高いところにあったほうがより目につきやすい。そこで最初に海に乗り出した文明によって灯台が生み出された。古代の灯台で最も有名なのは、やはりアレキサンドリアのファロス灯台であろう。この灯台は、かつて世界で最も栄えていた港湾都市アレキサンドリアに船をいざなう役割をはたしていた。それから2千年のときを経た今日まで、沈没と貨物の喪失を恐れるあらゆる船員たちのため、世界のあちこちに灯台は作られてきた。石と木とレンガだった建材は鋼とコンクリートに変わり、炎はアーク灯へと変わったが、その根本的な役割は今も変わらない。

造船所 Edit

 現時点で人類最古の造船所の跡は、インドのグジャラート州にあるロータス遺跡で見つかっているが、これは紀元前2400年頃のものと考えられている。ギリシャの都市ナフパクトスはギリシャ語で「造船所」を意味し、それは古代にこの街で軍艦が建造されていたことに由来している。帝国を標榜する国には例外なく造船所がある。船は人類の歴史の中で最も早く量産されたもののひとつだった。産業革命より何世紀も以前に、ヴェネツィア国立造船所、通称アルセナーレ・ディ・ヴェネツィアでは、統一規格による部品と組み立てラインを利用することで、1日に1隻の商船や軍艦を完成させることができたと言われている。やがて船が鉄や鋼で造られるようになると、造船所は工場の様相を呈するようになり、1日に1隻を完成させるというわけにはいかなくなったが、巨大な乾ドックでは数々の有名船舶が生み出されるようになり、1909年3月にはベルファストにあるハーランド・アンド・ウルフでタイタニック号の建造が開始された。そして完成から1年ほどのちの1911年5月、この巨大客船は運命の処女航海に向けて出港したのである。

港湾 Edit

 古代の港湾都市は、陸や川へのアクセスが容易で、停泊した船の安全を確保しやすく、それでいて可能なかぎり多くの停泊料を搾り取れる場所が選ばれて建設された。秦朝の広州、アテネのピレウス、エジプトのカノープスとアレキサンドリア、ハラッパーのロータル、ローマのオスティア・アンティカなどがそうした港湾都市の代表である。単なる港とは異なり、港湾都市には索具や修理道具を扱う工房、ドック、停泊所、酒場、遊廓、倉庫など、船と水夫が必要とするあらゆるものが用意されていた。また、ヨーロッパにおける港湾都市は探検と植民地化の起点にもなり、海軍の基地として軍事史を飾りもした。フェニキアやシュリーヴィジャヤ、ポルトガルといった商業帝国は、こうした港湾都市のおかげで興隆を極め、その衰退と共に没落した。数は少ないが、ニューオーリンズやカルカッタといった内陸港も、多くの地域と海をつなぐ役割をはたしている。今日ではポートサイド、ハンブルク、上海、メルボルン、サントス、香港、ロサンゼルス、バンクーバーなどが世界最大の港湾都市として知られており、無数のクレーン、迷路のように入り組んだ道路や線路、そして無数の倉庫と貯蔵庫が貿易による富を生み出しつづけている。

商業ハブ Edit

 商業ハブ (商業中枢) と呼ばれる場所は通常、街のビジネス街にある。資本主義と欲望が街の経済を推し進めているその一画には、市場があり、銀行があり、取引所があり、限られた者に富をもたらしながら街を成長させている。金融業者や会社が集中しているだけの一画が、グローバルな金融センターへと変貌するケースもある。こうした場所に対してはその規模を測るシステムすら存在している。そのグローバル金融センター指数によると、2013年にそれまでロンドンが君臨していたトップの座をニューヨークが奪い、僅差でそれを香港、シンガポール、東京が追っている状態だという。利益を追求する姿勢はあらゆる文明に共通した傾向と言えるのかもしれない。

スグバ Edit

市場 Edit

 ソーカン (アラビア語)、バザール (ペルシア語)、メルカド (スペイン語)、パレンケ (フィリピン語) など、市場はさまざまな名前で呼ばれているが、農民が余剰作物を、商人が商品を手にした瞬間から、この世界に存在しつづけてきた。原始的な市場での取引は物々交換だったが、文字と貨幣の発明によって市場は利益を生み出す、文明にとって欠かせない場となった。市場は街中に位置し、交通の要であると同時に消費の中心地でもあった。テーベ、バビロン、アテネ、ローマ、バンコク、マラケシュ、ロンドン、デリーなど、どんな時代や場所にあっても市場は日用品や新奇な品、そして異国からの輸入品を扱う場所でありつづけてきた。水上市場や屋内市場、路上市や夜市、大市場など、その形態は千差万別だが、その目的はただひとつ、店主に利益をもたらすことである。

織物会館 Edit

 ヨーロッパとロシアに挟まれたポーランドの諸都市は交易で栄えたが、その象徴ともいえるのが各地の大都市にあった織物会館 (スキェンニツェ) である。その内部にはさまざまな商店が立ち並び、生地や革製品、蜜ロウ、塩、コショウ、香辛料、極東の絹など、あらゆる種類の交易品が売られていた。街の中心に作られることが多かった織物会館は、国際市場とでもいうべき場所で、ヨーロッパ各地の大半の市場より大規模で立派だった。ホールや玄関ではさまざまな土地の商人が商談にいそしみ、 (裕福な) 地元の人間は欲しい物をなんでも買うことができた。ポーランドで最も古くて大きい織物会館はクラクフにあるが、これは西暦1555年に消失した建物をルネサンス様式で再建したものと言われている。ここは16世紀終わり頃まで西洋と東洋の交わる交易の中心地として機能したが (現在は菓子や土産物を売っている)、ポズナン、ヴロツワフ、トルンといった都市でも織物会館は商売の場として活況を呈していた。

銀行 Edit

 金貸しや財産の保管庫は古くから存在していたが、いわゆる銀行業と呼ばれるものが興ったのは、ルネサンス初期のジェノヴァ、ヴェネツィア、フィレンツェ、シエーナ、ルッカといったイタリアの富裕な都市においてである。そして14世紀においてすでに富を築いていたバルディ家、メディチ家、ペルッツィ家、キエルキ家、ゴンディ家といった強欲な一族は、その統治領域だけでなく、ヨーロッパ全域に支店を築き、銀行業を掌握するようになっていった。現存する世界最古の銀行はシエーナにあるモンテ・デイ・パスキで、1472年から今日まで営業をつづけている。
1600年までに銀行業は神聖ローマ帝国の領土全体とヨーロッパ北部の国々にまで広がり、その後さらに、ヨーロッパ人による植民地獲得の流れに乗って世界各地へと広まっていった。技術の進歩にともなって銀行の形態は大きく変化したが、預金やローン、クレジットカード、為替、資金運用など、利益を得る構造の根本は変わっていない。

グランドバザール Edit

黄金の宝物庫 Edit

証券取引所 Edit

 証券取引所は株価の変動予想という、多少なりとも洗練された「ギャンブル」を楽しみたい者や、株式公開された会社の所有権を共有したい者のために存在している。ブローカーの助言に従い、彼らに手数料を払えば、誰でも株や債券など、さまざまな証券を取引することができるが、こうした行為はルネサンス時代のイタリアの銀行が会社や事業 (商業航海など) の貸方として取引可能な債権を考案したことが起源となっている。西暦1602年に設立されたオランダ東インド会社は、自社の株を一般に向けて売り出した最初の会社とされており、その投資効果を予測して株を購入した者に対し、年間の利益の一部を配当金として支払った。すぐに他の会社もこれに倣ったが、株は中流以下の庶民には手の届かないものだった。そうこうするうちに、ジョン・キャスタインというあまり芳しくない評判を持つイギリス人が、ロンドンの「ジョナサンのコーヒーハウス」で株のリストや品物価格などを壁に貼り出し、手数料を取って売買を仲買する商売をはじめた。これがロンドン証券取引所の起源である。以降、南海泡沫事件やチューリップ・バブルなど、さまざまな欲望やスキャンダルを生み出しながらも、投機行為は今や社会にしっかりと根をおろしている。

総合娯楽施設 Edit

 市街地に存在する「娯楽エリア」は、人々から日々の生活の辛さを忘れさせる役割をはたしている。中には博物館や動物園などが1箇所に集まった総合娯楽施設もある。劇場やパブ、コンサートホールが集まる一画や、スポーツイベントが開催されるスタジアムやアリーナがある一画も、それに相当する。モントリオールのカルティエ・デ・スペクタクルやウェリントンのテ・アロ、ハンブルクのザンクト・パウリなど、その形はさまざまだが、あらゆる都市に市民に幸せと誇り、そして社会的なアイデンティティをもたらす場所が存在している。田舎では無理な、都市ならではの施設と言えるだろう。

ストリートカーニバル Edit

 都市には――特に四旬節の時期には――ストリートカーニバルがつきものだが、祝祭日を楽しむことにかけてブラジル人の右に出るものはいない。パレード、コンサート、演奏会、仮装パーティー、晩餐会 (酒がたっぷりと用意される) などで、彼らはおおいに盛り上がる。お堅いポストモダン社会学者は、社会慣習であるカーニバルによってもたらされるのは、気詰まりな都市生活からの一時的な逃避だけではないという。人々を「無意味」な活動に参加させることで、社会秩序を脅かす人間生来の欲求を発散させ、マイノリティ集団が社会的対立に目を向けるのを防ぐ役割もあるというのだ。この説が正しいか否かはともかく、リオデジャネイロのストリートカーニバルの規模は世界最大で、近年は1日あたり200万人を超える人々が参加している。

ヒッポドローム Edit

アリーナ Edit

 アリーナは円形闘技場の屋内版といえる存在だ。ローマ帝国各地のコロッセオに敷き詰められた、流された血の吸収がよい砂をラテン語で「ハリーナ」と呼んだことがその名前の由来とされているが、今日、スポーツの試合やコンサート、政治討論などのイベントに足を運ぶ人々がその事実に思いをはせることはない。アリーナの最も大きな特徴は、催しが行われる場所が一番低く、観客席がそれを囲うようにせり上がっている点だろう。古代の人々にとって広いスペースを屋根で覆うのは簡単なことではなかった。人類最初のアリーナにあたるのがどれかはわかっていないが、かの有名なコロッセオには、観客席を覆う収納式の天幕が設置されていたと言われている。現在世界で最も大きなアリーナは、フィリピンのボカウェにあるフィリピン・アリーナで、約5万5千人を収容することができる。しかし最も有名なのはやはりニューヨークにあるマディソン・スクエア・ガーデンだろう。1879年にP・T・バーナムという人物がオープンさせたこの施設は、過去に4度名前を変えている。現在のマディソン・スクエア・ガーデンは1968年にオープンし、以降1万8千人から2万人 (イベントによって異なる) を収容可能なアリーナとして、歴史と喜怒哀楽を生み出す場所として存在しつづけている。

トラクトリ Edit

 中南米の人々は、2700年にわたり、ナワトル語でオーラマリィッツィという伝統的な球技を「球技場」で催してきた。これはチーム制のラケットボールのような球技で、その競技会で敗北した (ときには勝利した) 者は首をはねられて生贄に捧げられるという、宗教的要素が強いものだった。試合後の斬首というのは、エル・タヒンやチチェン・イツァなど、その他多くのマヤ文明ゆかりの地でも見られる特徴である。試合のルールは場所や時代によって若干異なるが、南はニカラグア、北はアリゾナにいたる中南米全域に普及していた。競技場は石造りで、高いスロープ状の壁の間に長くて狭いフィールドがあり、広いゴールエリアの背後には壁がなかった (後には壁が設けられた)。彩色され、装飾が施されたこうした競技場は、スペイン人によって別のスポーツがもたらされるまで、中南米文明の象徴でありつづけた。

動物園 Edit

 古代都市ヒエラコンポリスの遺跡では、これまでに知られている中で最も古い動物園の跡が見つかっている。時代的には紀元前3500年頃のもので、カバ、象、ハーテビースト、ヒヒ、ヤマネコなどが飼育されていたと考古学者たちは考えている。紀元前12世紀には中国の皇后が「鹿の家」と呼ばれる場所を作り、その後、周の文王によって約6平方キロメートルの広さの動物園が築かれた。アレキサンドロス大王は珍しい動物を生け捕りにしてギリシャに送って見世物にし、ローマ皇帝は多種多様な動物を収集して市民に公開した。人類は常に檻に入れた動物を見物して楽しんできたが、それを見返す動物たちがなにを思うかを知る者はいない (おそらくは知らないままのほうがよいのだろう)。現存している最も古い動物園はウィーンにあるシェーンブルン動物園であり、これは1765年にハプスブルク家が所有していた珍しい動物を一般公開したのが始まりである。また、1931年には檻がひしめく従来の動物園の「進化版」として、イギリスに最初のサファリパークとなるホィップスネイド野生動物園がオープンした。

温泉 Edit

スタジアム Edit

 スタジアムはコロッセオの進化版とも言える (少なくとも軽食の種類やトイレの数はこちらのほうが多い)。スポーツ競技を楽しむ場所としてのスタジアムで、知られているかぎり最も古いのは、ペロポネソス半島西部に存在したとされるもので、ここは紀元前776年に開催された最初のオリンピックの会場にもなった。ギリシャ人とローマ人が作ったスタジアムの遺跡は、さまざまな都市で発見されており、彼らが競技見物を好んでいたことを証拠づけている。ヴィクトリア朝時代になると、さまざまな娯楽が盛んになり、特にヨーロッパではサッカー、アメリカでは野球といったチームスポーツの人気が高まったことにより、世界各地にすさまじい勢いでスタジアムが建設されていった。ちなみに、産業化の時代に建てられたスタジアムの多くは木造で、ダブリンのランズダウン・ロード (1872〜2006) やボストンのサウス・エンド・グラウンズ (1871〜1914) などはその代表例である。一方、今日のスタジアムはコンクリートと鋼鉄で築かれている。その中には収容人数が10万人に達する施設もあり、スポーツの試合やロックコンサート、政治集会などに集まった人々を熱狂と興奮へといざなっている。

劇場広場 Edit

 19世紀後半、都市で暮らす中流階級が文化的に洗練されてくると、素手での殴り合いや動物のショーよりもっと上質な娯楽が求められるようになった。そうして誕生したのが、富裕層から資金提供を受けた劇場や博物館の集まる一画である。1800年代前半には、ロンドンのコヴェント・ガーデンにあるロイヤル・オペラ・ハウスを基点にして、ウェストエンド・シアター地区が形成された。ニューヨークでは、1883年にブロードウェイ39丁目にメトロポリタン歌劇場が移転したのをきっかけに、その近辺に数多くのミュージックホールやレストランが立ち並ぶようになった。そして、やがてこうした場所は、録音スタジオ、ラジオ局、エージェント、プロデューサーなど、芸能に携わる人々を商売の種にするさまざまな施設や人の集まる場となっていったのである。

アクロポリス Edit

 古代ギリシャ語でアクロポリスとは「高いところにある街」を意味する。アテネ、コリントス、アルゴス、テーベなどはまさにそうした都市であり、防衛に適した丘の上に街の一部が築かれていた。こうした高台は急峻な崖に囲まれている場合が多く、外壁を乗り越えて敵が街に侵入した場合、アクロポリスは最後の砦として機能した。さまざまな時代や場所において、新しい街はこのアクロポリスを核として発展したが、古代ギリシャのアルカイック期になると、街の発展と共に蛮族の脅威も低下したため、アクロポリスも「再開発」の対象となった。つまり、丘の上に建っていた質素な家や市場、兵舎、広場などが取り壊され、かわって神殿や劇場、裁判所、宮殿、行政施設などが建てられたのである。

円形闘技場 Edit

 パンとサーカスでは満足できない大衆を満足させるために劇場や競技場といった場所が存在する。野外アリーナの一種である円形闘技場では、演劇やスポーツイベント、演説などがおこなわれる。人を集めておこなわれる催しは、こうした場所が生まれる前から存在していたが、その会場はそのつど用意するのが一般的だった。しかし紀元前532年頃にギリシャ人が演劇を創始すると、それを演じるために「シアトロン」と呼ばれる小さな野外施設が建設され、なにかにつけてより大きく、より良いものを作ろうとするローマ人によって、円形闘技場が生み出されることとなる。ローマ人は征服した多くの土地にもこうした円形闘技場を築いたが、それはローマ文明への仲間入りを望む辺境の地の願いをかなえる行為でもあった。かくして円形闘技場は、演劇や剣闘士の戦い、オリンピック、宗教的行事、処刑、政治討論、コンサート、その他あらゆる種類の娯楽イベントを開催するのに格好の場となり、これを築く習慣はローマ帝国の域外にまで波及することになったのである。

マラエ Edit

美術館 Edit

 美術館あるいは博物館とは、市民が財源を (通常は税金という形で) 負担して運営される公共施設であり、大衆の啓蒙のために美術品の収集や公開をおこなうことを目的とする。美術品の種類は多岐に渡り、絵画、彫刻、陶磁器、金属工芸品、印刷物、映像作品などさまざまである。このように大衆が高尚な文化に触れる機会を設けようとする試みの中で、おそらく史上初の美術館と呼べるのは、1671年に設立されたバーゼル美術館だろう。しかし、一般大衆の教化を目的とした美術品の収集というアイディア自体は、カピトリーノ美術館、バチカン美術館、ウフィツィ美術館などが開設されたルネサンス期にまでさかのぼることができる。その後、1700年代になると、エルミタージュ美術館、プラド美術館、ルーヴル美術館、そしてアメリカ初の博物館であるチャールストン博物館など、多くの有名な美術館や博物館が新たに開設された。このうちルーヴル美術館が設立されたのは、フランス革命直後の1793年のことである。革命によって、それまで王室が所有していた美術品のコレクションは民衆のものであると宣言され、そうして金持ちに独占される日々から解放された美術品の数々は、今度は美術館で美しく展示され、ポカンと口を開けた大衆に見つめられる日々を送ることになったのだった。

考古博物館 Edit

 人間は多くのガラクタを作り出し、古いガラクタにも強い魅力を見出す。かくして人類のもっとも大切な「宝」を保管し、大衆に公開するための場所として博物館が誕生した。博物館と一口に言っても、美術品のコレクションを展示する施設もあれば (これは「美術館」とも呼ばれる)、化石や歴史的な遺物、大衆文化が生み出した珍品などを展示する施設もある。また、衣装や宝石、武器、小道具にいたるまで、人間の興味の対象となるものであればなんでも収集され、館内を飾ることとなる。こうしたコレクションが最初に展示されたのは、紀元前530年頃に築かれたエンニガルディ・ナンナの博物館であるとされている。考古学者によって遺跡の中から展示品に関する注意書きが発見されたことで、ここが博物館であり、多くの人が見物に訪れていたことが明らかになったのだ。しかしこうした大衆へのコレクションの公開が本当の意味で盛んになったのは啓蒙時代であり、ロンドン塔の王立武器庫、ブザンソン美術歴史博物館、そしてサンクト・ペテルブルクのクンストカメラなどはこのときに建設されている。こうした古い博物館や美術館は、その建物そのものが、展示している品々同様、歴史的遺産であると言えるだろう。

放送センター Edit

 最初のラジオ放送がおこなわれてすぐ、この世界初の放送センター、「ブロードキャスティング・ハウス」は完成した。世界最古にして最大の放送局であるBBCの本拠地となっているこの場所は、スタジオ、録音ブース、アンテナ、その他さまざまな素人目にはなんだかよくわからない設備の集合体であり、ラジオ番組とテレビ番組を電波に乗せて送ることで、自宅にいながらにして楽しめる娯楽を多くの人々に提供しつづけている。イギリス国民に質の高い娯楽と情報を届けるという目的のもと、1922年に政府が援助する形でBBCが設立されると、その流れはすぐにイギリス連邦の多くの国に波及し、その他のいくつかの国々もそれに倣った。アメリカでは、スポンサーに広告の時間を売ることで運営資金を獲得した民間の放送会社が番組作りでしのぎを削るようになり、1928年には3つのネットワーク (そのうち2つはNBCが所有) が誕生した。こうした会社はそれぞれが放送センターを建設し、広告収入に直結する視聴者数を競い合いながら、あらゆる土地へ電波を発信したのだった。

映画スタジオ Edit

 1893年にトーマス・エジソンによってニュージャージー州のウェストオレンジに建てられたタール紙に覆われた小さな小屋、「ブラック・マリア」は、世界最初の映画スタジオとも言われている。ここでエジソンは寄席芸人や劇団員などを招いて撮影をおこない、アーケードや使われなくなった劇場、催事会場のテントなどで上演会を催した。1909年にはエドウィン・タンハンスが古いスケートリンクを利用して商業映画を制作し、1910年から1917年の間に1086本の作品を撮ったと言われている。同じ頃ヨーロッパでは、パテ (フランス)、バイエルン・フィルム (ドイツ)、モスフィルム (ロシア)、イーリング・スタジオ (イギリス) といった映画スタジオが誕生し、1911年のネスター・スタジオを皮切りに、ロスアンゼルスにも数多くの映画スタジオが設立された (その理由はさだかではないが、当時の原始的なカメラは、自然光で撮影するのが最適だったからとも考えられている)。1920年にはハリウッド郊外で何本も映画が撮られるようになり、人類が新たに知った現実逃避のための娯楽を次から次へと量産していった。今日、映画の撮影はロケが中心となり、スタジオ撮影は過去のものになりつつあるが、いまだ主流を占めている国も存在している。

工業地帯 Edit

 現代文明では、大規模な製造や輸送がおこなわれる場所を工業地帯と呼んでいる (「工業団地」という呼び名もある)。産業革命が起こるより随分前から、製錬所、なめし革工場、畜殺場といった騒々しい施設や悪臭を発する施設、危険な施設は街の壁の外に建設されるのが一般的だった。こういった場所に材料を運び入れ、できあがった製品を運び出すための輸送設備が発達したのは、いわば必然であった。今日の工業地帯は、高速道路、鉄道、空港、港などの複合体となっており、倉庫、発電所、給水塔、パイプライン、通信ネットワークといったインフラも充実している。工業が発達するにつれて工業地帯もまた拡大し、エドモントン郊外にあるアップグレーダー・アレイなどは318平方キロメートルもの広さがある。

ハンザ Edit

 古フランス語を語源とするハンザは、ある街において商人たちが創設するギルドの一種であり、商売と輸送の便宜をはかり、それを保護することを目的としていた。13世紀になると、バルト海と北海の商港においてこうした商人ギルドは非常に強い影響力を持つようになり、その本部は「ハンザ」と呼ばれるようになった。最も大きいハンザは、競合する各ギルドの管理事務所だけでなく、倉庫や工房、市場、銀行など、利益に関わるあらゆる設備を内包していた。こうした最初の例が、西暦1159年頃にリューベックに創設されたハンザである。西ヨーロッパと資源豊富なロシア北部の一帯は、このハンザによる交易で大いに栄えた。

オッピドゥム Edit

工房 Edit

 工房は木、金属、ガラス、セラミックなど、さまざまな素材を使って物を作る場所である。工具と簡単な機械設備を備えたこの空間は、何百年もの間、熟練の職人が住まう場所として、ドアやドアノブ、ガラス製品、馬の蹄鉄 (鍛冶屋の炉も工房の一種といえるだろう) など、さまざまなものを生み出してきた。工房は人類最古の集落にすでに存在しており、人間はホモ・ファーベル (「工作する人」) であることを証明している。中世に入ると工房の経済効果が高まり、技術が確立され、徒弟制度によって若者が熟練の職人から高い技術を伝授されるようになる。こうした師弟関係は数年間つづき、やがて弟子が一人前になって自分の工房を持つことで終わりを告げるのが一般的だった (自分の工房を持たない者は雇われの職人となる)。しかし、後の産業革命はこうした制度を根底から揺るがした。工場で大量の製品が、より安価に (しかし低品質に) 製造されるようになったからである。

工場 Edit

 産業革命により、かつては手作りされていた物が工場で大量生産されるようになった。かくして優れた職人が誇りをもって「作品」を作っていた工房は、組み立てラインとシステム化された大量生産の前に敗れ去っていったのである。こうした工場の原型を考え出したのは、イギリス人のリチャード・アークライトであるとされている。1769年にアークライトは水力紡績機の特許を取得し、ダービーシャーにクロムフォード工場を築いた。この際に彼は糸車の扱いに熟練した作業員を解雇し、技術はないが大量に
(しかし低品質の) 糸を生産できる移民を雇用した。言うなればアークライトは作業員を交換可能な部品に変えたのだ。このやり方はすぐ他でも真似され、蒸気機関や電気といった技術革新と相まって、多くの業界に波及していった。こうした生産施設の工業化の仕上げをおこなったのがヘンリー・フォードである。彼は1913年に組み立てライン方式を採用した最初の工場を作り、互換性のある部品を使うことで自社の自動車「フォード・モデルT」を93分で組み立てることに成功した。

エレクトロニクス工場 Edit

 家庭用電化製品の誕生により、20世紀後半になると娯楽、通信、その他の用途の機器の市場が一挙に花開くことになった。全米家電協会は、パソコン、MP3プレイヤー、計算機、デジタルカメラなど、個人が利用するための電化製品の売り上げは2007年に1500億ドルを上回ったと見積もっている。こうした現代の大衆の渇望に応えるため、特別な技術を持たない労働者たちを各地のエレクトロニクス工場に集め、システム化された環境のもとで部品を組み立てさせることにより、次々と新製品を世に送り出しているのだ。この大きな流れの先頭に立っているのは、世界最大のエレクトロニクス産業を抱える日本であり、韓国と中国がそれを猛追する状態となっている。最初の「近代的な」エレクトロニクス工場は1946年にソニーによって築かれ、1950年代には日本の技術者たちがトランジスタの商業利用に成功、1970年代と1980年代には半導体もその流れに加わった。日本はエレクトロニクスの小型化と生産システムの確立を先駆けることで、競争の激烈なこの業界において自らの工場の利益を最大限に引き上げることに成功したのである。

発電所 Edit

 それが水力であれ、原子力であれ、太陽光であれ、化石燃料を使った火力であれ、潮力であれ、発電所の目的は1つしかない。それは過去160年間、消費量が増す一方の電力をまかなうことである。その方式がなんであれ、あるエネルギーを別のエネルギーに変え、生活の快適性を向上させるという原則が変わることはない。世界最初の発電所は、1868年にウィリアム・アームストロング男爵によってイギリスのノーサンバーランドに建設された。それは湖の水を使って発電機を動かし、照明や暖房、エレベーターなど、男爵の邸宅内のさまざまな機器に電力を供給するものだった。1882年には一般市民が利用できる最初の発電所がロンドンで稼働を開始し、その年の9月にはニューヨークでパール・ストリート・ステーションが稼働を開始してロウアー・マンハッタンに電気を供給した。パール・ストリート・ステーションは1890年に焼失したが、その時点ですでに電気は人々の生活に欠かせないものとなっており、現在ではアメリカ国内だけで7300箇所以上の発電所が稼働している。

石炭火力発電所 Edit

石油火力発電所 Edit

原子力発電所 Edit

飛行場 Edit

 飛行場は航空機が離着陸する場所である。国際民間航空機関の定義によれば、飛行場とは「航空機が出発と到着、そして地表移動をおこなう水面あるいは地面」となっている。これに適合する最初の場所は、パリの郊外のヴィリー=シャティヨンに設けられた。飛行機が発明されて間もない頃は、平らで開けている草原ならどこでも飛行場として機能したのである。そのため、今日の飛行場とは違い、飛行機は風向きや天候に応じてどの方向へでも離陸することができた。必要なものといえば吹き流しと旗くらいだったが、やがて「賢い」誰かが舗装された滑走路というものを思いついたことで、離陸と着陸は複雑さを増すことになった。

格納庫 Edit

空港 Edit

用水路 Edit

 用水路の跡は、エジプト、インド、ペルシア、ギリシャ、アステカなど、世界各地の古代都市遺跡で見つかっているが、中でも特筆すべきはローマだ。ローマでは415キロメートル以上の長さに及ぶ用水路が敷かれ、飲用や入浴用の真水を都市にもたらしていた。こうしたローマの用水路は当時の土木工学の精華であり、屋根がかぶせられていることも多かったため、峡谷や水路を渡る橋としても使われた。用水路はその構造に健康へのリスク (外壁を固めるのにしばしば鉛が使用された) を含んでいたが、それでも比較的清浄な水を供給できるこの設備は、大都市への成長を望むあらゆる街にとって大きな価値があった。

浴場 Edit

 古代ローマの時代、多くの家や宮殿にはプライベートな浴室が設けられていたが、身体の汚れたせわしない一般市民が身を清めてくつろぐ場所として、大規模な公衆浴場が開放されていた。その間取りは都市によって大きく異なったが、大抵はリラックスとエクササイズのためのアトリウム (吹き抜け空間)、カルダリウム (高温浴室)、テピダリウム (微温浴室)、フリギダイウム (冷水浴室)、アポディテリウム (更衣室) があり、設備の充実している浴場ともなれば、スダトリウム (湿り蒸気浴室) やラコニクム (乾燥蒸気浴室) もあった。女性用の浴室も充実しており、壁画やモザイク画などで鮮やかに装飾されていた。コロッセオで何時間も殺し合いを見物し、長い一日を終えようとする市民にとって、大衆浴場を訪れるのはなによりの楽しみだったことだろう。

近郊部 Edit

 現実の近所づきあいがテレビドラマで描かれるような優しさと夢と個性に満ちたものであることはめったにない。産業革命によって、初めて田舎より都市に住む人のほうが多いという状況になったが、当時は交通手段が限られ、その速度も遅かったため、ロンドン、ニューヨーク、ベルリンなどでは、工員や事務員は職場の近くにひしめき合うようにして住んでいた。こうして清潔とは言いがたい住宅群が形成されていったのだが、電話や車が発明されると、こうした中流の人々はごみごみした不潔な街を脱出し、郊外に住宅を構えるようになった。1880年代にはロンドンがウェンブリー・パークやキングスベリー・ガーデン・ビレッジといった計画的な住宅地によって囲まれるようになり、その傾向はすぐに他の都市にも波及していった。

ンバンザ Edit

 ンバンザとはコンゴ人の言葉で「街」または「集落」を指す。ポルトガル人が中央アフリカにやって来た頃、ンバンザ・コンゴは交易と工芸で栄える大きな街となっていた。人口の大部分は街の周辺の住宅街で暮らしており、その数は10万人に達していたとも言われる。市街地には市場や工房などが存在し、教会、宮殿、学校、病院、税務署といった主要施設は丘の上に集中していたと考えられている。1648年にこの街を訪れたフランチェスコ・ダ・ローマの記述によると、こうした施設は市街地といくつかの坂道によって結ばれ、祝祭や税を納める日には、これらの道が多くの人でごったがえしたという。その意味でンバンザ・コンゴは、郊外住宅地の先駆けというだけでなく、ラッシュアワー発祥の地とも言えるかもしれない。

食料市場 Edit

ショッピングモール Edit

宇宙船基地 Edit

 宇宙への扉ともいうべき宇宙船基地 (または宇宙センター) は、「大いなるフロンティア」への冒険と探索といったイメージに彩られている。しかし現実はそれほどロマンティックなものではない。乗り物が船や飛行機からロケットに変わっただけで、実体は港湾や空港とさほど変わらないとも言えるからだ。港湾や空港と同様、宇宙船基地もまたクレーンやデリック、管理棟、コントロールセンター、燃料タンクといったインフラによって構成されている。世界初の常設有人ロケット発射場であるバイコヌール宇宙基地は、もともとは西暦1955年にソ連のミサイル試射場として建設された施設だった。これに触発されたアメリカもまた、ケープカナベラにあった空軍のミサイル試射場をロケット発射場に変え、まずは準軌道ロケットを、つづいて軌道ロケットを打ち上げるようになった。こうして宇宙開発競争時代がその幕を開けたのである。

ウォーターパーク Edit

コパカバーナ Edit

フェリス式観覧車 Edit

水族館 Edit

水泳施設 Edit

政府複合施設 Edit

祖廟 Edit

謁見の間 Edit

将軍府 Edit

グランドマスターの礼拝堂 Edit

諜報機関 Edit

外務省 Edit

女王の図書館 Edit

王立協会 Edit

国立歴史博物館 Edit

国防省 Edit

ダム Edit

水力発電ダム Edit

運河 Edit

外交街 Edit

領事館 Edit

在外公館 Edit

保護区 Edit

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聖域 Edit



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