故地・ブリタニア(現在のグレートブリテン島)がローマ帝国の侵略に晒される中、反乱を起こし、ローマに猛然と反抗した女傑。前作のCiv5ではケルトの指導者であったが、現在は大将軍に降格(?)してしまった。
そんな彼女の固有能力は『隣接する蛮族ユニットを自文明に転向させる』というもの。これはブーディカが蜂起した際、20万と言われる人間が彼女に従った故事からくるものだろう。これはトリノヴァンテス族をはじめとするイケニ族の周辺部族が皆彼女に従った結果生まれたものだ。蛮族が従うというのは恐らくローマからすればブリタニアの原住民は蛮族同然と見ていた事からと推測される。
イケニ族は現在の英国・ノーフォーク州を根城とするケルト人の部族の一つであった。しかし、四代ローマ皇帝・クラウディウスの親征によってブリタニア南東部に存在した諸部族は従属もしくは征服を余儀なくされた。遠征とはいえその実は融和的で、征服される部族もあれば従属や同盟だけで済まされた部族も数多く有った。イケニ族は幸運にも同盟によってその存在を永らえていた。当時のイケニ族の長でありブーディカの夫であったプラスタグスは独立を確固たるものにするため、自らの死後イケニの領土は自らの娘とローマ皇帝の共同統治にすることを約定した。
しかし、プラスラグスが亡くなるとこの約束は破られた。ローマはイケニの領土を併呑し、貴族の領土を没収した上に略奪、女は辱めるなどのやりたい放題を行った。統治者になるはずであったブーディカの娘もローマ軍によって強姦される憂き目に遭った。
この雪辱を被ったブーディカはローマへの復讐を決意。60年。彼の地の総督を務めていたスエトニウスの軍勢が他の部族の砦攻めに行ってる隙を突いて近隣の部族と共に蜂起し、反乱の口火を切った。ブーディカの軍勢はローマの植民市(コロニア。ローマが征服地に置いた都市)を標的としケリアヌスの軍勢を破った後、最初にローマの退役軍人が作ったカムロドゥヌム(現在のコルチェスター)を攻撃。この都市のみではなく植民市には簡単な守備隊しか置かれていなかった。カムロドゥヌムも例外ではなく200人程度の守備隊が守るだけでブーディカの前には敗れるしか無かった。
勝利したブーディカはそのまま都市を破壊し、続いてロンディニウムに進撃した。ロンディニウムという言葉を見てピンと来た人もいるだろう。そう、これは後の現代の英国の首都、ロンドンである。この当時は建設から20年しか経過しておらず多くの商人や旅行者が訪れていた。この都市もブーティカの軍勢に略奪され、住民は虐殺された。続いてヴェルラミウム(現在のセント・オールバンズ)も攻撃し同じ事を行う。
これら三都市の被害は惨憺たるもので、七万人以上のローマ人が殺された。彼らは奴隷として生きる道さえ与えられずまさに仕返しのようにただただ虐殺されるのみであった。
しかし、ブーディカの命運はここで尽きた。総督のスエトニウスは反乱の知らせを聞いて軍を反転させる。ブーディカの軍勢は20万と数こそ多かったものの装備や練度の面ではローマ軍の誇るレギオン達の敵ではなかった。
スエトニウスはロンディニウムの近くワトリング街道の隘路を決戦の地に選んだ。これは狭い街道に誘い込むことで数の優位(ローマ軍は1万人と圧倒的に不利だった)を突き崩す事を目的としたものである。スエトニウスの狙いは見事に的中し、ワトリング街道でブーディカの軍勢は総崩れになった。因みにこの時ローマ軍は白兵戦を避けてピルム(投槍の一種)の投擲攻撃で一方的に射殺するという戦術をとった。これでは狭い街道ということも相俟って最早まともな戦いにはならない。最終的にブーディカの軍勢はローマ軍の400人の死者に比して200倍の8万にのぼる死者を出して惨敗した。
この知らせを聞いたブーディカはその後病死したとも毒をあおって死んだとも伝えられるが真相は明らかになっていない。
彼女の故事はルネサンス期におけるギリシア・ローマへの回帰をきっかけにして見直され始め、ヴィクトリア期には詩の題材やフリゲード艦隊の名称に使われるなどして英国民の心に強く残った。現代でも映画や漫画、小説などで今や英国のみならず世界中で彼女の名前や勇猛な故事は残り続けている。
第二次ポエニ戦争時、共和制時代のローマを散々苦しめ一時はローマにも迫ったカルタゴの名将。中でもカンネーの戦いは象徴的で、現代に至るまで包囲殲滅戦の手本として士官学校などで教えられている。
彼の固有能力は『陸上ユニット1体に昇進1つを与える』というもの。連戦連勝を誇っていたカルタゴ軍だが、被害もただならぬものでアルプス越えの後には四割の将兵を失い、象兵に至っては半分がアルプスを越えられなかった。しかしそれでもハンニバルはうろたえずに毅然としており将兵たちは強く彼を信頼したという。恐らくはその信頼が昇進の形でゲームに反映されたものと思われる。
鄭和(てい わ)。明・永楽帝の治世に活躍した宦官。永楽帝の命を受けて朝貢目的で大航海を行う。この大艦隊はアフリカのマリンディにまで辿り着いておりこれはヨーロッパの大航海時代から100年近く先取りした大きな事跡といえるだろう。
彼の能力は『使節団1つを得る』。これは朝貢目的での航海を使節団という形で具現化したものだろう。
畢昇(ひっ しょう)。北宋において活躍した発明家。特に目立つのは活版印刷の発明である。グーテンベルクよりも400年程早く活版印刷を発明したが、我々日本人からしても分かるように漢字圏では必然的に必要な活字が多くなってしまう為中国では活版印刷はあまり普及せずに終わってしまった。(彼の国では木を彫って版を作る木版印刷が主流だった)
彼の固有能力は『区域建設の人口による制限-1。印刷に対してひらめきを得る』。前者は不明だが後者は活版印刷発明の功績を反映してのものと思われる。
ルネサンス期に活躍したイタリアの彫刻家でありルネサンス最初の建築家。フィレンツェの象徴ともいえるサンタマリア大聖堂(別名:花の聖堂)の建築に関わり、現代の美術にも伝わる透視図法の発案者とも目されている。
彼の能力は『遺産の生産力315を得る』(×2)。これはイタリアに残る数々の遺産や傑作を残した功績を反映したものと思われる。
パリの代名詞ともいえるエッフェル塔を建設した人物、建設業者でもある。元々エッフェル塔は1889年のパリ万国博覧会のモニュメントであり当初は装飾を一切排した奇抜な外見から批判も多く寄せられたがなんとか現代までその姿を残している。他にも彼の会社は自由の女神などの建設にも関わっており近代建築史を語る上で欠かせない存在である。
彼の固有能力は『遺産の生産力480を得る』(×2)。これら遺産の建設の功績を反映してのものと考えられる。
記録に残っている限りでは初めて地中海から大西洋に進出したとされる人物。フェニキア人であり、エジプトとの交易の為にエーゲ海のサモス(トルコ沿岸にあるギリシャの島)を出発したが風向きのせいで航路から外れ現在のジブラルタル海峡から大西洋に出たという。しかし、これは怪我の功名となった。彼は南スペインのタルテッソス(ジブラルタル周辺にあった国)に上陸し、本国に報告した後にこの地域との貿易を確立した。
彼の能力は『信仰力100を得る。タイル上の高級資源を首都に追加で与える』。前者は不明だが後者は異文化圏との交流による効用を高級資源の追加効果という形でゲームに反映したと思われる。
張騫(ちょう けん)。前漢・武帝の時期における政治家・外交官。武帝は匈奴(北方に存在した騎馬遊牧民)撲滅の為に西域(現在の中央アジア)の諸勢力との同盟を考えていた。その交渉役に抜擢されたのがこの張騫である。張騫は大月氏との同盟を成立させる為に派遣されたが途中匈奴に捕まり、なんとか逃げた後も大月氏との同盟に失敗した上に匈奴に捕まるという不運な運命をたどった。彼が西域から戻ってきたのは13年してからのことだった。その後には烏孫との同盟に使者として遣わされこの時は成功した。
彼が西域から持ち帰った事物は大量にあり、コショウやクルミ、ニンジン、キュウリなどなどその作物は主要な貿易の品目となって後々まで中国の経済発展に貢献した。(因みにこれらは漢字にすると頭に胡の字がつくがこれは外からきたものという意味である)
彼の能力は『交易路+1。国外からの交易路は両者にゴールド+2』。先述したような地域間の貿易発展に寄与した功績を反映したものであると思われる。
19世紀に活躍したロシアの科学者。周期表を初めて作成した人物として伝わる。彼はこれまでに発見された元素を原子量などの法則に基づいて周期表という形で作成。これ以前にもフランスのラヴォアジエなどの手で元素をまとめた表はあったものの表記の仕方はバラバラで統一的ではなかった。メンデレーエフが周期表を作った当時は63個の元素しか発見されてなかったが彼は他の元素の存在も予言している。因みに現在発見されている元素は114種。
彼の能力は『化学と産業時代の技術1つに対してひらめきを得る』。化学に対するひらめきは上記の功績を反映したものと考えられる。
※太字は傑作に使われた作品を指す
世界最古の詩人であり、ギリシャ神話を叙事詩として大成させた人物である。ギリシャ神話そのものはホメロス以前から語られてきたものだがホメロスはそれを自らの才能で大衆に分かりやすく解釈して作り上げた。我が国でいうなら漫画を現在の形にまで昇華させた手塚治虫のような立ち位置であろうか。ホメロスの叙事詩は現在に至るまで残り続け西洋の文化史に色濃く残った。
著作は『イリアス』『オデュッセイア』『蛙鼠合戦』などが伝わる。
言わずと知れた日本を代表する平安時代の女流作家。式部は父親の官職(式部省の官職、式部大丞から)より、紫は源氏物語に登場する光源氏の妻・紫の上から取られたとされており本名は現在に至るまで不明。当時の女性はこのように親の官職や住処などから呼称されることが多くあり名前は残っていないことのほうが多い。
著作は今作の傑作にも使われている『源氏物語』、『紫式部日記』が知られている。
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