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[[歴史的背景/無印歴史的背景]]
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*区域・建造物 [#y097079a]
#contents

**都心 [#sd7b81d0]
 都心とはある都市の政治、文化、歴史、商業、地理の中心を指す。少なくとも理屈の上ではそうだ。しかし世界各地の例を見るかぎり、その誕生は村が町へ、町が都市へと発展する中で文明に付随するさまざまな要素が自然と強調された結果であり、計画的なものではないことが多い。都心を歩くとさまざまなことがわかる。まず、都心に暮らす人はそれほど多くない (少なくとも高層マンションが出現するまでは)。そのかわり都心には人目をひくモニュメントや大きな公園、空高くそびえるオフィス、仰々しい政府施設などがあり、いわば街の「人格」が垣間見える。また、大都市に発展する以前に最初の集落ができた場所 (再開発で消えていることが多いが) でもあるため、その街で最も歴史のある一画であるとも言える。

**聖地 [#g7e90e07]
 信仰によって統率された文明においては、神殿、寺院、修道院、祭壇、教会などが集まる「宗教地区」が都市に形成されることがある。そうした場所は、奇跡や啓示などがもたらされた「聖地」であることが多い。カアバ神殿を中央に抱くイスラム教最大の聖地メッカもそうした場所のひとつである。エルサレムもまた多数の聖地に彩られた場所であり、ローマの中央にはローマ・カトリックの聖都バチカンがある。イスラム教徒にとってのハッジ (メッカへの巡礼) やシーク教徒の黄金寺院への毎日の礼拝、ユダヤ教徒やキリスト教徒の神殿の丘を望まんとする想いなど、聖地への巡礼を願う心は今も健在である。

***ラヴラ [#j2ebcb98]
 東方正教の流れを汲む修道院であるラヴラ (ギリシャのアトス山やルーマニアのネアムツなどに見られる) は、修道者の各居室と中央にある聖堂または修道院長室を回廊によって結んだ造りになっている。おそらく最も有名なラヴラは、サンクトペテルブルクにあるアレクサンドル・ネフスキー大修道院だろう (修道院に軍人の名前をつけることの是非についてはロシア人の良識を信じるほかない)。ここにはネフスキーその人をはじめとして、オイラー、スヴァーロフ、ムソルグスキー、チャイコフスキー、ドストエフスキーなど、名高いロシア人が多く埋葬されている。4世紀前半、エジプトの砂漠にあるニトリア周辺におよそ600人の修道者が住みつき、それがラヴラの起こりとなったと考えられている。厳格な隠遁生活を旨とする修道者たちは、俗世と交わることなく祈りに専念した。また、救いを得るため、己の敬虔さのさらなる証明として、沈黙、貞節、瞑想、断食といった誓いを立て、それを実践している者も多かった。

**キャンパス [#b9d09ba3]
 キャンパスはラテン語で「野原」を意味する。大学の敷地をこう呼んだのは、1746年に設立されたプリンストン大学が最初である。以後、この言葉はあらゆる機関や大学、ときには少し気取った会社の敷地などを指す際に使われるようになった。学習に身を捧げる場所としてのキャンパスの起源は、12世紀にヨーロッパに存在した学校だと考えられている。こうした学校では、教師と生徒が世間から独立した住居で共に暮らしていた。このキャンパスの原型が保有していた権利と特権は、しばしば当時の君主や聖職者によって保障され、その敷地は街から提供されていた。

**兵営 [#j5b3efd7]
 古代の統治者が粗末な武器を持たせた農民に代えて職業軍人による軍隊を持とうとした場合、まず必要なのはそうした者たちが戦闘に従事していないときに駐屯する場所だった。兵士と民間人が混在することは望ましくない。そこで軍隊の生活と訓練の場として築かれたのが兵営である。兵営はしばしば要塞化され、兵舎、厩舎、貯蔵所、訓練場など、軍隊が必要とするあらゆる設備がそろえられていた。中には相当な規模を持つ兵営もあり、たとえばローマ帝国の最盛期には、数千人規模の軍団を丸ごと収容できる兵営が普通だった。ローマの法と伝統は、軍隊が街に入ることを禁じていた。それは悪くない考えだったが、紀元前87年、ルキウス・スッラが配下の軍団を率いて街に入り、自らを独裁官と宣言するのを止めることはできなかった。

**港 [#w05e62be]
 安全地帯、嵐からの避難所、休息場所、修理をおこなう場所… 港とはつまりそういうところだ。港の必要性は人類が海に漕ぎ出すとすぐに明らかとなった。古代の文明は天然の港を求め、歴史はしばしばそうして選ばれた場所を起点として展開した。やがて防波堤、突堤、護岸、灯台、乾ドックなどが作られるようになり、必要とあらば海底を削って港を作るようにもなった。港は交易や海戦の中心であり、冒険航海の起点であり、移民の終着点でもあった。テクノロジーの進歩により、今では近代的な商船や浚渫船、揚水場などを収容可能な、コンクリートと鋼鉄でできた港を人工的に作ることもできるようになった。塩沼と干潟を干拓したロングビーチ港などはその好例である。

***王立海軍造船所 [#gd660d8e]
 1960年代後半まで、イギリス海軍は正式には「英国王立造船所」と呼ばれる施設を世界各地に擁していた。イギリス海軍の基地として機能していたこれらの施設では、艦艇の整備、改装、修理が可能だった。西暦1496年、イギリス最初の造船所がポーツマスに築かれた。以後、数世紀にわたり、この造船所の存在はスペインとフランスを苦しめることになった。1728年には初の国外造船所として、アンティグアのイングリッシュハーバーに王立造船所が設けられた。英蘭戦争、ナポレオン戦争、植民地戦争、そして2つの世界大戦において、王立造船所はおおいに活躍した。しかしイギリス海軍の役割が縮小し、帝国が衰退していくのにともない、20世紀後半には多くの王立造船所が閉鎖され、残っている施設も大部分が海軍の宿舎や訓練施設となった。

**商業ハブ [#de174f66]
 商業ハブ (商業中枢) と呼ばれる場所は通常、街のビジネス街にある。資本主義と欲望が街の経済を推し進めているその一画には、市場があり、銀行があり、取引所があり、限られた者に富をもたらしながら街を成長させている。金融業者や会社が集中しているだけの一画が、グローバルな金融センターへと変貌するケースもある。こうした場所に対してはその規模を測るシステムすら存在している。そのグローバル金融センター指数によると、2013年にそれまでロンドンが君臨していたトップの座をニューヨークが奪い、僅差でそれを香港、シンガポール、東京が追っている状態だという。利益を追求する姿勢はあらゆる文明に共通した傾向と言えるのかもしれない。

**総合娯楽施設 [#b239927d]
 市街地に存在する「娯楽エリア」は、人々から日々の生活の辛さを忘れさせる役割をはたしている。中には博物館や動物園などが1箇所に集まった総合娯楽施設もある。劇場やパブ、コンサートホールが集まる一画や、スポーツイベントが開催されるスタジアムやアリーナがある一画も、それに相当する。モントリオールのカルティエ・デ・スペクタクルやウェリントンのテ・アロ、ハンブルクのザンクト・パウリなど、その形はさまざまだが、あらゆる都市に市民に幸せと誇り、そして社会的なアイデンティティをもたらす場所が存在している。田舎では無理な、都市ならではの施設と言えるだろう。

***ストリートカーニバル [#a257a6f4]
 都市には――特に四旬節の時期には――ストリートカーニバルがつきものだが、祝祭日を楽しむことにかけてブラジル人の右に出るものはいない。パレード、コンサート、演奏会、仮装パーティー、晩餐会 (酒がたっぷりと用意される) などで、彼らはおおいに盛り上がる。お堅いポストモダン社会学者は、社会慣習であるカーニバルによってもたらされるのは、気詰まりな都市生活からの一時的な逃避だけではないという。人々を「無意味」な活動に参加させることで、社会秩序を脅かす人間生来の欲求を発散させ、マイノリティ集団が社会的対立に目を向けるのを防ぐ役割もあるというのだ。この説が正しいか否かはともかく、リオデジャネイロのストリートカーニバルの規模は世界最大で、近年は1日あたり200万人を超える人々が参加している。

**劇場広場 [#a788c2a4]
 19世紀後半、都市で暮らす中流階級が文化的に洗練されてくると、素手での殴り合いや動物のショーよりもっと上質な娯楽が求められるようになった。そうして誕生したのが、富裕層から資金提供を受けた劇場や博物館の集まる一画である。1800年代前半には、ロンドンのコヴェント・ガーデンにあるロイヤル・オペラ・ハウスを基点にして、ウェストエンド・シアター地区が形成された。ニューヨークでは、1883年にブロードウェイ39丁目にメトロポリタン歌劇場が移転したのをきっかけに、その近辺に数多くのミュージックホールやレストランが立ち並ぶようになった。そして、やがてこうした場所は、録音スタジオ、ラジオ局、エージェント、プロデューサーなど、芸能に携わる人々を商売の種にするさまざまな施設や人の集まる場となっていったのである。

***アクロポリス [#udd5d605]
 古代ギリシャ語でアクロポリスとは「高いところにある街」を意味する。アテネ、コリントス、アルゴス、テーベなどはまさにそうした都市であり、防衛に適した丘の上に街の一部が築かれていた。こうした高台は急峻な崖に囲まれている場合が多く、外壁を乗り越えて敵が街に侵入した場合、アクロポリスは最後の砦として機能した。さまざまな時代や場所において、新しい街はこのアクロポリスを核として発展したが、古代ギリシャのアルカイック期になると、街の発展と共に蛮族の脅威も低下したため、アクロポリスも「再開発」の対象となった。つまり、丘の上に建っていた質素な家や市場、兵舎、広場などが取り壊され、かわって神殿や劇場、裁判所、宮殿、行政施設などが建てられたのである。

**工業地帯 [#ka9bc604]
 現代文明では、大規模な製造や輸送がおこなわれる場所を工業地帯と呼んでいる (「工業団地」という呼び名もある)。産業革命が起こるより随分前から、製錬所、なめし革工場、畜殺場といった騒々しい施設や悪臭を発する施設、危険な施設は街の壁の外に建設されるのが一般的だった。こういった場所に材料を運び入れ、できあがった製品を運び出すための輸送設備が発達したのは、いわば必然であった。今日の工業地帯は、高速道路、鉄道、空港、港などの複合体となっており、倉庫、発電所、給水塔、パイプライン、通信ネットワークといったインフラも充実している。工業が発達するにつれて工業地帯もまた拡大し、エドモントン郊外にあるアップグレーダー・アレイなどは318平方キロメートルもの広さがある。

***ハンザ [#q9fbf0db]
 古フランス語を語源とするハンザは、ある街において商人たちが創設するギルドの一種であり、商売と輸送の便宜をはかり、それを保護することを目的としていた。13世紀になると、バルト海と北海の商港においてこうした商人ギルドは非常に強い影響力を持つようになり、その本部は「ハンザ」と呼ばれるようになった。最も大きいハンザは、競合する各ギルドの管理事務所だけでなく、倉庫や工房、市場、銀行など、利益に関わるあらゆる設備を内包していた。こうした最初の例が、西暦1159年頃にリューベックに創設されたハンザである。西ヨーロッパと資源豊富なロシア北部の一帯は、このハンザによる交易で大いに栄えた。

**飛行場 [#xe2aad3d]
 飛行場は航空機が離着陸する場所である。国際民間航空機関の定義によれば、飛行場とは「航空機が出発と到着、そして地表移動をおこなう水面あるいは地面」となっている。これに適合する最初の場所は、パリの郊外のヴィリー=シャティヨンに設けられた。飛行機が発明されて間もない頃は、平らで開けている草原ならどこでも飛行場として機能したのである。そのため、今日の飛行場とは違い、飛行機は風向きや天候に応じてどの方向へでも離陸することができた。必要なものといえば吹き流しと旗くらいだったが、やがて「賢い」誰かが舗装された滑走路というものを思いついたことで、離陸と着陸は複雑さを増すことになった。

**用水路 [#x40b57a2]
 用水路の跡は、エジプト、インド、ペルシア、ギリシャ、アステカなど、世界各地の古代都市遺跡で見つかっているが、中でも特筆すべきはローマだ。ローマでは415キロメートル以上の長さに及ぶ用水路が敷かれ、飲用や入浴用の真水を都市にもたらしていた。こうしたローマの用水路は当時の土木工学の精華であり、屋根がかぶせられていることも多かったため、峡谷や水路を渡る橋としても使われた。用水路はその構造に健康へのリスク (外壁を固めるのにしばしば鉛が使用された) を含んでいたが、それでも比較的清浄な水を供給できるこの設備は、大都市への成長を望むあらゆる街にとって大きな価値があった。

***浴場 [#p09d4659]
 古代ローマの時代、多くの家や宮殿にはプライベートな浴室が設けられていたが、身体の汚れたせわしない一般市民が身を清めてくつろぐ場所として、大規模な公衆浴場が開放されていた。その間取りは都市によって大きく異なったが、大抵はリラックスとエクササイズのためのアトリウム (吹き抜け空間)、カルダリウム (高温浴室)、テピダリウム (微温浴室)、フリギダイウム (冷水浴室)、アポディテリウム (更衣室) があり、設備の充実している浴場ともなれば、スダトリウム (湿り蒸気浴室) やラコニクム (乾燥蒸気浴室) もあった。女性用の浴室も充実しており、壁画やモザイク画などで鮮やかに装飾されていた。コロッセオで何時間も殺し合いを見物し、長い一日を終えようとする市民にとって、大衆浴場を訪れるのはなによりの楽しみだったことだろう。

**近郊部 [#w19721e6]
 現実の近所づきあいがテレビドラマで描かれるような優しさと夢と個性に満ちたものであることはめったにない。産業革命によって、初めて田舎より都市に住む人のほうが多いという状況になったが、当時は交通手段が限られ、その速度も遅かったため、ロンドン、ニューヨーク、ベルリンなどでは、工員や事務員は職場の近くにひしめき合うようにして住んでいた。こうして清潔とは言いがたい住宅群が形成されていったのだが、電話や車が発明されると、こうした中流の人々はごみごみした不潔な街を脱出し、郊外に住宅を構えるようになった。1880年代にはロンドンがウェンブリー・パークやキングスベリー・ガーデン・ビレッジといった計画的な住宅地によって囲まれるようになり、その傾向はすぐに他の都市にも波及していった。

***ンバンザ [#e52740a4]
 ンバンザとはコンゴ人の言葉で「街」または「集落」を指す。ポルトガル人が中央アフリカにやって来た頃、ンバンザ・コンゴは交易と工芸で栄える大きな街となっていた。人口の大部分は街の周辺の住宅街で暮らしており、その数は10万人に達していたとも言われる。市街地には市場や工房などが存在し、教会、宮殿、学校、病院、税務署といった主要施設は丘の上に集中していたと考えられている。1648年にこの街を訪れたフランチェスコ・ダ・ローマの記述によると、こうした施設は市街地といくつかの坂道によって結ばれ、祝祭や税を納める日には、これらの道が多くの人でごったがえしたという。その意味でンバンザ・コンゴは、郊外住宅地の先駆けというだけでなく、ラッシュアワー発祥の地とも言えるかもしれない。

**宇宙船基地 [#p1c9032b]
 宇宙への扉ともいうべき宇宙船基地 (または宇宙センター) は、「大いなるフロンティア」への冒険と探索といったイメージに彩られている。しかし現実はそれほどロマンティックなものではない。乗り物が船や飛行機からロケットに変わっただけで、実体は港湾や空港とさほど変わらないとも言えるからだ。港湾や空港と同様、宇宙船基地もまたクレーンやデリック、管理棟、コントロールセンター、燃料タンクといったインフラによって構成されている。世界初の常設有人ロケット発射場であるバイコヌール宇宙基地は、もともとは西暦1955年にソ連のミサイル試射場として建設された施設だった。これに触発されたアメリカもまた、ケープカナベラにあった空軍のミサイル試射場をロケット発射場に変え、まずは準軌道ロケットを、つづいて軌道ロケットを打ち上げるようになった。こうして宇宙開発競争時代がその幕を開けたのである。



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