#author("2016-11-25T10:50:43+09:00","","")
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*UU [#a50c1138]
**&ref(アイコン/ユニット/eagle_warrior.png);&color(blue){''鷲の戦士''(アステカ)}; [#k30d72d7]

**&ref(アイコン/ユニット/legion.png);&color(blue){''レギオン''(ローマ)}; [#j0c97aef]

**&ref(アイコン/ユニット/ngao_mbeba.png);&color(blue){''ンガオ・ムベバ''(コンゴ)}; [#aa339cea]

**&ref(アイコン/ユニット/samurai.png);&color(blue){''侍''(日本)}; [#k778a6e3]
侍という漢字を訓読みにするとさぶろうと読む。
さぶろうが訛って、さむらいと呼ぶようになった。さぶろうとは貴人にお仕えするという意味である。
そう、元々侍は公家の護衛を担うボディーガードとしての役目を担っていたのだ。
時には御所の警護。時には廟議(朝廷の会議)の警備。またある時には貴族の牛車につき、反乱が起これば鎮圧に行ったりと様々な場所で活動していた。
(古代における蝦夷の鎮定に赴いたのはあくまで兵士と将軍であり、武士というよりも武官の意味合いの方が強い)

侍がそんな役割から立場を上げたのは、10世紀後半の頃からである。
さて、中央では公家の中でも藤原氏が権勢を奮っていた。
貴族は荘園と言う私有の領地を増やすために開墾に勤しんだ。
特に関東は現在とは想像がつかないほどに未開の地であった為に開墾には絶好の場所だった。そこで公家は私財を用いて人を雇い、大規模な開墾をさせた。
荘園は「不輸不入権」という国家権力の介在を許さない権利を持っていた。
しかし肝心の貴族たちは遊興や都での行事などに没頭し、領地の管理がおざなりに成ってしまうことが多々あった。(国司に任ぜられても目代と呼ばれる代理人を派遣して済ませる事がこの時代では常態化していた。これを遥任という)そこで領民たちは武装し、自警団のような組織を作っていった。これが武士の発生である。
ここに、ボディーガードの律令“内”の侍から律令“外”の侍が登場したのである。

さて、源平などと言われるが、源氏も平氏も元々は貴族であった。
源氏は僅か2歳で即位した清和天皇の流れを汲む清和源氏。
平氏は平安京遷都を果たした桓武天皇の流れをくむ桓武平氏と呼ばれる。
源氏は主に畿内を中心とし、平氏は関東を中心に土着した。彼らは自警団となったり荘園の警備をしたりして彼の地で武士団を形成していた。
そんな中、935年。朝廷を揺るがす大事件が起こった。平将門が常陸(現在の茨城県)において挙兵したのである。当初はただの一族内での仲間割れであったが、破竹の勢いであった将門は新皇を名乗り朝廷への叛意を示した。この翌年には藤原純友も伊予国(現在の愛媛県)において挙兵した為朝廷内は京へ攻め上るのではないかと上を下への大騒ぎとなった。これまで国内においてこれほどの反乱が起こったケースが無かったからである。この二つの反乱を鎮めたのは先程あげた源氏と平氏であった。平将門は平貞盛が、藤原純友は源基経が鎮定した。表に立って大乱を鎮めたのはこれが初めてであったため朝廷は武士の力を認め、これを契機に両氏を中心に武士たちは中央でも力をつけることとなった。尚、俗説では平氏が西国で源氏が東国に勢力をもっていたとされることがしばしばあるがそれはあくまで平将門の乱から200年以上経過した源平時代の話であり、この当時は逆である。

時は流れ1028年に藤原道長が亡くなった後、摂関政治は藤原氏と天皇家の間に子どもが生まれなくなった事から徐々に乱れ始めた。
それに成り代わって天皇を退いた上皇が、天皇よりも強い権限をもって政治を行うようになった。
これがいわゆる『院政』である。院というのは上皇が住んでいる場所を差している。
1028年は藤原道長が亡くなった年であると同時に源氏の転機でもあった。この年に平忠常が乱を起こし、その鎮定に源頼信(頼朝の直接の先祖にあたる)が向かい、鎮圧までの過程で他の坂東(関東)平氏が源氏に従うことになった。これが足がかりとなって後の前九年・後三年の役での源義家(頼朝の高祖父)の功績も相俟って源氏は東国で勢力を持ったのである。(因みに後に鎌倉幕府で権勢を振るうようになる北条氏も元をたどれば平氏の血を受け継いでいる)その後の平氏は他の各地に散らばっている一族の拠点が勢力圏になった。例えば平清盛を生み出した伊勢平氏は先述の平貞盛の孫が伊勢に住み着いたことからはじまっている。
さて、中央ではとうとう「保元の乱」という新たに権勢を奮うようになった後白河天皇とその前の天皇である崇徳上皇が争う乱が起こった。
その戦闘要員として両者は武士を用いて争ったのだ。その時、武士たちは大いに活躍し、その中でも大いに目立ったのが先に出てきた源氏(源義朝。頼朝の父)と平氏(平清盛)という訳である。
その後、力を持った源氏と平氏が争った平治の乱で平氏が権力を得、しかし奢った故に源氏によって平氏は滅亡。
源頼朝によって初の武家政権である「鎌倉幕府」が出来たのは周知の事実である。

よく言われる「武士道」という言葉。現在よく用いられるような絶対的な忠誠というものは当初からあったという訳では無い。
当初の頃は「御恩と奉公」の通り、御恩(領地)の対価として奉公、つまり忠誠があった。逆に言えば御恩がなければ主家を鞍替えしようが刃向かおうが構わなかったという訳だ。
これは日本だけでなくフランスやイギリス等の封建制。東ローマのプロノイア制(ただしこれは一代限り)やオスマン帝国のティマール制でも見られるごく普通の事である。主君と家臣というのはあくまで双務的な契約関係を超えるものではないのだ。
鎌倉時代末期に元が襲ってきた後、幕府が処理を誤った故に結果的に滅んでしまったことからもそれは読み取れる。元寇はあくまで防衛戦争だった為、幕府は恩賞を与えられなかった。
そこで幕府は戦費返済に苦労する御家人たちの為に永仁の徳政令という借金免除の法令を出す。
これは幕府が公式に認めた下知状(御下文)を発行したものと売却後二十年以上経過したものを除き、商人に対して御家人から買い上げた土地を無償で返すように求めたものである。
現代でいうなら借金返済が滞った為担保として持っている不動産をもっていかれたのに政府が強引に競売をかけた銀行に対して不動産をタダで返すように命じたようなものである。
それに加えて、領地に対する所有者の変更を認めず、越訴(再審請求)や金銭訴訟をも認めないというあまりにも御家人に偏った命令であった。その為貸し手の商人が猛反発し、貸し渋りを行うようになった。それ故に金銭を得る手段が無くなった御家人たちは更に窮乏するという悪循環を起こしてしまうことになる。
元々これは先にあげた御恩と奉公の関係が崩れ、果ては御家人制度を終わらせかねない状況に歯止めをかけるために行われたものだが、こうなっては本末転倒だ。
結局、翌年には根本となる無償取り戻しを除いてすべての命令が撤回された。
尚、これは日本で初めての徳政令であるが、室町時代以降に入ると民衆たちが土倉(現在で言う質屋)や酒屋(土倉の副業であることが多かった)の高利貸しに抗って一揆を起こした際にも彼らは徳政を求めることとなった。

ところで元寇といったら必ずと言っていいほど出てくるのは、蒙古襲来絵詞である。教科書や資料集などで飽きるほど目にし、記憶に残っている人もいるだろう。
あれは竹崎季長という肥後(熊本県)の御家人が自分の戦いぶりを絵師に描かせたものである。戦の経緯だけでなく、戦後勲功を認められず恩賞をもらえなかったこと、そのために鎌倉まで上り幕府高官に直談判して恩賞を得たことまでが描かれている。季長のような不満を抱いた武士は他にも多かっただろう。

さて、話を戻そう。今使われるような意味になったのは、平和になった江戸時代に入り山鹿素行という儒学者が儒教の根本となる『忠孝』という概念。
端的に言えば目上の者に逆らうなという思想が持ち込まれてからの話である。
そして支配者の幕府からすればこれ以上都合のいいものは無いため、この概念を用いている儒学(後に朱子学)を官学にし、武士たちにこの思想を叩きこませたのだ。
武士が『武術』から『礼儀』を重んずる転換点となったのは五代将軍綱吉の頃と言える。
まず綱吉は1683年に二代将軍秀忠の定めた武家諸法度の第一条の文言を『文武弓馬の道、専ら相嗜むべき事』から『文武忠孝を励し、礼儀を正すべき事』に改めた。
お分かりだろうか。つまり弓馬の道という武道よりも礼儀や忠孝といったものを第一に考えよとしたのである。
綱吉は父にして三代将軍である家光より儒学を叩き込まれており、『忠孝』という儒教の教えが入っていることからも影響を大きく受けていることが分かる。そんな儒学フリークだった綱吉は儒学の大家である林信篤を大学頭に任命して湯島聖堂を設立。幕府に仕える武士たちに儒学を奨励した。(もっとも三代後の吉宗は反対に実学を重視したため一時的に衰退してしまうが……)
さて、この頃の江戸には初期よりはびこるかぶき者(派手ないでたちをした荒くれ者)が町を闊歩していた。綱吉はこれらを風紀の乱れとして徹底的に取り締まり、かぶき者が行うような”力”に重きを置く価値観を改める為に『生類憐み令』を制定。
これは再評価の流れが強くなっているが、その要因として上記にあげたものと生類は犬などのいわゆる動物のみならず、傷病人や老人などの社会的弱者もこれに含まれていた点がある。とはいえやりすぎであったことは事実の為綱吉が亡くなるとすぐさま廃止された。
このように、17世紀の終盤から18世紀の初頭にかけて武士の在り方は大きく変わり始めたのである。1683年の時点で大坂の陣より70年近く経過しており、いわゆる大名同士が戦う合戦というものを経験した人がほぼ亡くなっている為(15歳で計算しても83歳である。70歳で古希。77歳で喜寿と呼ばれる時代にどれだけの人が生き残っているのかは想像に難くない)時代の必然ともいえる。

一方で民衆たちの意識にまで浸透したのも綱吉の時期だといえる。大坂の陣から百年も経たない1703年に赤穂浪士の討ち入りが起こると翌年にこれを題材にした歌舞伎の演目『仮名手本忠臣蔵』として世に出されることになる。
結果これは江戸時代の民衆に大きく受け入れられそれと同時に武士のあるべき姿として定着したといえるだろう。(因みに忠臣蔵は同事件をモデルにしたものだが、江戸時代中は幕府を憚って時代や人物を変えたいわばオマージュに近いものとして行われていた。これは『源氏物語』や唐の『長恨歌』にも見られる手法である)
それから十年ほどすると『武士道というは死ぬこととみつけたり』の文言で非常に有名な佐賀鍋島藩士・山本常朝の『葉隠』が読まれるようになり、これもまた一つの武士の形として定着していた。(但し奇書として見られていたり、藩によっては禁書に指定されていたことも追記しておきたい。後に同郷である大隈重信も江戸期の武士の考え方を反映したものではないと批判している)
明治に入ってからは山中幸盛や楠木正成といった忠臣が大いにリスペクトされ、これもまた武士のイメージを固めていった。明治期の教科書には必ずといっていいほど山中幸盛の七難八苦の話が載っていたとされるほど。
当然のことだがもう戦国期の武士など存在するはずもなく、そのイメージがついたまま『武士道』が形作られ現代まで残っている。しかし、これがあったからこそ忠臣蔵のような作品が世に受け入れられたとも言える為一概に悪いとはいいきれないだろう。

尚、さぶろうという意味の言葉としては侍が役割を終えた明治に入ってからも天皇に従う「侍従」という役職として残されている。
例えば日本の終戦時の首相である鈴木貫太郎は侍従長を務めていた。

**&ref(アイコン/ユニット/berserker.png);&color(blue){''ベルセルク''(ノルウェー)}; [#d4088238]

**&ref(アイコン/ユニット/conquistador.png);&color(blue){''コンキスタドール''(スペイン)}; [#b9c31ed7]

**&ref(アイコン/ユニット/garde_inperiale.png);&color(blue){''皇帝近衛隊''(フランス)}; [#zf081171]

**&ref(アイコン/ユニット/redcoat.png);&color(blue){''レッドコート''(イギリス)}; [#ude57929]

英国陸軍を指す二つ名であり、かつて世界をリードしていた大英帝国を代表するアイコンである。

レッドコートの始まりは、清教徒革命の時にクロムウェルによって創設された新式軍(New Model Army)である。当時としては最も安い染料であるコチニール(虫から搾り取った高級天然染料)色素を使った赤い制服を採用した。海軍に比べて陸軍の規模は小さいイギリスが少数の兵力で世界を支配下に置けたのもこのレッドコートの力があったからである。

何故にレッドコートがこれほどまでに強力だったかというと、大英帝国の経済力が大きく影響している。欧州諸国が戦列歩兵を訓練する時に、射撃訓練に使用される火打ち石と火薬は高価なものであるため、火打ち石の代わりに木片を使用したり口で射撃を出したりでまともに射撃訓練が出来なかった。それゆえに殆どの戦列歩兵は射撃戦より白兵戦を重視せざる得なかった。しかし、大英帝国はその広大な植民地と経済力で金を湯水の用に使う実弾訓練を可能にしていた。

さらに、17世紀から19世紀までのラインバトル(戦列歩兵VS戦列歩兵の戦い)は他国は基本的に訓練不足とフリントロックの遅い再装填時間を補完するために3列を組むことが多かった。1列目が射撃し、2列目が射撃用意、3列目が再装填といった流れである。また、白兵戦になった場合、兵の密集度が重要だったためだ。

しかし、大英帝国は2列を組んだ。これは上記のような経済背景から実弾訓練が可能だったため、速射訓練が行き届いており、火力を出せる射撃戦を重視したためだ。理論上、同じ兵力を3列に組んで射撃するのと、2列で射撃するのでは火力の密集度が2列の方が1.5倍になる。

そのため、他国の3列ラインと英国軍の2列ラインが戦った場合、英国軍の方が遥かに早い速度で射撃し、遥かに多くの火力を注ぐことが出来たため、少数の兵力でも多数の敵に対しても同等に戦うことが出来た。

しかし、レッドコートはその特有の色の派手さによって廃れた。
ボーア戦争時に、目立つ色のために狙われやすかったことから、それ以降レッドコート(英国陸軍)は制服から、赤はもちろん白も全面廃止し、茶色の軍服を採用した。これがのちに第1次世界大戦でフランスやドイツより死者が少なかった1つ要因となった。


**&ref(アイコン/ユニット/cossack.png);&color(blue){''コサック''(ロシア)}; [#h2e6fad0]
 日本人にとって『コサック』と聞いたら、腰を低くし、腕を組んで足を速く投げ出しながら踊るコサックダンスをまず連想するだろう。
 勿論、コサックダンスはウクライナの民族舞踊の一つでありウクライナ語では『ホパーク』と呼ぶ。元々はかつてこの地に存在したキエフ大公国を滅ぼしたバトゥ率いるモンゴル帝国の武術であり、それが簡素化されて、「タタールの軛(モンゴル人による支配)」から逃れた後も形を変えて残ったものなのだ。
 銃の普及に伴って下半身を鍛えるという訓練の意味合いで用いることもあり、コサック・ダンスは当初主にコサック内もしくは男性によって踊る事が多くあった。コサックは独身によって構成されていた為女性が入る余地は無かったのだ。17世紀後半にウクライナを支配していたポーランドから独立し、コサックによる国家(ヘーチマン国家)が誕生するとコサック独自の踊りだったホパークは民謡としての性格を持ち、老若男女問わず踊る大衆的なものに変化していく。
 しかし、それから100年ほど経つとポーランドやロシアによってヘーチマン国家は分断され、その統治権も有名無実と化していった。露土戦争によってロシア帝国がウクライナを手中に入れると散々マゼーパ将軍やステンカ=ラージンなどの反乱でロシアを苦しめてきた経緯を鑑みてかコサックの伝統を徹底的に禁止し、ホパークもまたその煽りを受けた。以後、コサックダンスは民謡としてのみの性格を持ち、農民の間で踊られるようになる。
 19世紀に入って農民の間でコサックダンスを取り入れた劇場が流行すると、プロの劇作家たちもこれに注目し、20世紀にはロンドンにおいてもコサックダンスによる演劇が行われた。ロシア帝国にかわって政権を掌握したソ連は文化を共産主義礼賛の道具にしか見ていなかったため、それに資することは無いと判断されたコサックたちは国家による支援を全く受けることが出来ず貧窮していった。一部には反乱をおこすものもいたが勿論鎮圧され、ソ連の下、コサックは冬の時代を経験する事になった。とはいえ、ショローホフのコサックたちの逆境を描いた『静かなドン』のおかげでコサック文化が完全に廃れるということはなく、細々ながらもコサックはどうにか存在を確立している。やがてソ連が崩壊し、ウクライナが独立すると再びコサックはウクライナ文化の中心として日の光を浴びることになった。現在においてもウクライナの紙幣には二体のコサックが描かれているのだ。

 さて、前項においてはコサックダンスの話からウクライナ・コサックを中心にコサックを見たが、次は全体からコサックの話を見てみることにする。
 コサックの起源は不明な点が多く、はっきりとはしてないが最古のものは黒海の内海にあたるアゾフ海に注ぐドン川流域に居たドン・コサックと現在のウクライナ南部一帯に居たザポロージャ・コサックの二つあったとされている。
 当初のコサックはヨーロッパの没落貴族や盗賊、逃亡してきた農奴などからなりたつ、俗な言葉でいえばゴロツキの集団と言って差し支えは無く、黒海やアゾフ海周辺を荒らしまわった。しかし、それは普段の姿であり、セルジューク朝など黒海周辺にまで触手を伸ばそうとするイスラムの諸勢力と戦う事もしばしばあった。
 16世紀後半に入ると支配国からの支援や保護を受け、ザポロージャコサックはポーランド=リトアニア王国に、ドンコサックはツァーリの下で活躍することになる。しかし両国はコサックを軍団として用いるのみならず、コサックの自治権そのものを奪う事も画策していた為徐々に反感を買う事になり、17世紀から18世紀にかけて反乱を起こし続けた。世界史の教科書に主に取り上げられるのはステンカ=ラージンとプガチョフの二つの反乱だが、いずれもドンコサックの反乱であり、両方とも鎮圧され、ロシア帝国の体制下に組み込まれる。ロシアは当時強国の道を歩んでいた為当然と言えば当然である。しかし、ザポロージャコサックは斜陽著しきポーランド=リトアニア王国だった為か上にあげたとおり自らの国を建国(ヘーチマン国家)し、支配権を勝ち取った。これは現在のウクライナあたりにあった為、オスマン帝国やクリミア・ハン国などの脅威から(皮肉にも)ロシアを守っていた為、間接的に支援する事になった。そしてまた皮肉にも国家を作っていた事や、コサックの近代化に反発して自立を主張しすぎたために皇帝の反感を買って18世紀の終わり頃にザポロージャコサックは壊滅させられることとなった。
 では残ったドンコサック達はどうなったのだろう。19世紀になると彼らは普通の市民たちや貴族と同じような階級に列せられ、税金が免除される代わりに騎兵として兵役を負う事になった。ナポレオンが1812年に自らを破滅に追い込む契機となったロシア遠征を行った際にもコサックたちは8万と言われる数を動員され、主に(ナポレオンの)退却戦において功績を残した。コサックは俊敏な動きで疲労困憊のフランス兵を次々と屠ったのだ。
また、ドンコサック以外にも黒海東沿岸に居たクバーニコサックもロシアの様々な戦いに参加し、功績を残す。また、このような戦闘以外にも辺境の警備や治安維持といった職務もこなす。
 しかし、コサックたちは火器の急激な発達による戦列歩兵の台頭などによって段々とその立場を引きつつあった。(尚、日露戦争の際にもコサックは従軍し、秋山好古率いる日本の騎兵隊とも交戦している)
 コサックに不幸が降りかかったのは1917年からはじまるロシア革命からである。ロシア帝国に押さえつけられていた各地のコサックは白軍としてソヴィエトと戦い、白軍の主力となって赤軍にただならぬ損害を与えたが敗北し、祖国を追われることになった。また前項であげたとおり、ソ連はコサックに対してなんら支援をせずこれまでの経緯から反乱分子とみなされて次々と処刑されたり縄目を受けたり追放されたりと多くは悲惨な運命をたどることとなった。しかし一部にはソ連に降伏したコサックもおり、1936年には赤・コサック軍として戦線に復帰する事になった。それ以外の追放されたコサックは独ソ戦においてドイツ軍の味方をしソ連に復讐を果たそうとしたがどうなったかは読者の知るとおりである。
 ソ連が崩壊すると、コサックたちの復権が命題としてかがげられるようになり、現在のロシアでは学校教育のプログラムに取り入れているほどである。また、現在コサックを自称するものは数百万人ほどいるとされているが真偽のほどは不明である。

 最後にコサックの帽子について説明しよう。
 コサックと聞いたら、毛皮の暖かそうな縁なし帽を想像する人もいるだろう。あれは『パパーハ』と呼ばれ、コサックやカフカス人の誇りの象徴である。
 パパーハは誇りであるが故に滅多な事で脱ぐことは許されず、死を覚悟する争いに臨む場合や、その逆で争いをやめるよう懇願するときに脱ぐことが許された。
 パパーハはコサックの象徴であるが故にソ連時代やエリツィンの時代では赤コサックや高官のような例外を除き着用が許されなかったが、2005年に漸く正式な軍装として復活したのだった。
**&ref(アイコン/ユニット/war-cart.png);&color(blue){''戦闘車''(シュメール)}; [#m37e1b24]

**&ref(アイコン/ユニット/varu.png);&color(blue){''ヴァル''(インド)}; [#v5d470a8]

**&ref(アイコン/ユニット/mamluk.png);&color(blue){''マムルーク''(アラビア)}; [#ae64810f]

**&ref(アイコン/ユニット/rough_rider.png);&color(blue){''ラフライダー''(アメリカ)}; [#xf39f5a3]

**&ref(アイコン/ユニット/maryannu_chariot_archer.png);&color(blue){''マリヤンヌ・チャリオット弓兵''(エジプト)}; [#j6b8e7e0]

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